【051】水平線の船影
船を降り立つと、目の前に広がるのは黒々とした溶岩原だった。大地は冷え固まった溶岩に覆われ、ひび割れの隙間からは草が力強く芽吹いている。潮と硫黄の混じった匂いが、この島が火山によって形づくられたことを物語っていた。
「この島はイザベラ島といいます。群島の中でも最大の面積を誇り、中央のシエラ・ネグラ火山をはじめ、いくつもの火山がそびえているのです。生態系も特異で……ダーウィンが後に進化論を着想したのも、この環境があったからでしょう」
セキネ先生はすでに観察ノートを広げ、鉛筆を走らせていた。
やがて乾いた大地から緑豊かな草原へと景色が移り変わり、その中で最初に目に入ったのは巨大な甲羅を背負う生き物たちだった。
「……わぁ! ゾウガメだ!」
カナミの声が響く。
悠然と草を食むもの、のそのそと道を横切るもの。島の守り神のようなその姿は、見ているだけで不思議な安心感を与えてくれる。
「これが……ガラパゴスゾウガメ。ここではまだ堂々と生きているのですね」
セキネ先生の声には、学者らしい熱がこもっていた。
午後になると、一行は小さな入り江にたどり着いた。透き通る海は青とも緑ともつかぬ色に輝き、波打ち際ではイグアナの群れが岩の上で甲羅干しのように身を温めていた。
「あっ、あそこ! イグアナが泳いでる!」
カナミが指差すと、サラスも目を丸くして見入る。
ここで一度休憩しようと、ポールさんが昼食の準備を始めた。マクセンさんとベルトウィンさんは釣り竿を手に海岸で糸を垂らし、おれとセキネ先生はアイテムボックスから取り出した椅子に腰を下ろし、波打ち際ではしゃぐ女子四人を眺めていた。
「ガラパゴス諸島、最高ですね」
「ええ。多様な生態系に触れられる……観察のしがいがあります」
うっとりと海辺の光景を見つめていたそのとき、エレンが何かに気づいたらしく、仲間たちに声をかけて指を差した。不思議に思い、おれとセキネ先生が海辺へと近づくと遥か水平線に、一艘の船影を見つけた。
船に気づいたマクセンさんとベルトウィンさんも釣りをやめ、急ぎこちらに合流した。船は舳先をこちらに向け、まっすぐとぐんぐん近づいてくる。ポールさんが昼食のために起こした火の煙が、思わぬ狼煙となっていたのだろう。
「あの船……おれの船より一回り大きいな。もしかするとガレオンかもしれん」
マクセンさんが目を細めて言う。
「全員、念のため武装しておけ!」
ベルトウィンさんの号令で、皆がそれぞれ武器を手にした。
そのとき、カナミがいち早く異変に気づき、声を上げる。
「あの船……白旗を振ってる!」
やがて巨大な船はすぐ沖に停泊し、甲板から小舟が降ろされる。カナミとおれはいつでも対応できるよう身構えたまま、小舟が岸へと近づいてくるのを見守った。
「おーい! 敵意はない! 俺たちもあんたたちと同じく、二つの世界を行き来する者だ。少し話をさせてくれ!」
その声に、おれはカナミへ弓を下ろすよう合図し、ベルトウィンさんと並んで小舟の方へ歩み寄った。やがて小舟から二人の男が降り立ち、こちらに向かってくる。一人は西洋人の風貌、もう一人は東洋人と思われる。
互いに距離を詰め、面と向かって握手を交わし敵意がないことを確認する。おれは自分の名を名乗り、北のホルフィーナ王国の人間であり、仲間たちも同じく王国の民であることを伝える。
「北の大陸から来られたのですね。我々は南の大陸を発ち、二週間の航海を経てようやくここへたどり着きました」
「先ほどおっしゃった通り、わたしも二つの世界を行き来しています。あなた方は、向こう側ではどの国で、いつの時代を生きているのですか?」
おれの問いかけに、二人は一度目を合わせ、軽くうなずいた。まず西洋人の男が口を開く。
「私はディオゴ・モンテイロです。ポルトガルのリスボンに生きています。あちらの世界では、西暦1592年です」
「めちゃくちゃ昔の人だ!」
「……豊臣秀吉の時代ですね」
カナミとセキネ先生が同時に声を上げる。セキネ先生はすでに手帳を取り出し、当時の事情を根掘り葉掘り聞く気満々だ。
続いて、東洋人の男が名乗った。
「おいは薩摩藩士、東郷義弘。年号でいえば慶応四年、西暦では1868年になります」
おれとカナミ、それにセキネ先生は思わず顔を見合わせる。やがてセキネ先生が身を乗り出すように声をかけた。
「日本……いえ、日ノ本の薩摩藩ですね? その時代なら西郷吉之助や大久保一蔵が活躍していた頃ではありませんか」
セキネ先生の問いかけに、東郷さんの顔がぱっと明るくなる。
「西郷先生をご存じとは! まさか、あなた方は同郷の方々ですか?」
「はい。おれは大阪(大坂)、こっちのカナミは京の都、そしてセキネ先生は……」
「横浜付近です。我々は東郷さんの時代からおよそ百五十年後の人間ということになります」
その言葉を聞いた瞬間、東郷さんはふっと息を呑み、思わず顔を手で覆った。肩が小さく震えている。
「……そうか。つまり、日ノ本は夷狄からの圧力をはねのけ、後の世まで健在であるということなのですね」
東郷さんの声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。だが、すぐにその表情は険しさを帯びる。
「もっとも、我々はいま、嵐のただ中にあります。討幕か佐幕かで国は二つに割れ、江戸の町も戦火に巻き込まれかねぬ緊迫の情勢。薩摩や長州、新政府の旗を掲げる者たちも、命を賭して動いております。仲間の多くは血に倒れ、志半ばで散ってゆく……。この国が本当に新しい時代を迎えられるのか、誰も確信を持てぬほどの混迷なのです」
言葉の端々からにじむのは、未来への期待と、目前の現実への苦悩だった。
だが、その苦悩があるからこそ「後世の日本が健在である」という確信は、東郷さんの胸をいっそう強く震わせていたに違いない。
「トーゴウ……ジャポンの話は後にしましょう。いまは助けを求めなければ」
「……そうであったな」
ディオゴさんが東郷さんの肩に手を置き、静かに言葉を継ぐ。
「仲間のうち二人が重い病に倒れています。もし薬をお持ちなら、少しでも分けていただけませんか」
「病気なら……ナミリさんが治せると思う」
小さくつぶやいたサラスの言葉に、二人の視線が一斉に集まった。
おれとベルトウィンさん、マクセンさん、エレン、そしてセキネ先生の五人は、東郷さんたちの船に乗り込んだ。まず目を奪われたのは、船員の姿がどこにも見当たらないことだった。
「この人数でどうやって航海しているんだ?」
マクセンさんの疑問に、ディオゴさんが静かに答える。
「遺産を巡る旅の途上、同郷の先駆者──マゼランから航海の加護を授かっているのです。その力があれば、この船は少人数でも動かせます」
説明を受けてもマクセンさんは、マゼランが分からず首をかしげていた。
ディオゴさんに導かれ、船室へと入る。鼻を突く異臭が漂い、寝台には黒人の男性と東洋人の女性が横たわっていた。二人ともかろうじて意識はあるものの、肌はひどく乾き、目は落ちくぼみ、明らかな脱水症状を示していた。
「……私は医師ではありませんが、この症状はおそらくコレラかもしれません」
セキネ先生の言葉に、エレンが小さく息を呑み、おれも表情を引き締める。
「コレラ……。ドラマで見たことがあります」
その会話に耳を傾けていた東郷さんが、深くうなずいた。
「おいも“コロリ”の症状ではないかと思っておりました」
「ひとまず……治療しましょう」
おれは深く息を吸い、二人に手をかざす。次の瞬間、淡い光がふわりと広がり、船室いっぱいに柔らかな輝きが満ちた。
『慈悲の力』が二人を包み込むと、干からびたようだった肌にじわじわと潤いが戻り、ひび割れた唇に赤みが差していく。荒い息遣いも次第に落ち着き、やがて顔に血色がよみがえった。
「……生き返ったみたいだ」
東郷さんが驚きを隠せない声を漏らす。船室に漂っていた重苦しい空気が、少しずつ和らいでいくのを感じた。




