【050】楽園の諸島
凪いだ海を、キャラベルは南へと静かに進んでいた。
風は弱いが安定しており、帆はたわみながらも一定の力を受けて船体を押し出していく。水夫たちは時折、帆の角度を調整し、風を逃さぬよう気を配っていた。
波は小さく、船底を打つ音も規則的で、舵をとる操舵手の手には大きな負荷はかからない。ただ、潮流が南へ緩やかに流れているため、船足は見た目以上に伸びていた。甲板から海を見下ろせば、泡立つ航跡がまっすぐ後方へ伸び、進路が確かに保たれていることを示している。
時おり船体が微かにきしむたびに、海と船とが噛み合って進んでいる感覚が伝わる。
「こんな航海日和、めったにないんだけどなあ」
マクセンさんが呆れたように言いながら視線を寄越す。もっとも、それはおれではなく、おれの横にぴったり張り付いているカナミに向けられたものだった。
「ナミリ……ずっとそばにいて……。川より海のほうがきつい……」
サウスポートからミルフォードへ向かう途上でも、まったく同じセリフを聞いた記憶がある。ただ、今回は決定的に違う点がひとつ――少し離れた場所から、サラスが冷ややかな視線を投げかけている。
ゆるーく『慈悲の力』で船酔いを抑えているが、前回とは違い、副作用が気になって仕方ない。もしかすると、この積み重ねが『地球』側でのおれとカナミの付き合いに直結しているのかもしれない。
航海は順調に進み、地平線の彼方に沈んだ太陽が、やがて再び東から昇る。明け方、おれたちはまだハンモックに揺られ、深い眠りの底にいた。そこへ、甲板から響いたマクセンさんの大声が一同を叩き起こす。
「前方に島が見えるぞ!」
寝起きの重たい体を引きずりながら甲板に上がると、確かに水平線の先にいくつもの島影が浮かび上がっていた。
「船長……こんな場所に島なんかあるはずないですよ」
航海に慣れた船員たちでさえ、口々に疑念を漏らし、目の前の光景を信じかねている様子だった。
まず視界に飛び込んできたのは、荒々しく岩肌をさらした斜面だった。黒々とした溶岩の斜面は島の中央にそびえる山へと続き、ところどころに緑の影が張りつくように広がっている。乾いた大地の厳しさの中にも、逞しく根を張る植物の姿がはっきりと見て取れた。
さらに東の方角へ目を向けると、霞の向こうに、この島よりもひとまわり大きな陸影が浮かんでいた。
やがて船が近づくにつれ、浜辺に点々と動く影が見える。目を凝らすと、それは巨大な甲羅を背負った亀たちだった。岩場に身を休めてじっと海を見つめるもの、のそのそと砂を踏みしめ進むもの――その光景は、まるで島全体が太古の生き物に守られているかのようで、時をさかのぼったかのような錯覚を覚える。
さらに船を南へと進めると、正面に大きな島影が複数立ちはだかる。なだらかな稜線が海からゆるやかに盛り上がり、斜面は深い緑に覆われている。そのさらに右手、西の水平線には、ひときわ巨大な島が横たわっていた。連なる山々が雲を突き抜け、長大な輪郭は果てしなく続き、まるで大地そのものが海原にせり出しているかのような圧倒的な存在感を放っていた。
「セキネ先生、この島って何か分かりますか?」
カナミの問いに「まだ定かではありませんが……」と答えつつ、セキネ先生は、船を出来るだけ前方の島に寄せてもらうよう依頼する。
「船を岸に寄せろ!」
マクセンさんの号令が響き、船員たちが一斉に綱を引き、帆を操る。船体はゆっくりと波を割り、島へと近づいていった。
やがて視界が開け、岩場の上に無数の黒い影がうごめいているのがはっきりと見えてきた。海から上がったもの、岩に寝そべって体を温めるもの、互いに押し合いながら日向を奪い合うもの……。
その動物を見たおれたち地球組の人間は、セキネ先生を除き、一様に同じセリフを口ずさんだ。
「イグアナだよね」
「イグアナだと思う」
「どうみてもイグアナですね」
セキネ先生は、岩場を埋め尽くすその異様な光景を前に、静かにうなずいた。
「これで確信が持てました。ここは、世界遺産『ガラパゴス諸島』ですね」
その瞬間、カナミとポールさんの顔がぱっと明るくなった。
「ガラパゴス諸島、一度来てみたかったんですよ!」
「ポールさんも? わたしもです!」
二人が弾んだ声を上げる一方で、セキネ先生だけはまったく逆の反応を見せていた。曇った表情に気づいたおれは、その理由を尋ねる。
「ガラパゴス諸島となれば、ここで出会う偉人はおそらくダーウィンでしょう……。しかし問題は、ダーウィンがどこにいるかです。ガラパゴス全体の陸地面積は約八千平方キロメートル。日本で言えば広島県よりやや小さい程度……」
それを聞き、おれもようやく事の深刻さに気付かされる。
「『解析』の力で探せないんですか?」
「試しましたが、この世の存在でない神や英雄、偉人は感知できないようです」
カナミに事情を説明すると、彼女も深刻な顔になり、おれを見つめて質問してきた。
「ナミリ……水着って手に入る?」
二日後、おれはアイテムボックスから段ボール箱を二つ取り出した。ひとつには男性用の水着がいくつも入っており、もうひとつには女性四人分の水着がきちんと詰められている。段ボールには、にっこり笑った顔のロゴ──世界的なECサイトの印が大きく描かれていた。
「サイズ、ぴったりだね。しかもセンスもいいし……。それもわたしだけじゃなく、全員分……。ナミリってそんなにわたしたちのことを、観察してたの?」
思わず言葉に詰まる。そんなのおれに分かるわけないから、二年後のお前に選んでもらったんだよ、なんて口が裂けても言えなかった。
ガラパゴス諸島でのバカンスを満喫しながら、サンタクルス島で偉人を探す日々が続く。船には十分な食糧を積み込み、さらに毎日あちらの世界から新鮮な食材を持ち込めるため、食糧難とは無縁だ。加えて、『慈悲の力』があれば航海にありがちな病気の心配もない。
陸地を探索し、成果がなければ船を移動する。
透き通る海は青とも緑ともつかぬ色合いで、陽の光を受けてゆらめいている。甲板の水夫たちは釣りを楽しみ、砂浜ではカナミたちが海水浴に興じ、浜辺ではポールさんが炭火を起こしてバーベキューの準備をしている。
……ダメだ。楽しすぎる。ガラパゴス諸島、ずっとここに居たくなる。ただ、おれだけは早くエムセルに戻らないと、またクロスフォードさんに何を言われるか分からない。
調査をもう少し効率的に進められないかとセキネ先生に相談しようとしたが、ガラパゴス諸島を初めて訪れる彼は、知的好奇心の赴くままに生物や植物、地質の観察に没頭していた。先生の話によれば、この諸島は現代の姿よりも遥かに古い時代の状態を残しており、その「知られざるガラパゴス」を鮮明に記録しておきたいのだという。
最初に見つけた島で目撃した巨大な亀。セキネ先生の解説によれば、その島の名にちなみ「ピンタゾウガメ」と呼ばれる種で、現代では絶滅寸前にまで追い込まれているらしい。おれは知らなかったが、調べてみると2012年にはすでに絶滅が確認されていた。最後に生き残った個体は「ロンサム・ジョージ」と名付けられ、このサンタクルス島にあるチャールズ・ダーウィン研究所で保護されていたのだという。(セキネ先生は1997年の人なのでまだ絶滅していることを知らない)
ふと、目の前のピンタゾウガメをアイテムボックスに収めてあちらの世界へ持ち帰れば、絶滅種を復活させられるのでは――そんな考えが頭をよぎる。だが、どこで見つけたかを説明できるはずもなく、世間に明かせば大騒動になるのは目に見えている。その思いつきは、胸の奥に封じ込めるしかなかった。
「チャールズ・ダーウィン研究所がある、サンタクルス島が最も可能性が高いと思ったのですが、この島ではなさそうですね。次はイザベラ島を探索しましょうか」
セキネ先生の提案に従い、船を西に向け、おれたちはイザベラ島を目指した。




