【005】余市 華奈美
私立西都大学付属高校の一年生、弓道部員の余市 華奈美は、一年生ながら、高校インターハイの弓道個人の部決勝の舞台に立っていた。
競技者の集中を乱さぬよう、観客席は水を打ったように静まり返る。その静寂の中、華奈美は射位へと進み出た。
足を左右対称に添え、踏み開く。矢を番えた弓を持ち上げ、弦を引きつつ、矢の先を鼻先に近づけたところで静止する。
一見、止まっているように見えるその姿勢も、左手はしぼるように前へ突き出し、右手は弦に絶えず力をかけていた。
そして刹那――放たれた矢はしなやかな放物線を描き、迷いなく的の中央へと吸い込まれていった。
高校一年でのインターハイ個人優勝。弓道の強豪である、西都大学付属高校においても初の快挙となる。
古都・京都に弓道場を構える余市家に生まれた華奈美は、物心ついた頃から弓の修練を欠かしたことがなかった。
由緒正しい家柄ではあるものの、私生活まで厳しく律されているわけではない。稽古さえしっかり行えば、それ以外の時間はごく普通の高校生として過ごせる。
仲の良い友人とファストフード店で長話をしたり、カラオケに出かけたり――華奈美もまた、それなりに楽しい高校生活を送っていた。
それは高校一年がもうすぐ終わろうとする雪が降る日だった。
「誰でもいいから人を殺し、そのまま刑務所に入り、いずれ死刑になればいい」――そんな歪んだ考えを抱いた男が、よりによって放課後の西都大学付属高校へと侵入したのだ。
両手に握ったサバイバルナイフを振りかざし、男は次々と生徒に切りかかる。校内は一瞬にして阿鼻叫喚の渦と化し、恐怖に駆られた叫びが響き渡った。
その声を耳にした華奈美は弓道場を飛び出す。視線の先、三十メートルほど離れた場所で、男が狂ったように刃を振り回していた。
男は女子生徒に向かってナイフを突き立てていた。
華奈美の手には弓と矢――これは正当防衛だ。
華奈美は迷わず弓を構え、矢をつがえる。致命傷を避けるため狙いを右胸に定め、息を詰めて放った。
矢は確かに右胸を貫いた――そう思った。だが次の瞬間、男は倒れなかった。
硬質な音とともに矢は深く刺さることなく弾かれ、男の胸元には分厚い布地の下から防弾チョッキが覗いていたのだ。
「防弾……チョッキ!?」
華奈美の瞳が驚愕に見開かれる。右胸を狙った矢は突き立つことなく弾かれ、床に転がった。
二本目――仕方ない、今度は頭を狙うしかない。そう決意し、矢をつがえた瞬間だった。
視界が揺れ、男の影が目前に迫る。男の右手のナイフが華奈美の左手を裂き、続けざまに左手に握られていたもう一本の刃が腹部に突き立てられていた。
激痛のあと、次第に意識が遠のいていった。
そして、再び目を開けた時――そこは京都の総合病院だった。
腹部を貫いたナイフは幸い臓器をかすめただけで、緊急手術の末、なんとか一命を取り留めることができた。しかし左手は深刻だった。腱は断裂し、神経も修復不能だと、医師の言葉は冷酷に響く。
こうして華奈美は、二度とその左手で弓を握ることができなくなったのだった。
* *
「――っていうのが、私の生死の狭間なんだよね~。超ウケるでしょ」
……めっちゃ楽しそうに語るやんけ。思わず心の中で関西弁でツッコんでしまう。
「いや、全然笑えないですって。シャレにならないですよ」
カナミの明るさとは対照的に、おれは腹部にナイフを突き立てられる感覚を想像してしまい、思わず顔を歪めていた。
「トラックに突っ込まれるよりマシじゃない? わたしなんて、最初から暴漢の頭を狙っていればこんなことにはならなかったけど……交通事故なんて防ぎようがないもんね。今、向こうのナミリは大変な状況なんだよね。かわいそう……」
そう言いながら、カナミは軽くおれの肩をポンポンと叩いた。
「いや、ナイフで刺されるほうが十分悲惨だと思うけど……。それに、あちらの世界じゃもう弓を持てないんだろ? ってことは、インターハイで優勝できるほどの才能が途絶えたってことじゃないか」
高校一年でインターハイを制するほどの実力――それは才能だけではない。そこに至るまで積み重ねてきた努力と修練があってこそだ。
そのすべてが、一瞬で失われたのだ。もし自分が同じ立場だったなら……果たして立ち直れるだろうか。
「でも、こっちの世界なら好きなだけ弓を射れるしね。それに、わたしより先に刺された女子生徒なんだけど、わたしがすぐに矢を放ったことで、重傷だったけど命に別状はなかったって、その子の両親に感謝されたんだ」
そう言いながら、カナミは矢を一本つがえ、通路の向こうへと放った。
すでに闇に包まれた通路の奥は見通せない。矢は闇の中へと吸い込まれ、しばらくして――カンッ、と乾いた音が反響した。
「ちょ、ちょっとカナミ君! 遺跡を傷つけないでくださいね!」
セキネ先生が慌てて制止する。考古学者であるこの人にとって、遺跡に傷をつけることなど絶対に許されないのだろう。
「大丈夫、大丈夫。『力』は使ってないから」
『力』? 何のことだ、と首をかしげるおれに、カナミは振り返って「ゴメンゴメン」と言わんばかりの表情を浮かべ、そのまま話を続けた。
「わたしの左手だけど……こちらの世界で遺跡を巡れば、向こうのわたしの左手も回復するかもしれないの」
カナミはそう言いながら、右手で自分の左手をさすった。
遺跡を巡れば、あちらの世界の彼女の左手が回復する? 一体どういうことだ?
「左手が回復するって……? 遺跡を巡ることと、あちら側――『地球』のカナミの左手に、何か関係があるのか?」
問い返すおれに、カナミは「えぇっと、それはね……」と説明を続けようとする。だが言葉に詰まり、うまく言えない様子だった。
見かねたセキネ先生が口を開く。
「その点については、私から説明しましょう」
そう前置きして、先生は『なぜ遺跡巡りをしているのか』を語り始めた。