【047】慈悲の循環
クラウゼを追うことは不可能だと悟り、まずは地に倒れ伏している村人たちの治療に専念する。幸いにも、命を落とした者はいなかった。おれは『慈悲の力』を注ぎ込み、一人ひとりを癒していく。淡い光に包まれた傷や熱は次々と消えていき、やがて全員が完全に回復した。
村から悪魔の瘴気が消えたおかげか、村人の回復は早まり、二日後には、ほぼ全員が疫病から立ち直った。
「これでおれたちの役目もおしまいですね」
陽の光が波に砕け、光をはじいた水面が、揺らめく鏡のように地平へと続いている。その地平に向かって、釣り糸を投げ込む。少しの間をおいて、遠くの水面に波紋が広がる。
「ナミリさんたちのおかげで、村は救われました。この恩は残り少ない人生をかけて返しますよ」
おれの隣で釣り糸を垂らすマリヌスさんは、エムセルへ鮮魚を届けるための手筈をすべて整えてくれていた。移動用の馬車に、氷を蓄える魔道具、そして配達人の手配まで――その準備は抜かりない。これでエムセルは、林道の宿場町でありながら、風呂と新鮮な魚料理を味わえる、さらに魅力的な街へと一歩前進したのだ。
釣り竿に微かな振動が伝わり、一拍おいてから勢いよく竿を引く。おれたちの世界のように精巧な造りではないが、それでもリールを巻き取るたびに獲物の重みが両腕にずしりとのしかかってくる。水面下で暴れる気配と格闘しながら、ついに銀白の魚体が水面を割った。引き上げてみれば、やや小ぶりながらも堂々とした石鯛であった。
「なかなか、やりますね。ナミリさん」
熟練の釣り師に褒められると、胸の奥がくすぐられ、悪い気はしない。待ってましたと言わんばかりに、ポールさんが石鯛を手際よくさばき、透き通るような白身の刺身へと仕立てていった。そしてあらかじめ用意しておいた酢飯で手際よく寿司を握る。一番に飛びついたのは、もちろんカナミだ。
「ん~。お寿司美味しい!」
初めて寿司を見る、サラスとマリヌスさんも石鯛の寿司を口に運ぶ。
「ん~。美味しい!」
ほぼカナミをトレースするサラス。マリヌスさんも、寿司の旨さに驚き、さっそく酢飯の作り方をポールさんに聞いている。
「やっぱり平和が一番だな……」
翌日、村長らの見送りを受け、おれたちはエムセルの村へと帰路についた。
エムフィビレの人々の眼差しは、疫病から救ってくれた恩人を送り出すというよりも、むしろ宗教的指導者を見送るかのようで、その熱量にわずかに圧迫感さえ覚えるほどだった。
(まさかとは思うが……これって『慈悲の力』の副作用じゃないよな?)
ゴードウィン領やミルフォードでの戦いで瀕死の兵士を救ったときも、ミルフォードの街の人々を治療したときも、エムフィビレの病人たちも、そしてサラスも……。『慈悲の力』で癒やした者は、みな一様におれを敬い、慕うようになっている。
それはただの感謝の念にすぎないのか……それとも、力そのものに人の心を縛る何かがあるのだろうか。
(今度、セキネ先生に相談してみるか……)
さらに一日が過ぎ、夕刻にはようやくエムセルへ到着した。
疲れを癒す間もなく自宅に戻ったおれたちは、二階の執務室に集まり、今回遭遇した「人語を操る悪魔」についての報告内容をまとめるため、打ち合わせを始める。
ゴードウィン男爵への詳細な報告はもちろん、今回の件はホルフィーナ王国全体で周知すべきだという意見が大半を占め、最終的にことの子細をミランダ様へも届けることに決まった。その際には、白魔導士としての信頼を得るためにミランダ様の名を拝借した件についても、きちんと謝罪を記すことになった。
「報告文は私がまとめておきますので、お任せください」
クロスフォードさんがそう請け負ってくれたおかげで、ひとまず大きな仕事は片付いた。おれとカナミ、そしてサラスは、旅の疲れを癒すために浴場へと向かう。
一方ポールさんは、料理をするとまた風呂に入らないといけなくなるからと笑いながら、調理場へ直行し、漁村から持ち帰ったお土産の鮮魚の調理に取りかかっていた。
ベルトウィンさんやエレン、ウッドウィンや衛兵たちが食堂に集まり、エムフィビレから運んだ鮮魚を堪能している。夜の見回りがあるため酒を口にできなかったガイモンには申し訳なかったが、それでも皆、魚料理の美味しさに舌鼓を打ち、やがて食堂はいつもの賑やかな騒ぎに包まれていた。
そんな喧噪の中、おれはそっと席を立ち、セキネ先生のそばに歩み寄る。そして、胸に引っかかっていた『慈悲の力』の副作用について打ち明けてみた。
「それは興味深い仮説ですね」
先生は静かに答え、指先でグラスを回しながら続ける。
「もちろん私には、『慈悲の力』を正確に『鑑定』することはできません。ただ、ヴィシュヌ神の慈悲を求めるとはすなわち、罪や苦しみからの解放を願う行為です。そして慈悲を与えられた者は、その瞬間に心の救済を得る。そうなれば、施しを与えた存在に敬愛の念を抱くのは、むしろ自然なことなのかもしれませんね」
やはり、おれの胸に芽生えた予感は、間違ってはいないのかもしれない。ひとまずお礼を告げて席を立とうとしたが、セキネ先生の語りはまだ終わる気配を見せない。
「ヴィシュヌ神の慈悲を、単純に“罪や苦しみからの解放”と表現するよりも、魂が救済に触れ、その結果として深い敬愛の念を抱く――そう言ったほうが適切かもしれません。
実際、ヒンドゥー教における『神への個人的で深い愛』を軸とした宗教運動である『バクティ運動』では、神の慈悲や救済を受けた者が、さらに神を敬愛するという循環的な関係が強調されています。
もともとヒンドゥー教は、ヴェーダやバラモン僧による儀式を中心とし、『生まれやカースト』によって神への近づき方が制限される宗教でした。しかし『バクティ運動』は、出自や性別を問わず、誰もが神を愛し、祈ることで救われると説いたのです。これはむしろ、我々現代日本人の感覚に近い教えかもしれませんね」
結局、セキネ先生の熱弁に一時間ほど付き合うことになり、気が付けば宴はそのまま二次会へと突入していた。酒を楽しむ者、片付けを手伝う者、早々に部屋へ戻り眠りにつく者――それぞれが思い思いに過ごす、ゆるやかな時間が流れていた。
今日はさすがに疲れているし、そろそろ寝ようかな……。そう思って腰を浮かしかけたその瞬間、気が付けば左右にエレンとミレーユがぴたりと腰を下ろし、まるで狩り場を見つけたかのように「おかわり!」と声をそろえる。
気の毒そうな顔をしたポールさんが、しれっと新しいジョッキを注ぎ、苦笑しながらおれの前にビールを置いてきた。これ完全に逃げ道ふさがれてるな……。
「ナミリさんは、カナミさんとサラス、どっちが好きなんですか?」
「ちょっ……?! こんなとこで何聞いてんだよ!」
慌てて周囲を見回す。サラスは酒に負けて、すでに姿を消している。カナミはといえば、仕立て師のフローラさんとウッドウィンの二人に囲まれ、楽しそうに談笑していてこちらの会話には気づいていない。
「そりゃ、カナミですよ。向こうの世界じゃ恋人関係ですからね」
……なんて、口が滑っても絶対に言えない。もしも今この場でバレたら、歴史どころかおれの命運そのものが変わってしまう……。
「どちらも好きですよ。あくまで友人として!」
そう強調したあとで、酔った勢いもあってつい口が滑る。
「……それより、この前サラスがおれの部屋で寝てたの、二人の仕業だろ?」
証拠なんてないのに、思い切って問い詰めると、エレンもミレーユも同時に目を泳がせる。――はい、クロです。状況証拠としてはこれだけで十分すぎる。
「だってサラスちゃん、ナミリのことが好きすぎてエムセルまで来たんだよ? ちょっと応援したくなったんだよね」
悪びれもせず白状するエレンに、心底あきれ返る。「……もう二度とするなよ」と釘をさすが、ミレーユが畳みかけてきた。
「で、ナミリさんは――したの? してないの?」
「してないよ! 本当だからな!」
フルスイングで直球を打ち返すも、二人のニヤニヤ顔を見ればわかる。……絶対信じてないな。こいつら。




