【004】表裏一体の現象
遺跡の中はすでに闇に沈み、差し込む月明かりに照らされたセキネ先生の横顔は、ひときわ真剣な眼差しに満ちていた。
「ナミリ君は、日本で生活していた時の記憶がありますよね?」
「はい。もちろんあります」
そう答えながら、日本での日々が懐かしくも遠く、まるで夢のように霞んでいくのを感じた。
「ナミリ君は、この世界では何かお仕事はされていましたか?」
「おれの村では牧畜が主な産業なので、家でも羊を飼っていました。羊の乳を加工してチーズを作り、それをエムセブルグの街に届けるのが仕事でしたから」
言葉にした瞬間、自分の中に二つの世界が同時に息づいていることを改めて実感する。セキネ先生は「なるほど」と頷き、納得したような表情を浮かべて話を続けた。
「エムセブルグという街を知っているが、大阪という街も知っているんですよね?」
確かにその通りだ。エムセブルグと大阪、二つの街を知っている。それどころか、おれのエムセルの村で過ごした二十年の記憶と大阪で過ごした二十年の記憶、その両方を鮮明に思い出すことが出来る。
「たしかに不思議ですね。エムセルの村で羊を育てている記憶もあれば、大阪のUSJに行った記憶もある。両方の記憶が混ざっているようですね」
もし、明日から日本で羊の飼育をしなさいと言われても簡単にこなすことができるだろう。また、こちらの世界でいきなり、複雑な計算が必要な仕事、たとえば商会での金銭管理なんかを任されてもこなすことができるだろう。日本のおれは、経済学部で学んでいて、教授の勧めで簿記の資格を取ろうとしていたからな。
「それが『表裏一体の現象』の最大の特徴です。
この世界のあなたと地球のあなたは、まさに表と裏――異なる世界に存在しながらも、記憶を共有しているのです。
私やカナミ君も同じで、この世界の記憶と地球の記憶、その両方をしっかりと保持し、それぞれで得た経験を実際に活かすことができます。
たとえば、意識の共有が起こる前のこちらの世界のカナミ君は、弓に触れたことすらありませんでした。しかし、共有が始まった瞬間から地球での経験を引き継ぎ、自在に弓を扱えるようになったのです」
――突然、記憶が二倍になるなんて、おれの脳は耐えられるんだろうか。まさか忘れる速度まで二倍速、なんてオチはご勘弁願いたいものだ。
「USJ、楽しいよね。わたしは京都だから、お隣だよ」
不意にカナミが話に割り込んできた。説明に飽きたのか、あるいは単に雑談をぶっこんでみたくなったのか……。
「私は横浜に住んでいますが、務めている大学は東京ですね」
しっかりと話を持っていかれているセキネ先生。真面目に語っていたはずが、気づけば出身地を話す流れになりつつある。
この人、よく学生に振り回されているんじゃないだろうか……そんな光景が容易に想像できた。
「記憶が共有されるとして、この世界の自分と地球の自分が切り替わるきっかけは何なんですか? 先程、セキネ先生は眠るたびに切り替わるようなお話をされていたと思うのですが……」
最も気になることだ。急に意識が切り替わったらあちら側の世界で目の前に車が……何てことになったら悲惨過ぎる。
「意識の切り替わりは、どちらかの世界で意識がなくなった時、つまり睡眠とか、気絶とか、そういったタイミングで切り替わるみたいですね。
ただ、不思議なのはこちらで十四時間活動したとしても、向こうでの睡眠時間は六時間だったり七時間半だったりとこの世界の経過時間と地球での経過時間が一致しないことですね」
「そうそう、こっちの世界で意識を失ったタイミングで、あっちの世界の目覚ましが鳴っているみたいな。あれって不思議だよね。おかげで眠っているという感覚を長いこと味わってないのよね」
それってつまり、眠ったら即起きるってことだよな。それだと眠っている感覚はないだろう。そんな生活を続けていて、精神的に疲れないのかな……。
「おそらく、こちらの時間軸とあちらの時間軸は、それぞれ独立して進んでいるのでしょうね。興味深い現象ですが……私は物理学者ではないので、理屈はまったく説明できません」
ここまでの話を整理すると──この世界と地球にそれぞれ自分が存在し、二人の自分は望むと望まざるとにかかわらず記憶を共有している。そして、頭で覚えたことは両方の世界で実践可能だ。しかし、おそらく肉体の状態までは共有されていない。もしそうなら、いまの自分は重体で寝込んでいるはずだからだ。
さらに、切り替わりの契機は「意識を失った瞬間」で、多くの場合は眠りについた時である。一方の世界で何時間活動しても、もう一方では一回の睡眠サイクルで済んでしまうらしい。
そして最後に、この『表裏一体の現象』を体験するには、一度「死の淵」に立つ必要がある──。……待てよ? それなら、目の前の二人も同じように死にかけた経験をしているのか?
「ふと思ったんだけど、二人とも……死にかけたことがあるのか?」
そう尋ねると、カナミの顔がみるみる曇っていった。
「……あぁ、思い出したくもないことを聞くんだね」
「でも気になるだろ? だって、この現象は生死の狭間を経験しないと起きないんじゃないのか?」
カナミはしばらく苦い表情を浮かべていたが、やがて諦めたように息を吐き、重い口を開いた。