【016】剣聖 ベルトウィン・エムセブルグ
ゴードウィン男爵に見送られ、おれたちはサウスポートの街を目指していた。徒歩なら半日ほどの距離だが、男爵が手配してくれた馬車には荷物と二人分のスペースがあり、おかげで少し早く着けそうだった。
「サウスポートの北にはミルフォードの街があります。農業が盛んな街で、ホルフィーナ王国の中では王都の次に人口が多い街となります。サウスポートとミルフォードの間は、川を使った船移動を予定しています」
これからの予定を、まるで観光バスのガイドのように丁寧に説明しているのが、エムセブルグ正規兵のベルトウィンさんだ。フルネームはベルトウィン・エムセブルグ。ゴードウィン男爵の従兄弟にあたり、正真正銘の貴族階級に属する人物である。
オーク討伐には同行していなかったものの、その間はエムセブルグの街に残り、防衛部隊の指揮を任されていた。言葉遣いは穏やかだが、責任ある立場を背負う軍人としての厳しさを併せ持っている。
「エレン姉さん、今日はなんだか大人しいね?」
「ごめんね、カナミ。ちょっと緊張しちゃってさ……」
エレン(宴会でおれと同い年だと分かったから呼び捨てだ)が、緊張する理由がエムセル村出身のおれにもよく分かる。このバスガイド風の優しげなおじさんは、ホルフィーナ王国でも数人しかいない『剣聖』の称号を持つ人物で、王国の民なら、誰でも知っているような有名人だ。
身長こそおれと同じくらいだが、引き締まった体つきは、まるで剣のために必要な筋肉だけを鍛え上げたかのようだ。年齢は四十代だったはず。セキネ先生と近い年ごろかもしれない。
「エムセブルグ家からのご依頼と伺っておりましたので、もしかするとお目にかかれるのではと楽しみにしておりましたが、まさかご同行できるとは、夢にも思っておりませんでした」
「エリーナ殿も、良い剣士だと、最近は評判ですよ。私こそ、あなたのような剣士に同行していただけて感謝しております」
「エリーナ殿などと……。エレンとお呼びください」
エレンのフルネームはエリーナ・アードヴェイグ。
冒険者ギルド界隈では、ここ最近評判になっている凄腕の剣士だが、おれの印象は、「酒を飲んで、風呂に入って、翌日、二日酔い」って感じだな。あまりに気の毒だったので、カナミも含めて二日酔いは治療しておいた。
「ベルトウィン殿は、少し変わった形の剣をお持ちなんですね。東方の剣によく似ていますが」
エレンには不思議な形に見える剣だが、おれには見覚えがある。きっとカナミとセキネ先生も気付いているかもしれない。ベルトウィンさんの剣は、間違いなく日本刀と同じ形だ。
「これは〈カタナ〉という剣です。片刃で、刀身にわずかな反りがあるのが特徴ですね。私はもともと政治や領地経営にはまるで関心がなく、ただ剣の道ばかりを追い求めてきました。修行の旅の途中で師に出会い、この刀は、その師が用いていたものと同じ形に作ってもらったものです。――もしよければ、手に取ってみてください」
「……なんて美しい刀身なの」
エレンがそっと日本刀を手に取り、目を奪われたように見入る。そのうっとりとした表情に、現代でも日本刀が美術品として高く評価される理由を、改めて思い知らされるのだった。
「もうすぐ、森が少し開けている場所となります。小さな宿場街があるので、そこで昼食にしましょう」
交易路に自然発生的にできた宿場街だが、宿や食事処は、そこそこ多く、それに馬や馬車による移動を見越して、馬への水や飼葉も提供している。サウスポートとの交易が再開されたばかりで、人の往来も多く、どの宿や食事処も混雑していて、普通なら食事を取るために結構な時間、並ばないといけない状況だった。
「お待ちしておりました。ベルトウィン様」
いつの間に目の前にいたのか、一人の老人がおれたち一行の前に立っている。
「ザムル翁か、久しいな」
ベルトウィンさんによると、ザムル老人は、この地に街を興した人たちのうちの一人で、今はエムセブルグ家の庇護を受け、この街の統治権を保障されているそうだ。ザムル翁に導かれるままに、この街の最も立派な宿に入ると、おれ達のための食事が用意されていた。新鮮な鶏肉と豚肉を使った豪華な料理で、剣聖をもてなすために苦心した料理なんだろうと思ったが、当の剣聖は、ザムル老人と話し込んでいる。
「すみません、みなさん。お待たせいたしました。どうやら、サウスポートの街の天候が悪く、船の運航が難しいようです。今日はこれ以上進むより、この宿場街で待機し、明日移動したほうがよさそうです。幸い、ザムル翁のおかげで、私たち五人分の部屋は確保できておりますから、今日はこの宿に留まりましょう」
「賛成!わざわざ大雨の中に飛び込む必要もないからね」
カナミは、即決でベルトウィンさんの案に従うようだな。セキネ先生もうなずいている。それにおれもわざわざ、船も出ないのに大雨の中、移動したくはない。
「ベルトウィン殿、身をわきまえない願いとは分かっておりますが、この空いた時間で、一手ご指導いただけないでしょうか」
「エレン殿、指導と言われても……」
「え、何なに? ベルトウィンさんとエレン姉さんが試合するの? すっごく見たい!」
「いや、ベルトウィン殿は剣聖ですよ。これからアークジェネラル討伐という時に、怪我でもされては……」
興味津々なカナミと、心配そうなセキネ先生だったが、エレンの急な申し出に、最初こそ戸惑っていたベルトウィンさんも、エレンの真剣な願いに押し切られ、木刀であればと、手合わせを了承してくれた。
「では、お願いします!」
エレンの渾身の一撃は、おれのような素人では目が追い付かないほどの速さだった。並みの剣士であれば、避けることはできず、仮に受けることができたとしても、受けた木刀ごと鎖骨まで砕かれていただろう。
しかし、ベルトウィンさんは、エレンの一撃に対し、突きを返した。しかもその突きは体を狙わず、剣を持つ右腕と左腕の間を通した。そして体を一捻りすると、エレンの体がふわっと浮き上がり、地に着いた時には、ベルトウィンさんの木刀の切っ先が、エレンの首に添えられていた。
「これは、『骨抜』といい、相手の力を利用しつつ、体勢を崩す技です。師匠の教えでは、人を壊すのではなく、活かす剣こそ、最高の剣技。私を斬ろうとする相手に剣を抜かせず、自分も剣を抜かない。これが剣術の極意と心得て、剣の道を追求してください」
「感服いたしました。ご教示ありがとうございます」
エレンは感服していたが、内心の俺は首をかしげていた。――相手に剣を抜かせない? そんな芸当、本当に可能なのか。素人の自分にはまるで想像もつかない話だ。
「ナミリさん、今、心の中で『相手に剣を抜かせないなんて無理だ』と思ったでしょう?」
「えっ……?! す、すみません。正直に言えば、その通りです」
「相手に剣を抜かせない方法は、まず自分が退いてしまうことです。そこに相手がいなければ、いくら剣を抜いても振るう相手はいませんからね。どうしても逃げられないときは、話し合うことです。互いを理解できれば、剣を交える理由そのものがなくなるでしょう。剣を抜く前に、抜かずに済むだけの努力をすべて尽くす。それこそが本当の剣の道です」
まさか“剣聖”と呼ばれる人物から、最初に教えられるのが「逃げろ」という言葉だとは思わなかった。しかしその言葉は、ただの臆病ではなく、剣を極めた者だけが語れる真理のように胸に響く。
ふと横を見ると、エレンの瞳に薄っすらと赤くなっていた。その滲む涙は、悔しさなどではなく――心を打たれた感動の証にほかならなかった。
「しかし、エレン殿の先程の一撃は実に見事でした。時間は十分にありますから、私の技を参考までに、少し手ほどきいたしましょう」
結局、二人は夕暮れ時まで剣を打ち合っていた。興味深そうにそれを見守っていたおれとカナミに気づいたベルトウィンさんは、ついでとばかりに、剣術の基礎中の基礎を教えてくれた。
一方、セキネ先生はというと、ベルトウィンさんの剣さばきを熱心にメモしていた。セキネ先生には、ベルトウィンさんが日本の有名な剣術家と何らかの接点を持っている……。そんな確信めいた思いがあったのかもしれない。