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第一話

 夜の闇に満ちたパリの街を一人の幼い少女が息を切らせながら走る。

 

 少女の頭上では夜空の闇の中をヴェルヌ社製の飛行艇が切る様に飛んでいた。

 

 茶屋の店先に下げられた提灯の赤い光が少女の顔を照らす。

 

 茶屋の看板娘である自動人形が団子を皿に乗せて出てきたが、少女とぶつかり団子を落としてしまう。

 

 団子を注文した侍が訝しげな視線を少女に送るが、侍の視線にはすぐに怯えが混じった。少女が血に塗れていることに気がついたからだ。

 

 少女は侍の視線を払い除ける様にして走った。

 

 少女、ジャンヌは侍に助けを求めようとは考えなかった。あの男に勝る剣の腕を持つ侍がそうそういるとは思えなかったからだ。

 

 ジャンヌは追手を惑わすために狭い路地へと曲がった。それが失敗だった。気づけば人の気配が消え、闇が辺りを支配していた。

 

 怯える心を律しながらジャンヌは歩みを進めた。しばらく歩くと前を塞ぐものがあった。はじめジャンヌはそれを自分と同じくらいの子供だと思ったがすぐにそうではないことに気づく。

 

 暗がりに目が慣れてくるとそいつの姿がはっきりと見えた。緑色の肌に、膨らんだ腹、口からは牙が生えていた。餓鬼だ。

 

 フランスでは日本文化が流行するジャポニスムの風潮が起こって以来、昼は侍が我が物顔で闊歩し、夜は妖たちが百鬼夜行の群れを作る様になっていた。

 

 ジャンヌが後ずさると、餓鬼が牙を向いた。その表情は獲物を前にして笑っている様にも見えたし、自分たちを闇へと追いやる人間に対して怒りを抱いている様にも見えた。

 

 どちらにせよいかに下級の妖である餓鬼が相手であろうとも、幼いジャンヌではなす術がなかった。

 

 餓鬼が腰を落とした。すぐにそれが自分に飛びかかるための動作だと気が付いたが、そのときには餓鬼は宙に踊っていた。

 

 ジャンヌは恐怖から目を閉じた。しかしどれほど待っても痛みは襲ってこない。恐る恐る目を開けると、餓鬼は宙で止まっていた。その腹からは銀色に光る刃が伸びていた。

 

 餓鬼の背後には一人の男が立っていた。長身で表情は厳しく眉間に皺を寄せていた。

 

 男の名はジャン・バチスト・サンソン。死刑執行人の役を任された侍にして、フランス一の腕を持つ剣聖。そしてジャンヌの目の前で自分の弟でもあるジャンヌの父と弟が愛した女性であるジャンヌの母を切り殺した男。

 

 バチストは手にした日本刀を軽く振った。突き刺さったままだった餓鬼の死骸が吹っ飛ぶと壁にぶつかってずるずると落ちた。


「どうして、どうして父さんと母さんにあんなことをしたの」


 父と母の身に起きた惨劇を思い出すとジャンヌの目には涙が溢れた。


「あの愚かな弟は国王より与えられた名誉ある処刑人の職を放棄したうえに妖の娘と駆け落ちした。私は一族の恥を一族の手で始末したに過ぎない」

 

 バチストはまるで見込みのない道場の門弟に教えを授ける様に面倒そうに答えた。せめて答えてやることが曲がりなりにも自分の姪への情けだと思っている様だった。

 

 その答えを聞くとジャンヌの内に怒りが湧いてきた。怒りが体から溢れる様な痛みがあった。ジャンヌの爪は伸び、牙が生えてきた。その姿はまさしく妖だった。


「やはりお前も卑しい血を引く者か」

 

 バチストが吐き捨てるように言った。


「わたしに流れる血を愚弄させはしない」


 バチストの言葉に反発するようにジャンヌの周りの妖気が膨れ上がり暴風のように渦巻いた。その瞬間ジャンヌの身体が弾けていた。ジャンヌがいた場所に妖気の風が逆巻く。人間ではできないまさしく妖だからできる瞬発力だった。

 

 だが、それほどの速さをもってしても剣聖と謳われたバチストの目をくらませることさえできなかった。

 

 バチストは構えることもせずにだらりと下げた刀を億劫そうに振った。刀が弧を描きジャンヌの小さな身体を弾き飛ばす。しかし刀がジャンヌの身体を傷つけることはなかった。

 

 バチストが情けをかけたからではない。バチストは目の前に飛んできた蠅を面倒だが刀で払ったに過ぎない。それ故に刀を血で汚すこともしなかった。小娘の命などいつでも奪えるのだ。

 

 ぐったりと動かないジャンヌに止めを刺すためにバチストは近づいた。だが、バチストははっとして足を止める。ジャンヌの中の妖気の奔流が自分に向けられるのを感じたのだ。


 そうでなければ続くジャンヌの攻撃をバチストは躱せなかっただろう。他ならぬジャンヌの相手を射すくめる程に研ぎ澄まされた殺気こそが彼女の企みを失敗に終わらせた。

 

 果たしてバチストが予測したとおりにジャンヌは跳ね起きるとその右手が閃き一本のクナイが身をわずかに逸らしたバチストの頬をかすめた。

 

 バチストにはジャンヌが使ったクナイが自分の所持していたものだとすぐに気が付いた。ジャンヌは襲いかかってきたあの一瞬でバチストの懐からクナイをかすめ取り、隠し持っていたのだ。


「面白いことをするな、小娘」

 

 口ではそういうがバチストの口はつまらなそうにきつく引き結ばれていた。

 

 それからバチストは目を閉じると何かを考えている様だった。バチストは目をゆっくりと開いた。


「小娘、生きたいか」


 バチストの思いがけない問いかけにジャンヌは答えることができなかった。


「我がサンソン家は代々国王から処刑人を任されてきたが、その剣の腕を買われてもうひとつ裏の仕事がある。それが王族の命を受け暗殺をこなす忍としての役目だ。儂は息子のシャルルに家督を継がせるつもりでいるが、シャルルは剣の才こそあるが、我が弟に似て心が優しく、体が病弱で処刑人の役割に加えて忍の仕事もとなると難しい。そこでお前が儂の弟子となり忍の役を果たすならば生かしてやろうと言うのだ」


「そんな虫のいい話があると思うか、差し違えてでもあたしは両親の仇を取ってみせる」


「そうなればお前は犬死にするだけだ。だが、儂のもとで腕を磨き機会をうかがえばいずれ仇を取れるやも知れんぞ」


「おまえは自分の命を狙う者を手元に置いておくのか」


「お前如きに殺される儂ではない。せいぜい一族の繁栄のためにお前を利用する」

 

 ジャンヌの中で生きて仇を取りたいという思いと仇の元へ下ることへの悔しさが渦巻いた。


「あたしはいつかあんたの寝首をかいてみせる」


「よかろう」


 短く告げるとバチストはジャンヌの横を通り過ぎて行った。ジャンヌはボロボロになった体を引きずるようにしてその冷たい背中を追った。 

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