迷惑趣味人系落語から読み取る人生訓
【枕】 迷惑趣味人系落語の世界へ
十月中頃までは残暑の厳しい日もありましたが、今はスッカリと涼しくなり、正しく秋本番という感じですね。
スポーツの秋に食欲の秋、芸術の秋に読書の秋と、気候の穏やかな秋は趣味やレジャーを満喫するのに最適な季節です。
しかしながら、趣味を楽しむ過程で他の誰かに不快な思いをさせてしまうのは、あんまり感心出来ませんね。
自分の趣味に無理に付き合わせた結果、相手に精神的・身体的な苦痛を強いてしまうのは、趣味としている事柄その物への冒涜行為とも言えるでしょう。
今回のエッセイでは、他人の趣味に付き合わされた人達が気の毒な目に遭う落語を三席紹介させて頂きたいと思います。
【前座】 「寝床」
〈あらすじ〉
ある大店の旦那は義太夫が大好きで、義太夫の会を開く程でした。
ところが旦那の義太夫は余りにも下手で誰も聞きたがらず、仮病や居留守で逃れる始末。
誰も自分の義太夫を聞きたがらないと知った旦那は怒り心頭で、「義太夫を聞きたがらない店の者や店子を、全員追い出す」と言い出す始末。
これに驚いた番頭は店の者や店子を説得した上で旦那を宥め、改めて義太夫の会をやり直すに致ったのですね。
下手な義太夫も泥酔して寝てしまえば分からない。
こう腹を括った一同は、無闇矢鱈と飲み食いした結果、枕を並べて寝てしまったのですよ。
やがて夢中で義太夫を語っていた旦那は、居合わせた人達がみんな寝ているのに呆れてしまうんです。
ところが丁稚の定吉だけは、眠る事なく涙を流していたのですね。
旦那は「自分の義太夫に感動して涙を流してくれた」と大喜び。
何処が悲しかったかと聞いてみると、定吉は旦那が見台を置いて座っていた場所を指さします。
定吉曰く、「あそこが私の寝床なんです…」。
自分の寝床を旦那に使われ、眠れなくて泣いていたんですね。
音楽や演芸などを鑑賞していると、観たり聴いたりしているだけでは物足りなくなる方もいらっしゃるでしょう。
そうして習っていくうちに、今度は「自分が演じているのを誰かに観て貰いたい」という気持ちが湧いてくるのも、自然な流れですね。
だけど忘れてはいけないのは、「相手も自分と同じ人間である」という事です。
時間的コストを支払わせて居合わせて貰っている以上、「演じている自分が楽しい」だけで満足するのではなく、「相手に楽しんで貰う」という意識を忘れてはいけませんよ。
それで相手が理由をつけて断ろうとしているなら、「自分の芸がまだまだなんだ。」と自覚して、向上出来るよう励む事ですね。
間違っても、自分の立場を武器にして無理強いしてはいけませんよ。
それにしても、旦那の義太夫がキッカケで、定吉を始めとする店の者や店子達が「義太夫」というジャンル自体を嫌いにならないと良いんですけど…
とはいえ義太夫は、あくまでも耳で聞く芸能ですからね。
下手な語りが精神的苦痛に繋がるかも知れませんが、直ちに肉体的な影響が及ぶ訳ではない分、まだマシなのかも知れません。
【二つ目】 「蕎麦の殿様」
〈あらすじ〉
親戚筋に誘われた宴の席で蕎麦職人の腕前に感動した殿様は、「自分もやってみよう」とばかりに蕎麦打ちに挑戦するんですね。
とはいえ料理の心得の無い殿様が、見様見真似で打った蕎麦。
麺の細さはマチマチですし、場所によっては蕎麦掻きみたいになっている部分もあるんですね。
ところが殿様は、初めての手打ち蕎麦に大満足。
グッチャグチャな手打ち蕎麦を、得意満面で家臣達に振る舞うんですよ。
殿様に向かって「不味いです。」なんて言う事も出来ず、家臣達は無理して完食するものの、その夜は全員お腹を壊してしまいました。
そして翌日も、殿様は家臣に蕎麦を振る舞うんですね。
しかも今回は、殿様の基準でも不出来な御様子。
そんな打ち損ないの蕎麦を「せっかく家臣達のために打ったのだから。」と強要するのですから、家臣達も堪りませんよね。
とうとう家臣の一人が、「これ以上蕎麦を食べさせられる位なら、ひと思いに切腹をお申し付け下さい!」と訴えるんですよ。
それに対して殿様が一言。
「そのような無礼者は、手打ちに致す!」
前述した「寝床」は耳で聞く義太夫でしたが、こっちは手打ち蕎麦という食品。
その質の良し悪しは、人体への影響としてダイレクトに現れてしまうんですね。
実際問題、家臣達はお腹を壊しちゃっているんですから。
私が家臣だったとしても、この殿様の手打ち蕎麦は遠慮したいですね。
医療技術が現代の水準程ではなかった江戸時代、腹痛や腹下しが命取りになる可能性は充分にありえますから。
それでも、この殿様は素材に関しては普通の蕎麦と同じ物を使っていただけ、まだマシだと思います。
この後に控えている真打ちに比べたら…
【真打ち】 「茶の湯」
〈あらすじ〉
仕事一筋だった御隠居様が茶の湯を趣味に始めたものの、人に聞かずにうろ覚え知識で間に合わせたせいで、チグハグな茶の湯になってしまった。
そもそも御茶を「青い粉」としか認識していなかったため、抹茶の代わりに青きな粉を買い、泡立たないので天然石鹸であるムクの皮の粉を入れてしまう始末。
そんな御茶とは似ても似つかぬ液体を飲んでお腹を壊しているうちに、御隠居様は茶の湯の腕を誰かに見せたくなり、知人を集めて茶会を開くんですね。
普通の感覚では到底飲めない御茶紛いの液体を飲まされるんですが、茶菓子に関しては高級な羊羹が供されるので、茶菓子目当てに沢山のお客さんが詰め掛けるようになりました。
そうしているうちに茶菓子代が嵩むようになり、御隠居様は茶菓子も自作するようになったんです。
蒸したサツマイモに黒蜜を練り込み、御猪口で型取りして饅頭を作ろうとしたんですが、粘り気が強過ぎて型から離れてくれません。
仕方ないので事前に型に油を塗って剥がれやすくしたんですが、その時に使った油が行灯の灯し油だったせいで、もう食べられた物じゃないんですよ。
御茶は石鹸だし、饅頭は灯し油まみれ。
こんな物を食べさせられては堪らないと、近隣の人達は誰も寄り付かなくなったんですね。
そんな御隠居さんの所を訪ねたのは、全く事情を知らない遠方の知人。
久々に茶を供する事が出来ると喜んだ御隠居さんは、普段より多めにムクの皮を入れ、気合いを入れて泡立てたんですね。
一口食べて驚いた知人は、逃げるように厠へ駆け込み、窓から田んぼ目掛けて灯し油まみれの饅頭を投げ捨てたんです。
その饅頭を頬にぶつけらられた農民が一言、「また、茶の湯か…」。
この「茶の湯」を私が真打ちに据えた理由は、きっと一目瞭然だと思います。
何しろ御隠居様ったら、石鹸や灯し油といった食べられない物を材料にしているんですから。
幾ら天然由来の材料を使った石鹸でも、現代なら「食べないでください」とか「お子様の手の触れない所へ保管下さい」的な注意書きが添えられるでしょう。
ましてや灯し油を好んで飲み食いする者がいるとしたら、それは化け猫や油赤子みたいな妖怪の類ですよ。
そしてサゲにおける農民の「また茶の湯か」という一言から察するに、茶の湯の客が灯し油まみれの饅頭を投げ捨てるのは日常茶飯だったみたいですね。
諸説ありますが、江戸時代の人々は現代よりも物を大切にしていたと聞きます。
古着専門の行商人から衿や裡といった端切れを買って着物を修理したり、鍋や釜の修理を専門とする鋳掛屋という商売が成立したり。
そんな勿体無い精神の実現者である江戸っ子達の目には、食べ物を粗末にする御隠居様の所業は、果たしてどう写ったのでしょうか。
まあ、御隠居様が茶菓子を既製品からハンドメイドに切り替えたのも、茶菓子代が嵩んだのが原因なので、ある意味では勿体無い精神の現れなのでしょうが…
ここまでチグハグな茶の湯になったのも、御隠居様が他人の教えを請わずに聞き齧りの知識でゴリ押ししたのが原因ですね。
この「茶の湯」という噺ですが、バリエーションによっては「若旦那(=御隠居様の息子)が茶道を習っているから。」と小僧の定吉が助け船を出す場面があるんですよ。
ここで御隠居様が素直に息子に教えを請えば、ここまでチグハグな事にはならなかったでしょう。
しかし息子に頭を下げるのは恥になると考えたのか、「息子と私とでは、茶道でも流派が違う。他流試合はしたくない。」と断ってしまったんです。
年を取ったり偉くなったりすると、他人に頭を下げたり教えを請うたりするのに抵抗を覚える物ですが、ここで意地を張って知ったかぶりをするとロクな事にならないんですね。
【サゲ】「独善と強情より協調と謙虚を。迷惑趣味人系落語が伝える人生訓」
このエッセイは当初、「趣味を楽しむのは良いけれども、巻き込んだ他人を困らせないよう気を付けよう」という方向性で書き始めたんですね。
ところが書き進めていくうちに、今回紹介した三席の落語には「年長者や上司といった目上の人達が意固地になったせいで、トラブルメーカーになってしまった。」という共通点もある事に気付いたんですよ。
店子や店の者に立ち退きや解雇通知をちらつかせた「寝床」の旦那に、「自分の蕎麦を食べないなら手打ちにする」と言い放った「蕎麦の殿様」の殿様。
相手が逆らえないのを良い事に自分の趣味に無理矢理付き合わせ、難色を示したら権力を盾にして脅しをかけるなんて、現代日本で同じ真似をしたらパワハラになってしまいますよ。
そして他人や専門家に教えを請う手間や恥を惜しみ、生半可な知識を頼りにゲテモノ料理を作ってしまった「蕎麦の殿様」の殿様や「茶の湯」の御隠居様の姿には、面子を気にして人に頭を下げない行為の愚かさが描かれているんですね。
人間というのは、年を取ったり偉くなったりして目上の立場になると、他人に教えを請うたり間違いを正したりする事が苦手になる傾向にあるようです。
それは今まで積み重ねてきた立場の手前、他人に頭を下げるのを「恥」と感じてしまうからなんですね。
しかしながら、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
前提知識が間違っていては、上手く行く訳がありませんね。
それでも意地を張って他人の意見に耳を貸さなかったり、自分の権限で強引に人を従わせたりしていると、段々と敬遠されて最後には孤立してしまうんですよ。
現に「茶の湯」の御隠居様は、誰からも茶の湯に付き合って貰えなくなっていましたからね。
前述した「寝床」の旦那や「蕎麦の殿様」の殿様も、このまま権力を振りかざしていたら愛想を尽かされてしまうでしょう。
義太夫好きの旦那は店子や奉公人に奉行所へ訴えられるかも知れませんし、蕎麦打ちに凝った殿様は乱心を理由に重臣の手で排斥されてもおかしくありませんね。
どんなに偉い人でも、その権威や権力が意味をなさなくなったら只の人。
そんな時、人徳が無かったら本当に寂しいですよ。
誰からも茶の湯に付き合って貰えなくなってしまった御隠居の姿は、義太夫好きの旦那や蕎麦打ちに凝った殿様の有り得る未来ですし、威張り散らした挙げ句に人徳を失った有力者のリタイア後の末路でもある訳です。
職場でも家庭でも他人の意見に耳を貸さずに横柄な態度を取り続けて人徳を失い、いざ退職すると家族から絶縁されて友達もいない。
そんな人生って、余りにも悲し過ぎるじゃないですか。
本エッセイで紹介した三席の落語は、趣味に没頭して周囲の人達を顧みなくなる事を諫めると同時に、「どんなに偉くなっても、目下の人達への優しさや配慮を忘れてはならない。」という人生訓が盛り込まれた、誠に教訓的な噺と言えるでしょうね。
−驕り高ぶって意地を張った末に孤立するより、周りの人達の気持ちを考えて謙虚な姿勢を取った方が、きっと充実した楽しい人生になる。
三席の落語から読み取れるメッセージは、人間関係の多様化した現代社会を生きる上でも大いに役立つ、普遍的な人生訓です。
※ こちらの素敵なFAは、黒森 冬炎様より頂きました。