ある死刑囚の心情
そこには何もなかった。
物も、かおりも、日常も
ただ鉄の空間だけが私の周りを覆っていた。
人も、日差しも、街並みも
もはや私の肌からは遠ざかっていた。
私は今日も同じ場所で目が覚めた。
私は今日もそのまま横たわっていた。
私の生活は変わらない。
そこにいるという務めをこなし、
その日が過ぎるのをただ待ち続ける。
懺悔も、後悔も、夢もない。
私の心はひたすらに無だった。
コツ、コツ、コツ
化石のような私の体に音が響く。
コツ、コツ、コツ
この部屋にはない時計の針が動いたような、
コツ、コツ、コツ
それは終わりの合図だった。
私は体をゆっくりと動かす。
重くなった足を床につけ。
やせ細った手を組んで待つ。
その姿はまるで祈るかのようだった。
何に祈る?
私は自らの姿勢に問いかけた。
誰が救う?
私は自らの思索に問いかけた。
救いを求めることなどできはしない。
私はとうの昔にそんな資格を失った。
そもそも私は救済など望んでいない。
コツ、コツ、コツ
やがて扉は開かれる。
私の心はひたすらに無だった。
*******************
私は教誨室に通された。
目の前には縦長の机と向かい合った二脚の椅子があり、
その奥には仏壇が設えてあった。
椅子には白い着物を着た教誨師が座っている。
(今更私に言葉など必要ない)
私が黙って席につくと教誨師は短い挨拶をし、
いくつか訓示を述べ始める。
死後の世界、生まれ変わりの逸話、そして現世での贖罪。
けれど私の耳には何も入らなかった。
ただ机の上には饅頭とお茶が置いてあり、
私は処刑前なのに飲食などしても良いのだろうかと。
どうでも良いことばかり考えていた。
私は少しばかりの興味からそっと饅頭に手を伸ばし、
それを一齧りした。
口内に甘い味が広がった。
饅頭とはこんなに甘かったのだろうかと
どこか感慨深い気持ちが湧いて出てきた。
私はいつ以来饅頭を食べたのだろうかと記憶を探る。
確か私が家族と一緒に暮らしていた子供のころ、
食べた記憶はある。
その時の私はどんな風だっただろうか。
思い出せない。
笑っていた記憶とか泣いていた記憶とか、
あるいは怒っていた記憶とか。
思い出すことにまるで頭が働かない。
例え思い出せたとしても、
それは自分とは違う他人の記憶のようで、
今の私とは重ならないように思えた。
私は頭を垂れたまま、
今度はちらりと仏壇のほうに目をやる。
そういえば独房を出る時に
執行官に自分の宗派を聞かれた気がする。
それによって神棚か仏壇かが
教誨室に置かれるのだと説明を受けた。
私の家族が仏教だったからそのように答えた。
『家族』
私はその時その言葉に思い至り、
また思考を巡らせる。
けれどやはり何も思い出せない。
私は確かに家族と一緒に過ごしてきた。
それは長く続いていたはずなのに何一つ思い出せない。
思い出そうとする頭も働かない。
ほとんど関わったことのない実家の宗教は覚えていたのに、
家族のことは全く思い出せないとは何とも不思議に思えた。
私の記憶とはどうやらこの世間から隔絶された施設に入れられてから、
全く機能を果たさなくなったようだった。
けれどそれが惜しいとも寂しいとも思えない。
私は思い返す思い出もなく、
心はひたすらに無だった。
「何か言い残すことはありますか」
訓示を終え、教誨師は私に静かに問いかけてくる。
けれど私は何も言葉が思いつかない。
私は口の裏に甘みを残したまま
「いいえ」
と答えることしかできなかった。
********************
私は教誨室を執行官と共に出て、短い廊下を歩く。
その廊下の奥に扉が見える。
そこが執行室なのだとわかった。
それがわかってもなお私の心に感情は芽生えない。
私の心はひたすら代わり映えなく、停止していた。
執行官は私の後ろにピタリとつき、そのまま歩を進める。
私もその歩調に倣って歩き、扉へと向かう。
執行官には殺意もなければ、憎しみもない。
それどころか私に対する一切の関心がないようだった。
ただ事務的に歩みを続けている。
ただ機械的に私を奥の部屋へと送っている。
そこには何の感情も存在しない。
執行官は私と同じように心が無であった。
そのことにどこか親近感さえも湧いてしまった。
ふと気づく。私は瀬戸際になっても先程から他所事ばかりに目がいっている。
私はこれから行われる自分の出来事にまるで関心を持っていない。
まるで自分のことを他人のことのように傍観していた。
私は恐れから現実逃避のためにそんなことをしているのだろうか。
自らの心を観察する。
けれどやはりそこに恐怖はない。
そしてこれから自らに行われることもはっきりと自覚している。
けれど私の心は何一つ動いていない。
やがて扉が開かれる。
執行官に促され私はその部屋に入る。
その部屋は私の心のように何もない四角形の部屋だった。
********************
「執行」
その合図とともに、私は目隠しと手錠をされる。
何も見えない、暗闇だった。
けれど私の心に恐怖は生まれない。
何も心が揺れ動かない。
ただポツリと「ああ、自分は死ぬのだな」
という実感だけが湧いて出てきた。
やがてカーテンが開かれる微かな音がした。
続いて執行官に背中を押される感触がする。
私は何も抵抗せず、歩を進める。
私の心はその時、不思議なことにとても穏やかだった。
まるでこれから処刑が行われることがないかのような平穏な空気が流れていた。
辺りは寒くもなく暑くもなく、ちょうど良い温度であった。
私は立ち止まり、その穏やかで停滞した時間を過ごした。
それがどれだけの長さだったろうか。
私にはとても長い時間のように感じられた。
まるで私だけがこの世界に一人だけになったかのような、
どこか全能感にあふれた感覚だった。
私は足を縛られ、そのまま執行官が立ち去っていく気配を感じる。
そこで初めて私が今まで一人でなかったことに気がついた。
私はそのまま恍惚としてしばらくその場に立ち続けていた。
そして
ーー首に縄がかけられたーー
瞬間私は全身が破裂するほどの恐怖を感じた。
全身の筋肉は引きちぎれるほどに緊張し、
全身の体温は汗が吹き出るほどに上昇した。
今まで停止していた生きようとする機能が、
暴れ出すように活動を始めた。
私は体を芋虫のようによじり、
首にかけられた縄に触れようとする。
けれど腕には手錠がかけられ、
寸分とも動かすことができない。
私は叫び声をあげ助けを求めようとする。
けれど声がかすれ、
うめき声一つあげることができない。
ーー私の心は後悔で満ちていたーー
私が殺した相手の顔が浮かぶ。
私を捕まえた警官の顔が浮かぶ。
私を育てた家族の顔が浮かぶ。
けれどみんな、誰も彼もが私を責める。
お前は死ぬべきだ。
お前は生きるべきでない。
お前はこの世にいるべきでない。
私は心のなかで叫び続けた。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
何故こうなった。何故間違った。何故私はここにいる。
何もわからない。何も見えない。何も聞こえない。私は今どこにいる。
ーー何故私は死ななければならないのだーー
やがて床がパカリと開く。
縛られた足がフワリと浮く。
私の意識はそこで途切れた。