陽月恋伽
ぱしゃり、と手桶の水を頭から被る。まだ春先の夜は寒く、水も冷たい。けれど、少女は身を震わせることなく、古びた井戸から新しい水を汲み上げ手桶に移す。月が、ほんのりと優しい光を夜空に放っていた。
少女は慣れ切った様子で、手桶に溜まった水を持ち上げる。その表情は凛として、冴え冴えとした夜気に溶け込むようであった。
「……どうして、だろう」
少女から滴る冷水が、石畳の上に拡がってゆく。困惑の色がにじみ出る声音とは裏腹に、か細い指は井戸の釣瓶へと伸び、手桶に水を汲みだしている。
「……私の、どこがいいって、言っていたっけ、あの子」
ぱしゃり、と再び水音が鳴った。呟く少女の脳裏に、夕刻の出来事が浮かび上がる。
『物静かで、どこかミステリアスなところですよ! 芹香先輩っ!』
興奮した様子の、小柄な少女の姿と可愛らしく高い声がはっきりと甦る。数時間前のことなので、忘れる方が難しかった。
「……別に、根暗なだけじゃないかしら……?」
眉根を寄せつつ、また水を被る。水垢離、と呼ばれるこの儀式には、心を静かに落ち着ける作用がある。研ぎ澄まされてゆく感覚の中、芹香の脳裏にまた別の言葉が過ぎってゆく。
『他にも、凛とした佇まいとか、芯の強そうな瞳とか、長くて綺麗な髪とか、すらっとしたスタイルと運動神経とかっ! 色々、ありますけれど……』
ふーっ、と長い息を吐き、手桶に新たな水を汲む。
「……古い家に生まれて、人より厳しめに躾られた、それだけのことよ」
再び頭上へ振りかぶった手桶が、芹香の両手からすっぽ抜ける。あっ、と口を開ける芹香の頭の中で、最大の衝撃を伴った言葉が弾けた。
『だからっ……そのっ……私と、付き合ってくださいっ!』
ガランガラン、と手桶が石畳の上を転がり、大きな音を立てた。しばらく芹香は呆然と、そのままの姿勢で固まっていた。
「……どうして、そうなったの」
過去へ向けて、言いたいことを言う。だがそれは、既に過ぎ去った時間の追憶である。今ここに、彼女はいない。だから芹香の言葉は、誰にも届かずに消えてゆく。
「人生で初めて受けた告白が、まさか、女の子からだなんて……」
手桶を上げた姿勢のままの両腕が、そのまま頭の脇へと降りる。自然と頭を抱えたまま、芹香はじっと身じろぎひとつせずにいた。
「くわあ」
鴉の泣き声と、羽根を羽ばたかせる音が芹香の背後から聞こえてくる。ぎぎ、とゆっくり首を動かす芹香の視界に、転がった手桶の上に止まる三本足の鴉が映る。
「八咫烏……どうしよう? 私、あの子に何て言えば、いいんだろ……?」
赤い眼をした鴉と、芹香の大きな瞳が見つめ合う。首を傾げるような仕草をしながら、鴉はじっと黙ったままであった。
「……そうね。こんな私といても、あの子にとって良いことは、何もないわ。それに、女の子同士なんですもの。やっぱり、断るべき、ね」
芹香は納得をした様子で、毛づくろいを始めた鴉に向けてうんうんとうなずいて見せる。鴉の態度を勝手に解釈した、それは脳内変換、ともいえる現象だった。
「明日、ちゃんと断るわ。しばらくすれば、あの子の熱も冷めるでしょう。それで、解決ね」
うんうん、と自分に言い聞かせるように言いながら、芹香は立ち上がる。ぽたぽたと、浴衣のような衣服から水滴が流れてゆく。
「くわあ」
「ええ、水垢離は仕舞いよ。さあ、お仕事、始めましょう、八咫烏」
ひと鳴きした鴉に答え、芹香は井戸に背を向けて歩き出す。中天にある少し欠けた月が、ほのかに輝きつつ一人と一匹を見下ろしている。しっかりとした足取りで、芹香が向かうのは鳥居を門とする本殿。ここは、山の上に建つ神社の一角であった。
次の日の、夜半である。井戸の前には、昨日と同じく白い浴衣を身に付けた芹香の姿があった。冴え冴えとした月の光は変わらないが、芹香の表情はどこかぼんやりとしたものになっていた。
「……どうしたら、いいんだろう」
手桶に汲んだ水を、頭から被る。今日も、水垢離である。芹香の黒く長い髪が垂れて、水気を吸った浴衣にべたりと張り付く。冷たい夜気の中で、芹香は何度も水を浴び続けた。
「……言い出せなかった」
呟く芹香の顔には、どこかほっとしたような色が浮かんでいる。誰かに指摘をされれば、猛然と違うと言うことになるだろう。しかし、夜更けの境内には芹香の姿だけである。
『芹香先輩っ! お昼、一緒に食べませんか?』
昼間のことを、思い返す。告白を受けて以来、いつ断りの返事を切り出そうかと思考を曇らせていた時のことだった。渡りに船、とばかりに芹香はうなずき、二人して中庭の隅の一角へと向かったのだ。
『うわあ! 先輩のお弁当、すっごく手が込んでますね! 手作りですか?』
目をキラキラとさせて、彼女が言う。
『……別に、普通よ。家にあったものを、詰めてきただけ。一応、手作りと言えなくもないけれど……貴女のお弁当は、随分とカラフルね、月上さん?』
隣で小柄な彼女が拡げるランチボックスには、色彩が溢れていた。緑、黄色、赤の三色と、うっすらとピンク色にアルミの銀色までもが映えている。己の弁当箱の、煮しめたおかずの色とは大違いである。やはり、住む世界が違うのだ。奇妙な落胆を覚える芹香の目の前で、彼女の箸が動く。
『でも、先輩の方が味があって、素敵だと思います! んむんむ、昆布に、お魚ですか。美味しいですっ!』
「勝手に箸をつけるなんて……貴女じゃなければ、許していないわよ、めぐみ」
ぱしゃり、と水音がして、芹香の手は宙空にある箸を摘まむように動く。
『……月上さん』
『めぐみって、呼んでください。そしたら、私のお弁当、食べさせてあげますから』
冗談めかして言っためぐみに、芹香は何も返すことが出来なかった。けれど、めぐみは自分の箸で、芹香の口へプチトマトを運んでくれた。熟していて柔らかく、酸味の中に程よい甘みのある味は、すぐに咽喉奥へと流れていってしまった。
『あっ、先輩……これって、間接キス、ですよね? ちょっと、恥ずかしい、かもです』
「……あれだけ勢いよく迫ってくるわりに、変なところで照れるのね、めぐみは」
俯いた芹香の口角が、わずかに吊り上がる。しかし次の瞬間には、口元は引き締められばしゃりと被った水が滴り落ちてゆく。
『……先輩、昨日の話、覚えて、ますか? 覚えてますよね? ああ、どうしよう。先輩、どう思ってますか? 私のこと……変な子だ、とか、頭おかしいんじゃないの、とか、き、気持ち悪い、とか』
『思っていないわ、そんなことは』
くしゃり、とめぐみの膝でスカートが皺を作る。咄嗟に出た芹香の言葉に、嘘はなかった。
『ほ、本当ですか?』
『ええ。ただ、返事は、もう少し待ってもらいたいの。月上さんがどう、という訳ではなくって、私の問題が』
『はいっ! 芹香先輩が、私のことをちゃんと真面目に考えてくれて、それだけでも嬉しいですっ!』
「だから、待てます、か……」
しばしの間、水音は止まっていた。のろのろと、釣瓶を引き上げようとする芹香だったが、頭の中いっぱいに浮かぶめぐみの笑顔に力が抜ける。どぼん、と水の入った釣瓶が井戸の中へと落ちてゆく。
「本当に、どうしたらいいんだろう」
手桶を手にして呟く芹香の耳に、ばさりと羽音が聞こえた。
「くわあ」
「八咫烏……半端な態度は、余計にめぐみを傷つける。それは、解っているわよ。でも……」
古井戸の陰から現れた三本足の鴉が、芹香の肩へと止まる。黒い嘴が、こつん、と芹香のこめかみを突いた。すると、芹香の脳裏に文字のような絵のような、不思議なものが浮かび上がる。
「貴方の、眷属からの情報ね……月上めぐみ、十六歳。二年に上がったばかりで、クラスの人気者。明るくって、小さくて可愛くて、成績は……まあまあといったところね。見た目は少しスリムに見えるけれど、脱いだら……って、そんな下世話なことを調べてなんて、頼んでいないわよ」
半開きの横目で、芹香は鴉を睨み付ける。失礼しました、とばかりに鴉が再び芹香のこめかみを突っついた。
「……両親の離婚が原因で、一年前に、この町に引っ越して来た、か。道理で、私のことを怖がらない訳ね。何も知らないんだもの。漸く、解ったわ」
芹香の通う高校は、エスカレーター式だ。小、中、高とほぼ、同じ顔触れが揃う。めぐみは、そこへやってきた外部の人間だった。だから、何も知らないのだ。
「くわあ」
「耳元で鳴かないで、八咫烏。解っているから。明日……全部終わらせるから」
決意を秘めた顔になって、芹香は言った。鴉が、芹香の頬に羽毛を擦りよせてくる。
「……別に、悲しくはないわよ。私を知った上で、めぐみがどうするかなんて……もう解っているもの」
月夜の境内に響く芹香の声音には、微かな寂寥の想いが込められていた。それは、芹香自身にも解らないほどの、微かなものだった。
翌日、放課後の中庭へめぐみを呼び出した。大事な話がある、とメッセージを打つ指が、携帯電話の上で震えてしまっていた。それでも事をやりおおせたのは、慣れ、であるのかも知れない。想い耽りつつ、芹香は中庭の一本の古木の裏で待つ。
伝説の木、と呼ばれる場所である。太く大きな樹木の胴には、古びた注連縄が巻かれている。意味深で不気味に見える飾り物に、誰かが悪戯心を起こしたのだろうか。その木には、あまり性質のよくない噂がまとわりついていた。
そんな場所へ、呼びつけたのだ。めぐみからは、日直の仕事が終わったらすぐに行きます、という返答があった。出席簿を担任へ提出して、そこから中庭へ出るのは、五分程度だろうか。六限目を特例的に休講した芹香にとって、充分すぎるほどに時間はあった。
「先輩ー、芹香先輩ー!」
校舎から、息を切らせてめぐみが駆けてくる。恐らくは、校内を全力疾走でもしたのだろう。予定よりも、二分は早かった。
「こっちよ、月上さん」
古木の陰から顔を出し、芹香はめぐみへ呼びかける。芹香の顔を見つけた瞬間、めぐみが笑顔を咲かせた。
「芹香先輩!」
古木の根をまたぎながら、めぐみが駆け寄ってくる。僅かな時間だが、出来れば永遠に続いて欲しい。徐々に近づくめぐみの笑顔に、芹香は益体も無いことを考えた。だが、時間の流れは残酷である。ほどなくして、めぐみが古木の裏へ回り込み、芹香の前で足を止めた。
「芹香……先輩? どうしたんです、その恰好?」
大きな目をまん丸に開き、めぐみが問いかけてくる。きゅ、と芹香の胸に、初めて見るめぐみの表情が軽い痛みを齎した。
「これは、巫女装束よ。見たこと無いかしら」
言って芹香は、めぐみに自分の服装を見せつけるように身を回す。白い和装に深紅の袴。右手にあるのは鈴のついた榊の枝だ。神社の中ならともかく、放課後の学校でこんな格好をしているところはコスプレ趣味を拗らせたようにしか見えないだろう。自嘲気味に、芹香は微笑んだ。
「漫画やアニメでなら、見たことありますけど……実物は、初めてです。良く、似合ってますけど、どうしてそんな恰好してるんです、先輩?」
無垢な瞳で見つめられ、小首を傾げられる。そんな姿も愛らしい、と場違いな感想を抱きつつ、芹香は口を開く。
「それは……私が、霊能力者だからなの。コスプレとかじゃなくって、本物なの。天と地の気を和合させて、穢れを祓うために着ているのよ」
「霊、能力者……先輩、が? ほ、本当、ですか?」
「……必要が無ければ、私も学校でこんな格好はしていないわ。あからさまに、浮いてしまうもの。でも、思っていたより、薄い反応ね、月上さん」
「ちょっと、びっくりしたけど……すっごく似合ってますから、見惚れちゃってました」
てへへ、と崩れた笑みを浮かべ、めぐみが言う。
「見惚れて、って……貴女、怖がったり、馬鹿にしたり、しないの?」
今度は、芹香が唖然となる番だった。はい、とめぐみが元気よくうなずく。
「だって、芹香先輩ですもん。どんな格好だって、どんな秘密だって、全部全部、受け容れられますよ。だって、大好きな人ですから!」
最高の笑顔で、めぐみが宣言する。があん、と頭を殴られたような衝撃が、芹香を襲う。今日のこの日まで、こんなふうに言ってくれた人はいなかった。両親でさえ、幼い頃に見切りをつけたというのに。
「めぐみ……っ!」
目の奥から、熱いものがこみ上げかけた時、芹香の眼にあるものが映る。傍らの古木から、黒い靄のようなものがめぐみへ振りかかろうとする、その様が。一足飛びに、芹香はめぐみの小柄な身体を抱き締めた。
「せっ、先輩っ!?」
戸惑う声を上げるめぐみの身体を強く抱き寄せ、芹香は口の中で祝詞を唱える。
「……祓え給え、清め給え」
ぽん、と優しくめぐみの背を叩くと、黒い靄がめぐみの身体から抜け出して古木へと還ってゆく。
「今のは……悪意、ね。心無い噂に穢されて、邪霊が宿り始めている、といったところかしら……大丈夫、めぐみ?」
視線を下ろすと、めぐみが安らいだ表情で芹香の胸元に埋まっていた。
「あぁ……先輩ぃ……何だか、良い匂い、します」
「……この木の浄化をするつもりだったから、香を焚きしめてきたのよ。不快でなければ、良かったわ。もう、離れていいわよ?」
めぐみの呼吸が、巫女服を伝って芹香の肌を熱くする。気恥ずかしさに身を離そうとする芹香だったが、めぐみのほっそりとした手が背中に回され離すことが出来なくなる。
「も少し、このままで……」
「……うん」
うなずいて、芹香は改めてめぐみの背中に手を回す。華奢で柔らかな感触と、うっすらとした花の香りが漂ってくる。高鳴る鼓動が、胸の奥から奥へ、少しずつ伝わってゆく。
「先輩……だいすき、です」
胸の中で囁く声は、どこまでも甘やかで。芹香は軽く目を閉じて、暖かな感触に暫し浸り続けた。
「それで、先輩。お話って、何だったんですか?」
古木の根に並んで座り、手を絡ませためぐみが聞いてくる。
「話? ええっと……」
「大事な話がある、って呼び出したの、先輩ですよね?」
蕩けかかっていた芹香の頭が、めぐみの問いに覚醒する。めぐみを呼び出したのは、別れ話をする為だった。忘れていた目的に、芹香は苦い笑みを浮かべる。
「めぐみ、よく聞いて。私のしていることは、決してファッションとかままごとでは無いの。めぐみには信じられないことかも知れないけれど、この世に霊は本当にいるし、それらは時折悪い影響を齎すこともあるの。私の側にいる、ということは、だからとても危険なことなの。だから……」
「だから、先輩は他の人たちに怖がられていたんですね。噂話からも、遠ざけられるくらいに」
屈託のない笑顔で言うめぐみに、芹香は息を呑んだ。
「……知っていたの?」
「はい。先輩のこと好きになって、一年の時から、ずっと追いかけてましたから。ある程度のことは、耳に入ってました。近づくとやばいよって、何人にも言われました」
「……それなら」
「それでも、近くにいたいんです。これは、私の意思ですから。私がどんな酷い目に遭っても、先輩は気にしなくって大丈夫です」
ぎゅっと、めぐみが芹香の腰にしがみつく。恐る恐る髪に伸ばした芹香の指を、自然にめぐみが受け入れる。
「酷い目になんて、遭わせないわ。一緒にいても……遠くへ、行っても」
「じゃあ、ずっと一緒ですね! 私、先輩と離れる気なんてありませんから!」
眩しい笑顔で、上目遣いに見つめてくれる。それだけでも、芹香の心には言い様の無いくらいの熱がこみ上げてくる。
「ずっと、守るわ。だから、側にいて、めぐみ……」
「はい、先輩……」
めぐみの目が、そっと閉じられる。愛しい顔が、少しずつ、近づいてくる。芹香もそっと目を閉じようとして、そしてめぐみの額を指で軽く押さえた。
「……先輩?」
不思議そうなめぐみの顔が、鼻先で止まる。吐息のくすぐったさに、芹香はくすりと笑う。
「……芹香。二人きりのときは、そう呼んでくれる?」
少しの間、沈黙が流れる。どきん、どきんと早鐘を打つ心臓の音が、うるさく感じられる。ほんの、少しの間を置いて、
「芹香……さん」
ぼん、と音を立てるかのように、めぐみの顔が真っ赤に染まる。こみ上げる愛おしさに、我慢が効かなくなった。
「良く出来ました」
目を閉じて、そっと顔を近づける。差し込んだ夕陽に照らされて、二つの影が一つになった。やがて古木の影に覆われ隠れるまで、二人はずっとそうしていた。
「くわあ」
古木の上空を、鴉がひと鳴きして飛びまわる。流麗な輪を描くその姿は、地上の二人を祝福しているかのようにも見えた。
後日、中庭の古木について一つの噂話が流れる。誠心をもって愛し合う二人が互いに愛を告白しあうと、永遠に幸せに成れる、というものである。真偽は定かではないが、その噂は古木のこれまでの不吉な噂に綺麗に上書きされたという。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。