第二話
比叡山から吹きおろしてくる風が、柳の枝を大きく揺らしています。
学校を出て、さらさら流れる白川沿いに歩くと、あっという間にいつも使っている地下鉄の駅です。
けれども今日は、三条通を渡ってさらに北へと進みます。
今日こそは、平安神宮へ行くんや。
加奈子さんは固い決意で、マフラーをかたく結びなおしました。
あの子もこの子も、常世様に夢中です。
クラスの優等生も、違う学校へ進んだ地元の友達も、新京極で見かけたちょっと不良っぽい子もそうでした。
常世様は真っ白くて、小指ほどの大きさで、落花生のような形をしていました。
みんなはそれを化粧ポーチに入れたりペンケースに入れたり、ネックレスに加工して首から提げたりしています。
そしてまた、願い事が叶ったという話も聞こえてくるのです。
曰く、あの弱小吹奏楽部が全国大会に出られたんは常世様のおかげらしいで。
曰く、先輩のお姉ちゃんが国立大に受からはったらしいわ。
曰く、友達の友達やねんけどな、大阪でスカウトされてテレビ出てるらしいで。
私の願い事もきっと叶えてもらうんや。加奈子さんはふんふんと鼻息を荒くしました。
深緑の水をたたえた疏水を通り過ぎ、ビルほど高い大鳥居を見上げると、平安神宮です。
二階建ての大門をくぐると、加奈子さんの視界がぱっと開けました。
どこまでも真っ青に抜ける空、グラウンドのように広がる目にまぶしい白砂。
周りをぐるりと取り囲むのは、青銅色の大屋根に朱塗りの柱。
十円玉の絵柄でおなじみの平等院鳳凰堂をもっともっと横に伸ばしたら、こんな感じになるのかもしれません。
こんなに寒いのに半そで姿の外人さんが、ぴゃあぴゃあ言いながら記念撮影をしています。
平安時代のテーマパークみたいやな、と加奈子さんは思いました。
目指す橘の木は拝殿の前に、すぐに見つかりました。
こんな季節だと言うのに青々としてしているのが、加奈子さんには不思議でした。
幾重にも小山のように繁った葉の間には、黄金色の実の姿も見えます。
本当にここに、常世様がいるのでしょうか。
木の周りには垣根で囲われ、さらにその外にはロープが張り巡らせてあります。
加奈子さんは出来る限り近づいて、木の隅々にまで目を凝らします。
一周、二周。写真を撮っていた老夫婦が怪訝な顔で加奈子さんを眺めます。
三周、四周。逆回りしてきたセーラー服の女の子とぶつかりました。
真剣な表情をして、彼女も常世様を探しているのでしょうか。
陽はどんどん傾き、松並木の向こうに沈もうとしています。風が加奈子さんの真っ白い頬を叩きます。
それでも、加奈子さんは諦めることができません。
キクチくんの、手品のような袱紗さばき。雑音ひとつ立てない、無駄のない茶筅の扱い。
引き柄杓のときの、艶っぽくさえみえる指の動き。まっすぐにお点前と向き合う、あの横顔。
あの日の姿が、スライドショーのように次々と思いだされます。
けれども、そろそろ時間切れです。もう一周して見つからなかったら、今日は帰ろう。
そう思ったとき、ごうっという音がして今日いちばんの大風が吹きました。
振るい落とされたのか、加奈子さんのスニーカーのすぐ横をころころと橘の実が転がります。
ふと拾い上げた目線の先に。枝に弱々しげにすがりつく、雪のような小玉をようやく見つけたのでした。
加奈子さんはそれをレースのハンカチに包むと、両の掌で丁寧に家まで持って帰りました。
そして、こう願い事をしたのです。
「文京中のキクチくんと両想いになれますように」
学習机のうえに置かれた常世様が、ぶるっと震えたように見えたのは、気のせいだったのでしょうか。