6
俺は、立ったまま目を強く閉じていた。
車の前に飛び出した猫と同じだ。事態に対処する術を持たず、ただ硬直するだけの無力さ。
だが、爆発はいくら待っても起きなかった。
実はもう爆発していて、俺はすでに死んでいるのか。それとも、極度の緊張で時間の体感が遅くなっているのか
いや、おそらくそのどちらでもない。直感がそう言っている。俺に全く変化はなく、実際に爆発は起きていない。
ひんやりとした空気が肌に触れた。
俺は目を開けた。
そこは、氷の世界。
辺りを冷気が漂っていた。
アスファルトに白く霜がおりて、俺たちを囲んでいたうんこも、氷漬けになっていた。
その現象の中心に、優陽がいた。
「フウーッ、フーッ……」
まっすぐ正面を見据えて、息を整えていた。
冷気はますます強くなり、彼女の前を浮遊していたドローンが、ついにプロペラを凍らせて落ちた。
『……何が起きた』
おそらくプリウスのスピーカーからの声。
それから間もなく、俺たちの頭上にうんこが放られた。
「――ッ!!」
優陽がそれを鋭く睨みつけた。
ガチガチガヂィ!
うんこは一瞬で凍って、ドサリと落下した。
「どういうことだ……」
俺は言った。どう認識すればいい、この事実を。
「…………」
優陽はちらりと俺を一瞥したが、何も言わない。
「『超能力』……ってやつか」
美良野が言った。
そうとしか言いようがない。
だが、
「確かに、いまさら何が起きても不思議じゃないとは言ったが……」
俺は、この冷気の中、じっとり汗ばんで言った。
「……唐突すぎるだろ。普通の高校生女子が、なんの前触れもなしに。――――あっ!!」
思い当たった。ついさっき、美良野の部屋で、
――優陽、どうした?
――……ちょっと、トイレ借りていい?
――え゛っ。
――大丈夫、大きい方じゃないから。
そうは言いながらも、ただならぬ様子でトイレに行った優陽……。
まさか……。お前……。
自分のうんこを爆発させたくないあまり、超能力を発現させてしまったっていうのか。
「う、ああああアッ!」
優陽が叫んだ。
すると、冷気が一段と鋭くなって、路面の凍結が広がった。
少し離れた場所から、ガゴッ! という音が聞こえてきた。
『おい、ちゃんと運転しろ!』
『ス、スリップしたんです』
『路面が凍ってるぞ……』
『はっ? 夏だろ今……』
プリウス車内のやりとりらしかった。
その声が聞こえてきた方向へ、優陽は歩いていく。
俺と美良野も続いた。
優陽がふと、振り返って俺たちに言った。
「これは……違うの」
……なにが違うっていうんだ。うんこを凍らせるために超能力が発現した以外の何物でもないだろ……と思ったが俺は黙っていた。
優陽は何やら一瞬、難しい顔をしたかと思うと、
「ええと、あれだ。去年、アナと雪の女王を借りて観て……。そしたら、これができるようになった……」
「そ、そうか……」
俺は言った。
「オレの中でアナ雪にうんこのイメージがついた」
と残念そうに美良野が言った。
路地を曲がると、そこに、プリウスがあった。
ブロック塀にガッツリぶつかっていた。
「誰も乗ってない」
車内を見て俺は言った。
「逃げたか……。来るのが遅かったな。つってもこの路面じゃ、ゆっくり歩くしかなかったしな」
美良野が言った。
「迂闊に走れないのはあいつらも同じだ。まだ近くにいるんじゃないか」
と、俺は周囲を見回した。
そのとき、
バブリブリ!
ブリブリブリブリ!! ビババババババ! ボスン! ドォン! ポォン! ボボボ!!
という、決して決めつけはよくないが、おそらく脱糞の音が聞こえてきた。
俺たちはその方向に、なるべく急いで歩いた。
「うッ!?」
角を曲がった途端、予想はしていたが、ひどい光景があった。
山盛りになった大量のうんこが、道を塞いでいた。
そして、民家の塀に腰掛ける、黒いラバースーツとフルフェイスヘルメットの者たち。
その一人が、息を荒くしながら言った。
「ボンバーチーム、最後の大技……『ブラウン・ケミストリー』……」
「……ブラウン・ケミストリー……茶色の化学反応、だと……」
そう言いながら俺は腕時計を見た。脱糞の音から、もうとっくに三十秒は過ぎている。じきに一分経過だ。
「気づいたようだな」
と彼は言った。
「察しの通り、このうんこは三十秒では爆発しない。うんこは、他のうんこと混ぜることで、爆発までのリミット、そして威力が掛け算的に膨れ上がる……」
「なに……」
不審そうに俺が言うと、
「この事実を知ってるのは、多分世界中で俺たちだけだろう。三十秒で爆発するうんこを、わざわざ他のと混ぜるなんて意味のわからないことは普通しない。俺たちは、うんこを武器として捉えていたから気づけたのさ」
うんこを武器として捉えていたとしても混ぜる意味が依然わからなかったが、そのような些事にこだわっている場合じゃない。
うんこの威力が掛け算される……。それも真偽不明だが、どちらにせよこの量だ。爆発すればただ事じゃ済まないぞ。
「凍らせる」
優陽が前に進み出た。
辺りの冷気が急に強くなって、次の瞬間、巨大うんこがビシリと凍結した。
「やった……!」
俺は駆け寄ったが、優陽は緊迫した表情で言った。
「まだ、芯まで冷やせてない」
なに……。質量が多すぎるっていうのか。
「優陽、どうすればいい!」
美良野が言った。
「集中……。もっと集中できれば……」
その返答に、美良野は真剣な顔をして、
「集中、集中か。ガム……エナジードリンク……コーヒー……カロリーメイト……ソイジョイ……チュッパチャップス……」
おそらく彼の中での集中アイテムを挙げはじめた。
「ウィダーインゼリー……まるごとバナナ……ちがう、ちがう…………ストレッチ……ジョギング……ヨガ……指圧……。指圧! これだッ!」
美良野は大声をあげた。
「優陽、集中できるツボを押すぜぇーーーッ!」
ババッ、と駆け寄ると、親指で彼女の首の後ろをグッとやった。
「!!」
くすぐったかったのか、優陽は目を見開いて、びくりと体を反らせた。
巨大うんこの氷がバリリと割れて激しく飛び散った。集中が切れたのだろう。
「なっ……? まさか、オレ、余計なことした!?」
美良野がそう言ったが、優陽は無理して笑顔を作って首を横に振った。
そしていいやつすぎる優陽は、美良野に責任を感じてほしくなかったのか、それまで以上の気合でうんこを再度凍らせはじめた。
挙げ句のはてには、
「もうちょっと……、もうちょっとで芯まで届く……!」
と言いながら、表面の氷を割ってうんこに手を突っ込んだ。俺は本気で彼女を尊敬した。
「ほう。だが、黙って見ている俺たちじゃないぜ」
ボンバーチームが塀から降りて襲いかかってきた。
俺はそのうちの一人と揉み合いになった。
「爆発まであと何秒か知らないが、お前たちも逃げないとまずいんじゃないのか」
俺は言った。
「ご心配なく。リミットは把握している。お前たちこそ逃げていいんだぜ。正義感の強いあの子は無理だろうけどな」
敵は優陽の方を顎で示した。
「ぐううっ……」
優陽に敵の一人が取りついて、さらにもう一人が引っ張って、うんこから引き剥がした。それを振りほどこうとするのを、さらにもう一人が参戦して抑え込んだ。
「があああ……!」
優陽が叫ぶ。
「こいつ、すごい力だ!」
「男三人かかってこれかよ!」
「やばい、押されてる!」
もう少しで優陽が打ち勝ちそうなところを、敵の最後の一人も混ざってどうにか封じ込めた。
「うううっ、ぐぐぐぐ」
手足の一本一本それぞれに敵が取りつく形で、身動きがとれず、優陽は唸り声をあげた。氷の能力は、こんな状態では集中できず使えないのだろう。ただ自分の無力を呪うように、目の前のうんこを睨んでいた。
美良野……、美良野は何をやってるんだ?
あいつが一人でも相手をすれば、優陽と敵の力の拮抗が崩れて状況が打開できるのに。
「美良野ォ!」
俺は敵と組み合いながら声を上げた。
返事はなかった。
どうにか敵の隙を探りながら後ろを振り向いた。
そこに美良野がいた。
なぜか直立不動だった。
「美良――」
「すまん」
美良野は深刻な顔で言った。
「少しでも動いたら、うんこが漏れそうなんだ」
うそだろ。
「…………。いや、いい。漏らせ! 優陽さえ自由になればこっちのもんだ! お前の漏らしたうんこも優陽が凍らせてくれる!」
俺はそう言って優陽を見た。彼女はこくりと頷いた。
すると美良野は、神妙な面持ちで言った。
「じつは、もう漏れてるんだ。二十秒ぐらい前に」
「お、お前……」
なんで嘘つくんだよ、小学生じゃあるまいに、と思ったが、何がなんでもうんこを隠したい気持ちはローソンを爆破した俺も同じだから責められない。優陽も、仕方ないと言うように頷いていた。
「すまん、オレはここまでだ。役に立てなくて、本当に……」
美良野は、残り十秒を意識してなのか、ものすごい早口で語りだした。
「ちくしょう。優陽みたいな女子がこんなに頑張ってるのによ。オレってばなんなんだ、なにが指圧だ、ソイジョイだ、ポカリスエットだ、アクエリアスだ、邪魔ばっかして」
ポカリスエットとアクエリアスは初耳だったが早口すぎて俺は突っ込めない。
「うんこ漏らしても、そのときに申告しとけばまだ色々と手段はあったのによ。うんこ投げるとか。でも躊躇しちまった。公衆の面前でうんこ投げるの躊躇しちまった! みんなの命がかかってるのに! うおあああっ! オレは自分が情けねえよ! 変わりてえ! 変わりてえよ! 死んで生まれ変わる? そんなの嫌だ! 今変わりてえよオレは!! こんなショボいまま終わるなんて嫌なんだよオオーーーーーーーッ!!!!!」
カッ!!!!
チュドヮォォォォオオン!!!
美良野の姿は、自身のうんこ爆発の中に消えた。