マリアンヌの思い出③
前回の投稿より、だいぶ間を空けてしまいました。
本日続けて次話の「エピローグ」まで投稿します。
「マリーは感受性が強い子だから『加護縫い』ができるかもしれないわね。」
「かごぬい?」
10歳になった私はバーバラ様から刺繍の指導を受けて、かれこれ2年経っていました。
バーバラ様は私の祖母に『加護縫い』について話し始めました。
以下はバーバラ様が語った内容をまとめたものです。
『加護縫い』とは古い時代に大切に思う人の無事などを祈って縫われた、云わば「お守り」のようなものが始まりだと言われている。
まだ国が安定せず争い事が絶えなかった時代に、自分たちの意志など関係なく徴兵させられ戦地に送り込まれる男性たちへその家族や地域の人、恋人などが手ぬぐいや下着など戦地で身につけるものにひと針ひと針丁寧に、安全と武運を祈って縫って用意したことが始まりと言われている。
その人たちの中に相手を強く想い願った気持ちが己のルーニーに交じり、針や糸を通してそのルーニーが流れ込んだ縫い取りが相手に加護をもたらしたという。
加護縫いの方法は「こうだ!」と教えることができず、その感覚を掴めた者だけが会得できる『才能』の一つであると言ってもよいほどだ。
そのような困難な技術であるために継承する…いや、できる者も少ない。
今や歴史の中のお伽噺のようになっている。
バーバラ様ご自身が針を通し糸へとルーニーが移行する感覚を感じたのは15歳の時だと言います。
趣味であり特技でもあった刺繍を戦地に赴く父の無事を祈り、ハンカチに刺して渡したそうです。
フラフラになった娘から渡されたハンカチから、父母が彼女のルーニーを感じ取ったことで加護縫いの才能があることが判明したようです。
彼女のルーニーの強さは一般的な強さなので、他人に渡すものには加護縫いをすることはないそうです。
ただ1度だけ現国王のご結婚のお祝いにと王妃様のベールに心からの『祝福』の気持ちを刺繍に込めたのだそうです。
やはりルーニーを流し込むわけですから体力の消耗は避けられません。
身を削っても構わない…と相手を想えるほどの気持ちがなければ加護縫いには至らないわけです。
私の祖母はルーニーだけでなく体も弱い私に加護縫いをさせることを快く思いませんでした。
でも私は試したかったのです。
いつまでも『体は弱く何も取りえもないお荷物のマリアンヌ』でいたくなかったからです。
刺繍の基礎を学び終え、反対する祖母を説き伏せてバーバラ様から加護縫いの訓練を受け始めたのが13歳の時でした。
感覚を口頭や身振り手振りで伝えることは非常に困難で、何度も何度も加護縫いの練習をしましたが刺繍の技術が上達するだけで加護縫いには至りませんでした。
14歳の冬に王都で流行り病が広がり、私が療養する別荘地にも出入りの業者などから感染するものが出てしまいました。
私は家のものから病が治まるまでは外に出してもらえないという、監禁に近い生活を強いられました。
そんな中、祖母が病にかかり高熱を出しました。
10年近く両親よりも祖夫母と過ごしてきた私は祖母の容体が心配でなりませんでしたが、家人は私を祖母の部屋の近くにさえ寄らせない徹底ぶりでした。
優しく気品にあふれ歳を取ってもなお美しさの残る祖母を尊敬し憧れ、心のよりどころにしていた私は自分にできること…涙をぬぐいながら「祖母を助けて!」と手ぬぐいにランデスター教のシンボルマークを刺繍したのです。
仕上がったと同時に気を失っていたようで、倒れている姿を見つけた侍女が騒ぐ声で目が覚めました。
侍女に刺繍した手ぬぐいを渡して祖母の額に置いて欲しいと頼みました。
その侍女は祖母の看病に付いている侍女に持っていってくれ、私の気持ちを大切に思ってくれたようで直ぐに濡らした手拭いを祖母の額に当ててくれたようです。
侍女から聞いた話なのですが、祖母の額に置いた手ぬぐいが暫く眩く光り、それが収まると不思議なことに祖母の熱は引いていったと言います。
その5日後にはベッドに体を起こせるようになった祖母に会うことができました。
この流行り病で直接命を落とすようなことにはなりませんでしたが、大病で体力を失ったせいか祖母はこのあと徐々に命の灯が弱くなっていき1年半後にこの世を去りました。
祖母を失いぽっかりと穴が空いたような日々を過ごしていたある日、祖父にそろそろ王都へと戻らないかと言われ、同じく傷心の祖父と共に祖母との思い出が色濃いこの地を離れることにしました。
王都に戻ったのは私が16歳の誕生日を迎える少し前のことです。
次話は本日17時投稿です。




