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光岡さん!声をかけられたのは部活の帰りだった。あまりに自分に向けられない爽やかなトーンに空耳だろうと足を速めるとざっという音が耳を切った。同時に目の前に息を切らせた彼女の顔がアップになる。
光岡さんて何部だっけ。いつもこのぐらいに帰るの?衒いのない表情で彼女はわたしをじっと見つめる。ん、放送部。わたしシナリオ担当だから勝手に書いて採択任せるだけだし。いつもこの位だよ。突然啼きだした蝉に私の声はかき消される。こんな機会殆どないのに。私は負けじと声を張ろうとする。
シナリオ書いてるんだ、すごい!私の焦燥を知ってか知らずか彼女は声を弾ませる。すごいね、一度読んでみたい。どんな内容なの?ミステリーとか、、恋愛とかっ?好奇心を滲ませて彼女はわたしに向き直る。
「ん、いろいろ。」
「いろいろって、もう。教えてよ!」
機会があればね。二学期、わたしの作品でドラマできるから。できたら見せるよ。そう言ってぐい、と口角を持ち上げると、そうかぁ、楽しみだねと彼女は答えた。硬かった口角が自然に緩むのを感じた。
そうだ、アイス食べない?もー夏まっさかりだよね。あついあつい。そういって彼女はさっさと傍らのコンビニに入る。慌ててわたしも続く。ショーケースの前で彼女の目は泳ぐ。私はごくシンプルなバニラのバーを選ぶ。会計をすませドアから出ようとするとまだ彼女は迷っていた。自然と微笑がこぼれる。バーの周りの銀紙を一気に剥いで口に入れると夏の味がした。見上げると夕焼け近い空は群青で、深くうつくしい。わたしはすっと息をする。ほんとはこうやって帰り道に友達と買い食いをすること、憧れてた。まだかな、と思い、くるりと向き直る。どすん。
よりによってぶつかった先が悪かった。分かりやすいスーツを着た、安っぽい、やくざ。その胸にべったりと付いている、バニラ。すっと血の気がひく。ごめんなさい、あの、悪気はなくて・・・ティッシュを取り出そうと鞄に手を突っ込む。
「舐めろ」
え、と眉を上げた私に彼は冷静な表情で、繰り返す。
「舐めろ。お前の舌で綺麗にしろよ」
耳を疑った。でも、表情を見る限り彼は本気だ。おそるおそる、顔をスーツに近づける。その時彼女がコンビニから出てきた。手に持っているのは西瓜バーだ。なんであれだけ悩んであんなものを。こんな時なのになぜか一瞬、微笑ましい気持ちになる。だけど裏腹に彼女は固まった。
同時に世界が弾けた。私は地面に寝そべっていた。腰に痛みを覚える。ゆがむ視界に彼女がうつった。たすけて。目で伝えると彼女はおびえた色をうかべてゆっくりと後ずさる。深い絶望を感じて私は意識をうしなった。
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光岡さん、ねえ大丈夫?起きて。うすく声が聞こえる。彼女だろうか。目を開けると同じクラスの富岡さんが頬を叩いていた。
ひどいんだよ。美香はあのとき逃げたんだ。富岡さんはギャラリーを集めて喧伝する。わたしはしおらしく被害者に徹する。うわ、すごい傷。大丈夫?与えられることばはどれもやわらかで優しい。わたしの心情を察してか、皆あたたかい言葉をかけてくれる。わたしはただおとなしく、何も悪くない無垢な被害者を演じていればよかった。なんて真綿のような。毛布のような。風邪をひいたときに先回りして世話を焼く母に無心にすがるような。
──たまには穴倉の私だって、いい気分に浸ってもいいじゃないか。
富岡さんはわたしに美香を無視するように強いた。いったん崩れた女王の居場所はない。あからさまに悪意を放つひとこそ居なくとも、お早う、と彼女が声をかけてもしらっと誰も返さない。眉を下げ彼女は着席する。
わたしは静かに彼女を観察する。休み時間、彼女はひとりで本を読んでいる。日中も本を読みながらひとりでお弁当を食べている。ホームルームが終わればそそくさと荷物をまとめて帰り、あくる日はおはようとも言わず席に着く。そして本を広げる。淡々と過ごす彼女はそれでもやはり辛そうだった。発光量が落ちている、と思った。
図書室で、一度だけ彼女と眼が合った。さっと逸らされた。綺麗な切れ長の眼には隈ができていた。