第一幕 喧嘩する作品
『前提を疑え』
神谷の言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
つまりは、常識が通用しない事態を想定しろ、ということだ。もちろん常識が変化するものだとは理解している。たとえば赤信号を見たら人間が立ち止るのは常識だが、牛は赤いマントを見た途端突進する。
でも、人間にも赤信号を無視する者はいる。青いマントに激昂する牛だって、世界のどこかにいるかもしれない。……神谷は、おれがそういったアブノーマルを思い描けない人間だと考えているのだろうか。
確かに常識を外れたことは考えたくない。それだけで手間である。コモンセンスが存在するおかげで、人は会話でき、モノを見られ、物事の先行きや裏側を推理することができるはずだ。
だが、理由を考えれば頷ける。特殊な牛の品種ならば、青が嫌いだとも認めよう。赤信号を無視する人間だって、理由を考えればおれにもありがちな『非常識』なのだ――
そう、誰にも迷惑がかからなければいいのだ。
入学式から二週間経った土曜日の放課後。
おれは部活を見て回ろうと考えていた。探偵学園において、部活の勧誘はさほど活発でなく、ポスターの掲示くらいだ。ゆえに一年生は仮入部を利用し、自ら『部活選び』を敢行しなければならない。
入部希望はとりあえず文化部。書道部、華道部、写真部、美術部、生物部……文化部できょう見学できるのはこのくらいだ。
探偵学園の一階、食堂を歩いていた。校舎の仕組みは非常に複雑で、一階には食堂や職員室、昇降口が集まっている。二階はすべて教室で、学年はフロアではなく三つの建物で分けられている。その上の三、四階は授業用の教室だ。食堂は二年校舎の一階、おれは部活を見る前に自販機で野菜ジュースでも買おうと思っていた。
自販機からばたばたと転げ落ちてきたパックを取り出す。下を向いてずれた眼鏡を直し、階段のほうへ体の向きを変えると、また眼鏡がずれてしまう。
「……こんな時間、こんなところで何をしているんだ?」
きょうは午後の日程がない土曜日。部活ならもう開始している時間である。すなわち、食堂に用事のある者はさほど多くないのだ。
しかし、神谷リサはその食堂の一席に堂々と座り、本を読んでいた。テーブルにはアーモンドチョコレートの箱が置かれており、時折それを口に放り投げていた。
神谷は読書を中断し、おれのほうへ顔を上げる。野菜ジュースは一旦我慢だ。
「やあ、今成。放課後の時間を使って本を読んでいたのさ」
「それは見ればわかる。……『本を読んでいる』という前提を疑うなら、お前はさしずめ本を開いて、飛んでくるハエでも捕まえるトラップにでもしていたのか?」
「今成、面白いことを言うようになったね。元々面白かったけど」
お褒めに預かり光栄。
神谷はまた本に視線を戻し、チョコレートをひとつつまんでぼりぼりと食べ始めた。
「まあ、落ち着いて本を読みたいと思ったに過ぎないよ。図書室だと、下校時刻まで時間を忘れて読書に熱中しちゃうから、食堂にしているの」
「……とりあえず、会話をするなら本を閉じて、そのチョコレートを食べるのも中断してくれ」
神谷は露骨に嫌そうな顔をした。
「他人の幸福の邪魔をするとは信じがたい非常識だね」
…………。
言い返せなかったのが悔しい。
その複雑な表情のおれを見て、名探偵は得意げに口角を上げる。
「非常識にはとことん弱いようね」
……確かに、いまの神谷はおれに不快を与えているのみで、神谷自身は幸福だ。対等な関係であるなら、不満を嚙み殺すのはおれのほうだ。
「まあ、いいわ。ところで、そもそも今成は何をしているの?」
「これから部活の見学をしようと思っていたんだ。文化部をぐるりとひとまわり……きょう見られるのは書道部、華道部、写真部、美術部、生物部」
「へえ……」神谷はぴん、とおれのほうに指を立てた。「面白そう、ついて行こうかな」
さっさと神谷を振り切ろうかと思ったが、神谷がすぐに荷物をまとめはじめたものだから立ち去るのも忍びなかった。
神谷と共に食堂を出る。すると、食堂を出てすぐにある多目的室から、荒っぽい声が漏れてくる。部屋の扉が開いていて、その中からふたり、遠慮のない男の言い争う声が聴こえてきた。
「お前らのところは壁しか使わないだろう?」
「それはお互い同じ条件だ!」
「そんなわけあるか、こっちの保管は大変なんだよ! 先に使わせろ!」
神谷とおれはつい、立ち聞きしてしまう。
言い争うふたりに仲裁が入らないと思っていたら、激しい声の奥から戸惑ったような声が上がる。
「あの、先輩。シェアして使うって手は――」
「ありえない!」
片方が仲裁を遮る。もうひとりも同調し、
「そうだ、ジャンルが違いすぎる!」
仲裁には失敗し、またいくつか言い合うと、『勝手にしろ!』と片方が切り上げ、ずかずかとひとりが出てきて三年校舎のほうへと去った。そのあとを『先輩、ちょっと』と焦って叫びながら、仲裁をしていた人を含む何人かが続いていく。そのうちに喧嘩のもうひとりと、残りの数人が決まり悪そうにおれたちの前を通って歩いて行った。
神谷と顔を見合わせる。神谷は無表情で無機質に言う。
「ここでクイズです」
おれは眉をひそめて言う。
「どういうつもりだ、神谷」
「いま言い合っていたふたりはそれぞれ何部の何者でしょう?」
なるほど、推理ね。神谷はもうふたりが誰か解っているのか。
「そうだな……とりあえず、ここは二年生の校舎だが、ふたりは『先輩』と呼ばれていたから、三年生だと見るのが自然か。仲裁もなかなか入らなかったしな。
そして、展示について言い争っていたようだから、どこかの文化部の部長だ」
言い終えて神谷を伺うと、にっと笑った顔があった。
「いつだったかのヤマ勘とは大違い。成長著しいね、今成」
ヤマ勘呼ばわりされて腹が立ち、少しは深くものを考える癖をつけたのだ。
「でも、模範解答には足りない。ふたりは美術部と書道部の部長よ」
「……どうしてだ? 根拠を説明してくれ」
神谷の説明を省いて結論を先に言う癖には、少しばかり慣れきた。
「展示の準備をする可能性があるのは、きょう活動中の書道部、華道部、写真部、美術部、生物部。そのうち、さっきの口喧嘩から聞こえた『壁しか使わない』展示をする部は、書道部、写真部、美術部と考えられるでしょ? それも、『お互い同じ条件』というからには、両方とも壁しか使わない部だってこと」
「なるほどな……書道部、写真部、美術部に絞られたのか」
確かに、華道部の生け花を壁にかけるなど無謀だし、生物部だって水槽やケージを壁にかけることはできない。
「さらに、『保管が大変』と片方が言った。一番保管が大変なのは華道部か、ある意味生物部ではあるけれど、壁を使う条件から却下。よって、保管で考えるなら美術部が一番難しいでしょうね。場所を取るし、日焼けしたり折れたりするのは怖いもの。なにより、展示するのなら額縁に入れてあるのだから、割れたら大変」
……なるほど。
「で、片方は美術部の部長と確定。ついでに、『勝手にしろ』と叫んだ方ね。
もう一方は書道部。『ジャンルが違いすぎる』理由で同じ部屋を使われることを却下されていたもの……写真より習字のほうが絵画と似合わないでしょ?」
まただ。また完璧に筋が通っている。おそるおそる部屋を覗くと、机や椅子が整列された様子もないため、壁だけで展示ができるということ。部屋の隅には、いくらか書道の作品が丁寧に置かれている。
神谷の推理は大正解だったのだ。
「……神谷、お前も部活巡り、するのか?」
「うん、今成と一緒に見に行くよ」
「美術部と書道部はやめておくか?」
「……いいや、面白いから行ってみようよ」
まさか首を突っ込むつもりか? まったく、神谷の『面白い』は計り知れない。だとしたら、常識人のおれがセーブをしないといけない。
おれたちは美術室のある三年校舎に向かった。