第四幕 見逃せない彼氏
名簿にあった島井の出席番号の下駄箱を開いた。
しかし、島井は部活動でもやっているのか、下駄箱には上履きが残されている。外履きが残っていないならば、島井が学校にいない、ということなのか? 気になるところではあるが、昼休みの昇降口に長居をすると浮いてしまうから、とりあえず例の箱を下駄箱に入れておいた。
念のため、神谷がいないことを確認して、A組の教室を訪れる。合同授業で知り合っていた生徒に話しかけてみる。
「なあ、島井はいるか?」
「うん? マジメくんならいないぜ」
そんなあだ名がつくのか……
いや、それよりも!
「い、いないのか?」
「おう。先週の末からインフルエンザか何かで出席停止になっているぜ」
「そ、そうなのか……」
「何かマジメくんに用事か? 流石、今成も堅物だ」
「うるさい、頭が固くて悪かったな……まあ、いないならいいや。じゃあな」
A組をあとにする。
まずい、これでは推理が破綻する――島井が先週から休んでいるとすれば、きょうわざわざチョコレートを持って来ることはないはずだ。
「どうすればいいんだ――?」
この日の午後の授業は、まったく頭に入らなかった。
放課後。
重い気分で昇降口まで下りてくる。たまたま人は少なかった。
その少ない人の流れの中で、立ち止まっている奴がいればそれ相応に目立つ。しかもそいつが、にやにやとおれを睨んでいるとすれば、すぐ気がつく。さらには、そいつから逃げようと思っていたのならなおさら――
「か、神谷!」
「やあ、今成。待ってたよ、一緒に帰ろう? そうそう、それと。わたし、こういうの見逃せないのよねえ……」
…………。
負け戦であった。
気まずい帰り道、おれは渋々尋ねる。
「で、おれのどこがおかしかった?」
「あら、わたし何も言っていないわよ」
口先こそそう言っているが、不自然に上がった口角と細くなった目じりを見れば、怒りのこもった皮肉だとすぐに解る。自分の立場の不利をいたく感じる。
「まあ、どちらにせよ今成は口が軽いのね……いや、不注意と言うべきかしら」神谷は前を向きながらも、おれを明確に非難する。「あのね、不用意な発言が多すぎるの。いまだって、自分から『どこがおかしかった?』なんて――呆れるわね、そのくせ探偵に憧れているなんて」
返す言葉もない。
神谷は饒舌に続ける。
「最初からだいたい今成の仕業とは思っていたんだけれどね、朝に鞄を預けた状況証拠からして。でも、確信したのは昼休み」
「チョコレートを探していたときか」
「そう、そのとき。そのときに、わたしは『チョコレートを探している』とだけ伝えた。すると、『大切なものなら探すぞ?』とか『誰かが気を遣って拾ってくれているかもしれないぞ』とか、今成にしてはすごく良心的な返事をしたわね」
「ひどいな、まるでおれが疑心暗鬼な人間みたいじゃないか」
「うるさいわね、事実そうじゃない」
いつもなら口論するのも一興なのに、おのれ。
「わたしが見逃すはずがないわ、今成ならせいぜい『ちゃんとしていないからなくすんだ』とか『そんなものを必死に探しているのか?』とか、文句かお説教かが来るはずよ」
「……やっぱりひどいな」
「だって、わたし『バレンタインの』チョコレートなんて一言も言っていないもの」
「……げ」
記憶を掘り返す。まもなく思い出した――神谷はあのとき『チョコレートをなくしてね』としか言っていないではないか。
しかし、素直に認めるのも癪だから言い返す。神谷が一方的におれを疑っていた可能性だってあるではないか、それならおれの心も少しは救われる。
「だ、だが、バレンタインなんだからそのくらいの気は遣う」
「そりゃ、遣うかもしれないけど、相手はわたしよ? 四六時中大好物のチョコレートを持ち歩く、『非常識』で偏食のわたしよ?」
…………。
お手上げ。確かに、冷静なおれなら『そんなもの自分で探せ』とつっけんどんに突き放していたに違いない。むしろ、そう言いたい。絶対に言ってやる。
こうして神谷に理詰めにされると、まだまだ言い返せそうなのに負けを認めてしまう。まったく、いままで神谷と対峙してきた些細な事件の犯人たちは、よほどの根性を持っていたのかもしれない。おれのような衝動的な犯行など、簡単にボロを出して最後には見抜かれてしまうのだ。
そして、最後の追い打ちだ。
「ほらね、今成が盗んだとしか思えない。推理とはこういうものなのよ」
沈黙するしかないまま一本道を歩き、コンビニも通り過ぎたころ。
「それで? どうして盗んだのさ。謝るタイミングもあっただろうに」
「ああ、それは……」
ここをうまく誤魔化さないと、神谷からの信用は地に落ちる。いや、盗んだ時点で地に落ちているのだから、地獄に堕ちるまではないように答えなくてはならない。要するに、観念して答えるべきだ。
「どうしてかと言われれば、正直魔が差したとしか……その、すまん。おれが悪いんだ、謝るにも謝れなくなっていた」
「はあ、どうせ噓ね? もう、台無し」
「信じてくれよ……悪かったから、反省しているんだ」
もはや笑いすら込み上げてくる。ここまでものごとを諦観したことはない、これ以上なく気が滅入ると笑ってしまうものなのか。
当然それを見れば、神谷も余計に不機嫌になる。
「まったく、本当に笑って誤魔化すなんてね……」
「へ?」
話が見えない。実際、心の奥底にはお茶を濁そうという気があって、こうして笑ってしまっているのかもしれない。けれども、『本当に』と言うからには、神谷はおれが笑うことを予想していたようではないか。神谷がおれの行動や癖を見てきた時間は長いけれど、何か引っかかる。
すると、神谷は少しだけ晴れた顔で、おれに向きなおる。
「あら、意外と最後の一線は守ってくれていたようね」
「何のことだ? おれは盗んだと認めたじゃないか」
まだ返すには至っていないが。何と言って返せばいいのかわからないから、神谷が言うまではおれの鞄の中にあるだろうと思っていた。神谷は『返せ』と遠回しに言っているのだろうか?
神谷はまた表情を歪ませる。
「あ、やっぱり読んだのね」
「いやいや、何を?」
「……ややこしいわね、読んでいないじゃない」
「ひょっとして、中のカードのことか?」
「……はあ」
突然、神谷は意気消沈してうなだれる。
これを見ればおれにもわかる、カードが一番肝心なのだから、おれに見られたとなればかなり恥ずかしいだろう。神谷がその恥ずかしさに沈みそうならば、おれはおれで罪悪感に押し潰されそうだ。
言葉を失っていると、神谷は表情を見せないまま訊く。
「読んだなら、何か感じるところくらいあるでしょ? そりゃ、名前は伏せたけどさ……」
「あ、ああ……!」おれは何とかして声を絞り、何を言うか考える。咄嗟に出て来た言葉は、何の気も利いていないことだった。「そ、その、島井のことなら知っているぞ。いい奴じゃないか。委員長だし」
…………。
沈黙。まずい、余計に神谷の心をえぐってしまったか?
「ねえ、本当に読んだのよね? 適当に読まれたなら、それはそれで、すごく腹が立つのだけれど」
「よ、読んだぞ」なぜかおれは、強く弁明してしまう。「おれなりにちゃんと推理して、島井にまで至ったんだぞ。だから、島井の下駄箱にでもこっそり入れておけば穏便に済まされないかな、と……すまん、冷静に考えたら最低な理屈だ」
「うん、本当に最低」
……はあ。実際に本人から言われたら傷つく。
「今成は最低ね。盗んでしかも中のカードまで読んでおいて、送り先を勘違いしていたなんて。島井とかいう委員長に本当に渡っていたらわたしは卒倒したわ」
「は……?」
いま、神谷は島井のことをよく知らないような言い回しをしなかったか?
やはり、最後のおれの不安は的中だ。神谷は島井にチョコレートを贈ろうなんて考えていない――ならば一体、誰なんだ?
「あのさ、今成。あんたどう血迷ってイニシャルを読み違えたの? 苗字が島井なら、Sが先に来るはずじゃない」
「……うん?」明らかに違和感を覚えた。「もう一度言ってくれないか?」
「だから、島井ならSが先――」
「神谷、お前自分のイニシャルを言え!」
「はあ? あんたわたしを怒らせた自覚ある?」
「あるから訊いているんだ!」
「はあ……K.R.じゃないの? でなければ、K.L.かしら?」
……ああ、そんな。
おれはすっかり忘れていた。神谷は英語が大嫌いで大の苦手だということを。
神谷はイニシャルの使い方を正反対に記憶している。アルファベットこそ間違っていないが、K.R.では『リサ』と『神谷』が反対である。
「おい、神谷。見事に逆だ」
「はあ?」
「お前は、R.K.なの! ファーストネームとファミリーネームって知らないのか? 日本人が名前をイニシャルに置き換えるなら、下の名前がファーストネーム! つまり先に下の名前のアルファベットを置くんだよ、憶えておけ!」
「あ、ああ……そうなの?」
突然おれが騒ぎ出したものだからきょとんとしている。
まったく、おれが積み上げた推理は前提から間違っていた、ということか。神谷の訓示の通り、前提も疑ったつもりでいたが、もっと手前のところにある前提が違っていたなんて! 気を回してきたすべてが水の泡……
しかし、イニシャルが反対だと判れば、また違った名前が考えられる。そう、苗字がIで名前がSだから――
あれ? S.I.だって?
カードの文面をもう一度鑑みると、相手は神谷と親しく、神谷にしてみれば真面目な人柄のようだ。そして、さっきから噛み合わない会話は……
「なあ、神谷。お前が渡そうとしていたのは、ひょっとして――」
おれ?
自分を指差す。
今成はI、定はSである。
…………。
神谷は思い切り睨んできた。
ああ、そうだったのか――
「あはは、はは……」
笑いが止まらない。諦めたのではない、呆れたのでもない、嬉しいのとも――少しだけずれている。なぜか笑えるのだ。
「な、二度まで笑って誤魔化すか」
「い、いや……そんなつもりはないんだけどな。でも、やっぱり面白いんだよ。こんなこと、一年前は予想していたかなって」
「……していないでしょうね」
「そうだ、お前は非常識だったからな。本を読んで、口にチョコレートをくわえ、さらには人と話そうとする。印象は最悪だな」
「うるさいわね、あんただって頭が固いのよ」
「いまでも非常識だ。イニシャルの使い方も知らない」
「だからって、笑うことはないじゃない。このくらいの勘違い、あると思うけど」
…………。
ひと通り言い争うと、すっきりした。
世の中には、探偵がいる。国家犯罪や巧妙な殺人事件を見抜くような探偵は、物語の中にしか存在しない。けれど、もう少し小さく、身近な存在の探偵は間違いなくいる。おれはそれを志し、この『探偵学園』に入学した。
たとえば、浮気調査や尾行を請け負う叔父のような本物の探偵がいる。
そして、誰も気にしないだけで確かに日常に散らばっている、ほんの些細な謎を解いてくれる、神谷のような親愛なる名探偵がいる――
おれは思い切り皮肉に吐き捨てた。
「悪かったな、どうしてもそういうのが見逃せないんだ」
「いつも重箱の隅ばっかりつついて、非常識ってものよ」




