第三幕 焦りだした彼氏
午前中はおれの窃盗を隠し通すことができた。
盗んでしまったうえに、謝る機をも逃したおれにとっての一番の選択肢はひとつ。神谷の用意したチョコレート、その送り先であるI.S.を見つけ出すのだ。
それに、こうすればおれが盗んだことは煙に巻くことができるし、放課後になってI.S.の下駄箱にチョコレートの箱を入れておけば、神谷の目的も達成できる。ついでに、I.S.なる人物を知れば、おれの気分もすっきりするだろう。
おれは昼食を購買のパンで済ませ、作業に取り掛かる。落ち着いて考えられる環境として、寒い季節誰もいやしない屋上に行き、件の箱を前に胡坐をかく。
二月の風で頭が冷えて、ふと思った。
おれは何かと真剣に神谷のチョコレートの行き先を考えている。ひょっとすると、落ち着き払って過ごそうとしていたバレンタインなのに、おれはかなりそわそわした男のひとりになってしまっているのか? そもそも自分の事でもないのにここまで晴れない気分で考えを巡らせて、おれは神谷に気があるのだろうか?
…………。
妙なことを考えてしまった、いまの発想はなかったことにしよう。第一、本当に気があるのならずばりと宣言しているだろう、おれはそういうつもりでいる。
さて、気を取り直して考えてみよう。
「とりあえず、男だよな? その方向の気はない……はず」
どうせ誰もいないので、声を出したほうが思考はスムーズだ。
「学生で絞り込む前に、その以外の可能性は……」
――おそらくないだろう。
家族用なら、わざわざここに持って来ることはない。教職員へ渡すことも、学校として禁止されている。いや、教員に渡すところは神谷のみならずどんな女子生徒であっても想像したくない。
校外の他人に渡す可能性――帰りにふらっと誰かに渡すことも考えられる。しかし、だとすれば『I.S.』などと名を伏せる必要はあるだろうか? 誰かに覗かれることを警戒して、イニシャルで名前を示したとするならば、校外の人物にそれをする必要はなさそうだ。まあ、現におれには覗かれてしまっているのだが。
さあ、可能性が減って、残るは学生。その絞り込みには相当な苦労が必要になる。何せ全校生徒を対象としなければならない。
もちろん、対象が多いのだから絞込みも楽ではある。学校に持ってきていることから、受験で自由登校になっている三年生の可能性は少ないと思われる。いや、そもそも文体からして、敬語を使わない相手――すなわち同級生と考えるのが自然ではないか。
相手は一年生だ!
となれば、一年生のI.S.をリストアップするのみ。下の名前が『い』ではじまる男子はそうそう多くはないだろうから、かなり前進できる。おれはすぐさま、教室の後ろに四月以来未だ貼られている学年の名簿をチェックしに階段を下りた。
しかし。
盗みをはたらいたとなればそれ相応の苦悩もある。
「あら、今成じゃない。何を慌てているの?」
どんぴしゃり、神谷リサである。廊下はあと少し、いまはA組の正面、隣のB組にさえ行ければいいというのに!
「いや、慌てているように見えたか? ほら、ちょっとトイレに」
背後を指差す。トイレがあることは嘘ではない、その向こうに階段があるのだ。
ふうん、と神谷は中途半端に相槌を打つ。その表情はどこか、影が差しているように見えた。ひょっとするとチョコレートを紛失して焦っているのかもしれない、疑いを抱かれないためにも差し障りのない世間話をしておこう。
「神谷こそどうした? この時間、いつも食堂で食後の読書でもしているんじゃないのか?」
「ううん……ものをなくしたのよ」
「何を?」何を無くしたか知っているぶん、誤魔化せるか際どいが、懐に入っていく覚悟も必要だ。「よほど大切なものなら、手伝うぞ?」
「いいよ、ひとりで探せる」それから、神谷は少し声を小さくした。「チョコレートをなくしてね」
「ははあ……」我ながら自然に返すことができた。「まあ、噂にはなっていないし、誰かが気を遣って拾ってくれているかもしれないぞ」
「そうだといいわね……まさか、今成は盗ったりしないわよね」
「しないだろ」
「まあ、そうよね。じゃあ、わたしはひとりで探すことにするわ」
そう残して、神谷は怪訝な顔をしながら去って行った。
よし、やり過ごせたぞ。たぶん、隠すことができた。
…………。
いや、いま謝ればよかったんじゃ……
「もう仕方がないよな、決めたんだから」
小さく誰にも聞こえないよう呟き、教室後ろの掲示板を見回す。上のほうにある検定試験の連絡を見るふりをしつつ、その下にある一年生の名簿を調べていく。やはり男子には『い』で始まる名前は多くはなく、苗字を調べさえすれば絞り込むのはさほど難しくはなかった。
見つかったのは三人だ。
ひとりは、A組、島井郁郎。隣のクラスだが、流石はA組、学業優秀という評判をしばしば聞く。そういえば、おれは文化祭の実行委員で一緒になった学級委員長だ。
次に、B組、園田一太。こいつは同じクラスだからそれなりに知っている。テニス部員で、運動神経の良さから女子からの人気はおそらくクラスの中で一番である。
最後に、D組、実松樹。一年ではちょっとした有名人で、おれも顔と名前を知っている。というのも、昼休み、ときたま生徒指導部に呼び出しを食らっているからだ。
三人ならば、あとは簡単な仕事である。
さて、ここから絞り込んでいくには、再び文面からの推察が必要だ。一年生と考えられるところからここまで至ったのだから、相手の人間性や神谷との関連が重要になってくるのだろう。
まず想像がつくのは、相手が神谷とそれなりに親しいであろうこと。『あんた』とぶっきらぼうな呼び方をしているし、『出会ってから一年』という言い回しがある。まともに話したことのない相手への片思いではないと思ってよさそうだ。
続いて、ありがたいことに相手の特色がはっきりと示されている。『真面目すぎる』ようである。すぎる、というほど強調するのは神谷の発想とのギャップのせいだろうから、そこそこな常識人と考えて充分だ。
このふたつから絞り込めば、三人のうちふたりは脱落だ。
ひとり、うちのクラスの園田だ。園田と神谷が一緒にいるところは見たことがないから、親しいと見られる神谷と相手との関係性はないと思われる。悪いな、園田。
もうひとり、D組のトラブルメーカー実松だ。脱落の理由は明白、『真面目でない』からである。そもそも親しいかすら不明だからな、間違いない。
そうすると、残るA組島井はかなり可能性が高い。親しさの面では同じクラスだからそれなりだろうし、真面目の言葉はお似合いだ。両方の条件を満たしたとなれば、目立っておかしなところはない。昼休みも長くはない、おれの推理もこれで終わりにしよう。
しかし、なんとなく不安だ。考える時間はちゃんと取ったのだから、推理そのものには自信がある。しっかり前提を疑い、少しずつ可能性を排除していき、順を追って考えてきた。間違いはないはずだ。
…………。
いや、穿ちすぎになっては元も子もない、仕方がないな――




