解説 ミステリの読み方 その5
推理小説の世界では、「フェア」「アンフェア」という言葉がよく使われます。色々な意味を持つ用語ですが、大雑把に言うと、作者が読者に全ての情報を開示しているかどうか、ということになるでしょう。推理小説は多かれ少なかれ、読者と作者の知恵比べという側面を持ち合わせています。作者は様々な手段で読者を騙そうとするわけですが、何をしてもいいわけではありません。そこには、暗黙のルールがあるのです。
いくつか例を挙げてみましょう。まずタブーとされているのは、トリックの鍵を最後まで明かさない手法です。密室の小道具が室内にあったにもかかわらず、解決編まで全く言及がない場合などが、これに当たります。同様に、解決編でいきなり知らない人物が登場し、彼あるいは彼女が犯人という構成も、通常は「アンフェア」であるとされます。これに対して、動機はそれほど重視されません。『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』でも、動機は解決後に明らかになるということが多々見られるのは、このためです。
さて、ここまでは一見当たり前にみえるのですが、実は問題があります。登場人物の視点です。例えば探偵が主人公の一人称小説を考えてみましょう。一人称小説とは、一人称の主体が認識したことをまとめた物語です。すると、この話から得られる情報は、「一人称の主体が認識した限りで正しい」ということになります。三人称一視点でも同様で、情報は「固定された三人称の主体が認識した限りで正しい」のです。どれだけサイドの視点を増やしても同じことです。ここから、「一人称であれ三人称一視点であれ、情報は完璧にならない」ということが明らかになります。もし100%保証された情報が提供されるとすれば、神視点から与えられたものしかないでしょう。しかし神は犯人を知っているのですから、今度は捜査が不要になってしまいます。それでは推理小説になりません。
犯人が自首したということも、問題の解決には不十分です。なぜなら、犯人が誰かを庇って嘘の自白をしているかもしれないからです。このような「推理小説の探偵が100%保証された情報を得ることはない」という難点を、『後期クイーン的問題』と呼びます。エラリー・クイーンという作家(二人の作者の共同ペンネームです)が、後期の作品群で頻繁にこの問題を扱ったからです。日本でも、多くの推理小説作家がこの問題を論じています。
今回の神谷たちの推理は、情報の不足によって棚上げになっています。果たして誰が犯人であったのか……。まさに「神のみぞ知る」というわけです。
『ひらいたトランプ Cards on the Table』
⇒アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロシリーズ13番目の長編より。邦題、原題ともに今作と同じ。トランプゲームのブリッジが取り上げられており、ブリッジになじみのない日本では賛否両論となっている。
エルキュール・ポアロは、シャイタナ氏が開く、未だ摘発されていない殺人者を招待しているというパーティーに出席する。ところが、そのパーティでブリッジを興じたのち、シャイタナ氏が客間で刺殺されてしまう。探偵や警察官が多く招かれたパーティで起きた挑戦的な殺人――屋敷の中に犯人が残る中、ポアロはブリッジの成績表から犯人を推理していく……!




