第五幕 思いやりの手品
文化祭の空気は薄れ、中間テストへの緊張感が漂いはじめている。
骨折の件も静かに終わりを迎えつつあった。景山憐は数日で退院し、折れた脚を引きずりながらも松葉杖をついて登校。いまでは顔に残っていた絆創膏も取れ、痣も目立たなくなってきた。図らずも当事者となってしまったA組が生徒指導部にかけられた疑いも、景山の復帰により下火となり、平穏が訪れた。
そして、景山の関係者、時田あおいも無事に引っ越した。自分を捨てた景山の怪我について知ったとき、時田は何を思ったのだろうか?
昼休み、食堂を訪れた。
食券は先に買ってあるので、メニューを受け取る列の最後尾に向かう。そこに偶然、神谷と出くわす。
「おう、神谷」
「あら、今成」
どうやらこれから列に並ぶらしい。箸だけを乗せたお盆を持つ神谷を見て、ふと文化祭中にメイド服でふらふらとホールをやっていた神谷を思い出した。つい、本人の目の前で失笑してしまう。
「何よ、突然笑い出して」
「いいや、文化祭中のお前を思い出してな。似合っていたぞ、メイド服」
少しからかうと、神谷はふいと踵を返してしまう。すたすたと歩き出すので、おれもお盆と箸を持ってあとに続く。しかし、神谷はすぐに立ち止まった。
突然歩くのをやめたものだから背中にぶつかりそうになり、抗議する。
「おいおい、急に止まるな。それに、早くしないと列が長くなるぞ」
「わたし……バカだ」
「え?」
神谷の視線の先には、自販機のブースがある。その中にひとつ、教職員御用達であるコーヒーを売る自販機がある。ミルクやクリームの量を調節できるものだ。そこには、ふたりの男子生徒がいる。
右の生徒。
「しまった! ミルクのボタン押してない」
左の生徒。
「別に入れなくてもいいだろ。高校生にもなって、ブラックで飲めないのか?」
再び右の生徒。
「よくない! 苦いじゃないか」
再び左の生徒。
「ならコーヒーなんて飲むなよ。俺も買うんだ、早くしろ」
三度右の生徒。
「うるさいなあ、味の好みなんてそれぞれだろう? ほら、いいぞ。お前も買えよ」
他愛もない男子生徒ふたりの問答だ。なのに、神谷はぽかんと口を開け、顔を青くする。しかも腕や膝には力が入って震えている。
「わたし……噓、こんなことも……」
「おい、神谷? どうした、熱でもあるのか?」
過剰ともいえる自信家の神谷が自虐的な発言を繰り返すなど、何らかの異常に違いない。おれは熱がないか額に手を当ててみるが、
「わわ、バカ! 何するのよ変態!」
手を振り払われる。至って健康なようだ。
「おいおい、おれとお前自身、どちらを馬鹿と言いたいんだ? いまさっき自分のことをバカだって――」
「そうよ、バカなのよ!」
神谷はそうきつく叫ぶと、急にお盆と箸を乱暴に戻して駆けだした。ただならぬ様子に、おれも焦って後を追った。
神谷は三年校舎二階を見て、一年校舎屋上へ回ると、さらに何か気がついたようにまた走り出す。さんざん振り回された結果辿り着いたのは、施錠されているはずの三年校舎屋上だった。
順路から何となく勘づいた。捜していた人物は、
「おや、おふたりさん」
――朝川陽太先輩である。
話が本題に入る前に、疑問を口にする。
「三年校舎の屋上って、施錠されているはずじゃあ……」
「ピッキングもお手の物、ということかしら」疑問には朝川先輩本人ではなく、神谷が応じた。「まあ、邪魔者は入ってこないからいいわね、まさか誰もここに人がいるとは思わないもの」
ふっ、と朝川先輩は鼻で笑う。蔑みなどは感じない。ただ面白いものを見たかのように、満足そうな笑いだった。
そして、先日と同じく、空の遠くのほうを眺めながら語りはじめる。
「ピッキングして出てみたはいいけど、鍵を閉め忘れるとは失態だったね。見つかってしまったよ」
「誤魔化さないでください。わたしは見逃さない……屋上は専用の鍵で、内側からしか施錠できない」
「……ご名答」
ちらりと確認すると、ドアノブに施錠のためのパーツはなく、職員室で借りる鍵を使わなければ再び施錠できない仕組みの扉だった。要するに、朝川先輩は一度屋上に出たら侵入者を拒むつもりはなく、いまは話を逸らしただけ。
そんな誤魔化しを見逃さない神谷に、朝川先輩はきちんと向き直る。
「いやあ、時間稼ぎは上手くいったね」
…………?
神谷は押し黙り、肩を上下させながら息を静めようとしている。朝川先輩は笑顔を浮かべるばかりで付け足そうとはしない。神谷と朝川先輩、賢くて察しのいいふたりには、やはり余計な言葉は要らないようだ。
だが、おれはまだ理解が追いつかない。
「……時間稼ぎ?」
「そうだよ、時間稼ぎ」朝川先輩はにこやかに応じる。「時田さん、引っ越しは終わったでしょ?」
理解ができない。
でも、神谷はおれに配慮してはくれない。
「なぜ犯人を庇ったのですか?」
……犯人?
そうか、解りはじめたぞ。時田あおいが犯人で、時田が引っ越すまで犯人と解らないよう、朝川先輩が時間を稼いでいたのか。時田が引っ越してしまえばおれや神谷の推理は届くはずもなく、実際に引っかかって朝川先輩を犯人にしてしまった――
どうりで神谷が自虐的になるわけだ。
推理に、失敗したのだから。
「ようやく解ったようだね、今成」神谷が朝川先輩のほうを向いたまま、おれに話しかける。「わたしとしたことが……間違っていたなんて」
…………。
なんということだ、受験日に知り合ってから半年以上、これまで揺るぎない正確さを誇った神谷の推理が、とんだ見当違いだったとは。
神谷は歯を食いしばり、悔しそうに顔を歪めている。それに対して涼しげな朝川先輩を見ると、たまらない気持ちになった。神谷の正確な推理は、おれの中で叔父の頭脳と無意識のうちに重なり、憧れとなり目標になっていたのかもしれない。
おれは何とかして、神谷を正当化する糸口を模索した。
「で、でも……どうやって睡眠薬入りのカップを景山に届けようとしたんだ? 時田がコーヒーを淹れるとき、手品の応用ができる朝川先輩がいるとは限らなかったんだ、景山をピンポイントで狙える確証はどこにあった?」
「あったのよ、それが。砂糖と、ミルク」
…………?
どういうことだ? コーヒーシュガーに睡眠薬を混ぜていたのか? ……いや、それでは他の客が使いかねないから、問題は解決していない。だったら、ミルク……
「やっぱり、今成も解らなくなっていたね……さっき見たでしょう? 自販機の前で話している男子を」
「え? ああ、見たな」
「あれを見て思い出したの。あの日、わたしがコーヒーを出そうとしたとき、五つのカップのうちひとつだけ砂糖もミルクも入れていない、ブラックのコーヒーがあった」
……そうか。
「ようやく、おれにも解ったぞ。……そのただひとつのブラックのコーヒーが景山のものだと判れば、睡眠薬を確実に景山に飲ませることができる!」
「そういうこと。あおいちゃんは景山と付き合っていたとき、あるいはそれくらい親しかったとき、彼の好みがブラックだと知ったのでしょうね。五人の注文のうち、ひとつだけブラックのコーヒーがあったのなら、間違いなく景山のもの。だから、当然――」
「景山は自ら睡眠薬入りのコーヒーを飲む……!」
神谷は寂しそうに頷いた。
その様子に、おれの意識の奥から何かがこみ上げる。
「そんな! 五つのコーヒーの中にひとつ、たったひとつブラックがあったなら、どうして言ってくれなかったんだ! それさえ解れば、もし神谷が間違えてしまっても、おれがきっと気づいていた!」
「……だから、忘れていたの」神谷は目を逸らした。「コーヒーに混ぜた、ということばかり気にしてしまっていたから」
……無理もなかった。おれもコーヒーの『質』に関しては気にも留めなかったし、それを届ける神谷にとっても、注文なのだから当然の違いでしかない。手品を用いた、という神谷の最初の推理で苦言を呈さなかったおれも問題で、手品という一瞬の変化に神谷が戸惑わされていたのは解っていたのだ。
前提を疑うことが、できていなかったのだ。
「動機を教えてください。なぜこんなにも危ないことを?」
神谷が問うと、朝川先輩は腕を組む。
「動機? 可哀そうだったから、かな? ずっと、時田さんのことは気になっていたしね」
「そんな……!」
おれはつい声を漏らしてしまう。確かに、朝川先輩が時田に好意を寄せていたというのなら、以前朝川先輩が一年校舎にいたことも、時田と親しかったことも、それこそ睡眠薬の事件を隠したことも、すんなりと納得ができる。
でも、また手品のようにするりとかわされたように思えてならないのだ!
「朝川先輩! 景山はたまたま骨折で済みましたけど、もし打ち所が悪かったり、睡眠薬の量が多すぎたりしたら、死んでいたかもしれないんですよ? 時田を直接問い詰めることができないいま、朝川先輩が庇ったことは大きな問題です! どうやって責任を取るのですか?」
おれは必死で訴えた。叫んだ喉がひりひりと痛む。
しかし、朝川先輩は笑顔を絶やすことなく小首を傾げる。
「責任? それはキミたちが僕に対して持ち出せることかな?
そもそも、キミたちは何をしたい? 僕を捕まえて警察なり生徒指導部なりに突き出すのかな? 状況証拠しかないのに? ……僕を裁くのはキミたちではない、大きな話をすれば、司法が僕を裁くのさ。だから、警察官でも検察官でも裁判官でもないキミたちは、ただの推理マニアでしかない。
それに、状況証拠しかないと言ったよね? なら、実は真犯人だった僕が時田さんに罪を被せているだけとも考えられれば、キミたちが見たことも知ったこともない誰かが上手い方法で毒を盛ったとも考えられる。要するに、キミたちには何もできないよ」
…………。
おれにも神谷にも、言い返せなかった。
敗北感に苛まれながら、黙って帰り道を歩いた。
神谷の推理にも、おれのフォローにも、いずれ無理は来るだろうと考えてはいた。完璧でないことも認めていた。なのに、いざ綻びに直面すると耐えられない。
おれと神谷が大切にしてきた『論理性』を、手の届かないところにあるようで見逃していた『当たり前』に潰されてしまった。『当たり前』を疑ってこそ推理は成り立ってきたのだから、神谷のショックの大きさは計り知れないものだろう。
下を向く神谷の表情を窺う。ちゃんとは見えないが、泣く、悲しむ、というよりは苛立っているような感じだ。
「もう絶対に、ひとつたりとも見逃さないんだから……」
憎しみを込めたような呟きが漏れる。
まあ、神谷にはいい失敗だったのかもしれない。
大切なことは、考えることなのか、決着をつけることなのか――おれたちはそんなテーマにぶつかったのだと思う。高校生のおれたちにできるのは、ほんの些細なトラブルを推理し、結論をひとつ導き出すこと。そのあとのことも忘れてはならないのだ。
「なあ、神谷。この前見たあの三枚のトランプを使ったマジック……実はおれ、タネを知っているんだ。教えてやろうか?」
神谷はゆっくりと顔を上げた。それから目を閉じ、腕を組む。
「今成に教えてもらわなくたって結構よ。いまからわたしが推理で導き出してあげるから。……そうね、まず――」




