第一幕 見つけ出す手品
暑さもまだまだ残る九月の中旬。それでも夕方はぐっと気温が下がるようになり、涼しさを感じながら廊下に出た。午後五時、B組の文化祭実行委員に選ばれてしまったおれは、ここのところ帰宅が遅くなった。五時ならばまだ早く終わったほうだろう。
荷物をまとめ、階段を下りようとしたとき、チョコレートの香りが漂っているのに気づく。おれもこの匂いを嗅ぎ分けるのに慣れてしまったようだ。
「よう、神谷。こんな時間に何をしているんだ?」
踊り場に現れた神谷リサは、おれのいる上のフロアへ体の向きを変えたところだった。口にはチョコレートの塗られたビスケットをくわえており、返事ができずにあたふたしている。
慌てる神谷を上から眺めるのが気持ちよかったから、少しからかってみる。
「お前も委員で文化祭の準備をしていたのか? ……いや、そんなはずもないか」
やっとのことでビスケットを飲み込んだ神谷は、見上げながら眉をひそめた。
「どういう意味よ? ちゃんとした根拠があるの?」
「ああ……わざわざ行事を失敗させる実行委員を選ぶクラスはないってことさ。ましてエリートのA組さまだ」
神谷はさらに眉根を寄せた。そのまま不機嫌そうに階段を上っておれのそばまで来ると、
「いい皮肉ね、B組さんは言い慣れているみたい。……そうね、確かに忘れ物を取りに戻って来ただけだよ」
皮肉で返された。滑稽だから、もうひとつからかってみる。
「チョコレートでも忘れたか?」
すると、神谷はこちらをきつく睨みつけてくる。
「うるさいわね、そんなわけないでしょ」
それからは黙ってすたすたと歩いて行ってしまう。流石にすねてしまったらしい。
「ああ、悪い、悪かった。言いすぎたよ」
おれも神谷を追ってA組の教室へ向かった。
A組の教室には、ひとり女子生徒が荷物をまとめていた。
「あら、あおいちゃん」いち早く神谷が話しかける。「こんな時間にどうして教室に?」
「神谷、お前なあ」話しかけられた本人が答える前に、おれが理由を説明する。「時田は文化祭の実行委員だろう? 自分のクラスの委員も憶えていないのか?」
呆れるおれに、神谷は「あらそう」と適当に答え、忘れ物を捜しはじめた。当の時田あおいは苦笑している。時田はA組の文化祭実行委員、きょうもおれと同じ会議に出席していた。
思えば、神谷が友達といるところは見たことがなかったかもしれない。神谷と言えばひとり面白いもの見たさでそこらをうろうろしていたり、ひとり食堂で座席を占拠して本を読んでいたり、友達はチョコレートくらいだと思っていた。あと、おれも。
しばらく神谷を待っていると、突然、まさしく好青年といった感じの三年生がそっと教室に入ってきた。そのまま何も言わず、ごそごそと散らかった机を漁る神谷の背後に立つ。
「キミが捜しているのは、これかな?」
そう言って神谷の肩をつつき、神谷が顔を上げると、三年生はくるりと手を翻す。
そこには、赤い携帯電話が収まっていた。
「ああ! それです、わたしの携帯電話です。……ええと、ありがとうございます」
神谷が戸惑ったように礼を言うと、三年生は携帯電話を手渡しながら、輝かんばかりに爽やかな笑顔を見せる。
「いいえ、どういたしまして。たまたま通りがかったんだけど、携帯電話が床に転がっていたものだから、これは大変だと思ってね。職員室に届けようかとしていたところだったんだ」
好青年ぶりを振りまく先輩だが、何者なのか心当たりがない。神谷も知らないようだから、唯一平然としている時田にこっそり訊いてみる。
「なあ、あの人が誰か知っているのか?」
「うん。奇術同好会の会長、朝川陽太先輩だよ」
「奇術同好会? 聞いたことがない」
その話が聞こえたらしく、その朝川先輩がおれに話しかける。
「そりゃそうかもね、部員……じゃなくて会員か。奇術同好会の会員はぼくだけだもの」
なるほど、部活どころか同好会も自称にすぎないのか。知らないわけだ。
「よいしょ、と」朝川先輩は掛け声とともに荷物を担ぎ直す。「それじゃあ、またね。携帯は忘れないよう気をつけて」
神谷は苦笑して応えた。挨拶を済ますと、朝川先輩は教室を出て行ったが、ひょい、ともう一度顔を突き出して言い置く。
「そうだ、文化祭でぼくもステージに出て手品を披露するんだ。きょうのよしみで、ぜひ見に来てね」
「あ、はい! 時間が合えば必ず行きます」返事をしたのは時田だ。それからおれと神谷に付け足す。「朝川先輩、本当に上手なんだから。きっとびっくりするよ」
朝川先輩はお茶目ににっと歯を見せると、手を振って今度こそ去って行った。
朝川先輩が去ったのを確認し、ふと疑問を口にしてみる。
「でも、どうして一年A組の教室に通りがかったんだろう?」
「手品の練習か、クラスの準備か、何かしらで時間を潰していたんじゃない?」
答えたのは神谷だ。しかし、おれの疑問は「三年生がこの時間になぜ通りがかったのか」という点であって、時間よりも三年生が一年校舎にいる理由のほうが気がかりだ。練習なり準備なりを一年校舎でしていたのだろうか?
そんな些細な疑問がもやもやとしていたとき、神谷が荷物をまとめ終えた。
「さて。わたしは帰るよ、あおいちゃん。まだ残るの?」
「うん。クラスのほうの準備、ひとりでできるところはやろうと思って」
「まだ時間はあるから、あしたにすればいいのに」
「でも、最初で最後の文化祭だから」
「あ、そうか……」
何のことか解らず、つい首を傾げる。それに気づいた神谷が説明してくれた。
「あおいちゃん、両親の仕事の都合でもうすぐ大阪に引っ越しちゃうんだ」
「ああ、なるほどね。探偵学園で文化祭をできるのは、一年生の今年だけ、ということか。それは残念だな……」
ありがとう、と時田は微笑みながら曖昧に返事をする。そして、ぽつりと呟くのがかすかに聞こえた。
――でも、引っ越せてよかったのかも……
神谷と顔を向き合わせる。神谷も釈然としない顔だ。
あれこれ違和感があったものの、推理するには謎があまりに些細だった。疑問は消化不良のまま、おれたちは帰路についた。




