第一幕 甘い香りの彼女
関心、協調、洞察――――おれが受験する、『探偵学園』の校訓だ。
『探偵学園』といっても、それは通称であって、正式名称ではない。カリキュラムが独特な私立校で、警察や税務方面への輩出を売りにする一方、探偵を開業する卒業生が多い。そのため、『探偵学園』呼ばれるようになった。確かに、受験案内の進路のページに、『開業』の欄がある学校は初めて見た。
ただ、おれも探偵業に憧れはある。叔父が探偵を営んでおり、お遊びでおれの隠し事を気持ちよく見抜いてくれた。あのときの不思議な感動と爽快感が忘れられず、以来おれも探偵を志していた。
その夢に近づく一歩、きょうは面接試験。きのう三教科筆記の一次試験をパスし、新しい受験票を受け取った。昼休みが二時間もあると思ったら、受験結果が貼り出されたのだから驚きのスピードだ。一体どんな人海戦術で採点をして、さらには受験番号まで割り振ったのだろう?
封筒から二次試験用の受験票を取り出して眺める。おれの受験番号は2098番、一桁目は二次試験の受験者であることを表すから、おれは98番目の受験生というわけだろう。
ちょっと気分が面接に向いてきて、スクールバッグを担ぎ直し、ネクタイを上げて制服の襟を正した。……しかし、面接の集合までにもう少し時間がある。入場を受験番号ごとに区切ってあり、番号が遅いほど集合時間も遅いのだ。
そうだ、飲み物でも買っていこうか。時間潰しの飲み物と、一日携帯するペットボトルが欲しいところ。中学生が制服でコンビニに寄れば怒られるのがオチだが、どうせ受験日だ、校則も何もない。
たまたま近くにあったコンビニに入る。
棚からパックの野菜ジュース一本を手に取り、ペットボトルの売り場がある店の奥へと歩いて行く。
…………。
むう、何か違和感がある。目に見えるところに変なものはないし、変な音もしない。気温が変でもない。要するに、嗅覚に訴えてくる何かがあるようだ。
注意して匂いを嗅いでみる。
すごく、甘い匂いがする。
コンビニに不釣り合いな、甘い、甘い香り。包容力のある、心惹かれる香り――――
……チョコレートだった。
灰色の制服を着たおれと同い年くらいの女が、左手で本を読みながら、右手で棚を探っている。口には、大きなチョコレートバーをくわえている……このチョコレートの甘い匂いが漂っているのだ。そして、ペットボトルの棚から、あろうことかコーラを手に取った。
黒髪のショートカット、整った顔立ちと言える女だが、やっていることが最低だ。周囲も気にせず、本を読みながら歩き、横着に菓子をくわえ、しかもコーラときた!
なんということか、あまりにショックだ。慎ましさを欠片も感じない。
つい呆気にとられ、目を奪われた。次にどれほど奇想天外なことをするのか、怖い物見たさを感じている。さあ、もっと評価の失墜する所業を見せてみろ。
すると、女はこちらに気がつき、睨みつけ、
「あんえうか?」
ついには奇怪な言葉を発した――――
…………。
いや、発音からしてきっと『なんですか?』と言いたいのだろう。口に太いチョコレートバーをくわえていては、ろくに話せるはずもない。
「いや、なんでもない……そうだ、おれも棚から飲み物を取りたいんだ」
女はおれに変な視線を向けながら棚を離れ、レジへと歩いて行った。おれはお茶を一本手に取り、再び女に目線を向けてみる。
レジの脇のチョコレートバーを五本買っていた……
朝から妙なものを見た。座敷童を見たらこんな気持ちになると思う。
しばらく歩き、校門が見え始めたかというところ、信号で足を止めた。ふと時計を確認するために視線を落とすと、視界の端に見たことのあるような灰色のスカート……
「あ、さっきの……」
チョコレートの女である。さっき不快を示してきた割には、向こうから話しかけてきた。いまは何も口にくわえていないから、チョコレートバーも食べ終えたらしい。
突然話しかけられたものだから返事もできずにいると、本を閉じて話を続ける。
「きみは探偵学園の受験生だね」
「……まあ、そうだけど。お前も?」
「いきなり『お前』とは失礼ね。わたしが受験生じゃなかったらどうするつもり?」
こっちの台詞である。だが、その文句を言う前に女はつらつらと語る。
「ちゃんと根拠があって、それからものを言わなきゃ。どうせ、制服を着たわたしが受験生と指摘したから、わたしを同士だと思ったんでしょ? 行き先も同じだし」
信号が変わり、歩きはじめる。女はおもむろにチョコレートバーを取り出し、非常識にもそれをかじりながら話を続けようとしている。
「菓子を食べながら歩くな、話すな」
「ダメなの? ママから言われたからかしら? 自己責任ってことでいいじゃない」
つくづく、非常識だ! 腹が立つ女である。
「とにかく、お前、順序というものを考えろ。食べるか、話すか。……そして、おれがお前を、行き先や恰好で受験生だと決めつけたのは事実だが、その結論を言うよりも根拠を説明するのが先だろう?」
「あ、図星だったんだ。で、根拠? そうね……」食べながら話すことはやめようとしなかった。腕を組み、目を閉じて器用にチョコレートバーをかじる。「まず、制服。日曜日に制服を着るのは、そんなに多いケースではないでしょ?」
「お前こそ決めつけているじゃないか」おれは納得がいかず、強く主張する。「おれがこの近所の中学か高校の生徒だったらどうする? 流石にこの近辺の学校の制服まで、お前は知らないだろう?」
「確かに知らないよ。でも、受験生だとは解る」
「どうしてだ? 部活かもしれない」
「ユニフォームじゃないし、それらしき道具を持っているふうでもない」
「文化部で、発表会に行くのかもしれない」
「どちらにしたって、道具がない。それに、その大きなスクールバッグは似合わない」
「いや、塾や補講ということも――」
「ない。鞄にそれほど教材が入っているようでもないから」
「きょうが初日、ということは?」
「ない。いまは二月の第二週、その推論を立てるには時期が半端」
「…………」
なるほど、ここまで考えて受験生と指摘するなら、確かに理にかなっている。
上手く筋を通されたものだから、下手に返事をできずにいた。すると、チョコレートバーを食べ終えた女は、閉じていた目を開け、勝ち誇ったように口角を上げる。
「どう? 順序だの根拠だのと言っていたけれど、立派な推理だったでしょ?」
「ふん、街中で他人を観察するのが推理ときたか」
「推論を理にかなうように組み立てるのだから、これもちゃんとした推理よ」そう言って、またチョコレートバーを取り出した。「まあ、きみの場合は推理というより、ヤマ勘といったところだったけどね」
「……お前なあ!」
おれの咎めは届かず、女は校舎へと入って行った。話しているうちに、いつの間にか校門をくぐっていたらしい。赤茶色の校舎が二月の曇り空に映えている。
変な女に出会って出鼻をくじかれた気分だが、気分を入れ替えよう。
面接試験に向け、おれは探偵学園の敷居を跨いだ。