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鋼鎚使いの無能神官  作者: しらぬい
第2章 紅焔破刃の継承者編
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EP 39 月を見上げて




 その夜のこと、俺たちは御者がいつも野営をしていると言う場所に連れられ、乗員は全員そこへ向かうこととなる。場所は高台の影で、やや高めの壁がちょうど夜風をしのげそうな場所だった。俺たちが到着した時には、既に先客がおり何台か似たような幌馬車が並んでいる。他の幌馬車の乗客と思しき人たちは焚き火の周りで暖をとったり、談笑したりしているようだ。

 俺たちが来たことに気づくと、軽く挨拶を交わして再び談笑へと戻る。御者たちも互いに話し合って情報交換を始めていた。

 一方の俺たちも休めそうな適当な場所を探して陣取ることにする。リッカの魔法で火をつけ、3人でその火を囲むように座る。


「夜の見張りはどうするべ?」

「わいらの用心棒で交代でやってもらうがや」


 そんな会話が聞こえて来た時、俺も立ち上がろうとしてリッカに服の裾を掴まれた。何するんだ、と目で訴えるとリッカは横に首を振った。


「ここは彼らに任せましょう。あなたたちは昨夜も戦闘があったんだから、あまり体を酷使してるとぶっ倒れるわよ?」

「そうは言ってもだな、俺らは乗せてもらってる側だし……」


 その時、隣からふわぁとあくびの音が聞こえてくる。音の主を見ると、ルイーナが目端に涙を滲ませながら口許を手で覆っていた。彼女は俺たちが見ていることに気がつくと、なになに、と挙動不審になり始める。


「あなたが出て行くと彼女も間違いなくついて行くと思うのだけれど、それでもいいのかしら?」


 リッカの言葉は間違いないだろう。確かにルイーナが自分もやると言い出し始めそうだ。さすがに彼女に二日連続でやらせるわけにはいかない。俺は上げかけた腰を下ろして一息吐いた。それを見たリッカもやれやれとばかりに小さく頭を振った。

 結局なんで見られていたのかわからなかったルイーナの視線は、俺とリッカを行ったり来たり。彼女は小さく首を傾げていた。


 食事をとったり、他の乗客とも世間話を交わしている内に夜は深まっていく。

 食事の最中、おもむろに口を開いたのはルイーナだ。彼女は自分の干し肉を囓りながら俺たち二人に視線を向けた。


「ねぇ、お昼の話みんなはどう思う?」


 彼女の言う話とは、エニスの言及していた"炎王の加護"というやつだろう。強力な炎の力、大いなる力と類似点が見られる力だ。それが本当に大いなる力だと言うなら、俺のもつリベリオンにも大きく関係してくるはず。この力の調査には俺は乗り気だ。

 しかし、一方のリッカはその話を振られると眉根を寄せ、難しい顔を作っていた。


「大いなる力と"炎王の加護"はおそらく別物でしょう。そもそも大いなる力は誰にでも使えるものではなく、そのリベリオンを使ってでしか扱えないもののはずよ。……ただ、だからと言って無関係と言い切ることはできないわ」

「つまりは、ハヴェッタへ着いたら依頼と並行して調査を進めればいいんだよな?」

「ええ、そうしてちょうだい。私としてはこちらを絶対に優先してほしいのだけれど……」


 リッカはこちらにちら、と視線を向けると小さく吐息を漏らす。


「あなたたちには他に用事もあるようですからね。こちらで先に動いてますから、さっさと用事を済ませてきなさいな」

「分かった。終わり次第すぐに合流しよう」


 ハヴェッタに着き次第、リッカは"炎王の加護"の調査に、俺たちは依頼の遂行を優先することになった。しかし、別行動を取るとなると連絡手段が必要となる。リッカにそのことを言うと、何かずっと身につけている道具はないかと尋ねてくる。

 そう言えば、と思い出したのは首に提げていたベルを思い出す。元々は多言語との翻訳に使われていた魔導器だ。それをリッカに見せるとちょうどいい、と俺たちからそれを受け取った。


「それをどうする気だ?」

「これを私との連絡手段にします。元の魔法は失くさないようにしますから安心なさい」

「おい、まさか今からそれに魔法を重ねるつもりじゃないだろうな?」


 それが何か変かしらと、リッカは視線で訴える。むしろ俺たちの驚愕の様子に対して胡乱な目を向けた。

 常識外れもいいところだ。魔導器の回路を書き換えるなんて無謀もいいところだ。確かに複数の機能を持つ魔導器というのは存在する。例えば、魔石を利用して明かりをつける魔導器は、魔石から魔力を取り出す『サクリファイス』と辺りを照らす『ライト』の魔法の回路を掛け合わせて作られたものだ。しかし、その回路の調整には多大な労力と時間がかけられており、その回路の開発には多くの技術者が苦心したと聞く。

 では、元々翻訳のための回路を刻まれたベルの魔導器に新たに回路を付け加えるとすればどうだろう。ベルにきちんと刻めるように調整され、かつその機能が十分に発揮されるような回路だ。それのどこにも新たな機能を追加する余裕などない。


「え、ええ!? 既存の魔導器に機能を重ねるなんて聞いたことないんだけど!!」

「回路を弄るくらい造作もありません。今の魔導器は昔と比べて無駄なところが多すぎるわ。そこを削ればこんな簡単な魔法くらい……」


 こともなげにリッカは告げる。彼女は呆然と見つめる俺たちをよそに発光し始めた指でベルに触れた。瞬間、バチンッと破裂するような音とともに白い火花が散る。


「あら、予想外に頑丈な回路……、それに他のと比べれば随分マシね。このベルはいい腕を持つ職人に出会えたみたい。でもごめんなさいね、少しだけ変えさせてもらうわ」


 わずかに眉尻を下げて話す彼女の様子は、まるで魔導器そのものに語りかけるようだ。

 それからの彼女は杯のように作った手の平にベルを乗せ、じっと目を閉じていた。時折ベルが淡く発光しているのを見ると、今ベルの回路を書き換えているのだろう。


 これも彼女のいう、俺たちの知らない魔法だというのだろうか。とても俺には見当がつかない。……もしかしたら師匠なら何か知っていたのかもしれない。


「……ん、こんなものかしらね。ちょっと魔力の消費が増えましたが……まぁ許容範囲内でしょう。唱える魔法名は『トランス』、魔力を込めている間の音を収集し、相手へと送る魔法よ。効果時間は最大1分、受取手が同時に魔力を込めなければメッセージを受信できないのが欠点ね。その特性上、メッセージの保存はできないわ。まぁ、メッセージを送るときには同調して赤色に発光するから気づくでしょう。」


 ぽいっと無造作に投げて渡されたベルを慌てて受け取った。見た目は全く変化してない。ベルの内側も覗いてみるが別段変わったところはなさそうだ。リッカは早速二つ目に取り掛かっていて、数分と経たないうちに二つ目のベルが出来上がる。


「さて、これで私たちが離れていても連絡を取り合うことはできるでしょう。何かわかったら私に連絡を、こちらでもわかったことがあればあなたたちに連絡をするわ」

「リサの分はどうする?」


 リッカが作ってくれたのは俺とルイーナの分だけだ。リッカ自身の魔導器は作っていない。俺の疑問に対し、彼女は茶色い髪をかき上げてその耳につけている耳飾りを見せた。草の模様をあしらった三日月型のイヤリング。留め具との間に赤く光る宝石が挟まれており、俺が何か言う前にその宝石が赤く発光する。

 同時に俺たちのもつベルも赤く発光し始め、メッセージ受領の合図を示す。


「私にはこれがあるから不要よ、心配ないわ」


 なるほど、だたの杞憂だったらしい。試しに手元のベルに魔力を込めてみれば、ベルからも外の環境音が聞こえてくる。しかし、音を集められる範囲も限定されているようで、精々聞き取れそうなのは焚き火のパチパチと弾ける音くらいだった。


「動作も問題なさそうね。なら今日話すべきことも終わりかしら」

「ひとまず今日のところはな」

「だったら私は休ませてもらうわ、あなたたちも早めに休むことね」


 リッカはそう言ってどこからか取り出した毛布に身を包むと、何事か呟いてそのまま寝入ってしまった。

 その間1分にも満たない。穏やかな寝息を立てて寝る姿は外見に似つかわしく可愛らしい。


「……ホントに寝ちゃったね」

「ああ、驚くような早さだ」


 本当に感心する早さだった。夜になってすぐに寝るというのは子供らしいといえば子供らしい。今の外見からはさほど不自然に見られることもないだろう。そんなことを考えていると、ルイーナはしっかりリッカの様子を確認してからそろそろと腰を上げた。


「ルイーナ?」


 声をかけると、シッ!と素早く口に人差し指を立て目で静かにしろと訴えられた。その様がさながら不審者そのもので俺は呆れ返る。本人のジェスチャー曰く、寝顔を確認する、とのことだった。俺が盛大にため息を吐いたのは言うまでもない。

 そろりそろりとリッカに近づいていくルイーナ。あともう数歩といったところで不用意にも砂利を踏み、靴と石の擦れる音が響く。その瞬間、リッカはんん、と寝返りを打つ。獲物の様子を窺っていたルイーナは大量の冷や汗をかきながらピタリとその場に停止する。なるほど、その位置ならまだすぐに元の場所に戻れば言い訳はできるわけだ。……個人的には無駄だと思う。


 再びリッカが寝息を立て始めた頃、ルイーナは額を拭って一仕事やり終えた、と言わんばかりににこりと笑う。それを見た俺はじっとりと非難の目を向ける。彼女はまるで気にしていないが如く、そのままリッカへと近づいていった。

 さぁ、いよいよご対面。ルイーナが慈母のような笑顔でリッカの顔を覗き込んだ時、ピシリとその顔が固まった。はて、どうしたと思ったのもつかの間、寝ていたと思っていたリッカがゆっくりと上半身を起こし始めたではないか。その冷たい眼差しはルイーナの笑顔を貫いている。


「………………」

「………………」


 どちらも何も語らない。片や眠りを起こされ、不機嫌さが頂点に達した冷淡な顔。片や内心穏やかではないであろう冷や汗だらけの笑顔。長く続くと思われた対峙はルイーナの速やかな謝罪でもって破られる。


「ごめんなさい……」


 リッカはこれ見よがしに大きくため息を吐き、再び寝に戻るのだった。

 彼女が横になったのを皮切りにポツポツと寝に入る人が出始める。ルイーナもしばらく眠気に耐えていたが、こっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。


「ルイーナ、そこまで眠いなら先に寝ておけ。今夜はそう、身の心配をする夜でもないさ」

「ん……、そうさせてもらうね。流石に昨日の今日じゃ眠いや。おやすみ、アレン」

「ああ、ゆっくり休めよ」


 毛布にくるまった彼女が横になるとすぐに眠りの世界へと落ちていったようだ。そんな彼女を見送った後、俺もまた同様に横になる。横になるとまるで思い出したかのように体は重くなる。思った以上に体は堪えていたらしい。眠りの導き手はあっという間に俺の手を取り、夢の世界へと連れて行く。

 体がふわっと浮くような感覚と共に意識は段々と遠のいていく。頭の奥底から響いてくるのは何かの喧騒。そうしていつの間にか見上げていたのは紅く染まる曇天の空。おぼろげな頭でその空を見つめる。どうしてかそれが夢であることに気がついて、知れず俺は安堵の息を吐いていたのだった。



§




 ふと顔を撫でる風に目を覚ました。中途半端に目覚めてしまったせいか、体は未だ鉄でもぶら下げているかのように重く、頭は鈍痛がする。手で顔を覆った拍子に手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気がついた。相当愉快な夢でも見ていたらしい。目覚めの気分は最悪だった。

 気分転換に少し歩こうと体を起こした。リッカもルイーナもよく寝入っているようで俺が多少動いても起き始めることはなさそうだった。


 空を見上げれば、雲ひとつない星の瞬く海が広がる。闇よりなお暗く、灼けるような赤さはどこにもない。

 ……当たり前だ。そんな空はどこにもない。逃げ惑う悲鳴も、耳をつんざくような金属音も、頰を焦がすような熱さもどこにもありはしないのだ。跡を引く夢の感覚を、思い出さないように高台を登っていった。


 高台を登りきったところにちょうどよく座れそうな岩を見つけ、そこに腰を下ろした。よくよく見れば、もう少し離れた場所で火の明かりが見えた。あれが見張りをしてくれている人たちなのだろう。彼らのおかげでゆっくり休めるのはありがたいことだ。

 見渡す限り荒野が続いている。空の月はぼんやりと、銀の光を落としている。それがどうにも物悲しくて、見覚えのある誰かを思い出して心の奥がずくりとうずき出した。


「ミアさん……」


 名前を呟いて後悔する。ひとつ、掘り起こせば次々と記憶は溢れ出すからだ。

 けれど、それは後方から聞こえてきた砂利の音に中断された。


「おや、先客か。君も眠れないのかな?」


 音の主はアンナさんだった。ただいつもと印象が少し違う。後ろで括られていた藍色の髪をほどいて遊ばせ、全身を覆うように丈の長いマントを羽織っていた。月明かりに照らされた彼女は子供を見守る母のように優しい顔をしていた。


「ええ、少し目が覚めてしまって。本当は朝までぐっすりのつもりだったんですけどね」

「ふむ、そんな時は月でも見ながら酒を飲むのが一番いいが……」


 彼女はマントの下からすっと湯気の立つ杯を二つ取り出すと、ウィンクして一つをこちらに差し出した。


「生憎温かいミルクしか持ち合わせがなくてな。まぁ、これでも飲んで気を落ち着けるといい」


 (はな)から俺がここにいたのはわかっていたらしい。でなければわざわざ月を見るのに二人ぶんの飲み物など用意はしないだろう。ありがたくその好意を受け取り、礼を言う。

 アンナさんは俺が受け取ったことに満足すると向かい側の岩に腰を下ろし、銀色に光る月を鑑賞し始めた。

 受け取った杯はじんわりと温かく、嚥下(えんか)したミルクの熱はストンと体の中に落ちていく。柔らかな熱に癒されて、ブルーだった気分も少し晴れてきた。


「月が綺麗な日はこうしてよく飲む。いつもは一人だが……今日は楽しい夜になりそうだ」


 月を見上げたまま、彼女は微笑んだ。


「だが、夜更かしはよくないぞ。君はそれを飲んだらすぐに寝に戻るんだ。なに、飲みきる頃には君もすっかり眠くなっていようさ。それまで少し私の話し相手になってくれると嬉しい」

「はは、俺でよければいくらでも。うまいミルクをもらっちゃいましたからね」


 杯を軽く掲げて見せる。アンナさんは苦笑して、乾杯するように杯を掲げて軽く揺らした。

 彼女とたわいもない雑談に興じる。やれ都の美味い店はどこだ、やれバスキー湖の湖畔の宿が良いやら、挙げ句の果てにはソルのおもしろ過去話にも話題は移っていく。お互いの過去の話にも少し触れた。そんな核心めいたものじゃなく、なんで冒険者をなったのかだとか、情報屋を始めたきっかけだとか当たり障りのないところだ。


「君は聖法協会の神官なのだろう? 協会自体はきな臭いものであろうが、わざわざ冒険者という危険な選択肢を取らずとも生活はできたのではないか?」

「俺もその選択肢を取らざるを得なかったというか……。神官とは言ってもみんなが思うほど実力者ばかりじゃないんです。結構差は大きくて、俺は有り体に言えば落ちこぼれだったんです」

「すまない、失礼なことを聞いた……。私も先入観で頭が凝り固まっていたようだ」

「そんなに気にしないでください。俺も神官としての実力は身の程わかってますし、それに俺に合ってたのがこのスタイルだったんです。だからたとえ落ちこぼれだったとしても、俺がなすべきことをできたらそれで良いんです。魔法あんまり使ってないですし、ハンマー振り回してる姿なんか端から見たら全然神官っぽくないですけどね」


 おどけるように笑って言うと、彼女もつられて笑っていた。

 俺が冒険者を続けている理由はまだあるが、今ここで言う必要もないだろう。わざわざ弛緩したこの空気をまた居心地の悪いものに変える必要もあるまい。彼女は微笑んで俺の顔を見つめていた。


「君は強い人間なのだな。その折れない生き方がとても輝かしい」


 少しばかり彼女は羨んだような声だった。悲しそうに笑った顔には俺にはわからない羨望の表情があった。


「だから君の元には多くの人が集まるのだろうな。ルイーナ君を始め、ソルやブラドのように。この先の困難も君はきっとあっという間に超えていくのだろうね」

「アンナさん……」

「……君に一つ質問をしよう。もしも君の目指すものが困難に溢れていて、とてもたどり着けないようなものだった時、君はどうする?」


 アンナさんは直感でいい、と苦笑する。けれど、その質問は抽象的すぎて、彼女がどう言う意味を以ってそれを話しているのかは俺には分からなかった。


「もう少し具体的に言おうか。もしも君が君の仲間を犠牲にしなければ君が理想とするものに届かないとなった時、君は理想を諦めて仲間を選ぶ? それとも仲間を切り捨てて理想へ進む?」


 改めて彼女はその二択を用意した。

 どうして彼女がこんなことを聞くのか。彼女は暗にリベリオンの旅に言及している。理想とは、リベリオンを打ち倒して世界を救うこと。彼女は仲間か世界か、どちらかを選べと言う。

 残酷な話であるが、現実になりうる話だ。どちらもを選ぶことはできない。仲間を選ぶのなら、世界を救うことを諦めなければならない。彼女はそうこの旅を断じている。


「……俺はきっとその二つからだと選べないですね。どうしてもどちらか捨てたことを後悔してしまう」

「……だったら」

「だから俺はどんなことをしても、その両方取る道を選びます」


 ニッと笑って答えると、アンナさんはぽかんと口を開けて呆けてしまう。ありえないものを見たように彼女はしばし放心し、いやいやいやと眉根を寄せて頭を振る。


「待て待て、アレン君。どちらかしか選べないのだ。どちらかしか取る道はないのだぞ ?」

「なければ作ればいいんですよ。きっと全部を選べる道は絶対にあるんです。見つからなかった時はきっと後悔するでしょう、死ぬほど悔やむでしょう。よせばいいのにずっと茨の道を歩むようなものなんですから。それはずっとずっと痛いと思います」



「でも、それで皆が助かるのなら、俺は痛くたっていいんです。俺は二度と誰かを失って後悔したくないですから」



 俺の答えを聞いたアンナさんは絶句してしばし言葉を失った。そうして数十秒間、長い沈黙が続く。顔をうつむかせ、手で覆っていた彼女であるが、やがて肩をプルプルと震わせ、吹き出したように彼女は笑い始めた。


「はははははは! なるほど、そうきたか!! いや、まるで子供の理論だな、あははは!」


 彼女は腹を抱えて、堪え切れないと笑い続けた。アンナさんはひとしきり笑ったせいで頬は紅潮し、目元は潤んでいる。目端に浮かんだ涙を拭った後、彼女はすまない、と一言だけ謝罪する。


「ふふ、実に結構。最善を求めて足掻き続けるのは悪いことではないさ。それが実現可能かどうかは置いておいてね。諦めない君ならきっとやり遂げることだろう」


 彼女は杯をぐい、と傾けて中身を勢いよく飲み干した。

 そして彼女はニンマリと笑うとよっと、跳ねるように立ち上がる。今宵はこれまで、ということだろう。彼女は空っぽの杯を俺から受け取ると、早く寝なさい、と言って自分の寝床に戻っていく。背を向ける寸前、アンナさんはこちらに向かって笑いかけた。


「君のその心が折れないことを祈ってるよ、未来の英雄さん」


 それきり彼女は振り返ることなく夜の闇に消えていった。俺も静かにその背を見送るだけだ。


「英雄なんて……そんな立派なものじゃないですよ」


 ポツリと呟いた言葉は俺の本心から漏れた言葉だったのかもしれない。誰かが目の前で死ぬのを見たくないと言うだけ。冷たく暗い感情が鎌首をもたげる。もう二度とあんなさみしい思いをしたくない。もう二度とあの身を引き裂かれるような悲しみを感じたくない。それは怯えと恐怖から出てきた究極のわがままだ。

 体を丸めるようにして全身を抱え込む。自己嫌悪に陥りそうな自分を月は黙して照らすだけだった。

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