EP 25 心の澱
2018/10/14 タイトルを修正しました。
しとしとと窓に打ち付けられる雨を見ながら、俺は椅子の背もたれにゆっくりと体を預けた。
水底に沈む澱のように疲労の不快感は俺の顔を顰めさせる。しかしそれも『リジェネ』によってとてもゆっくりではあるが癒されていく。
フッと僅かに失われる魔力に俺はため息を吐いた。身体に不調が起きているのか、目を覚ましてからずっとこの調子である。
わずかにでも疲労を感じればそれを補うように『リジェネ』が過敏に反応する。以前まである程度までは発動しなかったはずなのだが、おかげで落ち着かないことこの上ない。
曇天の空は薄暗く、一面鼠色に染まっている。微塵も陽が射さないその様子は更に俺を陰鬱な気分にさせた。
――やりきれない。
そんな想いが心を埋め尽くす。唇をきゅっと引き結んだところで気持ちが収まるはずもない。
奥歯をぐっと噛み、握り締めた拳を振り上げようとして、震えるだけの腕に舌打ちした。
複雑な想いだ。依然として俺の中では街を護れたのではないかという想いが燻っている。確かに俺はあの時最善だと思われる手を選んではいたが、もっといい手があったんじゃないのかと思わずにはいられないのだ。もしも黒馬が王都を襲撃する以前に詳細な調査をしていれば未来が変わることもあったのかもしれない。
そんな話を再び目覚めた俺がソルに話すと、彼は実に呆れた顔で俺の額を小突いてこう言ったのだ。
『兄ちゃんよォ、オレらは神様じゃねェんだから何がよかったかなんてわかりゃしねェのよ』
『だいたい力があるっつっても誰も彼も助けられるかってのはどだい無理な話なのさ。誰にだって限界はあるし、兄ちゃんだってそれは例外じゃァねェんだぜ?』
そう言われてしまった俺は反論しようとして出てくる言葉がなく、口を閉ざすしかなかった。
多分、その時の俺は余程不服な顔をしていたのだろう。言い終えた俺の顔を見たソルはこれまた大げさにため息を吐いたのだった。
『そりゃァ街は護れなかったけどよォ…、兄ちゃんは全力を尽くしてルイーナの姉ちゃんを護った。それでいいじゃねェか』
『無理だったもんは仕方ない。兄ちゃんはちょっとこだわりすぎじゃァねェか?』
その言葉で渋々ながら俺も納得しない心を内へと収めた。けれどそれが今、小さく胸の内で燻っている。
俺は師匠や大切な人たちをあの危険な地へ残してここにやってきた。助けられたかもしれない人たちを残してきてしまった。
それは俺の大切な物を失わせることで…、俺の大切な……約束を………。
そこまで考えてズキリと頭の芯が痛んだ。
「ぐ………!!」
まるで鈍器か何かで叩かれたような痛みに思わず頭を前に振る。キリキリと頭蓋を圧迫するような嫌な余韻とリジェネによる魔力喪失の不快感に、俺は苦悶の声を漏らして再び椅子に頭を預けた。
周期的にずきんずきんと訴える痛みに思考は強制的に中断させられる。
ただ耐えることだけに意識を向けていると、波が引くように痛みと不快感はあっという間に引いていく。完全にそれらが消え去ってから俺はいつの間にか強張らせていた身体の力を抜いた。
――コンコン。
そこに響くドアのノック。どうぞ、と言うとやや控えめにドアが開き、そこから一人の老人がひょこりと顔を出した。
誰だと戸惑う俺を他所に、彼は俺の姿を見るなりにっこりと笑みをその顔に浮かべていそいそと中へと入ってきた。
「ほっほ、だいぶ元気になったようじゃのぅ坊主」
「……誰ですか、あなた?」
警戒する俺とは対照的に飄々とした様子を崩さない老人。
顔に深く刻まれた皺とさっぱりと色の抜けた髪。その髪の合間からはちらちらと黒ずんだ赤い角がのぞく。ごわごわと伸びた白髭を手持ち無沙汰にいじりながら一見柔和な雰囲気を醸し出していた。
彼との面識はない。しかしこちらのことを知っているという事はソルの関係者だろうか? 少なくともルイーナの縁ではないはずだ。
「ほっほぅ、そこまで警戒せずともよかろうに。わしゃソルの…そうじゃのう親代わりのようなものじゃよ」
「ソルの…?」
「あやつはわしのことをよく爺と呼ぶがのぅ」
そう言って幼い少年のように彼は愉快な笑みを浮かべた。
失礼するよ、と言って彼はゆっくりとベッドの淵に腰かけ、先ほどの俺と同じように窓の外を見つめだした。飄々とした態度を崩さないままである。
邪気は感じられず、助けてもらった人の関係者を疑うのもどこか申し訳なさを感じるばかりだ。
体を起こそうとして彼は慌てて俺を止めた。
「まだ体が動かんのじゃろう。そう無理せんでもよいわい。ただの爺さんが遊びに来ただけじゃからの」
「そうですか…。じゃあお言葉に甘えて…」
好々爺からのありがたい提案に、俺は軽く笑みを浮かべて承諾する。彼はうむうむと頷いて深緑色のローブの懐を探り出した。
数分ほど表情を豊かに変えながら、あれでもないこれでもないとあちこち探っているようである。見た目は薄いただのローブなのに一体どれだけ容量があるのやら…。ポケットがあるにしても多くて数個といったところであろうに。
目的の物にようやく辿り着いたのだろう。おお、と声を上げるとそれをベッドの隣にある机に乗せた。
見た目は少し潰れた球体のような小さな置物であり、細く切れ目が入っている。白い色調に緑色の模様が入っており、中からは何か香草の香りがした。
上の部分は蓋のようになっており、取り外しができるようだ。ひょいと蓋を持ち上げ、彼が中身の確認をする。
そんな様子を眺めていたからであろうか。老人は蓋を戻しながら少しばかり得意げにこう言った。
「早く元気になるおまじないじゃよ。このお香は疲労によくきくぞい」
彼の真意はどうあれありがたく受け取ることにする。もう中に火はついているのか、徐々に部屋には香草の香りが漂い始めた。
「そういえばまだ名前をお伺いしてませんでした」
「む、そうじゃったのぅ。わしはブラド・ロスタリンデという。気軽にブラド爺さんとでも呼んでくれぃ」
ブラド爺さんは朗らかに笑う。
「ではブラド爺さん、と。俺の名前は…」
「改めて名乗らんでもソルから聞いておるよ、アレン。ヴィーゼ王国の神官らしいのぅ」
そこで彼はふっと顔の笑みを消し、目を瞑りもう亡き魂に祈りを捧げるように一瞬の沈黙を置いた。
長命な彼のことだ、カノーネにも知り合いがいてもおかしくはない。安らかであれと、きっとそう願っているに違いない。
――ずしり…と新たな荷でも積んだように心は沈む。
「カノーネのことは残念じゃったの。天災ゆえお主らが生きておったこと自体が奇跡じゃが…」
「……俺たちの力だけじゃこうして話すことすら無理だったでしょう。真意はどうあれ助けてくれた人がいましたから」
自然とこの目は床の木目を映していた。
そう……俺たちは助けられた、助けたんじゃない。他の人たちとこの世界という器から零れ落ちかけたところを、偶然にも拾われたに過ぎないのだ。
助けることができたかもしれない、と思うことすらも身の程知らずなのかもしれない。
それはまるで身の丈の合わない服を着たような違和感。
「本当に…俺たちだけじゃ無理だったんですよ…」
その言葉は重くこの部屋に響いた気がした。
きっとこれは俺の奥底に眠っていた感情なのだろう。いかに言葉を並べたところで誤魔化すことのできない本音。
無力であり、どうすることもできなかった自分に対する怒り、理不尽な現状に対する諦観、そしてその未来を選んでしまった悔恨、それによって死んでしまった人たちへの罪悪感。
そんな負の感情が入り混じり、どろどろと溶け合い、ないまぜになった真っ黒な何か。この身を蝕み、ずるりずるりと肉をはぎ取っていくようだ。
しばし沈黙していたブラド爺さんであったが、彼は顔の皺を更に深め、深く深く頷いた。
「…そうじゃの。確かにお主らが今ここで生きておるのは、主の言う恩人のおかげじゃろう」
――キリキリキリと決して外されることのないように、重荷はこの身体に結びつく。
じゃがの…、と続ける彼の顔は困ったように眉が垂れ下がり、それでも笑いを浮かべようとしているようだった。
「それがお主らの奮闘を無意味にしているわけではないぞ、アレンよ」
「無意味じゃない…? …そんなわけがない。何の結果も伴わず、ただ道化を演じただけのこの惨状が、どうして無意味でないと言えるんです…!!」
ガタンッ! と派手に物音が立った。歯を食いしばり、体は迫るようにブラド爺さんに乗り出していた。
カッと熱くなる頭はきっとおかしい。痛みはない。身体の震えだけが邪魔だけれど、そんなことが関係ないと思えるほどに視界は赤い。
「とりえた選択肢はきっともっとあった! その中で俺が選んだのは最悪の選択肢だ…!」
「それ以上はならんよ、アレン。まずは落ち着いて席に座りなさい」
彼が軽く手を振ると、俺の体は俺の意思とは裏腹に優しく椅子へと導かれた。
ハッと気が付いた俺は気まずさに目を逸らす。何も悪くないブラド爺さんに八つ当たりをしたことに嫌気がさした。
「…仮にの、アレン。お主が今のお主を否定するということは救われたお嬢ちゃんを否定することにもなるのじゃぞ」
「それは…」
「それだけではあるまい。ソルや恩人の厚意もまたお主は否定しておろう」
その言葉に気づかされる。覆しようのない正論は曇った俺の面を殴るような衝撃を与えた。
「あったことをなかったことにしてはならん。事実はしかと受け止め、そして次の未来を選ぶ糧とするのじゃよ。たとえそれが辛かろうとの」
「……ブラド爺さんは俺みたいに思ったことはないんですか? こうすればよかった、ああすればよかったって」
この苦し紛れの言葉を聞いたブラド爺さんの顔が、何故か俺の記憶に深く刻み込まれた。
すっと目を閉じて夢想する姿はまるで今よりも更に衰え、死に際に走馬灯を見るような穏やかで落ち着いている。
それが暗に彼の中では何度も心の整理をしてきたと語るようで、思わず俺は唾をのんだ。
「……わしの人生を振り返れば星の数ほどあるじゃろうのう」
「そう…ですか……」
眉尻を下げ、穏やかに笑う彼の顔に俺はそれ以上何も言うことはできなかった。
「それに、仮にお主が戦っておらねばカノーネの街どころか国自体が消えておったかもしれん。そう考えれば、お主がとった選択肢は決して最悪ではないのじゃよ」
「…………」
「お主が救ったものは確かにある。だから無意味などと言うでないぞ、アレンよ」
「……はい」
よしよし、と顔を綻ばせ彼はわしゃわしゃと俺の頭を撫でた。こうして撫でられるのなどいつぶりだろう。
気恥ずかしさに少しだけ赤くなったが、逃れる術もない。なされるまま俺はしばし撫でられ続けた。
「さて、香もきれたようじゃしお暇するかの。それに、お主も眠そうにしておるしな」
「え……」
言われてみれば確かに少し瞼が重い。
そう自覚するとあっという間に眠りの誘惑が俺を攻めたてる。ベッドに戻ろうかと思ったがブラド爺さんがひざかけをかけてくれたことで、眠りへの導入はますます進んでいく。
「まだ本調子でないのじゃろうよ。無理に付き合せて悪かったのぅ」
「いえ……、こちらこそ……すみません」
段々と視界はぼやけ始める。意識が薄れて眠りにつく間際、重たい口を動かして俺はようやくその言葉を言うことができた。
「ありがとう…ござい…ま……した……」
「ほっほ、今はゆるりと休みたまえよ、新たな継承者よ」
その言葉の意味を深く噛み砕くこともできず、眠りの妖精の囁くままに俺は意識を手放した。
§
「……重症じゃのぅ、これは」
ソルに頼まれ、診てやったブラドであったがその顔は厳しい。
彼が思う以上にアレンの根は深かった。同時にアレンをそうたらしめたであろう二人の事を思い、彼は苦虫をつぶしたような顔をする。
ブラドが持ち出したこの香は疲労の回復を促進する効果があるが、同時に心を開放しやすくする効果もある。
彼が次に目を覚ます頃には身体も心も多少は軽くなっているであろうとブラドは思う。しかし同時にそれが根本的解決にならないことも彼にはわかっていた。
今のアレンにあるのは0か100かの尺度のみだ。100を救うことができないのなら無意味。たとえ絶望的な状況で1を救えたとしてもそれが無意味であるとアレンは断じるのだ。
「それは危険じゃ、危険じゃよアレン…」
何十、いや数百という時を時を超えたからこそ彼の歪さが際立った。
それはいかなる想いに起因するのだろう。いくら考えたところで彼には詮なきことではあるが、そう思わずにはいられない。
ルイーナ嬢から聞いた、魔法の使えぬ神官として生き続け名を売ることに拘っているのもその想いに関係しているはずだ。ブラドはそう思い、くるりと踵を返す。
「せめて……安らかな眠りを…」
険の取れた穏やかな表情のアレンに振り返り、ブラドは小さくそう零した。
第4回オーバーラップWeb小説大賞に応募します。
特にこれといって変わりはなく引き続き更新していこうと思います。
今月中にあと2,3話ほど上げるつもりです