EP 23 竜人の商人
大変おまたせ致しました。
いよいよ第2章開幕です。それではどうぞ…。
深く闇の帳の落ちる森。わずか数センチ先すら見通せない、夜に生ける者たちの領域である。
木々の間から空から降り注ぐ月の光は、森に迷い込んだ者達を導くようにぽつりぽつりと暗い地面を照らしていた。
風にゆらめく枝葉はざわざわと音を聞く者の不安と恐怖を駆り立てる。まるで自分たちの領域へお帰りとでも言うように、この場に入る者を拒絶する。
なぜならこの地は異形なるモノの森。異形ならざるモノはこの地へ踏み込む資格はない。
されど異形なるモノは光ある地に踏み込むことを許されない。
影は与えられど、闇を与えられど、身を切り刻むような冷たさを与えられど、生の証たる光を与えられることは永遠にない。
異形なるモノはそれを妬む。温かで柔らかな光を一意に受けるモノ達を許せない。
故に襲う。光を受けるモノ達を襲い、奪い、その輝きを欲する。
それは誰であろうと例外はなく、今この森を走るモノもまた、その輝きを失おうとしていた。
「はぁ…はぁ……!」
――なんだ…、一体何なんだこれは…!
走っても走っても逃げられない。男がいくら全力で走ろうが、その差が開くことは微塵もない。振り向けばあの恐ろしい魔物たちに襲われると分かっているだけに、恐怖が男の足を鈍らせる。まるで底なしの闇から這い出してきた悪魔たちが、足に取り付き、抱きかかえ、嘲笑するようだ。
一秒の休みもなく、走り続けてきた男の足はとうに限界を迎えていた。
もつれ、引きつり、躓きそうになる。その彼が未だこの足場の悪い森を走り続けることができるのは、ひとえに生き続けたいという生存本能故である。
――誰か…、誰か…! 誰でもいい、助けてくれ!!
必死に願う男の想いも虚しく、それが叶えられることはない。
彼の背を追う恐ろしい異形が消えるわけでも、突然に彼に万能の力が与えられるわけでもない。
この世に神というものがあるのなら、彼はそれに乞い願うだろう。ただただ助けてくれ、と。
――フシュルルル……。
耳元で聞こえた異形の吐息に男はぞっとした。それがすぐ傍で聞こえるというその意味を理解して、男は絶望した。
ここまで逃げてきたその走りも虚しく、これから自分がどういう結末を辿るのか想像して、腹の底から悲鳴を上げた。
心の動揺は体にも表れる。これまで懸命に命を運んでいた足は、糸の切れた操り人形のようにぴたりとその動きを止めてしまった。
足をもつれさせ、枯葉の散らばるじめじめとした地面に無様に顔から転がった。
歯をがちがち鳴らしながら、震える腕で体を起こした男を待っていたのは、耳まで裂けようかという口をニタリと吊り上げる異形の顔だった。口の隙間からはちろちろとのびる鮮血に塗れた舌と、生臭い腐臭のする吐息。いよいよもって半狂乱に騒ぎ始めた男の体を、その異形はばくりと丸呑みしてしまった。
しばらく中で暴れていたと思われる男はやがて徐々に大人しくなり、その様を異形は実に満足そうに眺めている。その視線はさも愛しい物を見るかのようなものである。
それは必ずしも間違ってはいない。その男に価値を感じまいと、奪った光は異形の中に取り込まれた。
それをいくつもいくつも集めれば、きっとこの|地上(光の世界)を大手を振って歩くことができるのだろうと、その異形は朧気に理解しているのだ。
ずるりずるりと体を這わせ、闇の奥深くへと異形は消えていく。その森の名を魔の森。王都カノーネの崩壊の後、跋扈する魑魅魍魎によって阿鼻叫喚が繰り返される森である。
§
遥かなる山々がそびえ立つ国土。脈々と連なる山脈に囲まれ、その国ヨルドは存在する。
今でこそ穏やかな姿を見せているものの、かつては噴火と爆発を繰り返し、生けるモノの侵入をピタリとも許さない死の大地であった。
国の中心に広がる平原も、昔に起きた巨大な噴火によってできたものではないかというのが学者たちの間では専らの見解である。
段々と起伏が緩やかになる坂を下りながら、その青年はふぅと息を吐く。
目深に被った帽子の下からのぞくのは少し浅黒い肌と切れ長の三白眼。まだ幼さの残る顔立ちではあるがその足取りはしっかりとしており、それがたった数回程度の旅で身に着けたものではないことが分かる。
肩に背負う麻袋は揺れる度にシャリンと音をたてる。その音が青年の口端をにやりと吊り上らせた。
彼は今一仕事を終え、拠点へと戻る途中であった。今回の仕事のクライアントは中々に払いがよく、彼の仕事ぶりもあって報酬に色を付けてもらえていたのだ。
その中でも霊薬は格別だ。ポーションよりも遥かに効果が高く、並大抵の傷ならばすぐさま塞がり、病も治してしまうだろう。
今日ばかりは贅沢ができると鼻歌を歌いださんばかりの彼を責められるものはいまい。
そもそもがこんな半ば田舎めいた地で割りのいい稼ぎというのが無理なのだと、誰を納得させるでもなくうんうんと頷いた。
それもそのはず。大陸中央からの入植初期、このような地に移り住む者は稀であった。それどころか生活するにはあまりにも厳しい環境に人が耐えられるはずもない。移民のことを変わり者と称するのも仕方のないことだろう。
ある程度の開拓が終わって国としての体裁を持ち始めた頃、経済をいかに回すかという点で多くの役人が頭を悩ませたがそれはここでは割愛する。
さらに追い打ちをかける話ではあるが、険しい山々に囲まれているだけあって人の住めるような場所はほとんどない。国土の内60%程が山地、15%程が丘陵地だというのだからその厳しさは推して知るべし。
しかしながら、その険しさをものともしない者たちがこの地に生活の根を張っていた。
その内の一つは竜人。人間と似る姿でありながら潜在的に竜の力を持つ亜人である。その起源は竜と人間が交わることで生まれたとも、巨大な魔力を持った竜族が戯れに人へと姿を変えたとも言われている。
人間に勝る膂力、体内の熱器官によって放たれるドラゴンブレス、大空を羽ばたく1対の竜翼。原種である竜種には劣るものの、その生命力の高さは他に比べ群を抜く。その一方で繁殖力には乏しく、全亜人の中で彼らの割合は1割を切っておおよそ5分といったところ。亜人の中で最大の割合を誇る獣人が全体の4割半程もあることを考えれば、かなり少ないといえる。人間の人口とは比べるまでもなく、圧倒的に劣っている。
――グゥルルル……。
ズシン!と大きな音を立てて紺碧の竜が彼の目の前へと降り立つ。全長3メートルにも及ぶ竜を前にしても彼はたじろぐどころかどこか余裕すら見せている。彼は身の危険などこれっぽっちも感じていない。
決して油断をしているわけではない。その竜をあなどっているわけでもない。
ただ知っている。その竜が自分を傷つけることなどしはしないと、彼はよく知っている。
「おお、よしよし…。腹は膨れたか、シェーナ?」
彼が優しく頭を撫でると竜は目を閉じ、まるで猫のようにゴロゴロと喉を鳴らした。
ひとしきり撫でてから彼が背に飛び移ると、ゆっくりと翼を羽ばたかせ、空へと高く舞い上がった。
「くっはー! やっぱ空っていいよなァ!! 空気は美味いし、風は気持ちいいし、眺めも最高ときた。オレが思うにこれを知らねぇ奴は人生絶対損してるよなァ。お前はどう思うよ、シェーナ?」
竜は首をもたげて一鳴きすると、一際強く翼を羽ばたかせて豪快に炎を吐いた。
「っとと…、はは! あまりやんちゃするなよォ、シェーナ。オレが落っこっちまうからなァ。ま、それはそれで拾ってくれるんだろうけどよ」
今度は彼のぼやきには応えない。しかし、彼には当然だという竜の気持ちが見てとれた。
――こいつのことはオレが一番よく知ってっからなァ…。
本当に気持ちが通じているのかは彼には分からない。同じ言語が話せるわけではないのだ。
竜種は他の異形と比べて遥かに高い知能を有し、異種族である者達の言語すらも容易く理解するとされている。しかしそれはあくまでごく一部の話だ。
確かに長命の竜であるならば、その長年の経験から言語を理解し、知恵を与え、国を繁栄させる、あるいは陥れる策すらも考えうるだろう。
だがシェーナはまだ生まれてそう間もない――とはいえ、人間からその長さを見たならば人一人の寿命を軽く超えるだろう――幼体と呼ばれる個体だ。人の言葉を器用に操り話せるほどの技量はない。
しかし、彼には彼が一番シェーナを知っているという自信があったし、シェーナもまた彼と一番絆を深めているであろうという自負があった。
言葉はなくともそれだけの関係を築いてきたという誇りがある。
だからこそ共にこの空を駆け巡り、生きてきた。互いに自分の命を預けられるという安心があった。
無限に続く空を眺めながら、彼らは先を往く雲たちを見送る。
じきに目的地である村に着く。次の仕事を請け負うまでにはだいぶ余裕ができるはずだと彼は思う。
しばらくは休養だなと牛のごとく大きな鼻息を吐き、どさっと竜の背に倒れ込んだ。
その直後、不意にシェーナが空に向かって吠え、体を大きく揺さぶらせた。急な出来事に面食らい、彼は危うく背から転げ落ちそうになる。背中の突起に懸命に腕を伸ばし、ずり落ちそうになる体を引き留め、冷や汗もそこそこに安堵の息を吐いた。
「おい、シェーナ! いくらオレが休んだからって落とそうとするこたァねェだろ! 竜人つってもこの高さから落ちりゃァ、オレだってお陀仏だ!」
背中から響く激しい抗議の声にすまなさそうに鳴き声を上げ、次いでその頭を地上のある一角に向けた。
眉根を寄せた彼が訝しげにその視線の先を見てみると、確かに何やらその地上にそぐわぬものが見えてくる。
「ありゃァ…、なんだ? シェーナ、高度を落としてくれ」
了承の意も兼ねて軽く鳴き、その高度を徐々に落としていく。初めは豆粒程度だったそれが徐々に視認できる大きさにもなった頃、彼はそれらの様子を見て息を呑んだ。
「こりゃァ人じゃねェか…! なんでこんな…」
荒れ地に倒れていたのは二人の男女。どちらもこちらでは見ない格好だ。
なにより損傷の具合が尋常ではない。少女は全身傷だらけではあるが、その大半がかすり傷。きちんと対応すれば大事には至らない。
しかし、問題なのは青年の方だ。血の流れ方は明らかに死傷に至る酷いもの。見れば腹の一部が削り飛び、足もあらぬ方向へと曲がっている。生きているのか、それすらも怪しいほどだ。
「シェーナ、急げ! 姉ちゃんの方は大丈夫だけど、兄ちゃんの方は見るからにやべェ!!」
急かす彼に応えるようにシェーナは地上へ向けて勢い良く降下を始める。地面が目前に迫ったところでその背から飛び降り、急ぎ二人のもとに駆け寄った。
少女の手首に触れ、脈があることを確認するとすぐさまシェーナに指示を出し、その背に乗せる。適切な処置を施してやればすぐによくはなるだろう。それを見届けるや否や青年の方に向き直り、そしてその顔を青ざめさせた。
まず彼が感じたのは強烈な鉄の匂い。思わず口元を覆いたくなるほどの気持ち悪さと吐き気が彼を襲った。遠くから見た通り、腹の一部が欠けており、中に見える目を背けたくなるほどの惨状と水溜りができるほど滴り落ちる血が彼の網膜に強烈に焼き付けられた。
――何故生きているのか。
そんな根本的な疑問を抱かせるほど、青年の状態は凄まじい。だが、うつ伏せに倒れた体がごく僅かに上下するのを見れば、未だ命を繋いでいることが分かる。その凄まじい生命力に驚愕すると共に背筋が凍るほどの戦慄を感じた。
しかし、長くは保つまい。ここまで損耗していればほとんど死は免れない。
彼はちらりと竜の背に置いた麻袋に目線をやった。
方法がないわけではない。報酬のおまけにもらった霊薬を使えば、これほどの傷でも全快する可能性はある。貴重な霊薬を使うことは惜しまれるが、この状況を見てみぬふりもできなかった。
「ええい、仕方ねェ! どうせたまたま手に入ったもんだ。兄ちゃん、今助けてやるぞ!!」
急いで麻袋を取りに戻り、がさがさとその中身を漁り始める。
こういう時に限って探し物は中々見つからないもので、底に埋まっていた霊薬を取り出すまでに彼は3度もの舌打ちをすることになる。
霊薬を片手に青年のもとに戻り、倒れた青年をひっくり返して体を起こし、青年の口元に霊薬の口を当てる。
血の気はなく、紫に染まった唇は僅かに震えている。驚くほど体は冷たく、その様相は死体と見紛うほど。
祈るような想いで青年の口の中に流れ込む霊薬を見つめる。
小さく、それこそ見逃してしまいそうな程小さく動いた喉に少しばかり彼は安堵の息を吐いた。
注がれる霊薬の量が増える度、徐々にその体に熱が戻り始める。これならば間違いなく死を回避できたはずだと彼は思う。その証拠に青ざめていた顔色にも赤みがさしてき始めた。
「ふゥ……。これなら後は腹の応急処置だけで大丈夫なはずだけど…」
そう言って青年の腹の傷を見、その様子に首を捻った。
傷の周囲の肌がゆっくりと赤くなり始め、煙を上げているのだ。次いで、まるで生えてくるという表現がしっくりとくるように、欠けた部位に肉が埋まり始める。その際、まるで足りない部分を補うようにごく微量ではあるが草だの土だの周囲の物を巻き込んでいる。
「お、おい…。おいおいおい…! なんだァこりゃァ!! に、人間じゃァねェのか!?」
しかし、青年の外見は間違いなく人間である。戸惑う彼を他所に青年の傷は塞がった。
あれほどの惨状が嘘だったように、青年の体は綺麗さっぱり治っている。空恐ろしいものを見た彼に冷や汗が垂れる。
「ひ、ひとまず…村に戻って爺に言わねェと…。ここでぶっ倒れてたってことは魔物か何かに襲われたってことだろうしな」
溢れ出る疑問をひとまず横に置き、青年の方も竜の背へと乗せた。
最後に彼がその背に飛び乗ると、シェーナは再び上昇し飛翔し始める。
「……まったく、妙な拾いモンしたなァ」
3人を乗せて竜は空を駆ける。
後ろにのる2人の男女を見て、彼は複雑な表情を作るのだった。
修論等いろいろと予定が立て込んでてんてこまいでした。
ペースが遅くはなりますが、更新は続けていきます。
これからもどうぞよろしくおねがいします。
2018/10/14 タイトルを修正しました。