聖女さまと湯気の魔法
浮島の影が屋根を離れると、通りの石畳に朝の光が戻ってきた。
工房の窓では月楡の葉が乾き、炉の火蜥蜴が炭を抱えて眠っている。
わたしは作業着の袖をまくり、修理台の下へ潜った。床へ落としたねじが、手を伸ばすたびに奥へ逃げていく。
入口の鐘が鳴ったのは、ようやく指が届きそうになったときだった。
「魔法道具の修理は、こちらでお願いできますか?」
「直せるものならお預かりできます。少し待ってください、いま仕事の部品を捕まえているので」
指の先で小さく跳ねたねじを押さえ、わたしは台の下から這い出した。
戸口の少女は、古いやかんを胸に抱えて立っていた。
薄青い肩掛けに、裾の長い生成りの服。赤茶色の髪は片側で編まれ、その先を飾り気のない紐が結んでいる。
歩きやすそうな革靴には、乾いた白い土がついていた。
わたしより少し年上だろうか。
少女は修理台の品物へ目を移した。
扉を支えていた手は取っ手を握ったままで、わたしが顔を上げると入口のほうをちらりと振り向いた。
「扉は閉めても大丈夫です。窓から炉の煙を逃がしていますから」
「お邪魔でしたら、あとで伺います」
「ねじを追いかける仕事は終わりました。そちらを見せてもらえますか?」
少女が修理台へやかんを置くと、底に詰まっていた草の切れ端が落ちた。長い旅に使われたものらしい。
注ぎ口には打ち直した跡があり、持ち手には古い布が丁寧に巻かれている。
「お湯は沸くのですが、蓋を閉めると騒がしくなってしまって」
「音が出る仕組みは最初からついていたんですか?」
「沸いたときに小鳥が知らせてくれるという説明でした。先日から、蓋を閉めるだけで春先のような賑やかさになります」
彼女が蓋を押さえると、工房いっぱいに鳥のさえずりが響いた。
梁の上で寝ていた猫が飛び起きた。棚へ逃げようとして吊り下げた鍋に頭をぶつける。
炉の中からは、炭を抱いた火蜥蜴が迷惑そうに顔を出した。
「小鳥だけというより、住み家の森ごと入っていますね。音を呼び出す線が途中で繋がってしまったんだと思います」
「直せるのでしたら一羽に戻していただけますか?朝だけなら賑やかなのもよいのですが、夜には隣の部屋の方を起こしてしまいます」
「ご近所の眠りのためにも一羽に戻しておきましょう」
蓋の裏を見るために顔を上げたところで、少女と目が合った。
右の眉に細い傷があり、瞳は冬の川底に見える石のような淡い灰色をしていた。
肩掛けの留め具には、枝を広げた白い樹が描かれている。
窓の向こう、薬草屋の壁にも同じ樹があった。
その下に掛けられた祝いの絵では、白い衣の少女が両手を広げている。
足元に横たわっていた人々が起き上がり、遠くの黒い塔から緑の葉が吹き出していた。
わたしは、絵と目の前の少女を見比べた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「北通りで部屋を借りている、エルシアと申します。まだ越してきたばかりで、道にはあまり詳しくありません」
「白樹の聖女さまもエルシアというお名前ですよね?」
「そちらのお仕事もしていますが、今日はやかんの修理をお願いに来ています」
仕事の内容を補足する程度の口調だった。
わたしは煤のついた指を作業着で拭き、拭いたせいで余計に目立った跡を見下ろした。
未だに部品を床へ落としている見習いが、聖女の持ち物を預かってよいのだろうか。
「親方は浮橋の鐘を直しに出かけています。大事なものなら戻ってから見てもらったほうが……」
「大事に使ってはいますが、やかんですから。あなたが直せそうならお願いしたいです」
「音の線を直すくらいなら、たぶんできます。わたしはこの工房の見習いでメルといいます」
「メルさんにお願いできるなら助かります。こちらで待たせていただいてもよいでしょうか?」
彼女は肩掛けを畳み、丸椅子の背へ掛けた。
窓から入る風に、乾かしていた月楡の葉が鳴った。
外では荷車を引く角鹿が蹄を鳴らし、軒に吊るした修理待ちの風鈴が、その音に重なるように揺れていた。
聖女が座ったからといって工房の狭さは変わらなかった。
わたしは台の上の品物を寄せ、奥で温めていたお茶を持ってきた。
青い釉薬のかかったカップを差し出すと、エルシアさんは持ち手に指を添えた。
厚手の陶器から伝わる熱を確かめ、それから机の端の銀の輪へ目を向ける。
「そちらもお客さまから預かったものですか?」
「それはわたしの作りかけです。修理とは関係のない遊びみたいなもので……」
「いちばん明るい場所に置いてあったので難しいお仕事なのかと思いました」
輪の下には、昨夜まで書き直していた術式の紙があった。
わたしは紙を裏返し、輪をカップの上へ持っていく。
「待っているあいだ、これでも見ていてください。触ると崩れてしまうので、少し離れて見てもらえれば」
輪の内側へ息を通すと、立ち上る湯気が丸まった。
白い尾びれが現れ、指ほどの魚がカップの縁を泳ぎ始める。
胸びれを忙しく動かすわりに、進む速さはゆっくりだった。
エルシアさんは膝に置いていた手を持ち上げ、触れる直前で止めた。
「これは……生きているお魚さんなのでしょうか?」
「湯気に形と動きをつけただけです。お茶の熱がなくなると普通の湯気に戻ります」
「冷たい場所でも温かいものの位置がわかるのですね。雪の中で人を探すときにも使えるでしょうか?」
「魚を出したい場所までお茶を運ばないといけないんです」
「それでは、私が先に見つけることになりますね」
冗談を返すつもりだったのに、エルシアさんがうなずくのを見て、わたしも口を閉じた。
魚はカップの脇に置いた銀のスプーンへ近づき、頭を反らして引き返した。少し泳ぐと、気になったらしく戻ってくる。
エルシアさんの口元が、かすかに緩んだ。
「いまの動きは、毎回するのですか?」
「光るものがあると逃げるようにしました。逃げたあと見に戻るところは、昨日足したんです」
「怖いのに、確かめずにはいられないんですね」
「そう見えたらいいな、と思って作っています」
彼女がスプーンを動かすと、魚はその先を追いかけた。
近づきすぎると逃げ、離されると慌てて戻る。
わたしは蓋のねじを外しながら、彼女の手元へ目をやった。
修理を待つ客に魚を出したことは何度かある。使い道を聞かれ、ないと答えると、たいてい話はそこで終わった。
エルシアさんは、まだ魚を見ていた。
「大きく作れば子供が怖がらずにお風呂へ入るかもしれませんね」
「大きくすると魚のほうが怖くなることがあります。あまり役に立つものではないんです」
エルシアさんが顔を上げ、何か言いかけて唇を閉じた。
視線の戻った先でお茶が冷め、魚の尾びれが薄くなっていた。
最後にスプーンの影をくぐろうとして、頭までほどけた。
「いまのお魚さんは、もう一度出せますか?」
「お湯を沸かせば同じように出せますよ」
「それでしたら、もう一杯お願いしたいです」
「少し待ってもらうことになります。炉の火蜥蜴が、ちょうど昼寝を始めてしまったので」
「起こしても困らないときまで待っていて大丈夫です」
エルシアさんは空になったカップを両手で包んだ。
「次に出てくるまでに、お魚さんの名前を考えてもよいでしょうか?」
わたしの指から、外したねじが落ちた。
彼女は台の端でそれを受け止め、やかんの横へ戻してくれる。
「名前をつけても次の魚が同じ魚とは限りませんよ」
「私には見分けがつかないので、また来てくれたことにします。メルさんはそのほうがお嫌でしょうか?」
「嫌だなんて思っていませんよ。そこまで見てもらったことがなかっただけですから」
わたしは炉の前へしゃがみ、火蜥蜴の好きな乾いた木の実を差し出した。
赤い舌が木の実を巻き取る。眠そうな目が細く開き、炉の奥に火が戻った。
***
翌日、エルシアさんは直ったやかんを持って工房へ来た。
わたしは窓辺で割れた灯り石を磨いていた。
夕方の浮島が西日を遮る前に終わらせるつもりだったのに、戸口で彼女を見た途端、手元の石から指が滑った。
「また何かおかしくなりましたか?鳴き声が止まったと思ったんですが」
「やかんはとても静かになりました。今日はお湯を何度もお願いせずに済むように持ってきたんです」
彼女が蓋を閉めると、一羽の鳥が短く鳴いた。
台の向こうで時計を磨いていた親方が眼鏡を持ち上げた。
灰色の髪を高く結い、工具を挿した革の前掛けをつけている。
腕の太さも声の大きさも、わたしには一生追いつけそうにない。
「あんたが昨日のお客さんだね。どうぞ座っておくれ、メルも朝から続きを作っていたよ」
「親方、その説明は必要ないと思います」
「必要なところだけ自分で話せばいいだろう。私の分のお茶も忘れずにいれておいておくれよ」
親方は猫を抱き上げ、奥の部屋へ引っ込んだ。
エルシアさんはやかんの隣に小さな包みを置いた。開くと乾かした花と果実の皮が出てくる。
「茶葉屋さんで、湯気のよく立つものを選んでもらいました」
「お茶のおいしさより湯気を先に相談したんですか?」
「おいしいものが前提だとは、お伝えしました。お魚さんのために飲みにくくなっては、困りますから」
彼女は茶葉の包みをこちらへ寄せ、昨日と同じ椅子へ座った。
包みの口を留める紐まで丁寧に畳んであり、わたしは輪を出す前に、まずお湯を用意した。
わたしは棚から輪を取り出した。磨き直した銀が窓の光を白く返す。
「少しだけ泳ぎ方を変えてみました。前より滑らかに動くようになったはずです」
「どんなふうに泳ぐのか、ぜひ見せてください」
カップの上に出した魚は、昨日より長い尾びれを持っていた。
スプーンに近づくと軽く跳ね、その上を越えていく。
「昨日の戻ってくるお魚さんは出せないのですか?」
エルシアさんはカップを見たまま、持ち手に指を添えていた。
魚がもう一度跳ねても、その指は動かなかった。
「同じ場所を行ったり来たりしていたので、そこを直したんです。邪魔なものがあっても越えられるように」
「戻ってきて、もう一度見上げるところが好きでした。気になっているものから離れられない感じがして」
わたしは輪の内側を親指でなぞった。
削り直した線には、まだ磨ききれていないところがある。
夜中に油皿の火を足し、魚が跳ねたときには、自分でも声を上げてしまった。
「いまの子も、跳ねるところは綺麗だと思います。せっかく新しい芸を見せてくださったのに、前のことばかり言ってしまいました」
顔を上げると、彼女の視線は輪をなぞるわたしの指先にあった。
わたしは銀の輪をカップへ戻した。
「魚に気を遣わなくても大丈夫です。前の動きも紙には残してありますから」
「前の動きに戻すのは、大変でしょうか?」
「仕事が終われば直せると思います。ただ、昨日より不器用に戻りますけど」
「それでしたら、明日も来て確かめてよいですか?」
「明日ならお昼過ぎには直しておきます」
返事をしてから、わたしはカップを持ち直した。
明日の昼までに、という区切りがつくと、直すところの順番も自然に頭へ浮かんできた。
エルシアさんは鞄から小さな手帳を取り出した。文字は小さく行ごとに充分な隙間が空けられている。
「毎日ここへ来て、ほかの用事は大丈夫なんですか?」
「午後の川沿いの道を歩く予定を少し短くします。昨日、役所で橋に異常がないと伺えたので」
「橋を調べるために、散歩をしていたんですか?」
「何を見ればよいか決めておくと、歩きやすい気がしまして」
「それなら魚を見に来る道も散歩に入れてしまえばいいと思いますよ」
彼女は手帳とわたしを見比べた。
しばらく考えてから、書いていた一行を細い線で消す。
「そうすると帰りに遠回りする時間も残りますね」
「道に迷うくらいでなければ帰り道は自由でいいと思いますよ」
「その言い方だと、迷うのも少し楽しそうに聞こえます」
湯気の向こうで笑った顔は、薬草屋の祝いの絵よりもずっと幼く見えた。
わたしは胸の奥が落ち着かなくなり、輪の下へ手を差し入れる。
「魚を作るところもやってみますか?形は輪に入っているので息を通すだけで出せます」
「私が触れて、壊してしまう心配はありませんか?」
「輪を曲げなければ平気です。そんなに細い銀ではありませんし」
「輪よりも魔法のほうが少し心配なのですが」
わたしが手本を見せると、彼女は慎重に輪を持った。
唇から静かに息が流れた。湯気が一度沈み、次の瞬間、わたしたちの顔の前で魚の頭が大きく膨らんだ。
棚が白く隠れ、長い尾が天井の梁まで伸びる。猫が奥の部屋から飛び出しかけ、入口で向きを変えた。
「いったん息を止めてください。床まで濡れると親方に叱られます」
「弱くしたつもりだったのですが、いま輪から手を離したら余計に崩れませんか?」
「わたしが輪を伏せるので、そのまま息を止めてもらえれば」
魚が崩れると、温かい霧が二人の肩へ降った。
エルシアさんの前髪に、小さな水滴が並んでいた。
「お借りできる布はありますか?床の水は、私に拭かせてください」
エルシアさんは輪を置き、袖を折り返した。
足元まで広がった水を避けようとして、靴の先で新しい跡をつけてしまう。
「机を拭く分も一緒に持ってきます。次はもっと小さな魚を想像してみてください」
「普段は、苦しんでいる方の息に合わせて力を送り込んでいます。今回はお魚さんが出てから加減しようとしたので遅かったのだと思います」
「出てから合わせるんですね。わたしは先に大きさを決めてしまうので」
床へしゃがんだエルシアさんの髪が、濡れた板へ触れそうになった。
わたしは作業台に置いた紐を渡し、自分も布を絞る。
「カップの中だけを手のひらで包むつもりならどうですか?」
「それなら力の置き場所がわかる気がします」
次に出した魚も、カップから尾がはみ出すほど大きかった。
何度か試すうちに、カップの縁を離れず泳ぐようになる。
「この大きさなら猫にも嫌われずに済みそうです」
彼女は膝に載せた布も忘れ、カップに顔を寄せた。
魚が一周するのを見届けると、わたしのほうへ持ち手を向ける。
「わたしが初めて出したときより、ずっと上手ですよ」
「メルさんは、どんなお魚さんを出されたのですか?」
「最初のうちはお腹を上にした魚ばかりでした。泳がせるより先に起こすところで困っていました」
「そのころにも見に来られたらよかったのにと思います」
輪を持つ指に、余計な力が入った。
魚が急にこちらを向き、わたしの鼻先で白い霧になった。
エルシアさんが口元へ手を当てた。
その隙間から笑い声がこぼれ、わたしも鼻についた水を拭いながら笑ってしまった。
***
北通りの宿では、夕食前に窓の雨戸を半分閉める。
空を渡る浮島から小さな種が降ってくるためだった。
窓辺に溜まったまま朝を迎えると、石壁の隙間に根を伸ばしてしまう。
エルシアは借りた部屋の窓を閉め、肩掛けについた種を一つずつ摘み取った。
編んだ髪をほどくと、湿り気の残っていた部分が肩へ落ちる。
洗面台の鏡をのぞき、まだ頬に張りついていた髪を指で分けた。
あのときメルの鼻先にも水がついていたことを思い出し、口元が緩んだ。
扉の向こうから宿の女主人が声をかける。
「今夜は下の広間で召し上がるかい?部屋へ運ぶこともできるけれど」
「広間でいただきたいです。濡れた服を少し乾かしてから下りても大丈夫でしょうか?」
「川へ入ってきたようには見えなかったけど、雨にでも遭ったのかい?」
「お魚さんを大きくしすぎてしまったんです。お茶の上に出すはずだったのですが」
女主人は扉の外で少し黙った。
「説明の続きを聞くならお茶より先に夕食を用意したほうがよさそうだね」
「食事のときに、お話ししてもよいですか?」
「もちろん、聞かせてもらえるなら楽しみにしているよ」
足音が階段へ消えると、エルシアは椅子の背へ服を掛けた。
鞄の底には、白樹の神殿から届いた手紙があった。
旅をともにした神官が、彼女の移った先を心配して寄越したものだった。
寝つきはどうか、食欲はあるか、誰かに遠慮していないか。
返事を書くための紙を出すと、いつものように困っていないと説明する文章が最初に浮かんだ。
ペン先を持ち上げたまま、窓へ目を向ける。
浮島の端に夕日が残っていた。根の間から落ちる細い滝が、下の雲へ届く前に霧へ変わっている。
あの島の下をかつては急いで通り過ぎた。
眠りから覚めない人々のいる村へ向かう途中で、落ちてくる水が光を帯びて見えた。
足を止めたのは、道がぬかっていないか確かめるためだった。
綺麗だと言ったかどうかは、覚えていない。
エルシアは紙へ視線を戻し、湯気の魚を見せてもらったことを書いた。
スプーンから逃げるのに、逃げた先からまた戻ってくること。
うまく泳ぐように直されたら、前のほうが好きだと言ってしまったこと。
そこまで書き、手を止める。
メルの指先には、銀を磨いた黒い粉がついていた。
前よりよくできたと思って見せてくれたのだろう。自分の言葉を聞いたとき、輪を撫でる手が止まった。
褒めるところを探してから、感想を伝えればよかったのだろうか。
そう考えかけてエルシアは、手紙の端へ小さな魚を描いた。細い尾をつけ、頭を少し上へ向ける。
自分が見たかったのは、こちらの魚だった。
メルには、好きなところを尋ねてもらいたかった。
彼女のほうにも、作っていて好きだったところがあるのかもしれない。
下の広間から食器を置く音が聞こえた。
エルシアは返事を書き終えず、ペンを置いた。
話すことが増えた手紙を急いで閉じる必要はなかった。
***
灯渡り祭の案内は、工房の扉の横に貼られていた。
空を渡る浮島が、街の大橋と並ぶ夜に行う祭りだった。
島の根に住む光虫が街へ降り、人々は窓や庭先に灯りを出して迎える。
親方は毎年、店の前へ椅子を並べ、修理を待つ客にお茶を振る舞っていた。
「今年は魚でも出してみたらどうだい?アンタが見せているあいだ、私もゆっくり飲めるからさ」
「お祭りで見せるほどのものではないと思うんですけど」
「見るかどうかは通りを歩く人が決めるさ。私は見てるからお茶を飲む席は残しておくれよ」
エルシアさんはわたしたちのやり取りを聞き、膝に置いていた手を上げた。
「私にも、お魚さんを出させてもらえませんか?もう少し練習すれば、お客さまを濡らさずに済むと思います」
「祭りの晩は神殿へ行かなくていいんですか?」
「広場の祈りは、こちらの神官さまが務められます。私は町のお祭りを見せていただくつもりでした」
「それならこんな狭い店にいるより橋のほうが綺麗ですよ」
「橋の灯りも、ぜひ見てみたいです。ここでお魚さんを出す時間も取っておきたいのですが」
わたしが返事を探しているうちに、エルシアさんが言葉を続けた。
「お茶を注ぐことならできますし、お湯も運べます」
彼女は椅子の前へ座り直した。膝から浮いた手を揃えて置く。
「メルさんだけでは忙しいと思うので」
「手伝ってもらえるなら助かります。ただ、先に器を探したいです。カップだと一緒に見るには狭いので」
「私も一緒に選びに行ってよいでしょうか?」
親方が店番を引き受けてくれた昼下がり、わたしたちは市場へ向かった。
通りには光虫を迎えるための花飾りが吊られていた。
屋根の高さを小さな郵便竜が鞄を抱えて飛んでいく。
翼の風で飾りが揺れ、下を歩く角鹿が不機嫌そうに耳を振った。
エルシアさんは人の流れを避けて歩きながら、ときおり店先へ目を向けた。
「器のお店は、この先の橋を渡ったところです」
「その前に、あちらの焼き菓子を見てもよろしいでしょうか?」
「見るくらいなら時間はあると思いますけど……」
わたしたちは紙袋を一つずつ持ち、川沿いへ下りることになった。
菓子の薄い皮には、蜜漬けの実が包まれていた。
温かいうちに齧ると中身が流れ、わたしはすぐに指を汚した。
エルシアさんは包み紙を広げ、わたしの手の下へ差し入れる。
「端から少しずつ食べると、こぼれにくいですよ」
「わたしは毎回、真ん中から食べてしまうんです。柔らかそうなところが先に目に入るので」
「私も旅の途中で何度も手袋を洗いました。急いで食べようとすると、余計に時間がかかるんですよね」
「聖女さまの旅には、食事を用意する人もついていたと思っていました」
「用意をしてくれる方はいました」
彼女は紙袋を持った手を少しだけ胸へ寄せた。
「焼き菓子を買いに行くのは前からお好きだったんですか?」
「知らない町へ行くと食べてみたくなりました。見たことがないと味も想像しにくいですから」
「その割には、さっきはずいぶん遠慮していましたけど」
「今日はメルさんと器を買いに来たので。私だけの寄り道で退屈させたくありませんでした」
川の向こうから、荷を下ろす人の掛け声が届いた。
浅い水の中では、透けたヒレを持つ魚が石の間をゆっくり泳いでいる。
背中に当たった光が水面へ返り、川底に淡い輪を作った。
「魚を見つけたら、わたしも寄り道を頼むと思います」
「それなら先に見つけたほうが誘うことにしませんか?」
「焼き菓子ばかり見つけても怒らないでくださいね」
エルシアさんは笑い、欄干の下を指さした。
魚が丸い実を押していた。自分の口には入らない大きさなのに何度も鼻先を寄せている。
「旅の途中で、ああいうお魚さんを見たことがあります。流れてきた実をずっと運ぼうとしていました」
「その魚は、最後まで運べたんですか?」
「出発の時間になってしまって見届けられませんでした。いまでもあの実は重たそうだったと思い出します」
わたしは紙袋を畳み、鞄から術式を書きつける紙を出した。
「反対側からもう一匹来たらどうでしょう?二匹で押せば動くと思ったのに、お互い逆から押してしまうんです」
「それは一度相談したほうがよさそうですね」
「話が通じすぎると見ていてすぐ終わってしまうので」
「せっかく二匹になったのですから、もう少し泳いでいてほしいです」
エルシアさんは紙の端へ、指先で小さな線を描いた。
「実だと思っていたものが、貝だったらどうでしょう?ようやく並んで押そうとしたときに、自分で歩いていってしまうんです」
「エルシアさんは、魚には意外と厳しいんですね」
「困ったあとで、どうするのか見たいだけです。私にも続きを考えさせていただけるなら、お魚さんたちをいつまでも困らせませんよ」
わたしたちは欄干に紙を広げ、魚の進む方向を描いた。
風で端がめくれるたび、エルシアさんが押さえてくれる。
彼女の爪は短く整えられ指の節には細い傷が残っていた。
祝いの絵の白い手には、描かれていなかった傷だった。
器の店へ着いたときには、予定していた時間が過ぎていた。
わたしは口の広い陶鉢を選び、エルシアさんは白い小ぶりのボウルを両手に載せた。
どちらも浅く、底まで光が届いていた。
彼女の選んだ器には、縁に薄緑の葉が描かれていた。
一か所だけ釉薬が欠け、白い素地がのぞいている。
「こちらならお魚さんの顔が近くで見えそうです」
「二匹出したら少し窮屈になるかもしれませんよ」
「近づいて見てもらうことは、できないでしょうか?昨日はメルさんと一緒にのぞくのも楽しかったので」
わたしは浅い陶鉢を持ったまま返事を忘れた。
店主が奥から出てきて、エルシアさんを見るなり背筋を伸ばした。
「白樹の聖女さまではありませんか?このような器でよければ、どうぞお持ちください」
「普通に使いたいので代金は払わせてください。工房のお祭りでお魚さんを出すために選んでいるんです」
「祭りにもお出になるんですね。お会いできたら皆が喜びますよ。白樹の花が空に開くところを一度でいいから見たいと言う者もいまして」
「あの花は、眠りの呪いをほどくときに出るものです。お祭りのために咲かせるものではないので……」
エルシアさんは器を抱え直した。
店主へ顔を向けたまま、親指で白い縁をなぞっていた。
「これは余計なことを申し上げました。聖女さまがいらしてくださるだけで充分ありがたいことです」
わたしは棚の上に立てかけられた大皿を見た。
白樹の花が空へ広がった夜の話なら、わたしも知っていた。
黒い塔に絡んだ枝がほどけ、谷に眠っていた人々が目を開けたという。
それを知る人が、カップの魚を見に来る。
顔を寄せなければ、ヒレの動きも見えないような魚を。
「メルさん、こちらの器を買ってもよいですか?」
「もちろん、そちらも使うと思います。わたしは大きいほうをもう少し見てきますね」
店を出るとき、わたしの荷物は行きよりもずっと重くなっていた。
***
工房へ戻ったエルシアさんを見送り、わたしは大皿を作業台へ置いた。
窓の外では、浮島が夕日を覆い始めていた。街の影が急に濃くなり、天井の灯り石がゆっくり明るくなる。
親方はわたしの荷物を見て片眉を上げた。
「魚を泳がせるにはずいぶん広い器を買ったね」
「お祭りなので少し高いところまで出せるようにしたいんです。後ろに立つ人にも見えるように」
「作りたいならやってみればいいさ。預かっている修理は先に片づけておくれよ」
わたしは夕方の仕事を終え、引き出しの奥から薄い封筒を出した。
春に受けた魔法職人の試験で返された術式だった。
赤い線が何本も引かれ、熱を送れる距離が短いことや、動きが安定しないことを書き込まれている。
試験の日、隣の受験者は、離れた水瓶から水を汲み上げてみせた。
その隣では、折れた車軸がひとりでに持ち上がった。
わたしの魚は、机の上の湯気から離れられなかった。
親方は、役に立つ道具を作る試験だから仕方がないと言った。
次は修理で覚えた術式を持っていけばよいとも言ってくれた。
わたしは紙を捨てず、引き出しへしまった。
見返さなければ、気にならないと思っていた。
炉の前へしゃがむと、火蜥蜴がわたしの手を待って顔を出した。
乾いた木の実を一つ渡し、その赤い背へ指を近づける。
「今夜は少し長く働いてもらっていいかな?終わったら炉の灰を新しくしておくからさ」
火蜥蜴は木の実を噛み砕き、炉の奥へ戻った。
わたしは大皿の縁に合わせ、銀の帯を曲げ始めた。
***
祭りの前々日、裏庭で初めて大きな輪を動かした。
地面に置いた皿から光を含んだ鳥が飛び立つ。
軒先を越えて輪を描き、羽を広げたところで花の形へ変わった。
エルシアさんは庭の中央で空を見上げていた。
風が彼女の袖を膨らませ、解けかけた編み込みを揺らす。
光の花が肩へ降る前に消えると、彼女は開いた手を見てからわたしへ顔を向けた。
「一つの輪からあれだけ違う形を出しているんですね」
「途中で線を切り替えているんです。お湯を足せばもう少し長く続けられると思います」
「最後の一羽だけ違う方向へ飛びましたが、あれも決めてある動きですか?」
「そこは祭りの前に直しておきます。輪を広げると端の形が少しずれてしまうので」
「私はあの一羽が気になりました。どこへ行きたいのか続きを見てしまって」
わたしは大きな輪を見下ろし、端の線を指でたどった。
飛ぶ高さは揃ったつもりだったのに、まだ横へ流れるところが残っている。
「目立ってしまうなら、先にそこを直しますね」
「目立つから悪いというお話ではなくて、あの一羽について聞きたかったのです」
エルシアさんは輪から目を離し、椅子のそばへ戻った。
布の上に置いていた白いボウルを取り上げ、こちらへ持ってくる。
「お魚さんのほうも、合わせて練習しますか?貝を押すところは、まだ難しそうですが」
「魚は今回は出さないほうがいいと思っています。上を見たあとでは見落とされてしまうので」
「最初に見てもらう順番にするのは、どうでしょうか?」
「人は途中で入れ替わりますし、できれば大きいものに揃えたくて。エルシアさんは輪を触らなくても、横にいてくれるだけで大丈夫です」
ボウルを持つ彼女の手が止まった。
わたしは説明の紙を取り、鳥を出すための線を指でなぞる。
「わたしが形を変えるあいだ、熱を保ってもらえれば助かります。エルシアさんの力なら難しくないと思うので」
「その役目ならできると思います。私が練習していたお魚さんは、どこで出せばよいのでしょう?」
「すみません、そちらの練習は無駄にしてしまいました。でも、これなら聖女さまを見に来る人にも恥ずかしくないと思うんです」
裏庭の隅で、干していた布が風に膨らんだ。
エルシアさんは布の動くほうへ一度目を向け、わたしへ視線を戻した。
「お魚さんを出すことは、恥ずかしいのでしょうか?」
「エルシアさんに楽しんでもらえたのは嬉しかったです。ほかの人も同じように見てくれるか、わからないでしょう」
「わからないのでしたら、見ていただいてもよいのではありませんか?親方さんは、お茶を飲みながら眺めてくださいました」
「親方は、わたしが作ったものならたいてい褒めてくれます。エルシアさんだってこういう魔法には慣れていないでしょう」
「慣れていないと好きになってはいけないのでしょうか?」
ボウルを支える彼女の指が、縁に白く押しつけられていた。
わたしは開きかけた口を閉じ、言い直す言葉を探した。
「そういうことを言いたかったわけじゃないんです」
「では、どういうことだったのか、教えていただけますか?」
わたしは紙の端を握り直した。
何の説明も足さずに、謝ればよかったのかもしれない。
彼女に尋ねられると、隠していたものまで答えなければならない気がした。
「わたしは魔法の資格試験にも落ちています。聖女さまが毎日来ているのが名もない工房の娘の遊びだって、そんなふうに思われたくなくて」
「試験に落ちたことは、親方さんから伺いました。お魚さんを見せてもらうことと、関係があるとは思いませんでした」
「エルシアさんは気にしなくても周りの人は気にします。わたしも気にしてしまうんです……」
彼女はボウルを椅子の布へ戻した。
底が傾いていないか確かめる指先をわたしは黙って見ていた。
「私がここへ来るとメルさんは試験を受けているような気持ちになるのでしょうか?」
「毎回、そんなふうに考えていたわけではありません」
「私はお魚さんを見たくて来ました。次にメルさんが何を作るのか聞きたくて来た日もあります」
「今回の魔法もエルシアさんに見てほしくて作ったんです。喜んでもらいたかったので」
彼女の目が、大きな輪から白いボウルへ移った。
わたしもつられてそちらを見た。エルシアさんは来てから何度もボウルへ手を伸ばしていた。
「私が何を喜ぶのか、もう少し聞いてほしかったです。横に立っているだけの役は、したくありません」
言い終えても、エルシアさんはわたしから目をそらさなかった。
声を荒らげられるよりも、その静けさの中で返事を待たれることが苦しかった。
「そんなに嫌なら無理に手伝ってもらわなくても大丈夫です」
「嫌なのは一緒に作っていたつもりのものが、私の知らないところでなくなっていたことです」
エルシアさんは鞄から手帳を出しかけ、指を止めた。
口を開きかけて閉じ、ゆっくり息を吐く。
「今日は、一度帰って考えさせてください。いま続けると、頑張って作ってくださったものまで悪く言ってしまいそうなので」
「ここへ来るかどうかは、エルシアさんが決めていいことですから」
よそよそしい返事になった。
彼女はわたしの顔をしばらく見てから、やかんを持ち上げた。
裏庭の扉へ向かう足音が、いつもよりはっきり聞こえた。
扉が閉じても、わたしは大きな輪を持ったまま立っていた。
皿の湯が冷め、最後に残っていた光が、濡れた土の上で消えた。
***
その夜、わたしは白いボウルへお湯を注いだ。
台の隅には、エルシアさんが持ってきた茶葉が残っていた。
包みを開くと、乾いた果実の香りがする。
一人分にするつもりだったのに、カップに余るほどのお茶ができた。
銀の輪を載せると、魚がスプーンの手前で引き返した。エルシアさんに頼まれて戻した泳ぎ方だった。
わたしは引き出しから、初めてこの動きを考えたときの紙を探し出した。
親方は奥で時計を組み立てていた。
工具の音が止まり、しばらくして足音が近づく。
「今日はお客さんが早く帰ったんだね」
「わたしが勝手に出し物を変えてしまったので」
「二人でやる話だったろう?相談する前に決めてしまったのかい?」
「魚よりちゃんとしたものを見せたかったんです」
親方は台の上のボウルへ目を落とした。
「その魚を作っているときのあんたは、ずいぶん楽しそうだったよ」
「楽しんで作るのと人に見せられるのは別です」
「人に見せたいから目の動きまで作ったんじゃなかったのかい?」
魚はスプーンへ近づくたび、小さな頭を傾けていた。
わたしが何度も描き直した動きだった。
「親方は、どうしてそんなところまで覚えているんですか?」
「毎晩同じ机で作っていたら目にも入るさ。あんたが見せたい日にしか私は見ていないわけじゃないからね」
親方はカップを持ち、残っていたお茶を注いだ。
わたしが次の言葉を待っていると、熱いお茶を慎重に飲み、口元をしかめる。
「どちらにするかはあの子と話しておいで。私が決めたらまた相談相手を間違えることになるよ」
奥へ戻る背中を見送り、わたしは古い紙を輪の横へ置いた。
書き直した線が重なるところを指で追い、スプーンの前で向きを変える魚と見比べた。
ボウルの向こうに、誰も座っていなかった。
わたしは椅子を引き寄せ、エルシアさんが座っていた側から魚を見た。
そこからは、スプーンの影が長く伸びていた。
魚が引き返すと、丸い顔が正面に見える。
逃げたあとで戻ってくるときには、こちらへ何か聞きたそうにも見えた。
わたしはボウルを回さず、そのまましばらく眺めた。
翌朝、親方へ店を空ける相談をしていると、入口の鐘が鳴った。
エルシアさんは戸口に立ち、やかんを胸の前に抱えていた。
肩掛けの裾には、朝の道でついたらしい小さな種が絡んでいる。
「昨日のお話をもう一度してもよいでしょうか?お仕事が先でしたら終わるまで待っています」
「わたしもエルシアさんに会いに行こうと思っていました。ちゃんと謝りたいことがあるので」
親方はわたしたちを見比べ、猫を抱えて奥へ向かった。
わたしは作業台の上を空け、カップを二つ並べた。
「見慣れていないからだなんて失礼なことを言いました。好きだと言ってもらったものをわたしが勝手に引っ込めようとしたことも」
「私も大きな魔法を作っているのは知っていました。楽しそうだったので、お魚さんも一緒に出すのだと思い込んでいたんです」
「聞いてくれたときにちゃんと答えるべきでした。わたしは説明するばかりでエルシアさんの話を聞いていなかったです」
やかんが一羽の鳥の声で知らせた。
エルシアさんは湯を注ぎ、わたしのカップを少し手前へ寄せてくれた。
「あの大きな鳥は、メルさん自身も作りたいものだったのですよね?」
「形が変わったときは面白かったです。屋根の高さまで飛んだところも早く見せたいと思いました」
「私もあの鳥について聞きたいです。お魚さんを出さないと知ってから落ち着いて見られませんでした」
「気を遣って褒めなくても大丈夫ですよ」
「褒めるかどうかは見てから決めさせてください。昨日は途中で消えてしまいましたから」
わたしはカップから手を離し、棚へ立てかけた大きな輪を見た。
エルシアさんの視線は、その隣にある白いボウルへ向いていた。
「昨日のお魚さんも、しまわずに置いてあるんですね」
「戻した泳ぎ方を昨日もう一度見ていたんです。実を押すところも少し試したんですけど、まだうまくいかなくて」
「そちらも見せてください。見てから感想をお伝えしたいです」
わたしはボウルを二人の間へ置いた。
輪に息を通すと、魚が姿を現した。スプーンを怖がって引き返し、後ろに出てきた魚の頭へぶつかる。
エルシアさんの肩が小さく揺れた。
「いまのところは、笑ってもよい動きですよね?」
「ぶつかるように作ってあるので遠慮なく笑ってください」
「二匹とも自分は悪くないと思っているように見えます」
「顔の形は同じなのに不思議ですよね。動かし方でそう見えることがあるんです」
彼女は輪の縁へ指を添えた。
少しずつ息を送ると、一匹が彼女のほうへ泳いでいく。
わたしは反対側から息を通し、もう一匹を動かした。
「昨日は好きだと何度も言わせてしまいました。わたしにはそれだけで充分だったはずなのに」
「充分だと決めなくてもよいと思います。もっと綺麗に作りたい日もあるでしょうから」
「綺麗にしたかったのか、すごいと言ってほしかったのか、途中から混ざってしまいました」
「すごいところを見つけたら私もそう言います。お魚さんがスプーンを確かめに戻ったときにも、そう思ったんですよ」
彼女の魚がスプーンへ近づき、途中で止まった。
その向こうをわたしの魚が横切ると、少し迷うように頭を振ってから追いかけてくる。
「ただ、お魚さんを出すたびに私の顔を確かめられると、少し困ります。何を言えばメルさんが安心するのか考えてしまうので」
「そんなに顔ばかり見ていましたか?」
「私が笑うまで、次の動きに進まないことがありました」
わたしは指を止めかけ、魚が崩れる前に息を整えた。
「それはかなり恥ずかしいです。もう少し魚のほうを見ます」
「私も、言いたいことを選びすぎていました。お手伝いだと言っておけば、断られても困らない気がしたんです」
「手伝う以外にしたかったことがあったんですか?」
「お魚さんを私の好きなようにも動かしてみたかったんです。メルさんがまだ考えていないことを私もやってみたくて」
彼女の声は、最後だけ少し小さくなった。
わたしは輪を回し、彼女が触れるところを広く空けた。
エルシアさんはわたしを見てから、ボウルへ向き直った。
魚が大きく曲がり、わたしの魚を追い越してスプーンの向こうへ逃げる。
「その動きはわたしの紙には書いてありませんよ」
「この動きは、私が考えたものにしてもよいですか?」
「わたしの魚が置いていかれてしまうんですけど」
「戻ってきますから、少し待っていてください」
逃げた魚は、器の縁で向きを変えた。
わたしの魚の前まで戻り、今度は隣へ並んで泳ぎ始める。
わたしが少し息を強めると、追いつこうとした彼女の魚が勢い余って頭をぶつけた。
「いまのは、わざとではなかったんですが」
「さっきより面白かったので、そのまま残したいです」
「毎回同じように失敗するのは、かえって難しそうです」
わたしは紙を引き寄せ、魚がぶつかった位置を描いた。
エルシアさんはボウルを見ながら、空いているほうの手で紙を押さえる。
風が入ってきても、端がめくれなかった。
「鳥とお魚さんを見せる場所は、分けてみませんか?」
「鳥が出ているあいだに、お茶の用意をするんですか?」
「待っている方に上を見てもらって、座った方にはお魚さんを見ていただきます。私もお茶を注ぐだけで終わらずに済みます」
「それなら変な方向へ飛ぶ鳥は直さずにおこうかな」
「あの子がどこへ行くつもりなのか、お話を考えてみたいです」
「鳥の相談相手まで増えると祭りまでに間に合わなくなりそうですね」
エルシアさんは笑い、空いていた椅子を窓際へ動かした。
自分で腰を下ろして庭を見上げ、次はその後ろに立って椅子の位置を少しずらす。
わたしは大きな輪を床から持ち上げた。彼女が空けてくれたところを通り、皿を裏庭へ運び出す。
空には薄い雲が流れ、その上を浮島の根がゆっくり進んでいた。
根の間で光虫が目覚め始め、昼の明るさの中にも、淡い緑の光が見える。
エルシアさんは肩掛けを椅子へ置き、袖を折り返した。
わたしも皿に湯を足し、輪を載せる場所を空けた。
「お魚さんの前に、あの鳥をもう一度見せてもらえますか?昨日、聞きそびれたことがあるんです」
「どんなことか先に聞いても大丈夫ですか?」
「ほかの鳥から離れたあとで、あの一羽は少し低く飛びました。戻りたいのか、どこかへ降りたいのか、メルさんはどちらだと思って作ったのでしょう?」
わたしは輪の端に残した線を見た。
失敗した動きとして囲んだ印が、まだ紙の上に残っている。
線を指でたどると、鳥が低くなるところで湯気の流れが少し緩んでいた。
「どちらも考えていませんでした。飛び方がずれたところをエルシアさんが見つけたんです」
「それなら、いま考えてもよいでしょうか?私はあの子にも休める場所を作ってみたいです」
彼女は庭の隅へ行き、倒れていた植木鉢を起こした。
土のついていない側をこちらへ向け、手のひらで高さを示す。
「このくらいの場所まで降りてこられますか?」
「輪を動かして試してみましょう。そこへ留まるかどうかは、鳥を出してから相談させてください」
わたしは輪を大皿へ載せ、エルシアさんの手が離れるのを待って銀の内側へ息を通した。
光の鳥は鉢の上をひと回りすると、縁へ足を下ろした。羽を畳みかけ、落ち着かない様子でもう一度広げる。
「ここを気に入ってくれたのでしょうか?」
「もう少し、このまま見ていましょう」
輪へ伸ばしかけた指を下ろし、わたしも彼女の隣へしゃがんだ。
光の羽が揺れるたび、二人の袖に同じ色が映った。
聖女さまが好き。
四連休だったので。




