獣は獲物をただでは渡さない
もう5000字も書いてたのか?全然気づかなかった……
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午前8:17・ネットワークセキュリティ科階段教室
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教室は環状のアリーナ式設計で、中央にはホログラム投影講台がある。「オリンポスのみ」に奉仕するエリート生のため、周囲を囲む三層の浮遊席も中環帯のものより規模が小さい。
光は穹窿の天窓から降り注ぎ、温度は24℃に保たれている。空気には「集中力向上」と謳う淡雅な香り——人体の情報受容効率を高めるフェロモン——が漂っていた。
そしてネットワークセキュリティは、このエリート生たちの必修科目の一つである。
由夢は第二層の端の席に座っていた。雪のような白い長髪を指先で軽く整え、だらりと自然に垂らしている。
寮のクローゼットに用意されていた標準の黒い制服に着替えていたが、少しだけ手を加えてあった。袖口は広げ、手の動きを妨げないように。襟元は緩め、信号増幅をしやすくするために。
「彼女が昨日来なかった新入生?」
「……なんで白髪なの……」
「……ちょっと可愛くない……?」
「……」
年老いた教授が壇上で退屈な自己紹介と年間計画を読み上げている。だがエリート教育を受けた生徒たちにとっては、白髪の新入生の方が授業内容よりはるかに興味深い。
しかし由夢は、まさにそれを狙っていた。
感情偽装モジュールによって、彼女は外界に対して最も自然な様子を見せることができる。近づきがたく見えながらも、周囲への無邪気な好奇心に満ちているように。
強化された知覚で、範囲内の全対象の発言と生理的反応を取得し、優先的に対処すべき目標を特定する。
他人の目には、彼女はただ真面目に授業を聞く優等生に映る。
同じ第二層の男子生徒が立ち上がり、由夢の隣に座ろうとする。
「こんにちは、あの……」
その時、教室の扉が勢いよく開かれた。
孤鍵が入ってきた。
相変わらず継ぎの当たった黒い制服をだらりと着崩し、両手はポケットに突っ込んだままだ。
教室中の視線が瞬時に彼に集中する——驚愕、嫌悪、好奇、畏怖。彼はそれらを一切無視し、まっすぐ第二層へ向かう。
ただ一瞥しただけで、その男子生徒はうつむき、黙って元の席へ戻った。
そして、由夢の隣の空席に腰を下ろした。ひそひそ声が潮のように広がる。
講台上の教授が眼鏡を押し上げ、孤鍵が座った方へ向けて、あからさまな嘲笑を込めた口調で言う。
「おや?今日は海面が引いたのか?我らが名高い孤鍵君が、まさか授業に顔を出し、しかも何の『小さな贈り物』も持たずに?」
語尾は歯ぎしりするような響きだった。教授は去年の事故を思い出し、視線を由夢と孤鍵の間で往復させる。
「由夢さん、何か問題があればいつでも報告してください。孤鍵君にはどうかお気をつけて」
教室に、押し殺した笑いが漏れる。
前列の濃紺の制服を着た数人の男子生徒が振り返る。鷹司蒼が眉を上げ、明らかな嘲笑を浮かべている。
少し離れた場所では、アリスが優雅に口元を手で覆い、軽く笑っていた。その目には嘲笑が満ちている。
「可哀想に……来たばかりなのに、あの『落ちこぼれ』に目をつけられて……」
かすかな女性の声を、由夢の強化された聴覚が捉える。
囁きは細かく散らばり、毒蜂の羽音のように絡みつく。
由夢は首を傾げ、孤鍵に向かって友好的な微笑みを浮かべた——ただし声は、二人にしか聞こえない周波数で紡がれる。
「タイミングは上々ね、K。対処すべき『標的』は確定したわ」
孤鍵が鞄から革のノートを取り出す動作が一瞬止まる。口元の空間をわずかに操作し、同じ音量で返す。
「なら、あまり時間はかけないでくれよ、夢」
教授はこれ以上孤鍵にかかずらうつもりはないとばかりに、鼻で一喝し、講義を再開した。
しかし教室の空気は変わっていた。微妙な敵意と探るような視線が、二人の周囲に絡みつく。
由夢はそれに対処するつもりはなかった。彼女の意識は、ネットワークログに向けられている。
孤鍵が教室に入った瞬間、監視システムの強度が三段階引き上げられた。続いて四つの外部IPによる不正アクセス——すべて、今回の孤鍵の行動データを狙ったものだ。
彼女は学院から支給された仮想ノートパッドを机に置き、他者には見えないインターフェースを画面に重ねる。
偽装の行動ログと上書き映像がデータベースに注入される。教授は相変わらず退屈な講義を続け、由夢は「熱心に」聞き入っているように見える。孤鍵は時折、紙に波形図やパターンを描いている——他人には何の意味も持たないそれらを。
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午前10:45・屋上休憩区「禅境雲間」
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授業が終わり、由夢は数人の学生からの「コーヒーでも」という誘いを婉曲に断り、単身で最上階の休憩区へ向かった。
ここは庭園風に設計されている。高低差のある地形に竹林が広がり、築山の周りには遺伝子編集を施されたイチョウが植えられている。
数組の草蒲と茶器がこの雲上の空間に点在し、学生たちは研究課題について議論したり、単純に人工栽培の茶葉を楽しんだりしている。
由夢は隅の、視界の開けた場所を選んだ。
湯を沸かしながらも、傍らの乾燥茶葉には手を伸ばさない。雲海を眺めているように見えて、その実、中央の主建築を高速で解析している。
「一般教室、講堂……事務室、実験室……」
『幻酔桜樹』が建築物外側の構造と設備を分析し、環境変数から各フロアの部屋割りを推測する。
「エネルギー中枢……あ、見つけた……サーバークラスタ」
さらなる分析に移ろうとした瞬間、背後から穏やかで、磁気を帯びた声がかかる。
「景色は素晴らしいですね」
由夢は振り返らない。しかし、発せられた声とこれまで収集したデータから、識別情報が瞬時にホログラムとして投影される。
——アレクサンダー・ロスチャイルド。
彼は三メートルの距離に立っていた。金髪は一筋の乱れもなく整えられ、完璧に仕立てられた特注の制服——深灰の生地に、胸元には暗金色の通天塔の徽章が輝く。
顔に浮かぶ微笑みは、過剰な熱意も、かといって冷淡でもない、標準的な「エリート式の友好」だった。
「本当に、素晴らしいわね」
由夢は礼儀正しい微笑みを返す。
「ロスチャイルド……さん?」
「アレクサンダーで構いません」
彼は二歩進み出て、自ら茶壺に湯を注ぐ。動作は無駄がなく、慣れた手つきだ。
「入学したばかりとは思えない。楓さんの成績——正直なところ、驚きました」
淹れた紅茶を茶杯に注ぎ、感覚だけで角砂糖を一つ入れ、由夢の手元にそっと置く。
「運が良かっただけよ」
由夢は茶杯を手に取り、口をつける。甘さは——完璧な均衡だった。
「謙遜は美徳ですが、行き過ぎはよくありません」
アレクサンダーは自然な動作で対面の座に腰を下ろす。
「私のような立場の者が言うのも妙ですが……率直に伺います。楓さんも、学院のカリキュラムをやや保守的だと感じませんか?」
その合図とばかりに、二人の私設警護がこのエリアの学生たちに退去を促す。ついてきた女生徒たちが、ため息を残して去っていく。
由夢は内心で冷笑しながらも、興味を示したような表情を完璧に作る。
「ええ……伝統的な暗号アルゴリズムや防御戦術に偏りすぎている感は、正直……」
アレクサンダーが即座に話題を掬い上げる。
「まさにその通りです。私も学生革新委員会の会長として幾度となく改善案を提出しましたが、いまだに実現には至っていません」
「ああ……そうなんですね。私、生体配列読み書きアルゴリズムについて教授に相談しようかと思ってたんですけど……」
由夢が何気なく落とした言葉に、アレクサンダーの両目が微かに輝いた。
「興味深い着想ですね。次のクラブ活動では、前代未聞の白熱した議論が巻き起こることは間違いないでしょう」
「ふふ、そんなに大げさなものなんですか?」
由夢は思わず笑みをこぼしたように見せ、表現パラメータを微調整する。アレクサンダーがそれに気づくように。
「率直に申し上げますと、我々のクラブでは、体裁より知識への渇望が勝ることがままあります。私自身、つい先日も……」
——アレクサンダーは数日前、ネオンカラーのサーバーを抱えて自室で舞踏を踊った記憶を、脳裏から全力で追い出した。
「失礼。クラブには、学院では決して教授されない、自主的に収集・研究した資料も豊富に揃っています。それに——」
彼もまた茶を一口含み、手首の通信機で信号妨害装置を起動させる。
「——父から機密情報の外部漏洩は固く禁じられてはおりますが、楓さんのような天賦の才をお持ちの方と、いずれ共に働くことが叶うなら、これ以上の喜びはありません」
由夢は瞳孔をわずかに開き、彼の次の言葉を待つ。
「グループが現在開発中の、次世代インターフェースプロトコルについて——私自身、研究が不十分な点も多く、ぜひ楓さんの見解をお聞かせ願えませんか?クラブ活動の時間に、私たちの施設へ」
由夢は茶杯を置き、ためらいと緊張の混ざった表情を見せる。
「とても魅力的なお話ですが……私、人付き合いが得意ではなくて。クラブへの参加は、遠慮させていただこうかと……」
アレクサンダーの微笑みは崩れない。
「活動条件は楓さんに合わせて調整します。我々のリソースを、ご不便なくご活用いただけるよう——」
そして、声のトーンをわずかに落とす。
「——さらに、私の名において警護を付け、孤鍵君からの……ご迷惑をおかけすることも、未然に防ぎましょう」
由夢は首を傾げ、長い髪を肩先に滑らせる。無垢そのものの表情を作って。
「孤鍵……くん?」
アレクサンダーは微かに嘆息した。
「入学されたばかりでは、ご存じないのも無理はありません。彼もまた、嘗て私が対話を試みた天才の一人です。ですが彼は、その才の価値を理解しようとせず、学院内で問題を起こしてばかりいる。多くの者が、彼を快く思っていません」
彼は手を鞄へと伸ばす。
「この学院の頂点に立つ者は、世界的大企業の子弟か、あるいは——招かれた『普通の人間』だけです」
アレクサンダーが差し出したのは、一枚のホログラム名刺。透明で、精緻を極めた結晶体。それは単なる連絡先ではなく、彼の庇護下にあることを示す証明書でもあった。
由夢の指先が、無意識に茶杯の縁をなぞる。彼女は秤にかけ、計算し、待っていた。
そして——何かを視認したかのように。
「……考えさせてください」
アレクサンダーの瞳の奥で、一瞬、勝利の色が走る。
彼は立ち上がり、名刺を差し出した。
「いつでもご連絡ください、由夢さん」
由夢がそれを受け取ろうとした——その刹那。
「——手を出す気か」
依然として平坦な声が、近くの竹林から響いた。
孤鍵は瞬時に二人の警護をかわし、差し出された名刺を掴み取る。凍結。そして、地上に叩きつけて粉々にした。
彼の鋼青色の瞳には、何の感情も、光さえも宿っていなかった。ただ、空間の温度だけが、確実に数度低下した。
アレクサンダーの笑みが、かすかに歪む。声音に、初めて起伏が生まれた。
「孤鍵君。それは、あまりに無作法ではありませんか?十万潮汐ポイントの工芸品ですよ。審査会に諮ることも可能ですが」
「そういえば、まだ三十万貸してたな。それについては追究しないでくれるか?」
二人の警護が即座に前進するが、アレクサンダーの一声で制止される。孤鍵に続きをさせろ、と。
「私と君との間に、とりたてて遺恨はない。だからこそ、私に君の行動を理解する理由がない」
孤鍵は由夢を背後に庇う。その瞳からは、完全に光が消え失せていた。
「——だが、お前が彼女に手を出すというなら、話は別だ」
アレクサンダーの表情が、わずかに曇る。唇が、かすかに動いた。
「……そういうことか」
彼は由夢を見た。何かを言いかけて——しかし飲み込み、無言で背を向ける。
手を振るだけで警護を従え、階段へと消えた。
「初舞台としては上出来じゃない?ギリギリAはあげるわ」
由夢の顔に、あの浮薄な笑みが戻る。指で孤鍵の背中を軽く突いた。
「縄張り宣言ってやつ?」
「……かつての俺なら、絶対に言わなかった言葉だ」
孤鍵は己の顔を掌で覆い、低く呟いた。
「その感じよ。『異常』に見えるほど、元から君を恐れてた連中は私に手出しできなくなる」
由夢はくるりと回り込み、孤鍵の正面に立つ。
「でも彼の言う通り、どのグループも、背景のない私を獲物として狙うでしょうね。だから——」
彼女は顔を上げ、銀白色の瞳で真っ直ぐ孤鍵を見据える。
「——一度で、全部の面倒を終わらせる機会が必要なの」
「次の大きな学院行事は?いつ?」
孤鍵は一呼吸置き、学生端末を起動させる。
「過去の慣例とトラフィック変動から計算する限り……三週間後、『暁光』総合競技会が開催される。全学院都市規模で、期間は五日間」
「建前は能力披露、技術共有、親善交流。実態は——各グループの人材スカウト窓口だ。データベースの呼び出しは通常時より格段に増える」
由夢の瞳が、静かに輝きを増す。
「——すごく、賑やかになりそうね」
その輝きは、危険で、そして致命的だった。
——すべてのアクセス記録のIPを逆追跡できるかもしれない。
——会場で、上層部のアクセスキーを窃取できるかもしれない。
——あるいは。
彼女の口元が、刃のように鋭く弧を描く。由夢は孤鍵に、手を差し出した。
「一緒に、派手にやらない? K」
孤鍵は、差し出された手を見る。そして、彼女の瞳を見た。
屋上を吹き抜ける風が、竹林を揺らす。二人の髪先を、同じ風が撫でた。
鋼青色の瞳に、初めて——明確な、灼けるような興味が灯る。
彼は、その手を握り返した。
「——計画を聞かせろ」
由夢「生体配列読み書きアルゴリズム,これ…DNAの二進法です」
アレクサンダー「そうでしたか?私たちの話し合いの結果とは少し違うんですが……」
由夢「アハハ......」




