第1話『忘れられた回廊』④
時間は粘性を帯びた沼のように重く流れた。
静寂の歯車は受付前で石像のように立ち、誰も無駄口を叩かない。
視線だけが行き交う。
ギルドホールの熱気の中で囁きは膨らみ、湿ったざわめきとなって貼りついた。
「おい、まだ居座ってるぞ」
「何を見つけたんだ、あいつら」
「近づくな。幽霊に関わると面倒になる」
声は遠慮がない。軽口と嫉妬と恐れが混ざり、どれも浅い。だが耳に残る。
リーナは奥歯を噛みしめた。さっきのゴラッハの吐き捨てた言葉がまだ喉に刺さっている。
周囲の視線は矢より鈍く、長く肉を削る。
反射で言い返したい衝動が波のように押し寄せるが、視界の端に揺るがない背中がある。
レンだ。命じられてはいない。だが、あの背中は待機を示している。ならば従うのが契約だ。
拳を開く。呼吸を整える。胸の内の熱は大盾の内側に押し込める。
(私の役目は殴り返すことじゃない。ここで刃を抜くのは、負けだ)
クラウスは意識して周囲を切り捨てた。視界の端で動く冒険者たちを、実験に不要な雑音として心の外へ滑らせる。残すのは石碑の文字列だけ。赤に変じた一節が脳裏に浮かぶ。
(「傷口を塞がんとする抗体」……ならば迷宮は器官の一種だ。荒唐無稽、だが整合する箇所が多すぎる)
理は組み上がるのに、証拠が足りない。撤退を止められなかった苛立ちがまだ残る。だが、あの脈動が危険域だったことも、レンが告げていた。
(資料が要る。禁書庫には文献があるだろうか)
指先が無意識に空で文字の形をなぞる。揺れる心を図式で縫い留めるように。
ミーシャは小さく身をすぼめた。魂の目は閉じても勝手に色を拾う。軽蔑は灰。好奇は薄い黄。嫉妬は濁った緑。そうした色が渦を巻き、彼女の皮膚へ細い針のように刺さる。
(見ない。数える。ひと息で四まで。もう一度)
訓練通りに呼吸を刻む。レンの背にぴたりと影を重ねると、針の痛みが少し鈍った。
(大丈夫。レンのそばにいると自然とやすらぐ。言葉とは違う優しい光が私の心を癒してくれる)
自分に言い聞かせる言葉は、小枝のように細い。折れないようにそっと握る。
レンはただ待った。リーナの熱は上がり、クラウスの思考は過飽和に近く、ミーシャの波は細い。が、どれも異常なし。許容範囲。
取るべき道は整理済みだ。
(報告の受理、拒否、どちらも想定されるがどちらで来てもいい。扉の向こうで何が待とうとこちらには選択肢がある)
時間は伸び縮みする。酒場の笑い声は遠のき、カウンターの羽根ペンの音だけがやけに大きい。静寂の歯車というあだ名は、この待機を指して生まれたのかもしれない。言葉も流さず、立ったまま嵐が過ぎるのを待つ。
「いつも無傷だ」
「まだいる」
「怖いな」
「関わるな」
射抜くほどの悪意はない。だからこそ厄介だ。曖昧な感情は、どの刃よりも読みにくい。
リーナは視線を微かにずらし、ミーシャが息を刻むのを確認した。胸の奥の熱が別の形に変わる。怒りではない。守りだ。
肩に入っていた力を半拍抜き、大盾の角度を変える。隣に立つだけで、彼女に向かう視線の一部は自分に流れる。
(分け合えるものは分け合う。戦場だけの話じゃない)
クラウスは自分の苛立ちが言葉になりそうな瞬間を押しとどめた。
(早く情報が欲しい。次は証明する。言い負かすためじゃない。示すために)
ミーシャは自分の指先を見た。細かな震えはまだ残る。だが逃げ腰ではない。
(怖がっているのは弱さじゃない。見えてしまう方が、時々ただ辛いだけ)
彼女は弓の弦に触れず、代わりに矢筒の口を軽く押さえた。現実の手触りで、心をいまに繋ぐ。
レンは視線を上階の扉へ向ける。階段の踊り場がわずかに明るい。誰かが動いた気配がある。
(来る)
呼吸を一つだけ深くする。胸の内で、報告の導入を短縮版と長尺版に分けて並べ替えた。どの肩書が現れても迷わない順番で。
張り詰めた時間は、そこで終わりを告げた。
上階から硬い靴音が降りてくる。金具の打たれた扉が開き、空気がわずかに入れ替わった。ホールのざわめきが細くなる。誰もが顔を上げた。
静寂の歯車は同時に首を上げる。準備は済んでいる。返す言葉も、譲れない線も。心の歯車が一斉に噛み合い、音を立てずに回転を上げた。
受付嬢エララが階段を下りてきた。彼女の隣には初老の男。
レンズやルーペで膨らんだ多ポケットのローブ、深く刻まれた皺、鉱石を値踏みするような鋭い眼差し。歩みは速く、迷いがない。
「お待たせいたしました、静寂の歯車の皆様」
エララは張りつめた声で告げる。
「鑑定部門の統括責任者、鑑定士長のガランにお越しいただきました。以後のご報告は、彼が直接承ります」
鑑定士長のガランはレンたちをじろじろと見回したあと、口をゆがめる形でにやりと笑った。
「……お前たちが噂の静寂の歯車か。なるほど、面白い顔をしている。特にお前だ」
彼の鋭い眼差しがレンを射抜く。視線の奥で、老人の思考がわずかに蠢いた。
(古代エーテリオンに連なる何かか。……さて)
「話はエララから聞いている。面白いものを見つけたそうじゃないか。……ここは耳が多い。奥の鑑定室へ来い。お前だけでいい」
なぜレンだけなのか。周囲にさざ波が立つ。リーナの眉がわずかに寄り、クラウスの瞳に興味と不満が同時に灯る。ミーシャは反射的にレンの背に重なる。
レンは振り返らない。背中の合図だけが走る。待機。問題なし。
ガランが導く方向へ、彼は迷いなく歩を進めた。
重い扉がギシリと鳴り、背後で閉じる。ギルドホールの喧騒は遠のいた。満ちるのは静けさと、年月の匂い。
鑑定室は工房の趣。床から天井まで引き出しだらけの棚が並び、ラベルには「グリフォンの爪」「ミスリル原石」「古代エーテリオン歯車」などの文字。古い羊皮紙の乾いた匂いに、金属の微かな香気が混じる。
部屋の中央でガランが魔道具を起動した。水晶が淡く光り、薄膜のような静寂が室内に落ちる。
「これで外には漏れん。さて」
革張りの椅子に深く腰を預け、老人はレンを射抜いた。
「聞かせてもらおう。お前たちが十二階層で何を見て、どう動いたのか」
レンは表情を変えず語り始める。石碑の形状と材質。
クラウスが読み解いた二つの文言。『星気、飽和す。封鎖は塞ぎにあらず、流し直すこと要す』『断片的だが、その手はあらゆるものを浄化する』。
読み上げの直後に起きた色調変化と脈動。空間に満ちた圧。ミーシャが掴んだ危険域の感覚。事実だけを順序立てて誇張なく。
最初は腕を組み、眉間に皺を寄せて聞いていたガランの顔つきが、語りが進むにつれ険しく変わる。
「……そして撤退した、と。目の前に歴史を塗り替える代物がありながら、背を向けた。理由は何だ。恐怖か。功名心に飲まれた仲間を御せなかったか」
「未知の変数が許容量を超過しました」
レンの返答は即座。抑揚はないが、淀みもない。
「石碑の機能は不明。反応の条件も不明。あのまま交戦または干渉を継続した場合、不確定要素が多く、対応が後手に回ります。私の優先順位は依頼の完遂ではなく全員の完全帰還。撤退以外の選択肢はありませんでした」
老人は小さく息を呑み、数拍ののちに低く笑った。呆れと、別種の感心が混じる。
「なるほど。あの三人の空回りの歯車が化けたわけだ。お前は指揮官であると同時に、あの集団の安全装置だ」
彼は机の引き出しから古い羊皮紙を取り出し、慎重に広げる。
「お前らが見た石碑はこのギルドの最高機密に類する。過去にも似た記述が残っている。……と言っても、報告書ではない。生還者のうわごと、あるいは血で滲んだ日誌の断片だ」
羊皮紙にはパーティ名と依頼の概要、そして赤い全滅の印。老人の声が沈む。
「どれも断片的だが共通している。歌う石を見た、壁の文字が血のように光った、星に見られている気がした。ずっと狂人のうわごとと片付けられてきた。だが、お前たちは違う。生きて戻り、観測と順序を持つ記録を初めて寄越した」
ガランはレンから書面を受け取り、厳重な封蝋の箱に収める。鍵が回り、重い金属音が室内で短く跳ねた。
「本件はこの瞬間からギルド最高機密に指定する。鑑定部の権限では足りん。私から議長に直接上申する」
議長。冒険者ギルドの頂点、アイゼン・ジェラルト、天秤と呼ばれていた元Aランク冒険者。この段階で名が出るのは、レンの予測にもなかった誤差の大きい分岐だ。眉がわずかに動く。
老人は立ち上がり、皺だらけだが骨の通った手をレンの肩に置く。目は笑っていない。
「最後に命令だ、指揮官レン・ヴェリタス。今日ここで見聞きした一切を話すな。仲間にも話すな。外には危険な魔素溜まりを確認、ギルド判断で当該区画は一時封鎖とだけ伝えろ。そして、二度とあの石碑に近づくな」
間を置き、言葉をもう一つ重ねる。
「お前たちのパーティは特別監視対象になる。罰ではない。守るためだ。特にその調査力と慎重さは頼りになる。だが同時に、何を叩き起こすか分からんからでもある」
レンは頷いた。反論はない。想定の波紋はあった。だが、その広がりがこれほど速く、かつ最大波高で最上層に届くとは計算していない。変数が増えるほど、選択は狭まる。
(最優先は変わらない。全員の帰還。次に主導権。残りは切り捨ててよい)
扉が再び軋み、鑑定室の密やかな空気が背後に閉じ込められる。ギルドホールの熱と声が雪崩れ込み、現実が戻る。
レンの視線の先に三人の仲間。リーナは姿勢を崩していない。クラウスは目だけで問う。ミーシャは胸の前で指を組み、小さく息を止めた。




