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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
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第20話 天秤の采配

救護所は、戦場の続きをそのまま屋内に押し込めたような場所だった。


担架が行き交い、怒鳴り声と泣き笑いが混ざり合う。薬草と酒精と血の匂いが、重たい空気を薄く塗り替えている。


静寂の歯車の四人は、その渦の中にまとめて放り込まれていた。


「だから、走るなって言ったでしょ」


簡易ベッドの端で、リーナの膝を診ていた医務官が、呆れたようにため息をついた。


「走ってないって。ちょっと歩き方、試してただけよ」


「そのちょっとのせいで、さっきまで貼ってた治癒符が無駄になりかけたんですよ。筋はもう繋がってるんだから、しばらくは痛いけど動く程度で我慢してください」


「……はいはい」


リーナは渋々といった様子で脚を引き、ベッドの上に投げ出した。皮膚はすでに塞がっているが、深部の軋みが、闘技場で受け止めた一撃の重さをまだ覚えている。


隣の仕切りでは、クラウスが肩を押さえられていた。


「骨には異常なし。抉られた分は符である程度埋めてありますが、動かし方を間違えると裂けますよ」


白衣の男が、肩に巻かれた包帯の上から軽く叩く。


「腕を頭より上に上げるのは禁止。詠唱の動きも、しばらくは最小限で」


「……高位魔法使いに、身振り控えろとは贅沢な注文だな」


「贅沢でもなんでも、死にたくなければ従ってください」


クラウスは口の端をわずかに歪めただけで、反論は飲み込んだ。肩の奥に残る鈍い痛みが、雄叫びの震えと混じって、じんじんと響いている。


ミーシャは、簡易ベッドの上で膝を抱え込んでいた。


外傷はほとんどない。ただ、魂を直接叩きつけられたせいで、頭の奥の拍だけがまだ揺れているようだった。


「眩暈は?」


若い治療師が問いかける。


「……さっきよりはまし。落ちてた感じは、ちゃんと戻ってきてる」


ミーシャは胸元を押さえ、小さく息をついた。


さっきまで、胸の内側がずっと底抜けの井戸みたいだった。真紅の雄叫びが連れていこうとした場所から、かろうじて引き戻されてきた感覚がある。


最後に回されたのが、何故か一番ボロボロだったはずの男だった。


「レンさん」


医務官が眉をひそめる。


レンは、診察台の上で黙って座っていた。包帯は最小限。符で綺麗に処置された傷跡だけが、ところどころに薄く残っている。


見た目だけなら、一番軽傷だ。


「肋骨は?痛みますか」


「動かなければ特には」


「触診した限り、ひびもありません。外側は、ですけど」


医務官は、じっとレンの顔を覗き込んだ。


「……外傷は問題ない。問題は、そっちのほうですね」


こめかみを指先で軽く叩く。

レンは目を伏せた。


「少し、疲れているだけです」


「その少しで倒れる人間を、ここで何人も見てます」


医務官は、書類に何かを書き込みながら続けた。


「最低三日は、下層禁止。中層も様子を見て。睡眠を削るのも駄目です。夢見が悪くても、休める時間は休んでください」


「了解しました」


返事は素直だったが、その声音に重さが混じっていることを、同じパーティの三人はちゃんと聞き分けていた。


――静寂の歯車の四人がまとめて並んでいるのは、それだけでも珍しい光景だった。


そして、その周囲には、見慣れた顔ぶれがもう何組もいた。


重厚な大盾をベッドの下に立てかけ、腕をぐるぐる回している大柄な男。

折れた槍の穂先を眺めながら、苦笑している女戦士。

鎧の上から符を貼られつつ、何やら愚痴をこぼしている魔導士。


高ランクパーティたちが、まとめて救護所に詰め込まれている。


「……そりゃ、帰り道が静かなわけだわ」


リーナがぽつりと漏らした。


二十九階層から上の帰路。

やけに敵影が少なかったのを、不自然だと思いかけていた。


その答えは、ここに揃っていた。

隣のベッドから、がらついた声が飛んでくる。


「お前らが奥でとんでもないのと暴れてるって話を聞いてな。上がってくるリザードマンの群れ、途中でだいぶ間引いたんだよ」


ごつい腕の男が、包帯だらけの片手を軽く振る。見覚えのあるギルドプレートが胸元で鈍く光った。名を聞いたことのある、Aランクパーティーの盾役だ。


「十六から二十の辺りで、群れが妙に上を目指してた。あれ、放っときゃまた封鎖線の悪夢だったぜ」


「……助かりました」


クラウスが素直に頭を下げる。


「こちらの帰路の戦闘が少なかったのは、あなた方が上側で押さえてくれていたおかげです」


「貸し借りにする気はねえよ」


男はにやりと笑った。


「こっちはこっちで、ツケを払ってるだけだ。お前たちは、お前たちの分を払った。それで帳尻は合う」


その言葉に、レンの指先が微かに止まる。


支払った授業料。

黒塗りの報告書で隠されていた敗北。

その残響が、救護所の狭い空間の中で交差していた。


「……いずれ、詳しく聞かせてください」


レンが静かに言う。


「聞くだけなら、いつでもな」


男は、ベッドの枠を軽く拳で叩いた。


「生きて帰ってきて、酒場で話を聞き出せ。そういう約束にしようぜ、新しいAランク」


「まだその札はもらってません」


リーナが思わず笑い、クラウスも肩で短く息を吐いた。

ミーシャは、その会話を聞きながら、胸の奥で小さく拍を数えていた。


闘技場の赤黒い静寂。

封鎖線の、耳をつんざく咆哮。


そのどちらも、ここにいる者たちの体に刻まれている。

――自分たちだけじゃない。


そう思えることが、ほんの少しだけ、心を軽くした。




数日後。


最低限の安静期間を消化し、外から見える傷がひとまず落ち着いた頃。静寂の歯車は再びギルド本部へ呼び出された。


場所は、作戦会議室の一つ。大評議会の間よりはこぢんまりしているが、壁の天秤の紋章が、この部屋が「決裁」の場であることを主張していた。


長机の向こう側には、副ギルドマスターのレナが座っている。その隣には、書類の山と魔導符板、それから幾つかの封筒。


「まず」


レナが書類から顔を上げた。


「深淵の迷宮第三十階層における観測報告書。確かに受理しました。全体の精度と量について、ギルド本部評価班から過去最上位の評価が出ています」


「最上位」


クラウスが眉を上げる。


「黒塗り前提の報告書も含めて?」


「含めて、です」


レナは淡々と答えた。


「特に、雄叫びの影響範囲と、柱の出力変動についての数値化は、前例がありません」


レンは、ほんの僅かに顎を引いた。


「前例がない、というのは、必ずしも褒め言葉には聞こえませんね」


「ギルドにとっては最高の褒め言葉ですよ。前例がない情報こそが、次の判断の材料になります」


レナは符板に触れ、空間に簡略化された図を展開した。

闘技場を模した楕円。

その中央に立つ柱。

根元から下層へ伸びる細い線。


「まず、柱の役割について。あなたたちはどう解釈しましたか?」


問いは、明らかにレンへ向けられていた。

レンは一度だけ息を吸い、いつもの調子で答え始める。


「第三十階層の柱は、迷宮内部に閉じた免疫装置です」


「免疫装置」


「はい」


レンは頷いた。


「沈黙の森側にあった導管の調整施設と役割が似ていますが、こちらは外界の導管と繋がっていないぶん、もっと乱暴な構造をしている」


符板上の柱の根元に、レンの指先が触れる。


「闘技場周辺で増えすぎた魔晶石や、暴走した魔素の塊を、空間ごと位相消去して魔素に戻す焼却炉。あの消去線は、そのための刃です」


レナが静かに頷く。

クラウスが補足を入れた。


「真紅の胸板に埋まっていた結晶板は、その焼却炉の心臓みたいなものだ。拍が柱と同期していた」


闘技場で見た光景が、脳裏によみがえる。

真紅の胸板が脈打つたびに、柱が応え、階層全体の魔素が揺れた。


「あいつは、単なる番人じゃない」


リーナが腕を組む。


「焼却炉の管理人でもあった。運搬して、スイッチを入れる係」


「真紅が運んできた魔晶石や、闘技場に落ちた異物を、柱がまとめて消去する」


ミーシャの声には、まだあの赤の残滓が微かに混じっていた。


「でも、柱はやりすぎてた。魔素を下に落とす流れが太くなりすぎて、第三十階層だけじゃなく、その下まで汚してた」


レナが視線を細める。


「沈黙の森のときと、同じ傾向ですか?」


「近いですが、出口の位置が違います」


レンは、図の下方に新たな線を描き加えた。


「沈黙の森は、導管が折れて地上側に漏れた結果、森が沈黙しました。こちらは、迷宮内部の下層に向かう落とし穴になっていた。真紅の雄叫びと組み合わさることで、リザードマン全体を上へ押し上げる圧になっていたと思われます」


柱から下へ伸びる線が、赤く光る。


説明を聞きながら、ミーシャは無意識に喉を鳴らした。沈黙の森で見た赤黒い魔晶石と砕けた結晶の破片が、図面の線と重なってしまう。


「魔素の逆流を利用して、群れ全体を上に押し出す……」


クラウスが呟いた。


「つまり、スタンピートの呼び水そのものだな」


「はい」


レンは短く答える。


「本来は迷宮の中で完結するはずの免疫装置が、長期運用の歪みで外に溢れかけていた。真紅を放置しておけば、いずれ十層封鎖線どころでは済まなくなる」


レナは机の上のペンを指で転がした。


「――だから、討伐した」


言葉というより、確認だった。


レンは目を逸らさない。


「当初の依頼が現状調査だったことは理解しています」


自分の声が、妙に冷えている。


「ですが、あの時点で真紅を残して撤退した場合、上層にかかる圧は次の周期で確実に悪化していた。雄叫びの波形から見て、リザードマンの行動制御も強化される可能性が高かった」


ゲリックたちの黒塗りの報告書が、頭の隅でめくれる。


〈撤退命令、遅れ〉。


削り取られた行の向こう側にあった光景を、今度は自分たちが知っている。


「調査のために撤退して、次の隊が踏み抜く未来が見えたのであれば」


レンは静かに続けた。


「その授業料を、僕たちの分割払いで済ませたほうが、帳簿としてはまだましだと判断しました」


部屋に短い沈黙が落ちる。

レナは、その沈黙を最後まで乱さなかった。

やがて、扉がノックもなく開く。


天秤の紋章付きのマント。

銀糸の縫い取り。

ギルドマスター、アイゼン・ジェラルトが入ってきた。


「説明は聞いていた」


天秤の男は、部屋の後方に立ったまま言う。


「第三十階層の主、真紅のリザードマンを討伐。柱の出力を抑制。迷宮内部の免疫機構に一時的な沈黙を与えた。――概ねそういう理解でいいな?」


「はい」


レンが頷く。


「柱自体は破壊していません。消去機能も、完全停止ではなく出力制限。闘技場周辺で一度魔素を散らしてから、細い流れとして下層へ落ちる状態に調整しました」


「沈黙化一次完了」


クラウスが、報告書の用語を口にする。


「長期的な維持と、より安全な調整は、ギルドと工匠組合の仕事だと明記してあります」


「責任の押し付け先も抜かりないな」


アイゼンの口元が僅かに笑う。その笑みは呆れよりも、評価寄りの色を帯びていた。


「よろしい」


ギルドマスターはレナから一通の書簡を受け取り、封蝋を軽く叩いた。赤い蝋の上に、天秤の紋章。


「静寂の歯車」


アイゼンの声が、部屋の空気を締める。


「ギルド大評議会および本部評価班の裁定を伝える」


彼は書簡を開き、形式ばった口調で読み上げた。


「任務名、『深淵の迷宮・第三十階層、真紅のリザードマン現状調査依頼』。当該任務において、対象特異個体は討伐され、第三十階層の魔素流は基準値内に一時安定したことを確認」


レナの符板が、それを裏付けるように淡い光を放つ。


「報告書は、過去の黒塗り部分を含めた記録の空白を大部分埋めるものであり、今後の深層攻略および対スタンピート政策において、最重要資料と位置づける。――よって」


アイゼンはそこで一拍置き、視線を四人に向けた。


「静寂の歯車を、本日付でAランクパーティとして登録する」


空気が、はっきりと変わった。

リーナの喉が上下する。

クラウスの指先が机の縁をわずかに叩く。


ミーシャは瞬きすら忘れていた。

レンだけが、帳簿の書き換えに追われていた。


(BからAへ。ギルドの帳簿上で、リスクとリターンの欄が別ページに移る)


依頼の質。

報酬の額。

政治の干渉の度合い。

すべてが、一段変わる。


「……異議は?」


アイゼンの問いに、四人はほぼ同時に首を横に振った。

異議を挟める余地など、最初からない。


「では、手続きを」


レナが立ち上がり、四人の前に一枚ずつ証書を置く。硬い羊皮紙に刻まれた名とランク。その下に、天秤の紋章とギルドマスターの署名。


「おめでとうございます」


レナの声はいつもどおり抑揚が少ない。けれど、その目の奥には、わずかな安堵と、別種の緊張が同居していた。


「これであなたたちは、正式に天秤の上に乗りました」


「今までは?」


リーナが思わず問い返す。


「まだ載せる前の計量段階です」


レナはふっと笑った。


「これからは、一つひとつの選択が、そのまま世界の秤にかかる」


「聞こえがいいんだか悪いんだか」


リーナが苦笑する。

レンは、そんなやり取りを聞きながら、証書の重さを掌で確かめた。

――その直後、アイゼンが指を鳴らした。


エララが一歩前に出て、机の上に四枚の牌を並べる。

黒地に天秤と歯車の紋章。

Bランクの鉄牌より重く、縁には魔術刻印が走っている。

リーナが目を瞬かせ、それから口の端を吊り上げた。


「やっと来たか」


クラウスは肩をすくめる。


「妥当だな。やってることだけ見れば」


ミーシャは、黙って牌に触れる。金属越しに伝わる、わずかな魔素の抵抗。


「……重い」


ぽつりと漏らした声に、エララが申し訳なさそうに笑う。


「Aランクの牌は、持ち主の状態を簡単に判別できるよう、ちょっとだけ仕掛けがあって……」


「監視用ってこと?」


リーナの突っ込みを、レナの咳払いが遮った。


「――報酬と、Aランク規約の説明に入る」


机の上に、新たな羊皮紙の束が積まれる。表紙には、『Aランク登録規約/特例条項・沈黙案件担当』の文字。


嫌な予感を覚えつつも、レンは黙って耳を傾けた。


「まず、今回の真紅のリザードマン討伐そのものに対する報酬から」


レナは事務的に言う。


「三十階層での戦闘、柱暴走の停止、上層域への被害抑制。これらを合わせた基礎報酬は金貨三百枚。危険度補正と、王都防衛への寄与度を加算し――」


視線が四人をなぞった。


「最終的な支払額は、金貨八百枚」


リーナが素で声を上げる。


「は!?桁、間違えてない?」


「間違えようがありません」


レナはきっぱりと言い切る。


「深淵の迷宮が王都に近いこと、十層封鎖線にかかっていた人員と費用、そのすべてを考えれば、まだ安い」


アイゼンが口元だけで笑った。


「そして次が、沈黙の森に関する報酬だ」


空気が少しだけ重くなる。

沈黙の森。

魔素逆流と結晶暴走が起きた森の調査と一次封じ込め。


あの時は、とりあえずの危険度評価と対処に対する報酬だけが支払われた形になっている。


レナは、別の羊皮紙を広げた。


「沈黙の森については、二段階でお前たちへの報酬を確定させる」


指を一本立てる。


「ひとつ目。すでに終わっている調査と一次封じ込めに対する最終精算だ。当時は、森の価値が不明だったため、暫定の依頼料しか支払われていない。その後の解析で、森の地下に広がる晶石脈が、王国全体の魔導炉運用と歳入に与える影響が判明した」


クラウスが、じっと聞いている。


「結果として、沈黙の森は国家級資産と定義された。それを踏まえ、発見者かつ初動対応者である静寂の歯車に対し――」


レナははっきりと告げた。


「追加の成功報酬として、金貨二百枚を支払う」


リーナが眉を跳ね上げた。


「……森の分で二百」


「そうだ。真紅討伐の八百と合わせて、今回まとめて支払う」


ミーシャが指折り数え、小さく息を呑む。


「……千」


「千金貨で合ってる」


クラウスが苦笑する。


「家どころか、小さな庭付きの屋敷くらいなら余裕だな」


「一生、真面目に冒険者やらなくても食っていける額よね」とリーナが半分冗談みたいにこぼし、現実味のない数字に、かえって背筋がひやりと冷えた。


「二つ目だ」


レナは、そこで言葉を区切った。


「沈黙の森は、今すぐに掘り尽くせる場所ではない。危険度が高く、安定化のための工事や術式整備に、まだ年月がかかる。だから、一度きりの報酬だけで終わらせない」


彼女の視線が、レンたちに向く。


「王国は、将来、沈黙の森を正式な採掘区域として運用した場合――森から得られる年間の純利益の一%を、『静寂の歯車』名義で毎年支払う」


リーナが瞬きを忘れた顔で固まる。


「……ちょっと待て。利益の一%って、今の王都の歳入の話じゃなくて?」


レナは頷いた。


「そうだ。王国全体ではなく、沈黙の森という事業から出る利益の一%だ。採掘量が多ければ多いほど、お前たちの取り分も増える。採掘がうまくいかなければ、少額かもしれないが、それでもゼロにはならない」


クラウスが静かに息を吐いた。


「……要するに、森が動いている限り、毎年金が入ってくるってことか」


「簡単に言えばそうなる」


レナは淡々と続ける。


「これは、『沈黙の森を見つけたのがお前たちである』という事実への対価だ。土地を丸ごと与えるわけにはいかないが、そこから生まれる利益の一部を、お前たちのものとする」


ミーシャが、少しだけ目を見開いた。


「森が、ミーシャたちのふるさとになる、ってこと?」


「所有権ではなく、関わりを持ち続ける権利だな」


クラウスが言葉を探すように答える。


「森を売り飛ばして逃げることはできないが、森を捨てて忘れる必要もない。あそこの未来が良くなれば、お前たちの未来も少し良くなる。そういう形だ」


レンは黙って聞いていた。

一回きりの大金と、長期的にじわじわ効いてくる取り分。


「……わかりやすい報酬です」


ぽつりとそう言うと、レナがわずかに目を細めた。


「わかりやすくした。こういう契約は曖昧にしておくと、いつか誰かが泣くことになるからな」


アイゼンが、そこで区切りをつけるように手を打つ。


「報酬の話は以上だ。次は、Aランクとしての義務の話になる」


レナが、別の羊皮紙の束を持ち上げた。


「Aランク規約。静寂の歯車向けの特例条項を含めて説明する」


淡々とした声が、大広間に響く。


「第一条。戦略級案件への優先対応義務」


「深淵の迷宮、沈黙の森、導管異常。これらに関してギルドが指名した依頼が発生した場合、静寂の歯車は原則として最優先でこれに応じる義務を負う。」


ミーシャが、視線を落とした。


「……やっぱり、そうなる」


「ただし」


レナは続ける。


「全滅の危険が高いと、隊長が判断した場合、拒否はできる。その際は必ず、代わりの案を提示すること。他パーティとの合同作戦、王国軍の投入、依頼内容の分割など」


「撤退の手順と同じですね。逃げ方もセットで考えろと」


レンが短く答える。


「そう解釈して構わない」


「第二条。中立義務」


「Aランク冒険者は、特定の国家・派閥の専属戦力になってはならない。王子派、宰相派、帝国、神聖国その他。どこかの私兵になった時点で、ギルドは資格停止を含む裁定を行う」


リーナが鼻を鳴らす。


「王子の犬にも、宰相の犬にもなるな、ってことね」


「言い方はともかく、内容はその通りだ」


レナは表情を変えない。


「ただし、特定の派閥の依頼を多めに受けることまでは禁じない。そこは、お前たち自身のバランス感覚に任せる」


「第三条。機密保持義務」


空気が一段階重くなる。


「沈黙の森の構造、結晶化現象の詳細、深淵の迷宮三十階層の柱、真紅のリザードマン。これらに関する情報は、ギルドと王家の共同機密だ。第三者への伝達は禁止。研究や共有が必要な場合は、必ずギルド本部を通すこと」


ミーシャが、おずおずと口を開いた。


「……ミーシャの森の長老たちには?」


「危険の概要説明までなら許可する。


ただし、具体的な数値や構造、術式の内容は駄目だ」


レナは即答した。


「どう危ないかまでは共有しろ。どう使えるかまでは教えるな。線はそこに引く」


リーナが小さく舌打ちする。


「えげつない線ね」


「第四条。国外遠征の申請義務」


「帝国領、神聖国、東方諸国……王国の外に長期遠征する場合、事前にギルド本部へ申請し、許可を取ること。理由は単純だ。スタンピートの兆候が出たとき、主力が海外でしたは、悪い笑い話にしかならない」


レンは、心の中で帝国の地図を思い浮かべた。


「第五条。後進育成義務」


レナが最後の条項を読み上げる。


「推奨事項だ。年に数回、Bランク以下の冒険者向けに講習会を行うこと。内容は、戦術、索敵、撤退手順、ダンジョン安全管理。もちろん講師料は支払う。ただし、Aランクである限り免除はされない」


クラウスがため息をついた。


「教官までセットか」


「死人が減れば、結局はお前たちの負担も減る」


アイゼンが、珍しくはっきりとした口調で言う。


「沈黙の森も、真紅の階層も、知らなかったから死んだ連中が山ほど出ている。その分を少しだけ、前払いで減らしておけ」


レンは、目の前の羊皮紙に視線を落とした。

一度きりの大金。

沈黙の森から、これから先ずっと入ってくる取り分。


そして、その代わりに背負う義務と制限。

リーナが視線だけで問う。

どうする、と。


レンは、短く息を吐いた。


「……退路の形が見えているなら、まだましです」


三人の視線が集まる。


「何も知らされないまま巻き込まれるよりは、ずっといい。


縛りの位置がわかっていれば、その上でどう動くかを考えられる」

口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。

紙の乾いた手触りが、前の世界で見た契約書の記憶と一瞬だけ重なり、胸の奥で古い傷がきしりと鳴った。


「静寂の歯車として、署名します」


彼はペンを取り、自分の名を書き込んだ。

それに続いて、リーナ、クラウス、ミーシャの名前が並ぶ。

四つの署名が揃った瞬間、机の上の牌がかすかに光った。

アイゼンが立ち上がる。


「これで、お前たちは正式にAランクだ。


沈黙の森の未来にも、深淵の迷宮の行く末にも、お前たちの名前が紐づけられた」


レナが締めくくる。


「――報酬も、責任も、どちらも相応だと思え」


レンは、掌の中の牌を握り直した。

重い。


だが、その重さが、今ここにいる四人が「まだ、生きている」ことの証拠でもあると、どこかで理解していた。


アイゼンが、最後に短く言葉を足す。


「ギルドとしては、静寂の歯車を英雄候補として扱う。――ただし、その名札は飾りではない。次に踏み抜いたとき、背負わされる責任もまた、桁が違う」


「承知しました」


レンは簡潔に答える。


「生きて戻れ。その命令は、これからも変わらん」


静寂の歯車は、新しい階層に足を踏み入れた。

今度は、金と規約と思惑が渦巻く、人間の迷宮の方へ。




王城・高層の一室。

窓辺の机の上に、一通の報告書が広げられていた。


表紙にはギルド本部の紋章。

その下に記されたタイトル。


〈深淵の迷宮・第三十階層特異個体討伐および免疫機構一次沈黙化報告〉


ユリウス王子がそれを静かに読み上げる。


「……討伐、ですか」


対面に座るアリアが、指先で紙の端を撫でた。

沈黙の森。

十層封鎖線。

そして、真紅のリザードマン。


一つひとつの報告書が、彼女の前に積み重なっていく。


「静寂の歯車は全員生還。多数の負傷。ギルドの裁定により、本日付でAランクへ昇格」


ユリウスは淡々と読み進める。


「王家への公式報告としては、深層における危機の一時収束および将来の深層攻略に向けた基礎資料の獲得」


アリアは文字を追いながら、短い一文に目を止めた。


〈過去の敗北記録において黒塗りとなっていた部分の多くを、本報告書により補完し得た〉


「黒塗りを、塗り替えた……」


アリアは息を吐くように呟く。


「彼らが払った授業料で、昔の授業料がようやく意味を持ち始めた、というところでしょうか」


ユリウスの言葉に、アリアは微かに笑みを浮かべた。


「酷い言い方ですね」


「授業料という比喩を好んだのは、あなたですよ」


「ええ。だからこそ、責任も感じています」


アリアは立ち上がり、部屋の隅の小さな机へ向かう。

そこには、まだ途中のまま置かれた巻物があった。清浄な羊皮紙の上に、細い文字が連なっている。


彼女は筆を取り、静かに続きを書き始めた。

その先に描かれる未来に、静寂の歯車という名が、確かに刻まれていくことを知りながら。

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