第19話 授業料の清算
静寂が、ゆっくりと戻ってきた。
闘技場の中心から、真紅の拍だけが消えている。
それでも、完全な沈黙には程遠かった。
足元の床を通じて、まだ「どこか下へ」吸い込まれていく細い流れがある。
柱の根元で赤黒がかすかに明滅し、そのたびに、耳の奥で弱い心音みたいな揺れがした。
退路側の通路は、相変わらず黒い輪に縁取られたままだ。
逃げ道は、まだ開いていない。
レンは立ち上がり、柱のほうへ視線を向けた。
真紅は倒した。けれど、この試験場そのものを止めないかぎり、同じことが何度でも繰り返される。
赤黒は、さっきよりさらに薄い。
それでも、完全には消えない。
天井近くまで立ちのぼっていたはずの「柱の拍」は、今は根元に押し込められたようになり、そこから細い管だけが、下層へと伸びている感覚だった。
「ミーシャ。今の流れ、どう見える」
「……さっきまでの渦は、なくなってる」
ミーシャは目を細め、魂視で柱を見つめる。
「でも、細い管みたいなのは、まだある。真紅がいたときほどじゃないけど……魔素が、下にだけ落ちてる」
沈黙の森で見た、あの嫌な尖りと同じ質。
真紅という番人を失った柱は、それでも、役割だけは続けようとしている。
狂った魔素と、結晶と、ここで消えた命を、どこか一点へと送り続ける管として。
「退路側は?」
「輪っかは、少し薄くなってる。でも……」
ミーシャの眉間に皺が寄る。
「観測符を投げたら、まだ消えると思う」
「試すしかないな」
クラウスが、一枚の観測符を指で弾いた。
符はふわりと浮かび、通路の口へ滑っていく。
輪の縁に触れる直前で、符の光が一瞬だけ瞬き――そのまま、ふっと掻き消えた。
「……出力は落ちてるが、まだ口としては生きてる」
クラウスが短くまとめる。
「このまま放っておけば、階段ごと削り続けるだろうな。上への出口が閉じたまま、下だけが繋がった状態で」
「つまり、今ここで塞ぐしかない」
レンはそう言って、腰のポーチを探った。
結界符の束。十六層の逆流現象のときに使ったのと同じ型だ。
魔素そのものを止める力はないが、流れの向きを変えたり、速度を落としたりすることはできる。
「柱を壊す気?」
リーナが眉を上げる。
「壊すのは最終手段だ」
レンは首を振った。
「ここで完全に折れば、三十階層より下の免疫がどう暴れるか読めない。沈黙の森の二の舞だ」
あのとき壊れていたのは枝管だった。
今回は、「焼却炉」そのものだ。
「やるのは、あくまで沈黙化だ。ここから余計な信号を出させない。上にも下にも、だ」
「具体的には?」
「柱の届く範囲の、少し外側に結界を並べる」
レンは観測符の光を確かめながら、床に円を描いた。
「さっきまでの波形だと、暴れていたときの直径は二十メートル前後。今は縮んで十もないが、最悪のほうで見ておく」
闘技場の床に、ゆっくりと円が形になる。
「この内側が、ダンジョン本体の免疫の領域だ。触れたものを片っ端から削る。俺たちが手を出せるのは、その一歩外側まで」
「結界で、何をする」
「魔素の流れを崩す。今は下へ吸い込む細い管になっている。そこへ横から波をぶつけて、普通の渦に戻す」
レンは結界符を四方に配りながら続ける。
「今の柱は、吸った魔素を全部、下へ落としている。だから導管が折れたときと同じ症状になる。下へ流れた分だけ、あの下層の空気が重くなる」
レンは、自分の肺の奥の重さを確かめるように、浅く息を吐いた。
「だから、一度ここで散らす。闘技場の周りに、薄く吐き出させる。ここまでの息苦しさを、均一に薄める」
「……焼却炉の煙突をいったん塞いで、排気を室内に回す感じか」
「そんなところだ」
クラウスが、痛む肩を押さえながら、慎重に詠唱を始めた。
結界符が、柱から一定距離を保つように空中に浮かび、薄い膜を張っていく。
「レン、自分の分の結界は?」
「すぐ戻る」
レンは、結界符の一枚を手にしたまま、柱のほうへ歩み寄った。
観測符の光が、足元でわずかに弱まる地点。
そこが、柱の届かないぎりぎりの外縁だ。
レンはそこで足を止め、手の中の結界符を、闘技場の空中へと投げ上げた。
符が、柱と彼らの中間に小さな膜を張る。
その瞬間、柱の根元で赤黒が一度だけ強く脈打った。
「ミーシャ!」
「見えてる!」
ミーシャの魂視には、柱と下層を繋いでいた細い管が、膜に弾かれるように揺らぐ様子が映っていた。
管が、ぶれた。
一直線だった流れが、結界の縁を舐めるように広がり、闘技場の壁際へと散っていく。
「……呼吸、戻ってきてる」
ミーシャがぽつりと言う。
「さっきまで落ちっぱなしだった魔素が、一回だけ戻ってきた。細いけど……行ったり来たりしてる」
「出力は?」
「下に落ちる量は、だいぶ減ってる。今のままなら……沈黙の森より、ずっとマシ」
レンは小さく頷いた。
「クラウス、維持できるか」
「この程度の結界なら、救護所に戻るまでは保つ」
クラウスは汗を拭いながら言った。
「長期運用は、ギルドと工匠組合の仕事だ。ここは、データ付きで応急処置したところまでが俺たちの役目だな」
「判定としては?」
「――沈黙化、一次完了でいいだろう」
レンはそう結論づけた。
柱は、まだそこにある。
消去の機能も、完全には止まっていない。
だが、闘技場全体を飲み込んでいたあの赤黒い拍は、もう感じられなかった。
足元を通る流れも、さっきまでのように「下へ引きずる」感覚はない。
ひたすら下へ伸びていた「尖った管」は、輪郭を失い、闘技場の中でゆっくり渦を巻くだけになりつつある。
「退路は?」
リーナの問いに、ミーシャが通路の輪を見やる。
「……さっきより、ずっと薄い。試す?」
「今度は、俺が投げる」
レンは、予備の観測符を一枚取り出し、通路口へと投げた。
符は輪をくぐり――わずかに揺れただけで、そのまま通路の内側へ滑り込んだ。
消えない。
「……通れるな」
クラウスが安堵混じりに息を吐いた。
「完全に安全とは言えないが、一歩目で足首から消える状態は脱した」
「じゃあ」
リーナが、ウォーハンマーを肩に担ぎ直す。
欠けて下半分を失った大盾は、すでにアイテムボックスの底に放り込んである。代わりに、予備の小型盾を左腕に固定していた。
しかし、重量のあるウォーハンマーは今のリーナには負担が大きい。階段付近では両方まとめて一時収納するよう、レンが視線で促した。
「助かる。授業の続きは、地上でってことね」
「地上に戻るまでが授業だ」
レンは、ぼろぼろの闘技場を一度だけ振り返った。
柱は、赤黒をほとんど失い、くすんだ骨と結晶の塔に見える。
真紅が立っていた場所には、もはや輪郭の残滓さえない。ただ、薄い霧だけが、まだどこかへ流れ続けていた。
(番人は倒した。焼却炉には栓をした。退路も、辛うじて確保した)
ここから先は、数字と報告書の領域だ。
レンは、仲間たちに向き直る。
「撤収する。リーナ、ミーシャ、無理に前を歩くな。クラウス、出力は結界優先。俺が前衛をやる」
「了解」
三つの声が重なる。
静寂の歯車は、傷だらけのまま、黒い輪をくぐって通路へと足を踏み出した。
三十階層の闘技場には、もう拍も、咆哮もなかった。
ただ、沈黙だけが、焼け残った授業の跡を包んでいた。
通路に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
闘技場より天井は低く、幅も狭い。圧迫感は増したはずなのに、胸を押しつぶしていた重さは、ほんの少しだけ薄らいでいる。
それでも、安心には程遠かった。
床を伝って、かすかな流れが続いている。
さっき沈めた柱の拍が、まだどこかで脈を打っている証拠だ。
「レン」
後ろから、ミーシャの声が飛ぶ。
「結界はいまのところ安定だけど、柱からの波形は完全には途切れてない。……あの管、まだ下でうねってる」
「知ってる」
レンは短く返し、足を止めなかった。
黒い輪は、通路の入り口から数歩で消えた。
振り返れば、闘技場へ戻る道は、ただの暗い穴にしか見えない。
前を照らすのは、クラウスの灯りと、壁に埋め込まれた古い魔導灯だけだ。
どの灯りも、疲れたように光を細くしている。
「段差に気を付けろ。二十九に上がる階段までは、まだ距離がある」
「了解」
リーナが短く答え、消去されボロボロになった大盾を背負い直した。
太ももの傷は塞がっているが、足取りにはまだぎこちなさが残っている。
「ミーシャ、前方の魂視はどう」
「……真紅の残滓は、ほとんど薄れた。代わりに、柱の溜まりが下から漏れてる」
「こっちに来るか」
「いまは、じわじわ。渦の縁をなでてる感じ。結界があるから、触れはしないけど……」
ミーシャの声は、普段より少し低かった。
「急ぐに越したことはないね」
クラウスが呟き、手の中の杖を握り直す。
その動きにつられて、周囲に張り巡らされた結界の光が、かすかに揺れた。
揺らぎに合わせて、足元を流れる感覚も微妙に変わる。
下へと抜ける細い流れが、ほんの一瞬だけこちらへ顔を向けたような気がした。
(クラウスの出力が落ちれば、そのまま「管」が戻ってくる)
数字に換算するまでもない。
時間をかければかけるほど、帰り道の安全率は目に見えて削れていく。
「レン、その顔。絶対なんか計算してるでしょ」
背中越しに、リーナがぼやく。
「計算してないときのほうが少ない」
「そうなんだけどさ。こういうときのだいたい大丈夫は、信用したくないのよね……」
「だいたい、じゃない。全員連れて帰る」
言葉のほうは、淡々としていた。
それでも、リーナはそれ以上何も言わなかった。
通路はやがて、広い踊り場に出た。
二十九階層へと続く階段は、その向こうに口を開けている。
段数は、下りのときと同じだ。
ただし、空気の色だけが違う。
昇り始めた途端、足元を走る流れが、わずかに強くなった。
「……レン」
「分かってる」
階段の中ほどで、レンは一度だけ振り返る。
下りのときに確認した「踏み抜きポイント」は、既に目印を付けてある。そこを避けるように足を運ぶ。
赤い霧が、階段の脇をゆっくり昇ってきていた。
柱から漏れた魔素が、この階段を通って上へと広がろうとしている。
「クラウス」
「結界を一枚、前面に回す。後ろは薄くなる」
「やれ」
クラウスの詠唱が、低く重なる。
階段の中腹に、薄い膜のような光が張られた。
霧がそれに触れた瞬間、ぱちり、と乾いた音がして弾けた。
視界の端で、赤が白く焼けて消える。
「……いまのところ、押し返せてる」
「いまのところを続けるために急ぐぞ」
息が上がる。
レン自身の回復も完全ではない。筋肉の奥が、まだきしみっぱなしだ。
それでも、歩調を緩めるわけにはいかなかった。
階段を抜けると、二十九階層の回廊が広がっていた。
下りのときと同じ石畳、同じ薄暗さ。けれど、どこか微妙に違っている。
壁に残っていた赤いもやは、さっきより濃くなっていた。
床のあちこちに、細いひびが走っている。
「……いやな音がするな」
クラウスが耳を澄ませる。
遠くのほうから、石が軋むような低い響きが続いていた。
「崩落の前兆?」
「そこまで大規模じゃない。……けど、導管のつっかえ棒が揺れてる音に近い」
レンは舌打ちしたくなる衝動を飲み込んだ。
(今すぐ天井が落ちてくる音じゃない。数か月後の仕事が、勝手に積み上がっていく音だ)
「引き返すか?」
「しない。この階の別ルートは、事前に測っていない。ここだけが、過去のデータと自分たちの観測が揃っている道だ」
(柱を沈黙させたぶん、別のところにしわ寄せが出ているのか)
想定内ではある。
想定内だからといって、放置していい規模でもない。
「ルート変更は?」
「しない」
レンはきっぱりと言った。
「他の通路は、事前に測っていない。ここだけが、過去のデータと自分たちの観測が揃っている道だ」
「……了解」
ミーシャが頷き、弓を構え直した。
進行方向の先に、微かな気配が生まれる。
魔物の気配ではない。もっと薄く、古い戦いの残り香みたいな、空気のよじれ。
「レン、前。……人の痕」
「前の連中か?」
「たぶん」
曲がり角を一つ抜けた先、回廊の壁際に、いくつかの黒ずんだ痕が残っていた。
装備の破片。焼けた皮革。砕けた晶石の欠片。
クラウスが、短く息を飲む。
「報告書にあった位置と、合う」
「足を止めるな」
レンは言い、視線だけでその跡をなぞった。
「ここで立ち止まると、向こうに顔を覚えられる」
誰も、それ以上その話題を広げなかった。
ただ、四人とも、ほんの少しだけ歩幅を揃えた。
回廊の曲がり角を三つ抜けたあたりで、空気の重さがまた変わった。
耳鳴りが遠ざかり、胸の奥の圧迫感が、わずかにほどける。
「……レン。柱からの波形、かなり弱まってきた。ここから先は、普通の深層に近い」
「結界は?」
「維持はできる。だが、俺のほうが先に尽きるね」
「救護所まで持てばいい」
レンの返事に、クラウスは苦笑ともため息ともつかない声を漏らした。
「そのまでが、また遠いんだが」
「文句は地上でまとめて聞く」
「じゃ、少しは残しておこうか」
そんなやり取りを重ねながらも、足は止まらない。
二十九階層の出口に近づくにつれ、赤い霧は薄れ、石畳のひびも少なくなっていった。
代わりに、いつもの深層特有の冷たさと、魔物の気配が戻ってくる。
「前方、二体。右の小部屋から出てくる」
ミーシャが囁いた。
「種別」
「影狼。普通のやつ。柱の影響は受けてない」
「リーナ、脚は持つか」
「一発なら余裕。二発目からは、文句言う」
「一発で終わらせろ」
「了解」
影が通路の先をかすめた瞬間、リーナが一歩前に出た。
腕の予備盾で通路の幅を押さえつつ、ウォーハンマーを低く構え、そのまま横薙ぎに振り抜く。
骨が砕ける音とともに、影狼の体が壁に叩きつけられた。
もう一体が飛びかかろうとしたところを、レンの投げた短剣が喉元を貫く。
返ってくる血飛沫は、さっきの赤黒に比べれば、ただの汚れでしかなかった。
「――通過」
ミーシャが短く告げる。
「レン」
「まだ大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように答え、レンは再び先頭に立った。
やがて、上り階段の入口が見えてくる。
石段は、上へ上へと続いていた。
「ここからが本番ね……脚が文句言ってる」
「文句は地上でまとめて聞く」
「じゃ、少しは残しておこうか」
そんなやり取りを重ねながらも、足は止まらない。
二十九階層から二十八、二十七と、ひたすら階段と回廊を上る。
階層をひとつ抜けるたびに、空気の重さと魔素の流れがわずかに変わり、胸の圧迫感が少しずつほどけていった。
「……レン。柱からの波形、かなり弱まってきた。ここから先は、普通の深層に近い」
「結界は?」
「維持はできる。だが、俺のほうが先に尽きるね」
「救護所まで持てばいい」
レンの返事に、クラウスは苦笑ともため息ともつかない声を漏らした。
「そのまでが、また遠いんだが」
「遠くても、行くしかない」
階段を抜け、十層に近い上層域に戻ってきた頃には、赤い霧は完全に消えていた。
代わりに、どこかで聞き覚えのある人声と、武具の触れ合う音が微かに届き始める。
「……戻ってきた、って感じですね」
ミーシャが小さく呟く。
通路の先、簡易結界と見張りの兵を抜けたところに、救護所の札を掲げた扉が見えた。
扉の向こうから、人の声がした。
誰かが走る足音。誰かが何かを落として慌てる音。
「反応、早いわね」
リーナが小さく笑う。
「真紅が沈黙したのと、柱の波形が変わったの、上からも見えてるだろうからな」
レンはそう答え、深く息を吐いた。
吐いた息が震えているのに気づき、自分で少しだけおかしくなる。
「レン」
ミーシャが、小さく名前を呼んだ。
「なにか抜けは?」
「……後は、報告書で埋める」
レンは首を振る。
「数字と文字でなら、いくらでもやり直しが利く。ここは、全員そろって戻ったって事実だけで十分だ」
「そう」
ミーシャはそれ以上、何も言わなかった。
「じゃ、授業はここまでってことで」
リーナが、ウォーハンマーを肩から降ろし、軽く持ち上げた。
「この後は、先生のお説教タイムでしょ?」
「その前に、医務官の説教だろうね」
クラウスが苦笑する。
救護所の扉が、内側から勢いよく開いた。
ギルドの職員が飛び出してきて、四人の姿を見て、目を見開く。
「静寂の歯車!全員生存、重傷多数!担架を――!」
誰かの怒鳴り声が、広間に響いた。
その声を聞いた瞬間、レンの中で張り詰めていた何かが、ようやく緩んだ。
膝が、少しだけ笑う。
それでも、倒れはしない。
扉の向こうに用意された明かりと怒声のほうへ、静寂の歯車は歩みを進めた。
深淵の迷宮・第三十階層の授業は、ここで一度、終わりだ。
次にやってくるのは、地上での清算と、数字の戦い。
緊張はまだ解けない。
けれど少なくとも、命の授業料は、全員で払い終えたのだと、レンは思った。




