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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
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第18話 即死領域での戦場

柱の赤黒が、さらに色を増した。


表面を走る紋様が、炎みたいな速さでうねる。さっきまでは「削る」だけだった脈動が、今は一つひとつ、はっきりとした殺意を帯びてこちらに向いてきていた。


真紅の胸板の結晶も、同じリズムで脈打つ。

拍が、重なっていく。


(……出力を上げてきたな)


レンは、足裏に伝わる振動の増加でそれを悟る。

通路側に一度視線を流す。階段に張りついていた赤黒い輪の内側は、もうほとんど黒一色だ。石段が抜け落ちているのが、輪越しにかろうじて分かる。


退路はない。パーティーの限界も近い。


「レン」


リーナが息を切らせながら呼ぶ。


「さっさと、なんか決め手出してくれない?もう足、笑い始めてるんだけど」


「手はある」


レンは短く答える。


「真紅ごと、柱の消去を使う」


「嫌な言い方するわね」とリーナ。


クラウスが眉をひそめる。


「どういう意味だ」


「真紅の一歩目と、柱の拍が重なった瞬間、床を這う細い線が走る。さっきまでは、床と盾だけを削っていた」


レンは真紅の足元を見据えた。


「上から見たら、柱を中心に扇状の道が伸びてるみたいなもの。その道の上を、真紅の一歩目がなぞる」


「出力が上がった今なら、その線を胸板ごと通せる」


「……自分のダンジョンの免疫で、自分を焼くってわけか」


クラウスが息を吐く。


「やれなくはないな」


「ただし、条件が重い」


レンは指を折る。


「一つ、ミーシャが線の動き出しを見抜くこと。二つ、クラウスが床の揺れで拍をずらし続けること。三つ、リーナが前を押さえて、真紅の足をこっちの通り道に誘導すること」


「四つ目は?」


「俺が、そこでしくじらないこと」


あまりにも雑な四つ目に、リーナが小さく笑った。


「それ、いちばんハードル高くない?」


「文句はあとで聞く」


レンは、短く息を吸う。


「全員、まだ動けるか」


「まだは付くけど、大丈夫」


ミーシャが返す。額には極度の緊張で汗が貼りついているが、弓を握る指は震えていない。


「問題ない」


クラウスが言う。声はかすれていたが、詠唱のリズムは崩れていない。


「立ってる。殴れる。それで十分でしょ」


リーナが盾を持ち直した。表面の半分以上が削れ落ち、縁は歪んでいる。


その時だった。


真紅の足が、床を強く叩いた。


胸板と柱の拍が、ぴたりと重なる。


次の瞬間、床を細い線が走った。


「来る!」


ミーシャの声とほぼ同時。


線は扇状に広がり、その一本がリーナの正面をえぐる。盾の下半分が、境目ごと切断。切り離された感触すらない。そこにあった金属はまるで研ぎ澄まされた刀で切断されたようにきれいな断面を見せる。


「っ──!」


続いた一本が、リーナの太ももの外側をなぞった。


肉が、ごっそり消えた。


膝上から外側の肉が、幅二指分ほど削がれる。血が噴き出す暇もなく、その部分だけ皮膚と筋肉と鎧がまるごと「抜ける」。

残った内側の肉が震え、剥き出しになった骨が白く光った。


レンの喉の奥で、何かがちり、と弾ける。

指先の内側に、あの温い光の前触れがじわりと滲んだ。触れれば、走る。魂ごと傷をなぞる回復の呪いが。


(今じゃない。ここでやれば、俺が折れる)

(俺が折れたら、全員、まとめて落ちる)


レンは、伸びかけた自分の手を、握り潰すみたいに強く握り込んだ。爪が食い込み血がにじむ。胸の奥で立ち上がりかけた流れを、厚い壁で押しとどめる。

光は喉元でうずくが、外には出さない。


「いったぁ……!」


リーナの足が折れかける。

クラウスが叫ぶより早く、足元から氷が伸びた。リーナの脚を支えるように氷柱が生え、強引に体を固定する。


「止まれ!」


クラウスの声は、リーナではなく自分自身に向いていた。

一歩でも動けば、さっき張った氷の揺れが崩れる。床に刻んだ拍が乱れ、レンの計算が全部無駄になる。


(動きたいなら、前に出てからにしろ)


脳裏に、あの言葉がよぎる。

――「助かるために、その場を動けなかった」と証言した、Aランク生存者。


舌打ちしたい気分を、歯で押し潰す。


(俺は、動かないまま全員生かす。それで上書きする)


「クラウス、足、固定ありがとう。まだ踏ん張れる」


リーナが荒い息の合間に言った。


血は少ない。消えた部分が多すぎて、むしろ流れる先が減っている。


痛みだけが、はっきり残っていた。


「ミーシャ、線は」


「……見える。さっきより、濃い。床の上に焼き付いてる」


ミーシャの視界には、さっき走った消去線の残滓が薄く光って見えていた。道筋だけが、赤黒い糸みたいに残っている。


「次は、真紅の一歩目と拍が揃う半拍前で矢を撃つ。足の置き場をずらす」


「了解」


ミーシャが矢を番え直す。その右足に、じわりと痛みが走った。


さっきの線が、靴の先をかすめていた。革の先端が消え、爪先の肉も一部が消えている。踏み込むと、そこだけ床を踏めていない感覚があった。


それでも、彼女は体重のかけ方を少し変えるだけで、構えを崩さなかった。


真紅が、再び胸を反らせる。


柱の拍と、結晶の拍が揃い始める。


「レン、次の線は、さっきより太くなる」


クラウスが低く告げる。


「床の揺れが強い。出力を戻してきてる」


「じゃあ、こっちも一気に行く」


レンは短く頷いた。


「リーナ、その場で前。一歩前は踏み込むな。今の位置から、真紅の足を斜めに受けろ」


「了解」


「クラウス、揺れはそのまま。余計な詠唱を混ぜるな。そこで止まってろ」


「命令しなくても動かない」


「ミーシャ、合図は赤が揃う寸前。半拍前だ」


「分かってる」


静寂の歯車の配置が決まる。

闘技場の床には、さっきまで群れがいた痕跡すらない。

代わりに残っているのは、金属片と焼き付いた線だけだ。


踏み外せば、そのどれもが即死の境界になる。

真紅の胸の結晶が、赤黒く光った。


一、二、三、四。


柱の拍と、胸板の拍が重なっていく。

五拍目に、線が走る。


さっきまでのパターンだ。


(なら、その五拍目を、こっちで少しだけ前にずらす)


「——今!」


レンが叫んだ。

その声を、ミーシャの指先がなぞる。


(外したら、前の連中の列に、自分の名前が足されるだけ)


震えそうになる右手を、無理やり弓に押しつける。弦が悲鳴みたいな音を立てた。

矢が放たれる。

狙いは真紅の足ではなく、「次に足を置くはずの地点」の床だ。


矢が突き刺さった瞬間、クラウスの氷がそこを起点に一瞬だけ膨らみ、すぐ弾ける。床の感触が変わる。


真紅の足裏が、想定と違う「わずかに高い場所」を踏んだ。

身体の軸が半歩分、内側に寄る。

そのタイミングで、柱の拍と胸板の拍がぴたりと重なった。


見えない枠が、世界を締め付ける。

床を這う線の起点が、強制的にずれた足元に固定される。

放たれた線は、床を這い、元の想定軌道よりほんのわずか内側を通る。


リーナの前を、線が横切った。

欠けた盾の残り半分が、根元ごと消えた。握っていたはずの感触が、一瞬で消える。


線は止まらない。

そのまま床から跳ね上がるように、真紅自身の胸板へと伸びていく。


「今だ!」


レンが踏み込む。

刀身に、目に見えぬ超振動を一段だけ乗せた。刃先の触れているという事実を、限りなく薄くするために。


線の軌道に、自分の刃を重ねる形で振り上げる。斬るのではない。消去が通る位置に、刃先を定規みたいに置く。


一瞬だけ、消去と刃の位相が噛み合った。

刃先が、紙一枚ぶん削り取られる感覚。冷たさだけが手首を走る。


その定規に沿って、床から駆け上がった線が真紅の胸板結晶へ滑り込み、中心を貫いた。

その上をなぞるように、レンの刃が走る。


結晶の中央に、細い欠け目が入った。

そこから、一気にひびが広がる。

真紅の咆哮が、闘技場を揺らした。


鼓膜ではなく、脳の内側を爪でひっかかれるような音だ。

十層封鎖線の夜と同じ、聞くだけで足を奪う声。

リーナの視界が白く霞み、ミーシャの膝が震えた。


それでも、誰一人として一歩も引かない。クラウスは動かない。

足元の氷柱は、まだ揺れを刻んでいる。拍を乱し続けなければ、柱が一瞬で軌道を補正してしまう。


(ここで詠唱を止めたら、前の連中と同じだ)


肺が焼けるみたいに痛い。肩から胸にかけて、さっき掠めた線に持っていかれた肉がじわじわと痺れている。上着の下、皮膚の一部はきれいに消え、そこに触れる空気が冷たかった。


「クラウス、あと一拍!」


レンの声が飛ぶ。


「分かってる!」


クラウスが床を踏み鳴らす。氷柱の揺れが最後の一回を刻む。

柱の拍と、真紅の胸板の拍が、今度は完全に噛み合わなくなった。

崩れたリズムに、消去の線が追いつけない。


胸板の結晶に入ったひびが、枠を失ったみたいに一気に走った。

レンは、最後の一歩だけ前に出た。

崩れかけた結晶の中心に、全力で剣を叩き込む。


硬さは、もうそこにはなかった。

がらり、と鈍い音を立てて、結晶が内部から砕ける。

真紅の身体が、びくりと大きく痙攣した。


次の瞬間。


赤黒い結晶が、内側から光り出す。

ひびの隙間から漏れた光が、細い糸になって空間に流れ出す。糸はすぐにほどけ、細かな粒になった。


鱗も、筋肉も、骨も、その粒に巻き込まれる。


輪郭が崩れ、巨体がゆっくり沈んでいく。

落ちるのではない。形を保ったまま、中身だけが抜け落ちるように。


やがて、真紅の体を成していた全てが、光の粒になった。

粒はしばらく闘技場の中央に留まり、ゆっくりと渦を巻く。

一部は柱へ吸い込まれ、一部は床へ染み込み、残りは霧のように薄く広がっていく。


重かった空気が、少しだけ軽くなった。

レンは、その場に片膝をついた。


「……終わったか?」


かすれた声で呟く。


「終わった、って言ってくれないと、立てないんだけど」


リーナが笑ったのか、うめいたのか分からない声を出す。

太ももの外側は、さっきからじんじんと熱い。見た目のグロさに比べて出血は少ないが、それがまた不気味だった。


「まだ消えてない部分、ちゃんと残ってるから大丈夫よ」


「その慰め方、どうなんだ」


クラウスが息を吐く。

肩口から脇腹にかけて、服が斜めに消えていた。皮膚も一部が消え、そこに触れる空気が嫌な冷たさを運んでくる。


「ミーシャ」


「……生きてる。立てる」


ミーシャは短く答えた。

欠けた爪先がじわじわ痛む。けれど、弓は握れている。


「レンは」


「喋れてる。たぶん問題ない」


レンは自分の脇腹に触れる。指の感触が、一部すり抜けた。そこに本来あるはずの肉が、少しだけ欠けている。


息を吸うと痛むが、まだ戦えなくはない。

傷に触れた指先の奥で、じん、と光がにじんだ。


意識を少しでもそこに傾ければ、すぐにでも回復の呪いが走り出す。自分の肉だけじゃない。視界の端にいるリーナの脚も、ミーシャの指も、まとめて。


(ここで楽にしてやるのは、たぶん違う)

(今、あいつらの痛みまで丸ごと被ったら、立っていられない)


レンは呼吸を浅く整え、光の芽を踏み潰すように意識を切った。これは、払った授業料だ。いまは、残しておく。


「クラウス」


レンが顔を上げる。


「動かなかったな」


「動いたら、氷が止まる」


クラウスは淡々と言う。


「氷が止まれば、拍が揃う。拍が揃えば、誰かが線に焼かれて終わり。それだけだ」


少しだけ間を置いてから、静かに付け足した。


「……前の連中と、同じ文面は書きたくなかった」


その言葉に、誰も何も言わなかった。

柱の赤黒は、もうほとんど消えている。

さっきまで真紅が立っていた場所には、わずかに魔素の霧が残っていた。薄い光の粒が、まだどこかへ流れ込んでいる。


レンは、ゆっくりと立ち上がる。


「——真紅のリザードマン、討伐完了」


闘技場に、その言葉だけが落ちた。

静寂の歯車は、ぼろぼろのまま、その場で息を整えた。


しばらく、誰も動かない。

赤黒かった空気が薄まり、代わりに傷の痛みと疲労だけがはっきりしてくる。


「……まず、全員の傷」


レンが言った。

リーナの太もも、ミーシャの足先、クラウスの肩と胸、そして自分の脇腹。

どれも、放置すればまずい傷だが、今すぐにでも命が途切れるほどではない。


「回復、どうする?」


リーナが息を荒くしながら問う。


「致命傷だけ、優先して潰す。あとは止血と固定だ」


レンは短く答える。


「……さて」


レンは、ひとつ息を吐き、仲間たちのほうへ顔を向けた。

リーナは、氷柱に体を預けたまま、歯を食いしばっている。


太ももの外側は、ごっそり抜け落ちたまま、そこだけ影がくぼんだようになっていた。


「悪い、ちょっと……立つのは、いけるけど、歩くのは文句言うわ、これ」


「文句を言えるなら、まだマシだ」


クラウスがかすかに笑う。

肩口から胸にかけて、服と皮膚の一部が斜めに消えている。触れた空気が、いやに冷たそうだった。


「ミーシャ」


「……ごめん。矢は放てるけど、精度は、さっきほどじゃない」


彼女は自分の右手を見下ろした。

弦を引く指の一本、その先端が半節ぶんほど消えている。さっき線を見誤った瞬間に、指先をなぞるように持っていかれたのだ。


血はもう止まりかけている。だが、矢羽根をつまむ感覚が、どうしてもさっきと違った。


「爪先のほうも、ちょっと……」


「歩けるか」


「うん。走り回って弓を引けって言われたら怒るけど」


ミーシャはそれでも冗談をまぶして笑おうとする。

どこかぎこちないが、その目だけは、まだまっすぐに開いていた。

レンは一瞬だけ黙り、ゆっくりと膝をついた。


「動く前に、最低限、手当てをする」


「レン」


リーナが、眉をひそめる。


「あんたのほうが、顔色悪いって自覚ある?」


「数字で言えば、まだ余裕はある」


「そのまだが信用ならないのよね……」


ぶつぶつ言いながらも、リーナは大盾を手放し、太ももをこちらへ向けた。

レンは、彼女の傷口のすぐそばに、そっと指を添える。

骨と肉の境目。消えた部分と残った部分の境界に。


指先の内側で、光が、またにじみ始めた。

温い、いやに生々しい流れ。

触れれば、繋がる。繋がれば、走る。


魂ごと傷をなぞり、死にかけた瞬間を、そのまま引き受ける呪い。


(……ここで逃げても、そのうちどこかでまとめて噛まれるだけだ)


レンは、ほんの少しだけ意識を傾けた。

光が、リーナの傷へと染み込んでいく。

次の瞬間、胸の奥に、鋭い痛みが走った。

太ももをえぐられた感覚。骨の白さ。そこに乗った冷たい空気。


だが、その奥にあるものは――

潰れた悲鳴ではなかった。


喉を逆立てる怒りと、「まだだ」という、しつこいほどの執念だった。


(……立て。殴る。まだ倒れてない。こんなもんで終わらせてたまるか、って顔だな)


リーナの魂の底にへばりついているのは、「諦め」ではなく「しがみつき」だ。

そこに、あの呪いは深く牙を立てられない。

痛みは来る。映像も来る。

だが、以前、半死の相手を無理やり引き戻したときのような、底なしの泥沼には引きずり込まれない。


胸を貫く痛みが、少しずつ浅くなる。

レンは、奥歯を噛んだまま、流れの太さを調整した。

肉が、ゆっくりと盛り上がる。

消えていた部分が、完全には戻らないまでも、「歩くには足りる」程度までは繋がっていく。


「……ここまで」


レンはそこで手を離した。

リーナが、慎重に足を動かす。氷柱を蹴って、体重をかける。


「……っ、いってぇ……でも、折れはしない」


「走るのは避けろ。支えが要るなら、俺かクラウスを使え」


「はいはい、素直に甘えとく。ありがとな」


素直と言いながら、どこか誇らしそうだった。


「次、ミーシャ」


「うん」


ミーシャは、右手を差し出した。欠けた指先を庇うように、わずかに肩が震えている。

レンが触れると、そこにも、じん、と光が染み込んだ。

指先をなぞる痛みと、「射れなくなるかもしれない」という恐怖が、薄く流れ込んでくる。


けれど、その奥には、やはりしつこく「射ちたい」「外したくない」という、生まで噛んだ欲があった。


(……生きる気力に、こいつは弱いのか)


レンは、小さく息を吐く。


死にかけて、諦めかけている魂ほど、呪いは深く噛みつく。

逆に、意識がはっきりしていて、「まだやる」としがみついている相手には、牙を立てきれない。


その分、癒える速度は遅い。

だが、代わりに、自分のほうの負荷も浅くて済む。


レンはミーシャの指先に最低限の肉を戻した。

弦を引く感覚が戻るところまで。細かい感覚のずれと、爪の形まではあえて直さない。


「これでどうだ」


ミーシャは弦をつまみ、そっと引いてみる。


「……さっきより、ずっとまし。外したら、腕のせいにする」


「そこは弓のせいにしたほうがいい」


クラウスが、わずかに肩を揺らした。


クラウスに対しては呼吸を楽にする程度に、肺にまとわりついた痛みを削る。

癒える速度は遅いが、レンの負担も同時に軽かった。


最後に、自分の脇腹には、意図的に手を伸ばさない。


(ここで全部、楽にしたら駄目だ)

(授業料を全部なかったことにしたら、次はもっと無茶をする)


レンは呼吸を浅く整え、光の芽を踏み潰すように意識を切った。

だが、無意識下ですでに回復は始まっていた。本人のあずかり知らないところ、応急処置で済ませられるレベルにまで。


ここから先は、薬と包帯で持たせる。


簡易ポーチから包帯と止血剤を取り出し、四人で互いの傷を素早く巻き合う。

十全とは程遠いが、「ここで倒れる」危険だけは潰した。


「生きて戻る、って条件はクリアできそうね」


リーナが、無理やり笑いながら言う。


「そのために、戦利品は後回しにしない程度に後回しだ」


レンがようやく、闘技場の外周へ視線を滑らせる。

そこでようやく、床に転がる結晶片と金属片に目が向かった。


真紅が崩れた闘技場の中央に、ひときわ濃い光の塊が残っていた。柱に吸われきらなかった胸板の結晶と鱗が、板状に固まっている。


「……持っていく」


レンは近づき、触れる前にミーシャに魔素の揺れを確かめた。さっきまで殺意を振り撒いていた拍は消え、代わりに静かな流れだけが残っている。


「防具と結界用の主素材になる。真紅竜鱗晶で報告に載せる」


「ネーミングがもう、報酬の匂いしかしないんだけど」


リーナが片眉を上げる。


「実際、高く売れる。こちらで使う分として確保する」


短いやり取りのあと、レンは板状の結晶を慎重にアイテムボックスへ収めた。


周囲の床には、消去線に削られきらずに残った小さな結晶片がいくつも転がっている。赤黒い芯は抜けかけているが、まだわずかに揮発する気配があった。


クラウスが一つを符越しにつまみ上げ、眉をひそめる。


「……魔晶石の残滓だな。柱に半分だけ処理された感じだ。放っておけば、またここが濁る」


「最低限だけ回収。研究サンプルに回す。残りは柱に任せる」


レンはそう言って、危険なものだけを選んで封じていく。


「浄化すれば晶石。今は毒」──昔、第七階層で出した結論を、念のためもう一度自分で確認するように。


視線をさらに遠くへ移すと、闘技場の縁、消去線がかすめなかった帯の上に、いくつか鈍い金属の光が残っていた。


剣。兜。紋章入りの胸当て。すべてどこかしらに欠損がある。

古い血痕だけが色を失わずこびりつき、ここが昔から戦場だったことをまだ主張していた。


「……前の連中の、か」


リーナが小さく呟く。ミーシャは黙って膝をつき、胸当ての紋章を布でそっと拭った。


「持って帰る。ギルドに渡せば、誰のものか照合できるはずだ」


レンは記録板に紋章の形を写し取り、遺品をひとまとめにする。


「消去範囲が明確な箇所のみ回収。踏み外したら、後がない」


戦利品と遺品の回収が終わったところで、ようやく三十階層の闘技場を後にする準備に、静寂の歯車の意識が向き始めた。


退路は、まだ完全には戻っていない。


柱も、完全に沈黙したわけではない。


けれど少なくとも、この場を支配していた「番人」の拍だけは、もうどこにもなかった。

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