第17話 開戦
真紅の胸の結晶が、またひときわ大きく脈打った。
空気が、ひと呼吸ぶん重くなる。
レンは何も言わず、顎だけで前を指した。
リーナが一歩前へ出る。
クラウスが半歩だけ右にずれ、ミーシャが観測符と矢筒に同時に指をかけた。
静寂の歯車が、闘技場の中心に向かって、じわりと前進する。
先に動いたのは、真紅ではない。
背後の群れのうち、片側の列が前へせり出した。
胸に結晶板を抱えた個体が二体。その少し後ろに、通常のリザードマンが四体。
「前衛、六。結晶二、通常四」
クラウスが短く告げる。
真紅は、動かない。
柱の前、中心線上から、微塵も位置を動かす気配がない。
(門番の自覚だけは、最後まで残ってるってことか)
レンは、ほんの一瞬だけそんなことを思った。
「リーナ、左斜め前に出ろ。群れの軸をずらす」
「了解」
リーナが足を踏み出し、真正面から半身分外れた位置に盾を構える。
群れの先頭が反応し、進路が同じように斜めに引きずられる。
まっすぐ突っ込んでくる。本当に、一直線だ。
(十六層の連中と同じだ。胸板の拍に、群れ全体が縛られてる)
結晶を抱いた二体の胸が、同じリズムで脈打つ。
その「拍」に合わせて、後ろの四体が足を運ぶ。
ズレは一つもない。
足音が、一つの生き物みたいに揃っていた。
「クラウス、足元」
「任せたまえ」
クラウスが杖を軽く振る。
群れの進行方向に、薄い霜が走った。
前に張った「氷の膜」とは違う。
表面だけをうっすら覆って、足音だけを殺すための層だ。
リザードマンたちの足が、その上に乗る。
床を打つ音の芯が、抜けた。
鈍い音だけが、闘技場に残る。
(拍は殺せない。だが、真紅に伝わる「床からの逆流」は弱くなる)
リズムの源は胸板だ。
ただ、そのリズムを群れ全体に配るのは、足裏からの振動が一部を担っている。
それを削ってやれば、わずかでも同期が乱れる。
「ミーシャ、結晶の間を見ておけ。割れる筋があれば教えろ」
「見てる!」
ミーシャが矢を番えたまま、結晶板の縁を凝視する。
胸を覆う結晶板は一枚岩ではない。
幾つかの板が重なり、その境目に微かな筋が走っている。
群れが一気に距離を詰めてくる。
「――来るぞ!」
リーナが吠え、先頭の槍を盾で弾いた。
横から飛びかかってきた別の個体の爪を、ウォーハンマーで迎え撃つ。
金属と結晶がぶつかる衝撃が、腕を通じて骨に響いた。
「硬っ……!」
感想を吐き捨てる暇もない。
リザードマンたちは、痛みよりもリズムを優先して動く。
結晶板を抱えた個体が、一歩遅れてリーナの死角に入り込む。
「リーナ、右!」
クラウスの警告と同時に、レンの身体が前に出た。
結晶板の端が、リーナの盾の縁をかすめる。
そこから伝わる振動に合わせて、後ろの四体が一斉に動いた。
槍と爪の軌跡が、蜘蛛の巣のように重なる。
(合図か)
胸板を叩く拍、床を踏む拍、結晶を接触させる拍。
全部が「コマンド」として機能している。
リーナが全てを受けるのは無理だ。
レンは半歩踏み込み、前に出た槍の柄を短剣で切断、金属片が宙を舞い、結晶板の前をかすめた。
その瞬間、ミーシャの矢が走る。
一射目。
斬られた槍の影に紛れ、結晶板と板の境界に食い込む。
二射目。
一射目の矢を楔にして、そのわずかな隙間を押し広げる。
「入った!」
結晶板の一部が、ぱきりと音を立てて割れた。
リズムが一瞬、つんのめる。
胸板に刻まれていた一定の鼓動が、一拍だけ外れ、空気そのものを揺らした。群れの足並みがずれる。
ほんの数歩分。それだけで、前線の密度が崩れた。
リーナのウォーハンマーが、すかさず結晶板持ちの片膝を砕く。
膝から下が床に沈み込むようにめり込み、リズムの源がひとつ地面に固定された。
「一体、落とした!」
リーナが叫ぶ。
落としたのは列の先頭だけだ。膝を砕かれた個体を踏み台にするように、後ろの四体が間を埋めてくる。結晶板に残った拍をなぞるみたいに、槍と爪が再びこちらへ伸びた。
リーナは真紅から目を切らないまま、盾の角度だけで刃を滑らせる。横から飛び込んだ個体の喉を、レンの短剣がかすめる。ミーシャの矢がその関節を縫いとめ、崩れた体が床に叩きつけられた瞬間、鱗と肉は光の粒にほどけていく。
魔素になった残骸は、闘技場に留まり続けることすら許されない。床を撫でる赤黒い脈に巻き込まれ、柱のほうへ薄く吸い寄せられていった。
(……けれど)
レンは視線を真紅に滑らせる。
真紅は、まだ動かない。
ただ、胸の結晶が、さっきより早いリズムで脈動し始めていた。
「レン!」
ミーシャが短く叫ぶ。
「赤、変わってる!柱も真紅も、拍が揃い始めてる!」
柱の表面で、赤黒い光が走る。
さっきまでは呼吸のようにゆっくりだった脈が、早まっていた。
真紅の胸板の拍と、完全に一致する。
闘技場の床に、目に見えない「円」が描かれる感覚があった。
さっきまでは中心一点から広がっていた脈動が、いまは「真紅と柱」を結ぶ線を軸に揺れている。
(……来るな)
レンは直感で分かった。
二発目だ。
雄叫びそのものが来るか、それとも「別の形」の精神干渉か。
どちらにせよ、まともに受ければ即死だ。
「距離、維持!リーナ、半歩下がれ!」
レンが叫んだ瞬間、真紅の喉がぐっと持ち上がる。
胸の結晶が、柱の脈動とぴたりと重なった。
視界の端で、赤黒い光が一斉に膨らむ。世界が、またあの赤に塗りつぶされようとした、その刹那。
「遮断!」
レンはその場で足を止め、術式を叩き込んだ。
光が、消えた。
音も、匂いも、空気の流れさえ、全部がすとんと落ちる。
仲間の気配も、遠くなる。視界にリーナたちの姿はあるのに、そこにいるという実感だけが、ごっそり抜け落ちた。
(……やっぱり、気持ち悪い)
レンは舌の上に残る乾いた鉄の味で、自分の存在を確かめる。
外側から押し寄せていた赤い圧力は遮断された。だが、完全に無傷というわけではない。頭蓋の内側を、鈍い痛みがじわじわ撫でていた。
遮断が解けた瞬間、世界が一気に戻る。
耳に飛び込んできたのは、ミーシャの荒い息と、震える声だった。
「……今の、なに」
ミーシャの顔は真っ青だが、視線だけは真紅から外れていない。
「前より、静かだったのに……頭の奥だけ、ぐしゃぐしゃって」
「音の成分を削ったか」
クラウスが息を吐く。
「音そのものの形をいじってきたか。遮断が音を落とすって学習して、別のところから刺そうとしている」
「そんな厄介な相手、いらないんだけど」
リーナが舌打ちした。
だが、レンの視線は別のものを見ていた。
通路側、さっき赤い輪が張りついていた場所だ。
輪そのものは残っている。
ただ、その内側の黒が、さっきより濃くなっていた。
何かを飲み込んだ跡のように。
(……階段そのものを、削り始めているな)
通路の奥では、まだ別のリザードマンたちが、拍に引きずられるようにこちらへ向かっていた。先頭の数体が赤い輪を跨いだ瞬間、足元から床石ごと削ぎ落とされる。悲鳴を上げる暇もなく、姿が一瞬で消失、痕跡も残らない。
それとも、あの輪の内側が少しずつ「空白」に置き換わっていくのか。
どちらにせよ、長くはもたない。
レンは視線を前に戻した。
真紅が、動いていた。
さっきまで一歩も動かなかった「番犬」が、柱から半身分だけ離れている。
それでも、背は柱に向けたままだ。
柱の影を背負い、こちらとの間にある「見えない線」を踏みしめている。
「レン」
リーナが短く呼ぶ。
「さっきの咆哮のあとから、動きの質が変わってる。すごく……嫌な落ち着き方してる」
「こっちを理解したか、分類したかのどちらかだな」
レンは答えながら、真紅の足元を注視した。
踏み込むたび、床の一部がわずかに色を失っていく。
最初は、踏みしめた跡かと思った。
けれど、そこに残っているのは影ではない。髪の毛一本ぶんほどの細い線だ。
真紅が踏み出した足から、床を這うように走る消去の刃。
それが、一直線にリーナの足元を狙って伸びてきた。
「リーナ、右!」
レンの叫びと同時。
リーナが反射で横に跳ぶ。
さっきまで彼女の足があった場所に、まっすぐな線が一本残った。
傷跡ではない。
線の上だけ、床石そのものが抜け落ちたみたいに、最初から「存在していない」。
「……なに、今の」
リーナが顔をしかめる。
「床ごと切られた、っていうより、線で削られた感じ」
「消去範囲を、円じゃなくて線に絞ってきたか」
クラウスが低く言う。
「広さを捨てて、貫通力を取った。柱の機能を、武器としても使えるのか」
真紅が、もう一歩踏み込む。
足元から、今度は扇状に細い刃が走った。
異常性を感じ取ったリーナは盾のみで受けた。
刃は金属を「削り」ながら、盾の表面を細く抉る。
火花は出ない。
そこにあるのは、細い欠け目だけだ。
削り取られた金属は切断面で落下しているが一部が足りていない。
「ふざけてるでしょ、これ!」
リーナが怒鳴る。
「当たったら、鎧ごと切断されるわよ!」
「だから当たるな」
レンは即答した。
「ミーシャ、刃の軌跡が見えるか」
「うっすら、線が残ってる。真紅の足元から、赤黒い糸みたいなのが伸びてる。動き始める瞬間が分かれば……避けられなくはない」
レンは頷き、呼吸を整えた。
「なら、動き始める瞬間をこっちで決める」
真紅の胸板の鼓動と、柱の脈動。
さっき消去の刃が出たのは、その二つがぴたりと重なった瞬間だ。
(拍が揃うと、見えない枠が一番きつく締まる。さっきは、その締め付けを利用して一気に押し込んできた)
なら、狙うのはその逆。
拍が、わずかにずれる瞬間。
柱と真紅のリズムが「噛み合わない」一拍分のすき間だ。
「クラウス」
「分かってる。床を使う」
クラウスが短く返し、詠唱とともに足元から細い氷柱をいくつも立ち上げる。闘技場の石床に、リズムの違う小さな揺れが刻まれ始めた。
(合図が胸板の拍だけなら、そこに別の拍を割り込ませればいい。一定の間隔で、わざとずらしたリズムをぶつけ続ける)
氷柱が震えるたび、床を伝ってかすかな振動が走る。真紅の胸板と柱の光が、ごくわずかにちぐはぐになる。
それでも、すぐには崩れない。二つの拍は無理やり重なろうとし、赤い光はまた揃おうとする。
(足りない。もっとはっきりした衝撃を、一点に)
「ミーシャ」
「合図があれば、そこを射る」
「赤が揃う瞬間の、半拍あとだ」
ミーシャの瞳が、真紅と柱の赤を追う。クラウスの氷柱は、変わらぬ間隔で細かい揺れを刻み続けている。
「――今!」
レンの声と同時に、ミーシャの矢が氷柱の根元を射抜く。折れた氷柱の破砕音が床を走り、真紅の胸板にぶつかった。
その一撃で、柱の赤黒と真紅の結晶の拍が、わずかにずれる。
一瞬、真紅の胸板の周囲で赤が「薄く」なった。
「リーナ!」
「任せなさい!」
リーナが突っ込む。
真紅の足が床を叩き、細い消去の刃が盾目がけて走った。
リーナは、あえてそれを盾のみで受ける。
盾の表面が削られ、金属が一瞬で削られていく。
だが、その「削られている一瞬」に、彼女の身体はすでに横に滑っていた。
真紅の視線が、わずかに遅れる。
レンの影が、その死角に滑り込んだ。
(ここだ)
胸板の結晶は狙わない。
そこはまだ、「柱」と繋がっている。
拍が薄くなったとはいえ、正面から殴れば、こちらの攻撃ごと飲み込まれる可能性が高い。
狙うのは、背中側だ。
胸板から伸びた結晶脈が、肩から背中へ回り込んでいる。その途中に、一瞬だけ「拍が乗っていない空白」が生まれる。
レンは、そこに狙いを定めた。
踏み込みと同時に、刃を振り抜く。
刀身が、背中の結晶の縁をかすめた。
手首から肘へ、鈍い振動がずしんと突き上がる。骨が一本、余計に増えたかと錯覚するほどの硬さだ。
それでも、沈黙の森で見た魔晶石ほどではない。
刃が通った軌跡に、細いひびが走る。
真紅の尾が、反射的に振るわれた。
結晶の塊を先端につけた、巨大な鞭。
避けるには遅い。
リーナの盾は、いま削られている最中。
クラウスは詠唱の体勢のまま動けず、ミーシャは弦を引き切っている。
レンは迷わず、刀身を捻った。
そのまま真紅の尾に向けて、軌道をずらす。
正面から受け止めるのではなく、滑らせるように。
尾の結晶と刃の接触面を、斜めに、細く削り取る。
火花は出ない。
ただ、重さだけが腕を抜けていく。
鈍い感触と共に、尾の結晶の一部が欠けた。
背中の結晶と尾先の結晶を繋いでいた「拍の線」が、そこで途切れる。
柱の赤黒が、一瞬だけ激しく乱れた。
真紅が、低く唸る。
その声には、さっきまでなかった「痛み」が混じっていた。
「――効いたな」
レンが息を吐く。
リーナが横から滑り込み、ウォーハンマーを真紅の膝裏に叩き込む。
巨体がわずかに沈む。
クラウスの氷が足首に絡みつき、動きを一瞬だけ縫い止める。
ミーシャの矢が、背中の欠けた結晶の縁に突き立った。
真紅の体勢が、ぐらりと傾ぐ。
だが、倒れはしない。
膝をつきかけた巨体を、柱の脈動が下から支えた。
柱の表面で、赤黒が渦を巻く。
ずれた拍を無理やり引き戻すみたいに、三十階層全体の魔素が真紅の胸板へと吸い込まれていく。
「……ここから、本気か」
レンが低く呟いた。
出口は、ほとんど消えかけている。
柱は、自分の一部を切り離されかけて怒っている。
真紅は、柱と完全に癒着しようとしていた。
まだ決着には遠い。
けれど、「届く」という手応えだけは掴んでいる。
「レン」
リーナが、荒い息の合間に笑う。
「今の、なんて名前にする?尻尾へし折り撃?」
「名前は後でいい」
レンは、視線を真紅と柱の両方に向けた。
「まだ、授業料を払い切ってない」
真紅の胸板が、怒りに震えるように脈打つ。
柱の赤黒が、それに呼応してうねる。
静寂の歯車は、退路のない闘技場の中心で、なおも一歩前に踏み込んだ。
この戦いの、本当の山場は、まだ先にあった。




