第1話『忘れられた回廊』③
帰路は、彼らの異質さを際立たせる舞台となった。
十二層の奥で赤黒い石碑を背に撤退を決めてから、数刻。
彼らは無言のまま通路を進み続けた。
上層に近づくにつれ、迷宮の空気は目に見えるように変わっていく。
奥底では重く冷たい湿気が肺に沈んだが、上層に戻るごとに空気中の魔法の根源、『魔素』濃度が下がり重い雰囲気が緩和していく。
危険に満ちていた深淵の静寂は後退し、かわりに雑多な物音と生温い気配が増していく。
そして、すれ違う冒険者の数も増えていった。
あるパーティは、ゴブリンの群れとの戦いで装備をボロボロにしながらも、「今日の稼ぎは上々だ!」と下品な笑いを上げていた。
別のパーティは、罠にかかって負傷した仲間を担ぎながら、「だから言ったんだ、あそこは危険だと!」と互いを罵り合っていた。
どの顔にも、汗と血と泥と、そして生還の安堵がにじんでいた。
その中を、レンをリーダーとした四人パーティ、通称、静寂の歯車はまるで幻の一行のように通り過ぎていく。
彼らの装備には戦闘の痕跡こそあれ、血の染みひとつない。
リーナの大盾はゆがみがあるものの、他クラウスの外套、ミーシャの弓、僅かな煤や擦り跡を残すだけで、致命的な傷は皆無だった。
仲間同士の歩調は乱れず、呼吸も揃い、疲労の色さえほとんど見えない。
その異常さに、すれ違う冒険者たちは言葉を潜めた。
「……おい、見たか。今の連中」
「聞いたことある。静寂の歯車……全員が毎回無傷で帰ってくるって噂の」
「傷一つ負わないなんて……本当に人間なのか?」
「いや……人間だからこそ、あそこまで徹底してるんだろ。だが……不気味だな」
「たしかに…。戦闘の指示も暗号化しているらしいぜ」
囁きは壁に反響し、彼らの耳にも届いていた。だが、誰一人として反応を返すことはない。
ただ淡々と歩を進め、出口を目指すだけだった。
やがて、迷宮の入口に近づくと、湿った土と魔素の匂いが徐々に薄れ、乾いた風が吹き込んできた。光量も増し、人工の松明の光が自然の太陽光に溶けていく。
巨大な石造りのアーチを抜け、冒険者専用の出入り口へ至る。
門番の兵士が二人、槍を携えて立っていた。彼らは姿を見て目を見開き、すぐに敬礼した。
「無傷での帰還、お見事です。今日も異常なし、ということで記録しておきます」
リーナが軽く顎を引き、応える。
「任務は達成した。報告は後でまとめて提出する」
兵士は頷きつつ、なおもその姿を目で追っていた。
無傷の帰還は、尊敬と同時に畏怖の対象でもあった。
外へ一歩踏み出すと、空気が一変した。
焼きたてのパンの香り、荷車に積まれた干草や家畜の糞尿の匂い、商人たちの怒鳴り声、人々の笑い声。
それらが渾然一体となり、王都アステリアの日常が押し寄せてくる。
街路は石畳で敷き詰められ、両脇には市場の露店が立ち並んでいた。
色鮮やかな果物や香辛料、旅人向けの安宿の看板、鍛冶屋が打つ鉄の音。
迷宮の静寂とは対照的な、生の喧騒が広がっていた。
リーナは胸いっぱいに空気を吸い込み、僅かに肩の力を抜いた。
「やっぱり、外の空気は違うな……」
クラウスは眉をひそめ、雑多な匂いと喧噪に不快を隠そうともしなかった。
「騒がしい……知性を削られる気分だ」
ミーシャは、群衆に紛れるようにレンの背後にぴったりと寄り添った。
人波と雑音に怯えながらも、迷宮の重圧から解放された安堵が、表情に淡く浮かんでいる。
ただ一人、レンだけは仮面をさらに厚くした。
彼にとって人々の感情が渦巻くこの喧騒はダンジョンの静寂よりも危険だった。
笑いも怒りも羨望も凶器にしかならない。
(負傷者ゼロ。トリガー未作動。システムは機能)
彼は胸の奥で反芻し、自らの心を防波堤で覆った。
その背を追いながら、静寂の歯車は冒険者ギルドへと向かう。
石造りの街並みは次第に整然とした通りに変わり、王都の中央へ近づくごとに建物は高く、装飾も華やかになっていく。
道行く人々が彼らに視線を向けるが、その多くは「噂通りだ」という驚きと、得体の知れぬ敬意と畏怖が入り混じった色を宿していた。
仲間たちは無言のまま歩み続ける。だが、レン以外の三人の心には確かに安堵があった。
帰還の証として踏みしめる石畳の感触が、彼らを現実へと引き戻していた。
一行は、まっすぐに冒険者ギルド中央本部へと向かっていた。
レンの頭脳は、既に次の段階へ移行している。
(依頼は、Bランクの『十二階層の異常調査』。だが、我々が得た成果は単なる観察記録に収まらない。古代エーテリオンの遺物に直接触れた以上、報告の仕方ひとつで評価も扱いも大きく変わる。ギルドがどう反応するかを見極め、こちらの立場を最も有利に保つ方法を選ばなければならない)
彼の思考は、既に交渉の先を描いていた。
副ギルドマスターのレナ・シルヴァナス、さらにその上にいる、まだ見ぬギルドマスター、アイゼン・ジェラルトとのやり取りまでも。
ギルド中央本部の正面に立つと、巨大な樫の扉が視界を塞ぐ。
王都の石畳を行き交う市民や冒険者が目を向ける中、レンはその重厚な取っ手に静かに手をかけた。
樫の扉を押し開けた瞬間、凝縮された人間の熱気が生き物のように彼の全身へぶつかってきた。
エールと汗の匂い、血と消毒薬が混じる微かな鉄臭さ、依頼の成功に沸く者たちの雄叫び、失敗に沈む者たちの嘆き。
そのすべてが、王都アステリアの繁栄の心臓部「ダンジョン経済」の坩堝を象徴している。
何百という野心と欲望が渦巻くその場所は、レンにとって魂を守る防波堤の内側から見れば、最も汚染された危険な領域に他ならなかった。
静寂の歯車の入場は、喧騒に奇妙な波紋を広げた。
彼らがホールを横切ると、その通り道だけ、さざ波が引くように会話の熱が僅かに冷めていく。
酒場のテーブルでカードをしていた冒険者がその手を止め、カウンターで仲間と肩を組んでいた者たちが笑みを消し、囁き交わす。
「……おい、あれ見ろよ」
「今日も血を流した様子がない。どういう戦い方をすれば、ああなるんだ……」
「それにしても帰還が早すぎないか?上層エリアだったのか?」
その囁きは疑念と畏怖を混ぜ合わせたものだった。
冒険者たちは互いに顔を見合わせ、得体の知れぬ存在を見るように視線を送った。
噂よりも、その「結果」そのものが、彼らを黙らせていた。
レンは全てをノイズとして処理し、一直線に受付カウンターへ向かう。
視界にあるのは一点、受付嬢エララの姿のみ。
エララもまた、彼らの入場にいち早く気づいていた。
背筋を伸ばし、完璧な笑顔を貼り付ける。だがその内面では、他の冒険者たちとは質の異なる冷静な分析が始まっていた。
(静寂の歯車。Bランク昇格後において三度目の依頼です。今回も四人全員が揃って装備には戦闘痕が残っているものの外傷らしき箇所は見受けられない。リーナさんはいたっては大盾がゆがんでいるのに…)
彼女は数多の冒険者の成功と挫折を見届けてきた。
だからこそ、この完璧さがどれほど常軌を逸しているかを痛感していた。
「お帰りなさいませ。依頼内容を確認させていただきます」
エララは羊皮紙を取り出し、形式に従って告げる。
「依頼番号B-003『深淵の迷宮』第十二階層の緊急調査、お間違いございませんね?」
「完了の報告を」
レンの声は周囲の喧騒にかき消されそうなほど静かだったが、その一言一句は不思議なほど明瞭にエララの耳へ届いた。
「承知いたしました。では、結果の報告をお願いいたします」
レンは袋を二つ置いた。
「『ミノタウロスの角』と『影喰らいの核』だ。核は鑑定後、隔離庫で三十日観察。搬送は職員。報告書は私がまとめる」
その瞬間、エララの笑顔をむけたまま内心で揺らぐ。
(本当にミノタウロスと戦ったの?あのイレギュラーと相対して……しかも全員無傷で?熟練者でも怪我は避けられないはずなのに。でもリーナさんの大盾は間違いなく大物と戦闘した証…)
彼女はペンを走らせる。形式上の確認事項が残っていた。
けれども、その言葉を口にする瞬間、彼女は無意識に表情を引き締めていた。
「念のための確認ですが、イレギュラーとの戦闘を経ても、今回も負傷者なし。そう、記録してよろしいでしょうか?」
尊敬と畏怖が入り混じった声音。その場にいた他の冒険者たちも耳をそばだて、息を呑む。
レンは表情ひとつ変えず、静かに告げた。
「なし」
その一言が、エララの背筋を冷たく撫で上げる。
常軌を逸した報告をまた記録することになる。
おとぎ話を羊皮紙に書き込むような、現実離れした感覚が彼女を包んだ。
「……承知いたしました」
彼女は深呼吸をひとつ挟み、平静を装って記録を続ける。
「依頼内容の達成を確認いたしました。……それにしても、十二階層での調査活動としては、想定よりもはるかに早い帰還でございます。規定上、調査行動が不十分と見なされれば、依頼違反に問われる恐れもございますので、その点は慎重に記録させていただきます。加えて、報告すべき重大な発見や異常は他にございませんか?」
レンは彼女の疑念の言葉を理解しつつ頷いた。
「その通りだ。今回の調査で、依頼の範疇を超える重大な発見をした。ギルド規定に基づき、上層部に直接報告する必要がある。担当部署への取次を願う」
エララの笑顔がわずかに凍りついた。
Bランクのパーティが受付を飛び越えて、上層部への直接報告を求める。
それ自体は比較的あることだが、静寂の歯車からは申告が今までなく、異例の事態だった。
だが、彼らが重大と口にする重みを、エララは直感で理解していた。
受付嬢としての仮面を崩さぬまま、エララは深く頷いた。
「畏まりました。すぐに担当部署へ取次を手配いたします」
その言葉と共に、場の空気はさらに冷たく張り詰めていった。
その張り詰めた空気を無遠慮な大声が引き裂いた。
「よぉよぉ、お帰りじゃねえかギルドの幽霊さんたちよぉ!」
声の主はBランクパーティ、鋼鉄の壁のリーダー、ゴラッハ。
丸太のような腕に分厚い胸板、岩を削り出したような顎を持つ巨躯の男。
ギルドの酒場の卓で飲み干したエールの木のジョッキを乱暴に置き、赤らんだ顔をにやつかせながら、仲間を引き連れてレンたちのもとへと歩み寄ってきた。
「また傷一つつけずに帰ってきやがって……お前ら、相変わらず幽霊みてぇだな!俺たちは二十階層でオーガの群れを叩き潰してきたところだぜ。これが本物の冒険者の戦いってもんだ!」
彼は誇らしげに分厚い胸板を拳で叩いて見せた。
その信条は純粋な力と耐久であり、知略や奇策で損耗を避けるレンたちの戦術を臆病者の立ち回りとして公然と侮蔑していた。
その挑発に対しリーナの肩が怒りで僅かに震えた。
だが、彼女が何かを言い返す前にレンの冷たい視線がそれを制した。
レンはゴラッハの方を見さえしなかった。
彼の存在はシステムにとって処理する価値もないノイズに過ぎなかった。
レンはただ静かにエララの連絡だけを待っていた。
その完全な無視はいかなる罵倒よりもゴラッハの自尊心を深く抉る。
もともとエールで赤くなっていた顔が怒りでさらに赤く染まる。
「てめぇ、聞いてんのか!」
「お静かにお願いします、ゴラッハ様」
その時、二人の間に割って入ったのは受付嬢のエララだった。
彼女の表情から笑顔が消え、ギルド職員としての冷静で威厳あるものへと変わっていた。
「ここはギルドです。冒険者間の私闘はギルド法で固く禁じられています」
エララから注意を受けたゴラッハは肩をすくめると、エララにわりぃと言って卓に戻っていった。
そして、彼女はレンへと向き直った。
「レン様。あなたの報告の重要性、承知いたしました。私が直接指示を仰いでまいります。申し訳ありませんが、ここでしばらくお待ちいただけますか」
それは彼女の職権を僅かに超えた独断だった。
だが、確信していた。今この場で起きていることは、異常事態の予兆かもしれないと。
エララは一礼し、他の受付に軽く業務交代を依頼した後、足早にカウンターの奥、上層部へと続く階段へと向かっていった。
残された静寂の歯車は、ただ静かにその場に立ち尽くす。
周囲の冒険者たちの、好奇と嫉妬が入り混じった視線を、その身に受けながら。




