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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
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第16話 命の授業料

深淵の迷宮・第二十九階層は、やけに静かだった。


静寂の歯車の四人は、足音の数と拍を揃えたまま、石畳の回廊を進んでいた。

前を行くのはレン。右にリーナ、左後方にクラウス、最後尾にミーシャ。


壁に埋め込まれた古い魔導灯が、青白い光を細く伸ばす。

どの灯りも、どこか息を潜めているように弱々しい。


「……ここ、本当に二十九よね?」


リーナが低く呟く。


「出迎えが来ないのは、楽でいいじゃないか」


クラウスが軽く返しつつも、指先は杖の柄を固く握っていた。


「楽って言葉、この下では使わないで」


ミーシャは掌で胸元を押さえながら、小さく息を吐く。


視界の端には、薄い赤のもやが、ずっと張り付いたままだ。

沈黙の森の結晶とも、十層の核とも違う。

もっと、重くて濁った赤。感情の沈殿みたいな色。


階層を下るほど、その赤は濃く、粘り気を増していく。


(……これは、真紅までの尻尾みたいなもの)


ミーシャはそう言い聞かせる。

怖さを名前で囲っておかないと、飲まれてしまいそうだった。


壁に刻まれた古いルーンの一部が、うっすらと剥がれている。

その隙間から、地の底の呼吸みたいな低音が、かすかに漏れていた。


「……ゲリックの話では?」


クラウスが問いかける。


「二十九は、ほとんど通過点だ」

レンは即答した。


「魔物の密度は通常階層と同程度。罠も普通。第三十階層へ向かう者にとっては、最後に深呼吸するための踊り場みたいな場所」


「今は、深呼吸したくなるような空気じゃないけどね」


リーナが盾の縁を指先で軽く叩く。


空気は乾いているはずなのに、肺の奥がべったりと重い。

魔素の濃度が高いというより、向きがおかしい。

何かがどこかに流れ込んでいく感じ。

ここで息を吸えば、そのままどこかに引かれて行きそうな、不快な感覚。


「……流れが、下にだけ落ちてる」


ミーシャがぽつりと言う。


「普通は、行ったり来たりする。呼吸みたいに。でも今は、全部、同じ方向に引っ張られてる。沈黙の森のときと、似てるけど……もっと、尖ってる」


「尖っている?」


「うん。丸い渦じゃない。細い管みたい。魔素が、どこか一点に吸い込まれてる感じ」


クラウスが短く息を呑んだ。


「導管の枝管が折れたときのデータに……近いな」


「同じとは限らない。だが、方向性は一致してる」


レンは歩調を変えずに答える。


(呼び水。十六層の逆流。沈黙の森。導管の破綻。――そして三十階層。全部、一本の線で繋がりかけている)


指先が、腰のポーチに触れる。

中には、写し取った報告書の写本。黒塗りの行の合間に、ゲリックの言葉を手書きで書き足したノート。


敗北の記録と、その証言。


「もうすぐだ」


レンが足を止めた。


前方の闇が、わずかに深さを変えている。

階段の始まりだ。


第三十階層へと降りる、最後の段差。


四人の視線が、自然とそこに集まった。


「ここから先は、もう普通の失敗じゃ済まない」


レンは、振り返らずに言う。


「確認する。……撤退条件」


クラウスが頷き、ノートを開いた。


「一つ。ミーシャの魂視が真紅の核を捉えられなくなった場合。

一つ。リーナか俺のどちらかが意識を半分以上持っていかれた場合。

一つ。レンが遮断を二度以上使わざるを得ない状況に追い込まれた場合。

――いずれも、その瞬間に撤退優先に切り替える」


「撤退の判断権は?」


「最優先権はレン。ただしレンが判断不能とミーシャが認定した場合、前衛のリーナと俺の多数決に移る」


「よし」


レンは、短く頷いた。


「今回の目的は観測だ。討伐は、最初から条件に入っていない。俺たちが持ち帰るべきは、真紅の現在地と、柱の挙動」


リーナが鼻を鳴らす。


「でも、目の前にあのトカゲがいたら、殴らないなんて選択肢は持てないわよ?」


「殴るなとは言っていない」


レンは淡々と返した。


「殴る前に、線を引けと言っているだけだ」


ゲリックの敗北の真ん中にあったのは、その線の誤差だった。


七歩のつもりで踏み出した一歩が、恐怖で縮んで六歩半になった。

その半歩の狂いが、柱の届く範囲の内側だった。


撤退の手順。

恐怖に足をすくわれる前に、足場を用意しておく。


それは、ゲリックのパーティが「やりたくてもできなかった準備」の後追いだった。


他人の敗北という授業料を、徹底的に使うための作業。


「――行くぞ」


レンの合図で、四人は第三十階層へと降り始めた。


三十階層の階段は、長かった。


一歩ごとに、石の段差が靴底を通して「深さ」を伝えてくる。上層や中層で慣れた迷宮の圧とは、質が違う。沈黙の森に近づいたときの、あの底なしの気配に少し似ていた。


「……五十六」


ミーシャが小さく数える声が、背中側から届く。


「段数は、ゲリックさんの話と一致。踏み抜きポイントは、まだだよ」


「了解」


レンは短く返し、足を止めない。


先頭はレン、そのすぐ後ろにリーナ。少し間を空けてクラウスとミーシャ。階段の幅いっぱいに広がらず、あくまで一本の線で降りていく。


ゲリックが語った「敗北の階段」を、今度は自分たちの足でなぞるために。


七歩の誤差で仲間を失った話は、もう忘れようとしても忘れられない。


だからこそ、今日は最初から「数字」をこちらの側に引き寄せる。


階段を降り切ったところで、通路が口を開いた。


石壁の色が、そこから先で変わっている。二十層前後の灰色とは違う、乾いた骨のような白。それに、べったりと赤黒い影が貼りついていた。


「……匂いが、違う」


リーナが鼻をひくつかせる。


血の匂いではない。焼けた鉄と、湿った石と、結晶粉塵が一緒くたになった、乾いた匂い。


クラウスが指先で壁をなぞり、わずかに眉を寄せた。


「魔素の粒が粗い。沈黙の森の洞窟とも違うな……砕いた魔晶の残滓、か?」


「正体は後でまとめる」


レンは振り返らずに言う。


「まずは、目で見える線を引く」


通路は広く、やがて視界の先で開けていく。三十階層の闘技場へと続く、最後の直線だ。


レンは足を止め、アイテムボックスから布袋をいくつか取り出した。


中身は、ただの小石だ。


「クラウス。七歩単位でマーカーを打つ。俺の歩幅基準」


「承知した。……まさか、ここでゲリック殿の七歩を使うことになるとはね」


クラウスが小さく苦笑し、レンの後ろにつく。


レンはいつも通りの歩幅で、一歩、二歩、三歩と踏み出し、七歩目ごとに「ここ」と声を落とす。そのたびにクラウスが膝を折り、小石を床に並べていく。


ただの石ころが、命を守るための目印に変わっていく。


「ミーシャ」


「うん。……色、ちゃんと見てる」


ミーシャの瞳には、肉眼には見えない赤いもやが、通路の先にうっすらと漂っていた。


それは濃霧ではなく、薄く伸びた血管のようだった。どこか一点に収束し、うねりながら脈動している。


「先のほう、赤が濃くなってる。さっきから、ずっと波みたいに動いてる」


「波?」


クラウスが振り向く。


「一定じゃない。細くなったり、太くなったり。……呼吸に近いかも」


ミーシャが胸に手を当て、自分の鼓動と重ねるように目を細めた。


「早くなったり、遅くなったりはしない。けど、一回ごとに広がる幅が変わる感じ」


「ゲリックのときと、条件が違うってことか」


リーナが低く吐き出す。


「七歩が安全距離じゃない可能性がある」


「だからこそ、打つ」


レンは淡々と答える。


「前提が違うなら、その違いを数えればいい。石は誤差を覚えてくれる」


通路の先に、光が見え始めた。


三十階層の闘技場。


深淵の迷宮の、既知と未知の境界線。


レンは最後の一歩を踏み出し、視界を開く。




そこは、広場だった。


地上の闘技場をそのまま地下に沈めたような、円形の大空間。天井は高く、闇に紛れて先が見えない。壁面は段々になっており、かつて観客席だったのではないかと錯覚させる。


そして、その中央に。


「……あれが、柱か」


リーナの声が、自然と低くなる。


闘技場のど真ん中に、一本の柱が立っていた。


白骨の塔に、赤黒い結晶が幾重にも貼りつき、時折、内側から鼓動するように膨らんでは、しぼむ。そのたびに、表面の赤が黒に沈んでいく。


真っ赤、ではなかった。


赤と黒が混ざり合い、腐った血のような、深い色をしていた。


「……範囲、広がったり、狭まったりしてる」


ミーシャが囁く。


彼女の目には、柱を中心に円形の「消える領域」が見えていた。見えない膜が、呼吸するように脈打っている。


一瞬、直径十メートルほどに狭まり、次の脈動で二十メートル近くまで膨らむ。一定ではない。


ゲリックが語った「届く範囲」は、もはや過去のものだった。


「観測符」


レンが手を突き出す。


クラウスとミーシャが、用意していた観測用の符を四方に投げた。符は空中でふわりと舞い、柱からの距離を保ちながら、薄い光を撒き散らす。


「波形、記録開始。……消去の境界に近づくと、符の光が弱まる。これなら、広がりも追える」


クラウスが淡々と呟く。


「ただし、柱そのものに近づきすぎると、符ごと消える。そこまで攻め込むときは、身体感覚優先だ」


「了解」


リーナが大盾の革紐を握り直す。


そのときだった。


柱の影から、動くものが見えた。


「……リザードマン」


ミーシャが息を飲む。


数体のリザードマンが、柱の周囲をぐるりと回っていた。いずれも、上層で見た個体よりも大きく、筋肉の線がはっきりしている。腕には歪な結晶の塊を抱きかかえ、足取りは重い。


運搬係。ゲリックが使った言葉が、レンの脳裏をよぎる。


リザードマンたちは、柱のすぐ手前で足を止めた。


先頭の一体が、抱えていた結晶塊を無造作に放り投げる。塊は地面を跳ね、柱の根元へと転がった。


次の瞬間。


音もなく、消えた。


結晶が、ではない。


結晶と、そのすぐそばにあった石片と、空気の揺らぎごと、そこだけ丸く「なかったこと」になったように消えた。


レンは無意識に、喉を鳴らす。


「……あれが、消去か」


「血の匂いもしない。砕ける音もない」


リーナが眉をひそめる。


「あたしの勘だと、殺すっていうより、解かれてる感じ」


「魔素に戻している、ってことでしょうね」


クラウスが観測符を見たまま言う。


「消去が起きた瞬間だけ、柱の内部魔素密度が跳ね上がる。そのあと、周囲に薄く散っていく」


リザードマンたちは、黙々と同じ動作を繰り返す。


結晶塊を抱えてくる個体もいれば、自分たちの仲間を押している個体もいた。


押されているリザードマンの体には、赤黒い結晶がびっしりと生えている。腕や首が半分以上結晶に飲まれ、目の光は濁っていた。


「……結晶個体」


ミーシャの声が震える。


「生きたまま……?」


押されるまま、結晶リザードマンは柱の直前まで進む。


その足が、見えない円の内側に触れた。


一拍遅れて。


足首から先が、ふっと消えた。


悲鳴はなかった。痛みを感じる暇もないのか、ただ、存在そのものが切り取られていく。


膝、腰、胸。


結晶に覆われた片腕が、空中に残されるように宙づりになり、その輪郭だけが一瞬、濃くなってから――やはり音もなく消えた。


柱の赤黒い色が、ひと呼吸ぶんだけ濃くなる。


「……自分たちまで、捨ててるのか」


リーナが低く言う。


「いや」


レンは首を振った。


「捨てているというより、戻しているんだろうな。おそらくダンジョン内で循環している」


狂った結晶や暴走した魔物を、柱が「消化」し、魔素として還元する。


それ自体は、世界にとっては保全のための機構だ。


だが、その免疫の番人が、今は異常な脈動を続けている。


「……あれでも、まだ正常側なんだね」


ミーシャの呟きに、誰も何も返せなかった。


リザードマンたちは、役目を終えたかのように、柱から距離を取っていく。その足取りは、妙に規則的だった。


そして。


その「列」の奥から、一体だけ、明らかに違う影が姿を見せた。




まず、色が違った。


それは全身が深い紅で覆われていた。赤ではなく、真紅。血の色が結晶の中で凝固したような、限りなく黒に近い赤。


胸と背中には、心臓の鼓動に合わせて脈打つ大きな結晶塊。


それが、柱の赤黒と同じリズムで震えている。


「……真紅のリザードマン」


クラウスの声が、乾いた。


ゲリックが話していた「当時」の姿よりも、さらに結晶化が進んでいる。片目は完全に結晶に埋もれ、もう片方の瞳だけが、こちらをじっと見ていた。


その眼差しには、知性の残滓と、本能的な殺意が同居していた。


リザードマンたちが左右に散る。


真紅が、柱と彼らの間に歩み出る。


「位置取り、最悪ね」


リーナが唇を歪める。


闘技場中央、柱の手前。


真紅を正面から狙えば、そのまま柱の「届く範囲」と正対することになる。側面から回り込めば、今度は柱と真紅の二つの「中心」に挟まれる。


「……まるで、ここから先は通す気がないって言ってるみたいだ」


ミーシャが矢筒に手を伸ばしながら呟く。


レンは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。


「配置を決める」


言葉と同時に、頭の中で戦場が「線」に変わっていく。


柱を中心とした可変の円。


真紅を中心とした殺傷範囲。


リザードマンたちの群れの散開方向。


観測符の位置と光の強度。


「リーナ、左前。真紅の注意を取る。柱との距離は、観測符の外縁から一歩分内側まで」


「了解。盾を捨てるラインは?」


「観測符が一段階暗くなったところ。そこから先は、盾ごと消える可能性がある」


リーナが口の端を釣り上げた。


「自分のほうが先って信じたいところね」


「クラウス、右後方。真紅そのものじゃなく、足場を狙う」


レンは続ける。


「氷で滑らせるんじゃなく、音を殺せ。あいつらは地面を踏んで、自分の身体でリズムを合わせてる」


「なるほど。沈黙の森と十六層の混合パターンか。面白くなってきた」


クラウスが冷静にうなずく。


「ミーシャ」


「観測と牽制。……それと、赤の揺れの報告」


ミーシャは自分で自分の役割を言葉にした。


「怖くても、見る。怖くても、数える」


「そうだ」


レンは短く肯定する。


「俺は、距離とタイミングの管理、それから――」


一瞬、言葉を区切る。


「『声』が来た瞬間に、空間遮断を使う」


リーナが振り向いた。


「最初から切るのは?」


「切りっぱなしでは、観測が止まる。魔素の波形が見えなければ、次の手が打てない」


レンはきっぱりと言う。


「だから、来る瞬間だけ切る。ゲリックの話では、二度目の雄叫びで判断が削られた。なら、最初の一発を観測してから、二発目以降を遮断で潰す」


「……相変わらず、ギリギリを攻めるわね」


リーナが呆れたように笑った。


「ギリギリを攻めないと、授業料の元が取れない」


レンは、どこか淡々とした声で言った。


「ここまで集めた他人の敗北を、ただ怖がるだけで終わらせるつもりはない。払ったのは俺たちじゃない。なら、そのぶん徹底的に使う」


ミーシャが、息を飲むのが聞こえた。


クラウスは、薄く笑いながら杖を握り直す。


「性格が悪いのか、真面目すぎるのか、やっぱり判断に困る」


「どっちでもいい」


レンは視線を真紅に向けた。


「生きて戻れば、それで正解だ」


真紅のリザードマンが、わずかに首を傾げた。


まるで、人間の言葉を理解しているかのように。




最初に動いたのは、リザードマンの群れだった。


真紅の背後で控えていた数体が、一斉に低く咆哮を上げる。足元の石床が共鳴し、闘技場全体に低音の振動が走った。


「前衛、来る!」


リーナが盾を構えるより早く、二体のリザードマンが左右から飛び出した。片方は両腕に結晶を巻きつけ、ハンマーのような拳を振り下ろしてくる。もう片方は、舌を鳴らしながら槍を突き出してきた。


「柱との距離、あと四!」


ミーシャの声が重なる。


レンは後方から指示を飛ばす。


「リーナ、左を受け流して右を落とせ!クラウス、左側の足元に凍結層!」


「任せろ!」


リーナが一歩前に踏み出し、左側の拳を盾面で斜めにさらう。全力を受け止めず、投げ流す。拳が空を裂き、その勢いでリザードマンの体が半歩だけ乱れた。


その足元に、薄い氷の膜が張り付く。


「音が変わったな」


クラウスが呟く。


氷は滑らせるためではなく、振動を逃がすための層だ。打撃の衝撃が床に伝わる前に、氷が微かに砕け、音の芯を奪う。


リザードマンの動きが、わずかに重くなる。


「今!」


リーナが吠え、大盾の縁で槍を叩き落とした。ミーシャの矢がそこに滑り込み、槍を握っていた指の間を貫く。


槍が転がり、リザードマンの喉が開いた。


リーナのウォーハンマーが、その隙間にねじ込まれる。


鈍い音と共に、一体目の首が弾け、結晶片が飛び散った。


「結晶、飛散!」


クラウスが叫ぶのと、ほぼ同時。


飛び散った結晶片の一部が、柱の「境界」に触れた。


そこだけ、空気の色が変わる。


結晶片が触れた半径一メートルほどの範囲が、一瞬だけ黒く沈み――その中にあった血も、石片も、砕けた槍の先端も、まとめて消えた。


「……ちょっと待て」


リーナが息を詰める。


「さっきより、範囲が狭い」


「さっきの結晶塊を飲み込んだときは、少なくとも直径十メートルはあったはずだ」クラウスが観測符を睨む。


「今のは一メートル強。収縮の幅が極端だ」


柱が、まるで「試している」かのように、消去範囲を細かく変えている。


「ミーシャ、赤の波は?」


「……さっきより、細かく震えてる。脈が速くなったというか……起きた感じ」


ミーシャの額に汗がにじむ。


「真紅の胸の結晶も、一緒に震えてる。あれ、多分――」


言い終える前に。


真紅のリザードマンが、こちらを見た。


ただ、視線を向けただけだ。


その瞬間、ミーシャの背筋に冷たいものが走る。


(見られた――)


次の瞬間。


闘技場の空気が、一気に重くなった。


「来る――!」


レンの喉が先に反応した。


鼓膜が破れそうなほどの咆哮ではない。


音としては、ただの「声」だ。人間の喉では絶対に出ない、低く濁った叫び。


だが、その声には「意味」が乗っていた。


逃げるな。立て。前を見ろ。膝を折るな。諦めるな。


戦士としては正しい命令の列。


それを、心の一番深い場所に、直接叩き込んでくる。


視界の端で、観測符の光が一斉に乱れた。


魔素の波形が、柱と真紅と闘技場全体で共鳴し、巨大なうねりに変わる。


(これが――恐怖の雄叫び)


レンの背中に、冷たい汗が流れた。


まだ、一度目だ。


ゲリックが「宣告」と呼んだ一発目。


「遮断、準備!」


レンは叫びながら、魔力を練り上げる。


頭の中で、三メートルの球体を思い描く。


自分と仲間たちをすっぽりと包む、小さな静寂の世界。


空間遮断が、彼の周囲に薄く展開されていく。


だが。


「――っ……!」


その前に、咆哮の「意味」が滑り込んできた。


視界の赤が、別の赤に変わる。


炎。崩れる城壁。血まみれの鎧。


呼びかける声。


伸ばした手が届かなかった背中。


(カエラン――)


焼け落ちるクライネルトの夜が、視界を埋めかけたその瞬間。


誰かの声が、現実に引き戻す。


「レン!」


耳元で、リーナの怒鳴り声。


「まだ一発目だろうが!立ってろ!!」


その言葉が、わずかに揺らぎかけた現実をつなぎ止める。


レンは歯を食いしばり、空間遮断の構築を強引に完了させた。


光が、切れた。


赤も、黒も、形も、輪郭も、すべてが一瞬で失われる。


視界が暗くなった、という感覚すらない。

「見える」という概念そのものが、そこから先に存在しない世界。


音も、消えた。


さっきまで耳を叩いていた咆哮も、柱の脈動も、リザードマンの爪音も。

ついさっき聞こえたリーナの声の残響すら、綺麗に切断されている。


(……よし、切れてる)


自分の思考だけは、いつも通りだ。

内側から聞こえる心臓の鼓動も、耳ではなく「自覚」として分かる。


足裏に石床の感触。

手の中にある武器の重さ。

革紐が手首に食い込む圧。


触れているものだけが、かろうじて位置を教えてくる。


(リーナは左前、クラウスは右後ろ、ミーシャはその外側)


さっきまでの配置を、頭の中でなぞる。


いま、誰がどこを見ているのか。

どんな顔をしているのか。


何一つ分からない。


分かるのは、「この半径三メートルの中にいる」という事実と、

「外側の世界が、ぜんぶ消えている」という事実だけだ。


時間感覚が、少しずつ怪しくなってくる。


(呼吸、三つ)


息を吸い、止め、吐く。

それを一つとして数える。


視界も音も魔素の流れもないと、秒針の代わりになるものがない。

だから、自分の呼吸を数える。


(雄叫びは、一発目。二発目までの間隔は未知数。

長く閉じれば、その分だけ安全だが――)


ダンジョンの内側で「空白」を作る行為。


位相消却柱と同種の機能を、別口からねじ込んでいるのと同じだ。


(ここだけ、世界から抜けている)


遮断の内側には、闘技場の魔素も、柱の脈動も届かない。

逆に言えば、「届かない穴」がひとつ、ダンジョンの内部構造に空いた。


その事実だけが、なぜか嫌にくっきりと頭に残る。


ここで時間稼ぎに使うのは、悪手だ。


必要なのは、「雄叫びを素で受けない」ためのクッションであって、

ダンジョンの中で世界ごと引きこもるための避難所ではない。


3秒ルール。3秒で切る。


レンは数えながら、術式を解いた。


世界が、戻ってきた。


音が一気に押し寄せる。

真紅の呼吸。柱の脈動。リザードマンたちの爪が床を叩く音。


視界が再起動し、赤黒い闘技場が形を取り戻す。

匂いさえ濃くなったように感じた。


「っは……!」


リーナが大きく息を吐き、盾を構え直した。


クラウスは額を押さえ前方に意識を集中させる。


ミーシャは弦を強く握りしめたまま、肩を震わせていた。


「生きてるな」


レンが短く言うと、リーナが苦笑混じりに鼻を鳴らす。


「死んでたら返事してないっての」


「一発目でこれ、か……」


クラウスが、低く息を吐いた。


「二発目を素で食らったら、誰かは確実に落ちるね」


ミーシャは矢羽根を撫でながら、小さくうなずいた。


「でも……今の、たすかった。あのまま聞いてたら、足が動かなくなってたと思う」


レンは一度だけ振り返り、来た方向を見やる。


さっきまで開いていたはずの通路。そこが、妙に暗く見えた。


暗い、ではない。塗られている。


「……ん?」


耳が、鈍い石の動く音を拾った。


通路側からだ。


「今の、聞こえたか」


リーナが眉をひそめる。


「通路だな」


クラウスが視線を細める。


ミーシャが、通路の先をじっと見つめた。


「……嫌な色」


「見えるか」


「うん。通路の入口のところ……赤で縁取られてる。柱と同じ色。輪っかみたいに、きれいに」


観測符を一枚、クラウスが通路側に放る。


符は空中を滑り、通路の口へ向かう。

あと一歩というところで、ふっと消えた。


音も光も残らない。


さっき、結晶片が消えたときと同じ「なかったこと」になる消え方。


「……通路の入り口が、消去半径の縁に書き換えられている」


クラウスが低く言う。


「帰り道に、柱の消化範囲を持ってきたってこと?」


リーナが舌打ちした。


「性格悪くない?ここの階層」


レンは、短く息を吐いた。


「……タイミングが悪すぎる」


「遮断のせい?」


「断定はできないが、疑うには十分だ」


レンは通路と柱を交互に見ながら言う。


「俺が空間遮断を張った瞬間、ダンジョン側から見ればここだけ位相が抜け落ちた穴ができた。その直後に、帰り道が孔ごと焼却ラインに組み込まれた」


偶然と言い張るには、順番がぴったりすぎる。


「同じ消す側だから、外に出したくないってこと?」


「可能性としては、高い」


レンは頷いた。


「ここで俺たちを逃がせば、消去系の現象を外界に持ち出されるかもしれない。そう判断したのかもしれない」


ミーシャが、唇を噛んだ。


「……しばらく待てば、通れるようになる、は?」


「あったとしても、その一歩目が問題だ」


レンは首を振る。


「いまの書き換えかたは、通路という機能の上に膜を貼ったんじゃない。通路の口そのものを、新しい役割に差し替えてる。戻ろうとして踏み出した瞬間、足首から先ごと消える未来しか見えない」


「撤退は?」


「現状、不可能」


レンははっきりと言った。


「遮断を使ったことで、俺たちは同じ消去系の異物として認識された可能性が高い。ここで背を向ければ、階段ごと飲み込まれる確率が上がるだけだ」


「やばい状況を冷静に言うな!」


リーナが吐き捨てる。


真紅のリザードマンが、一歩、こちらに踏み出した。

背後の群れは通路とは反対側へと散り、逃げ道を塞ぐような扇形の陣形を取る。


柱の脈動と、群れ全体の拍が同期していく。


逃げる方向は、最初から決められていた。


通路ではなく、前。

真紅と柱のほうへ。


「……そういうことか」


レンは、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。


「選択肢は一つだ。前に進んで、あの柱と真紅をどうにかする」


「どうにかする、って言い切るあたりが毎回怖いのよね」


クラウスが苦笑しつつも、杖を握り直す。


ミーシャは矢羽根をそっと撫で、深呼吸した。


「でも、どうにかしないと地上が飲まれるんだよね?」


「そうだ」


レンは頷く。


「ここで片をつける。ダンジョンの免疫が俺たちを異物と見るなら、その評価をひっくり返すくらい徹底的にやる」


振り返らない。

振り返ったところで、帰り道はない。


あるのは、前だけだ。


「――ここから先が、本当の授業だ」


レンが呟く。


真紅の胸の結晶が、どくん、と大きく脈打つ。

柱の赤黒が、それに呼応するように広がった。


静寂の歯車と真紅の番人。

三十階層の闘技場で、「退路のない命を懸けた授業」が始まりつつあった。


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