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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
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第15話 撤退のための線引き

王都アステリアの空は、ひとまずの青さを取り戻していた。


戒厳令は解かれ、封鎖されていた街路からは鎧の列が消えつつある。露店は慎重に幕を上げ、パンとスープの匂いが戻ってきた。


けれど、その安堵は薄い膜みたいなものだった。


人々の視線は、王都の中心ではなく、地下へ伸びる見えない穴のほうを、いまだに恐る恐るうかがっている。


深淵の迷宮。この国の礎にしてあらゆる感情の巣窟。


十層封鎖線での戦いは、数字の上では「成功」と呼べる結果に終わった。だが、その成功の上に積み上がっているものが、綱渡りの足場に過ぎないことも、王都の上にいる連中はよく知っていた。


ギルド本部三階、副ギルドマスター執務室。


静寂の歯車の四人は、長机を挟んでレナと向き合っていた。


机の上には、紙束が三つ。


一つは、十層封鎖線の最終報告書。


一つは、王立図書館・王家共同封印記録から抜粋した「第三十階層・特異個体交戦記録」。


そして最後の一つは、さきほど完成したばかりの新しい紙束だった。


『第三十階層・事前想定プラン』


「……撤退経路、三案」


レナが、淡々と読み上げる。


「第一案、二十九階層までの後退。階段入口を多層結界で封鎖し、ギルドと救護所に援軍と情報共有を要請」


「第二案」


レンが引き取る。


「第二案。階段周りが安全とは限らない前提で動く。二十九階層までいったん退き、そこから横穴ルートに乗り換えて真紅と柱の拍の外側へ離脱する。ここまで下がれば、恐怖の雄叫びの直撃は避けられるはずです」


「第三案は……」


クラウスが、小さく息を吐く。


「第三十階層内で、柱の機能を一時的に黙らせることができた場合のみ。柱が再起動していない短時間のうちに、階段まで一気に退く。ここだけは、完全に成功後の撤退ルートですね」


レナは無表情のまま、紙から視線を上げた。


「真紅のリザードマンと柱を無傷で抜けた場合、という前提ですね」


「ええ」


レンはあっさりと頷く。


「そこまでやれたなら、撤退じゃなくて任務完了後の帰還です」


リーナが肩を竦めた。


「どこまで行っても、帰ることだけは諦めないのね」


「帰らない前提の戦い方は、趣味じゃない」


レンは、少しだけ口元を歪める。


「せっかく他人が払ってくれた授業料だ。使えるところまで全部、贅沢に使う」


ゲリックの店で聞いた声が、喉の奥で蘇る。


――撤退経路を三本。柱を避けたルートを二本。真紅を視認した時点での最初の一手を、今ここで決めておけ。


あの忠告は、そのまま紙になっていた。



レナは、短くため息をつく。


「……本気ですね」


「最初から、そのつもりで話を聞いていました」


レンの返事は簡潔だった。


レナは、机の端に置いていた封筒を指で押し出す。


「こちらが、深淵の迷宮・下層域への通行許可証です。名目は『第三十階層・特異個体の再観測』。公式には討伐とは明言しません。ギルドの裁定としては、生きて戻ることが最優先」


「でも、実際には?」


クラウスが、少し意地悪な笑みを浮かべる。


「戻ってきた時点で、真紅の拍がどう変化したか、柱がどう変質したか……その結果に応じて、Aランク昇格か、あるいはもっと厄介な舞台に引きずり出されることになる」


レナもそこで口角をわずかに上げた。


「天秤の上に乗るということは、そういうことです」


「戻ってこなかった場合は?」


ミーシャの声は、少しだけ震えていたが、逃げてはいなかった。


「その場合は――」


レナの声が、一瞬だけ柔らかくなる。


「ギルドとしては『勇敢な調査隊の殉職』として扱います。王都の子供たちに語られる、新しい怪物譚がひとつ増えるだけです」


リーナが舌打ちした。


「聞こえはいいけど、要するに死んでも話のネタにするってことね」


「生きて戻れば、話を変える側に回れます」


レナはあっさりと言った。


「その権利を取りに行ってください。……天秤は、結果だけを見ます」


レンは、封筒を手に取った。


「結果を持って帰ります」


その言葉は、約束であり、宣言だった。




王城・高層棟。


夕暮れの光が、薄いカーテン越しに書庫を染めていた。


高い本棚と、積まれた報告書。


部屋の中央、机の上にはギルドからの文書が一通置かれている。


ユリウス王子は、それを三度目になる精度で読み返していた。


「『静寂の歯車』、ギルド裁定により、第三十階層調査へ向かう――」


声に出さなくても、文言は頭に焼き付いている。


椅子の背にもたれながら、ユリウスは視線だけを窓へ向けた。


王都の灯が、ひとつ、またひとつと灯る。


十層封鎖線が終わり、表向きは「平常」が戻りつつある夜だ。


扉が、控えめに叩かれた。


「ユリウス様」


柔らかな声と共に入ってきたのは、白の法衣に金糸の縫い取りを施した少女だった。


聖女アリア。


彼女もまた、机の上の文書に目を落とす。


「……行くのですね」


「ああ」


ユリウスは短く答えた。


「ギルドの天秤が、彼らを下に送ると決めた。王家としてそれを止めるかどうか、父上も俺も悩んだが……」


「止めない、と」


アリアの声音は、責めではなく確認だった。


「王都の警戒網を維持しながら、帝国と宰相派の動きにも備えねばならない。正規軍を下層まで派遣する余裕はない。……冒険者に、任せるしかない」


言葉の端に、わずかな苦味が混じる。


それは王子としての責任と、一人の若者としての悔しさの混合物だった。


「宰相は?」


アリアが静かに問う。


「『ギルドの裁定に口を挟むべきではない』と」


ユリウスは、口の中でその言葉を転がすように呟く。


「静寂の歯車が死ねば、聖女と王子の周りから危険な独立戦力が一つ消える。生きて戻れば、功績を利用すると言い出すだろう。どちらに転んでも、自分の皿に載せるつもりだ」


アリアの指先が、僅かに震えた。


「……人の命を、秤の石みたいに」


「そういう男だ」


ユリウスは否定しなかった。


アリアは机の角にそっと手を置き、深く息を吸う。


胸の内側には、冷たいものと熱いものが同時に渦巻いていた。


聖女としての役目と、一人のアリアとしての感情。


レンの顔が脳裏に浮かぶ。


沈黙の森で、血に濡れた手を震えもせず、結晶化しかけた命を数字に落としていた男。


十層封鎖線で、英雄視される空気を一歩下がって眺めながら、次の異常を探していた男。


(また、危ないところへ行く)


(また、わたしは、ここで見ているだけ)


「……アリア」


ユリウスが、その横顔を見つめる。


「彼らを英雄にすることを望んだのは、君でもある」


アリアは、苦笑に似た表情を浮かべた。


「ええ。わたしが『英雄待望』を語ったから……彼らは、もっと深いところへ呼ばれてしまった」


それが、罪悪感の形だった。


「でも」


アリアは、静かに首を振る。


「それでも、わたしは、彼らに行ってほしいと思っている。誰かが行かなければ、いずれ王都そのものが飲み込まれる。静寂の歯車なら、誰よりも遠くまで辿り着き、誰よりも多くを持って戻ってくると知っているから」


ユリウスは、視線を落とした。


「酷な役回りだな。祈りながら、彼らを前線に送り出す」


「酷いのは、世界です」


アリアは穏やかに答える。


「わたしたちは、その中で、少しでもましな選択肢を選ぶ役目をもらっただけ」


その目には、揺らぎと、それでも折れない光が共存していた。


「……祈り、ます」


アリアは、机の上の文書に向き直る。


「あなたのためにも。彼らのためにも。授業が、命を奪うだけのものじゃないように」


ユリウスは小さく笑った。


「レンが聞いたら、きっと『授業料を無駄にしないだけです』とか言うな」


「そうでしょうね」


アリアも、ほんの少しだけ笑った。


その笑みはすぐに消え、祈りの印へと変わる。


深淵の迷宮第三十階層に向かう小さな歯車たちに、聖女の祈りが届くかどうかは分からない。


それでも、祈らずにはいられなかった。




王城から少し離れた別棟、その一室。


高価な絨毯と、帝国製の酒瓶が並ぶサイドテーブル。


ヴァロワ伯は、窓から王都の光を眺めながら、赤い液体を揺らしていた。


「――静寂の歯車が、三十階層に?」


向かいに座る男が、片眉を上げる。


駐アストリア帝国大使。


黒い礼服を着た彼は、わざとらしく肩をすくめた。


「物好きな連中だ。あそこに潜って戻ってきた者は、ほとんどいないと聞く」


「物好きというより、駒として便利、というべきでしょうな」


ヴァロワ伯は薄く笑う。


「聖女と王子に近すぎる危険な駒。ギルドの天秤の上に乗っているうちに、どちらの皿に落ちるか見定めておくに越したことはない」


「帝国としては?」


「興味はある」


大使は正直だった。


「スタンピートの予兆に、あの静寂の男がどう介入するか。彼がもし、我々にとって邪魔な変数になるなら……早めに値踏みしておきたい」


ヴァロワ伯は、その言葉に満足げに目を細めた。


「ならば、情報と引き換えに、将来の『座』の約束を――」


そのやりとりは、静かに続く。


地下の迷宮で命を懸ける者たちと、地上で盤上を見下ろす者たち。


その視線は、決して交わらない。




ギルド本部一階・大広間。


夜の喧噪が少しだけ戻りつつある中、ひときわ静かな空白が出来ていた。


静寂の歯車の四人が、入口近くで装備の最終確認をしていたからだ。


レンの脳裏に古書店の扉が一瞬だけ浮かんだが、「今さら助言を乞うのは、この授業を途中で投げるのと同じだ」と、自分でその案を打ち消した。


リーナは大盾と軽盾を見比べ、結局大盾を選んだ。


「どうせ消されるなら、面積が大きいほうが得でしょ」


「物騒な得だな」


クラウスが苦笑しながら、腰のポーチを点検する。


観測符、結界符、簡易の洗浄符。新しい道具は一つもない。あるのは、これまでの戦いで磨かれた組み合わせだけ。


ミーシャは矢羽根を一本一本撫で、弦の張りを確かめていた。


指先には、まだゲリックの酒場で聞いた「七歩」の話が残っている。


(怖くても、数える。怖くても、見る)


自分で自分に課した役目を、今さら戻すつもりはなかった。


受付カウンターから、エララが駆け寄ってくる。


「静寂の歯車の皆さん!」


息を切らしながら、彼女は四人の前で立ち止まった。


「これ、追加の通行証と……救護所経由で届いたお守りです」


差し出された小袋には、小さな木札が四つ入っていた。


雑な刻印で、それぞれに違う名前が刻まれている。


救護所で出会った低ランク冒険者たちの署名だった。


「『帰ってきてください』って。……英雄って言葉は、誰も使いませんでしたけど」


エララは、少しだけ笑う。


「そういうの、照れくさいらしいです」


「英雄は、結果がついてきたあとに勝手に貼られるラベルだからな」


レンは木札を受け取り、手のひらで軽く握った。


「こっちは、ただ授業を受けに行くだけだ」


「命の?」


クラウスがからかうように聞く。


「授業料は、もう前払いでたっぷり出てる」


レンは、ゲリックたちの姿を思い浮かべる。


「回収するだけだよ」


少し離れた場所で、若い少年がこちらを見ていた。


Eランク冒険者、フィン。


憧れと、言葉にできない不安を一緒くたにしたような目で。


リーナが片手を上げて見せると、彼は慌てて頭を下げた。


「……行ってらっしゃい、って言っていいんですよね」


ミーシャが小さく笑いかけると、フィンは真っ赤になってうなずく。


「はい!行ってらっしゃいませ!」


その声が、広間全体に意外なほどよく響いた。


誰かがジョッキを掲げ、誰かが無言で拳を握る。


それぞれのやり方で、四人を見送った。


レンは、それに背を向ける前に、一度だけギルドの天秤の紋章を見上げる。


(天秤は、俺たち個人に興味はない)


(あるのは、世界の均衡と、数字だけだ)


だから、それでいい。


その皿の上に、自分たちの「準備」と「逃げ道」と「他人の敗北から削り出した条件」を全部積み上げてやる。


そのうえで、生きて戻る。


「――行くぞ」


レンの声に、リーナ、クラウス、ミーシャが頷いた。


ギルド本部を出ると、夜風が頬を撫でる。


王都の灯りの向こう、石畳の先には、深淵の迷宮へ続く階段が口を開けていた。


その遥か下で、真紅の番人が待つ。


聖女の祈りも、王子の決意も、宰相の打算も、帝国の計画も。


その全部が、見えない線となって、彼らの背中を同じ方向へ押していた。


静寂の歯車は、地上に残された一番ましな退路に背を向け、地下への道を下り始めた。


命の授業の続きは、深淵の迷宮・二十九階層から始まる。


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