表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
37/42

第14話 悔恨

ゲリックは話を続ける。


「斥候が消えた理由は広間の中央の柱みたいなものだ」


「生き物の骨が、長い時間をかけて魔素を吸い、外側から赤い結晶を貼りつけられたような」


「――そこで、斥候が前に出た」


ゲリックは、テーブルの木目を指でなぞりながら続ける。


「彼女は、符よりも痕跡を見るタイプだった。足跡の深さ、傷の向き、血の飛び方。そういうもので罠の角度と、敵の癖を読む」


静寂の歯車とは異なる発想でのアプローチ。


レンたちはまず数字を集め、流れを式に落とし込む。

ゲリックのパーティは、目に見える歪みから逆算する。


「ここを見ろ、って彼女が言った」


ゲリックは、広間の一角を示すように、空中に線を引く。


「折れた槍の穂先が、ほとんど同じ方向を向いて転がってた。盾も切り取られたかのように散らばっていた。装備の残骸だけがきれいな弧をえがいてた」


リーナの眉がひそむ。


「……攻撃を受けた角度が、揃ってた?」


「そうだ」


ゲリックは頷く。


「彼女は『ここで、何かが薙いでる』って言った。柱を中心に、ある角度だけ何度も同じ力が通った形だ、と」


クラウスが、メモに素早く図を描く。弧を描く線と、そこから伸びる想定の攻撃軌道。


「静寂の歯車なら、そこで観測符を増やすんだろうな」


ゲリックがぼそりと言う。


「俺たちは、逆だった。符の数値が許容範囲なら、その上で、人間の目で見えるものを優先した」


レンは何も言わなかった。


今の静寂の歯車から見れば「順番が逆」に見えるやり方だが、当時の彼らにとっては自然な判断だった。


「彼女は、柱からの距離と、装備の散らばり方を見て、安全そうな帯を割り出した」


ゲリックは、指でテーブルに三本の線を描く。


「ここからここまでは、残骸も少ない。ここは攻撃線の外側。ここを軸に下がって、経路を取り直すべきだ、ってな」


ミーシャが、膝の上で指をぎゅっと握りしめる。


「……撤退するつもりだったんですか」


「その時点じゃ、まだ下がるって言葉までは出なかった」


ゲリックは口の端を歪める。


「だが彼女は、『ここは餌場だ』とはっきり言った。三十階層の入口じゃない。真紅か、その主みたいな何かの食卓だってな」


レンの背筋に、冷たいものが走る。

レンなら、紙と数字を積み上げてようやく辿り着く結論だ。それに、彼女は一歩で届いた。


「本当なら、その時点で俺が撤退を決めるべきだった」


ゲリックの視線が、わずかに沈む。


「……だが、Aランクってのは面倒な生き物でな。踏みとどまる資格を、いつも自分で量ろうとする」


彼は短く息を吐く。


「『一度だけ、確認させろ』」


低く、そのときの彼女の声をなぞる。


「『あの柱を中心に、どこまでが届く範囲か。ちゃんと線を引いてからじゃないと、帰っても意味がない』」


静寂の歯車の四人は、その理屈に胸を刺される。


今なら、レンが口にしてもおかしくない台詞だった。


「彼女は、普段なら絶対にやらないやり方を選んだ」


ゲリックの声が、少しだけ掠れる。


「いつもなら、俺が前に出て盾で試す。彼女は、さらに外側から線を引く。だがあのときは違った。俺の足が、恐怖で半歩だけ重くなってた」


短い沈黙。


「だから彼女が替わりに出た。『あんたは正面を抑えてて。不動の盾が下がったら、全体が崩れる』ってな」


リーナが、奥歯を強く噛みしめる気配を隠さない。


「彼女は、柱から数えて七歩外を安全帯に設定した」


ゲリックは、当時の記憶を反芻するように淡々と語る。


「倒れている盾の位置、壊れた武器の破片、結晶の張り付き方。全部足し合わせて、彼女なりの線を引いた」


クラウスが小さく呟く。


「痕跡から安全圏を割り出す……我々なら、そこでまず観測符を叩き増やしますね」


「俺たちは、符を増やす前に人を出した」


ゲリックは、それを否定も言い訳もしなかった。


「彼女は、いつも通りだったよ。歩幅を一定にして、壁に軽く指を這わせながら、足元の水たまりに石を投げて深さを測る」


ミーシャの視界の中で、くすんだ白と、暗い赤が揺れる。


「――あいつの声が、二度目に響くまではな」


ゲリックの目が、一瞬だけ過去の闇を映す。


「一度目の恐怖は、ただの宣告だった。『立て』『逃げるな』っていう命令の塊だ」


先ほどの説明が、ここでつながる。


「二度目は、もっと質が悪かった」


ゲリックは、膝の上で拳を握った。


「今度は、判断を削りにきた。距離感、時間の感覚、自分の歩幅。そういうものを、ほんの少しだけ狂わせる」


レンが、反射的に息を詰める。


数字で言えば、わずかな誤差。

だが、三十階層の最前線で、それは致命傷になりうる。


「彼女は、恐怖を押し込んでいた。押し込みながら、ちゃんと数えていたはずだ。『一歩、二歩、三歩』ってな」


ゲリックは、空中を見つめる。


「だけど、そのときの彼女の一歩は、普段より半分だけ狭かった」


静寂が、部屋に落ちる。


「七歩のつもりで踏み出した場所は、実際には六歩半だった」


ゲリックは、テーブルの一点を指で押さえた。


「そこが、柱の届く範囲の、ぎりぎり内側だった」


ミーシャの喉が、かすかに鳴る。


「……どう、なったんですか」


「消えた」


ゲリックは、短く答えた。


「音もなく、光もなく。彼女の影だけが、一瞬、床に焼き付いたみたいに色を濃くして――その次の瞬間には、空気の方が先に彼女の形を忘れてた」


リーナが、拳を握る音がする。


「そこには何もなかった」


ゲリックは続ける。


「肉体も血も、柱の方へ引き込まれたのか、最初からなかったみたいに消えたのか。今でも分からない。ただ、柱の表面の赤が、ほんの少しだけ、濃くなっていた」


レンの胃のあたりが、静かに冷えた。


「俺は、それでも前に出られるかを試されていたんだと思う」


ゲリックは、自嘲気味に笑う。


「仲間一人が、戦線を測るための誤差として消えたあとでも、まだ盾を構えて進む気があるかどうか。あの階層は、そういう場所だった」


クラウスが、ペンを握る手に力を込める。


「戦う資格を……問われた」


「そうだな」


ゲリックは、遠い目で頷いた。


「俺たちは、その問いに半端な答えを返した。だから、あの広間で最初の一人を失っただけで済んだのか、それとも、そこで既に全部負けていたのか」


そこで言葉を切り、彼は静寂の歯車の四人を見渡す。


「――お前たちは、自分の一歩の長さを、どこまで信用してる」


その問いが、彼女の消え方と同じくらい、重く刺さった。




レンたちは、すぐには答えられなかった。


自分の「一歩」を信用しているか。

そんなもの、普段は考えない。考えた瞬間に、足が縫い付けられるからだ。


沈黙の中で、ゲリックが先に息を吐いた。


「……まぁ、答えなくていいさ。あの日の俺も、まともに答えられなかった」


彼は、空になったカップを指先で転がす。


「斥候が消えたあと、最初に聞こえたのは、自分の歯の音だった」


ミーシャの肩がぴくりと震える。


「歯、ですか」


「かちかち鳴ってた。自分だって気づくまで、敵の音かと思ったくらいだ」


ゲリックは苦笑とも自嘲ともつかない顔をした。


「魔導士が、俺の袖を引いた」


低く、淡々と続ける。


「『撤退だ』って。あいつは冷静だったよ。観測符の値をもう一度読み直して、柱からの魔素の揺れ方が、さっきと違うってことに気づいてた」


クラウスの目が細くなる。


「違う……?」


「さっきまでは、柱から外に染み出すタイプの高さだった。境界があって、その外側はまだ薄かった。だが、斥候が消えたあとには、逆になってた」


ゲリックは手のひらを裏返す。


「『内側に引き込む波形に変わってる』ってな。あいつの言葉を借りるなら、本格的に食べ始めた」


レンの指先に、冷たい汗がにじむ。


斥候ひとり分の死を食わせたところで、柱は本気を出した、ということだ。


「癒し手は?」


ミーシャがおそるおそる口を開く。


「祈っていたよ」


ゲリックは、意外なほど柔らかい声で言った。


「斥候の名を呼びながらな。戻ってくるべき場所に戻れますように、って。俺はその時点で、もう戻ってこないって分かっていたが、それでも止められなかった」


リーナが唇を噛む。


「……そこから、どうしたの」


「いったん、階段まで下がろうとした」


ゲリックは椅子の背に軽くもたれ、天井を見上げる。


「だがそこで、待っていた」


重い間。


レンが、自然と息を殺す。


「広間の奥。柱の陰から、やつがゆっくりと歩き出した」


ゲリックの視線が、遥か下層の闇を見ている。


「真紅のリザードマンだ」


ミーシャの喉が、かすかに鳴った。


聞き慣れたはずの名なのに、この場で改めて聞くと、別のもののように冷たく響く。


「背丈は、人間の一回り上。だが、印象としては低く長い」


ゲリックの指が、机の上で輪郭をなぞる。


「真紅の鱗。肩から背中にかけて、黒く焦げたような斑。右の角は折れていて、切り口に結晶が固まっていた。あいつ自身が、どこかで一度欠けた痕だ」


クラウスが、思わずペンを握り直す。


「目は……?」


「細い。蛇に近いな。だが、刃物で切りつけられたみたいに、まっすぐな光をしてる」


ゲリックは、言葉を選ぶように一拍置く。


「そして、数える目だ。三つ並んだ俺たちを、最初から最後まで、順番に量っていた」


天秤の視線。


レンがさきほど口にした言葉が、嫌な形で意味を持つ。


「雄叫びは、もう一度だけだった」


ゲリックの表情が険しくなる。


「だが、その一度で分かった。さっき柱から聞こえた恐怖の声とは、質が違う。あれは空間そのものを揺らしていたが、こいつの声は的を絞ってくる」


ミーシャが唾を飲み込む。


「……的を?」


「魔導士の胸だけを、狙って揺さぶった」


ゲリックは自分の胸をとん、と叩いた。


「癒し手にも俺にも、直接の揺れは来なかった。符が一瞬だけ乱れたのが見えたが、身体には来ない。だが魔導士だけは、膝から崩れた」


クラウスの眉が跳ねる。


「精神干渉系の咆哮……?」


「分からん」


ゲリックは首を振る。


「ただ一つ言えるのは、あいつは誰に一番邪魔をしてほしくないかを理解していたってことだ。盾でもなく、回復役でもなく、最初に潰すのは観測と火力だ、ってな」


静寂の歯車の四人が、同時に息を詰める。


それは、レンたちなら紙の上で導き出す戦術だ。

現場で、本能のようにそれを選ぶ魔物がいる、というだけで、話の重さが変わる。


「魔導士は、必死に詠唱を続けた」


ゲリックは、手の甲をぎゅっと握りしめた。


「声が裏返り、舌がもつれても、構文だけは崩さずにな。あいつの強みは、そこだった。恐怖で震えながらでも、正しい呪文を捨てなかった」


リーナの胸の奥に、わずかな敬意が灯る。


「……出せたんですか、魔法」


「出た」


ゲリックはうなずいた。


「リザードマンが一歩踏み出した瞬間、足元の床が燃えた。普通の火じゃない。魔素を直接焼くタイプの広範囲火炎だ。鱗の隙間から、黒い煙が噴き出した」


ミーシャの目がわずかに明るむ。


「効いて――」


「効いていれば、ここに俺はいない」


ゲリックの言葉が、その小さな希望を切り捨てる。


「炎の中で、あいつの輪郭が一瞬だけ崩れた。だが次の瞬間には、炎ごと横にずれた。目の前から消えたんじゃない。位置が一つ、横に滑った」


レンが、眉間を押さえる。


空間そのものをずらすタイプの移動か、視覚側の認識が狂わされたか。

どちらにせよ、現場で見分けるのは不可能だ。


「そして、炎の外側から爪が飛んできた」


ゲリックの掌が、ぎゅっと強く握られる。


「魔導士の胸を、貫いた」


短い沈黙。


「斬ったんじゃない。抉り取った。あいつのローブと血が、俺の顔にかかった。奥にいたはずのやつが、気づいたら目の前にいた」


クラウスの喉から、低い音が漏れる。


「盾を、間に入れられなかったんですね」


「入れられなかった、というより、遅れた」


ゲリックはうなずく。


「ほんの一拍だ。それまで数千回は成功してきたタイミングが、そのときだけ、恐怖で鈍った。俺の『一歩』が、半歩だけ遅れた」


レンは、拳を握る。


さっきの斥候とは逆だ。

斥候は、恐怖で歩幅が狭くなり、予定より内側に踏み込んだ。

ゲリックは、恐怖で踏み出すタイミングが遅れ、予定の位置に届かなかった。


どちらも、いつもと違う一歩が、命を奪っている。


「癒し手は、すぐに動いた」


ゲリックの声が少しだけ柔らかくなる。


「普通なら、あそこで俺を責めるのが筋だろうが、あいつはそういうことを口にしなかった。倒れた魔導士のもとに駆け寄り、片手で胸を押さえ、もう片方の手をリザードマンに向けた」


ミーシャが、そっと問いかける。


「……攻撃、ですか?」


「縛りだ」


ゲリックは短く言う。


「神殿の癒し手は、回復だけじゃない。敵を遅くする祈りくらいは使える。あいつは、ちゃんとそれを使った。足元の空気が重くなり、リザードマンの動きが一瞬だけ鈍った」


リーナの表情が、わずかに緩む。


「その隙に、撤退すれば――」


「その隙を、全部俺が使った」


ゲリックは、自分を罵倒するような口調になる。


「言われなくても分かっている。あの一瞬は、本来なら魔導士を抱えて後退するための時間だった。だが俺の足は、自分の位置を整えることで精一杯だった」


クラウスのペン先が止まる。


「……生き残りの判断、ですね」


「そう呼ぶなら楽だがな」


ゲリックは、薄く笑う。


「俺が盾を上げ直し、前に一歩出る。その一歩のために、癒し手はさらに祈りを重ねた。足元の光が濃くなり、空間が粘土みたいに重たくなる」


レンの頭の中に、情景がはっきり浮かぶ。


「リザードマンは、どう動いたんです」


「歩みを止めた」


ゲリックは言う。


「止まって、見た。天井も、床も、血も、火の残りも。それから最後に、癒し手を見た」


ミーシャが息を呑む。


「……量ったんですね」


「そうだな」


ゲリックは、静かに目を閉じた。


「どちらを先に殺すべきかを検討していた。盾を構えた前衛か、祈り続ける癒し手か」


短い沈黙が落ちる。


「そしてあいつは、癒し手の方を選んだ」


リーナの顔が歪む。


「なんで……!」


「簡単な話だ」


ゲリックは肩をすくめる。


「俺は、そこで一歩引いたんだよ」


レンたちの視線が、鋭くゲリックに向く。


「……引いた?」


「癒し手を守るため、じゃない」


ゲリックは、自分を切り刻むように言葉を重ねる。


「範囲外に出るためだ。さっき斥候が踏み込んだ線を、必死に思い出しながら、一歩だけ外に下がった。盾を前に出したまま、足だけを後ろに」


ミーシャの胸がきゅっと締め付けられる。


それは、決して責めきれない選択だ。

生きるための、当たり前の防衛反応だ。


「リザードマンの目が、見落とさなくていい獲物を見つけた顔をしていた」


ゲリックは、しわがれるような笑みを浮かべた。


「動けなくなっている魔導士と、自分の足で逃げる気のない癒し手だ。俺はその一瞬で、自分はまだ走るつもりがあることを、体で示してしまった」


レンは、冷たいものが背骨を伝っていくのを感じる。


あの天秤は、「戦う覚悟」だけじゃなく、「生きて帰るつもりがあるか」まで量りにかける。


「癒し手は、最後まで祈っていた」


ゲリックの声が、かすかに震えた。


「俺たちのためじゃない。次に来る誰かのためだ。ここが餌場であること、柱が何をしているか、真紅がどう動くか。全部、記録されますように、ってな」


クラウスの目に、一瞬だけ光が揺れる。


「……記録、ですか」


「神殿のやつらは、おかしなところで共通してる」


ゲリックは、遠くを見るように呟く。


「負け戦でも、誰かの役に立つ負け方をしたがる。癒し手の最後の祈りは、きっとそこに向いていた」


ミーシャの視界が滲む。


「それで……」


「真紅の爪が、祈りごと切り裂いた」


ゲリックは、淡々と言った。


「血が飛んだ感覚は、あまり覚えていない。ただ、祈りの声が途切れた瞬間に、あの場所の重さが消えたのは覚えている。縛りも、光も、全部だ」


レンの胸が、ぎゅっと縮む。


支えが消えた瞬間、前線はただの生身の人間と怪物の殴り合いに変わる。


「そこからは、ただの撤退戦だ」


ゲリックは言う。


「撤退、という言葉を使うのもおこがましいかもしれないな。ただ、逃げた」


リーナが、拳を握りしめる。


「どうやって、助かったの」


「簡単な話だ」


ゲリックは、初めて自分を庇うような言葉を一切挟まずに告げた。


「俺は、背を向けた瞬間から、一歩を間違えなかった。それだけだ」


短い沈黙が落ちる。


「柱からの距離を測っていたおかげで、自分がどこまで下がれば線の外かは分かっていた。癒し手の祈りが消えた瞬間、俺はその線まで一気に後退し、それから階段まで走った」


ミーシャが、息を呑む。


「追っては……こなかったんですか」


「こなかった」


ゲリックは首を振る。


「真紅は、一歩も動かなかった。広間の中央で、ただ俺の背中を見ていた。『ここから先は、お前の戦場じゃない』って言われている気がした」


レンの胃の辺りが、ひやりと冷たくなる。


「……それで、終わりですか」


クラウスの問いに、ゲリックは首を横に振った。


「終わりなら、どれだけ楽だったか」


彼は、指先で机を叩く。


「階段を駆け上がりながら、俺はふと振り返った。癒し手と魔導士のいた場所から、光が立ち上っていたからだ」


ミーシャが目を見開く。


「光……?」


「神殿の祈りは、時々形を持つ」


ゲリックは、遠いものを見るように目を細める。


「倒れた二人の上に、薄い膜みたいな光が広がっていた。誰かがあとから見れば、ここで何が起きたかを思い出せるような印だ」


レンの心臓が、一度強く跳ねた。


「……それが、残っていた」


ゲリックは静かに頷く。


「その光の片隅に、俺の影も焼き付いていた」


短い沈黙。


「斥候の影が消えたときとは逆だな。あいつは影だけが一瞬濃くなって消えた。俺は、影だけがあそこに残された」


ミーシャの目に、得体の知れない感情が浮かぶ。


「それって……」


「生き残りとしての、証拠みたいなものだろうさ」


ゲリックは、乾いた笑いを漏らす。


「俺は、あの階層に自分の前に出る権利を置いてきた。だから今、ダンジョンに立つ資格はない」


レンは、言葉を失う。


「残りのメンバーの最後、って意味では、これで全部だ」


ゲリックは、静寂の歯車を一人一人見た。


「斥候は、自分の歩幅を信じて踏み出して、恐怖に足を掬われて消えた。魔導士は、最後まで正しい呪文を捨てなかった結果として、一番に狙われて死んだ。癒し手は、誰かのために祈り続けたまま切り裂かれた」


そして、自分はただ生き残っただけだ、と心の中でだけ続ける。


「――それでも、お前たちは、下に行くつもりか」


ゲリックの問いは、さっきよりもずっと静かだった。


レンは、視線を落とし、短く息を吸う。


答えは、もうとうに決めている。

ただ、その決意がどれだけの授業料の上に乗っているかを見せつけられたあとでは、言葉に変えるまでに、一呼吸ぶんの時間が要った。




「……行く」


レンはようやく口を開いた。


「下に行く」


短く、それだけを先に置く。自分の喉が少し乾いているのを、はっきり自覚しながら。


ゲリックの視線が、わずかに細くなる。否定も肯定もなく、ただ量る目だ。


「自分の一歩を、どこまで信用してるか」


レンは、さっき投げられた問いをそのまま拾い上げる。


「俺は、自分の一歩を信用してない」


ミーシャが小さく息を呑んだ。リーナとクラウスも目を瞬く。


しかしレンは、そのまま続けた。


「だから、最初から踏み外す前提で段取りを組む。歩幅も、タイミングも、恐怖で狂うことを前提にして、その狂いごと含めて安全圏を広く取る。それが、静寂の歯車のやり方だ」


ゲリックの目が、僅かにだけ揺れる。


「俺たちは、あなたたちみたいに『一歩で届く世界』で戦ってきたわけじゃない」


レンは机の上に置いた手を、軽く握り込む。


「沈黙の森で散々やられた。十層封鎖線でも、数字通りにいかないことばかり見せつけられた。それでもまだ、俺たちは、数字と手順で戦おうとしてる」


それは愚かさか、あるいは執着か。


「だから――他所のパーティが踏み外した一歩を、授業料として土に埋める気はない」


レンはゲリックを見る。


「払ったのは俺たちじゃない。だからこそ、払ったやつの分まで使い倒す。それくらいはしないと割に合わない」


室内の空気が、少しだけ重くなる。


「……ずいぶん、性格の悪い言い方をするな」


ゲリックが、低く笑った。


「死人の失敗を、徹底的に使い倒す、か」


「使い倒せるだけの頭はあるつもりです」


クラウスが、静かに割り込んだ。


「記録されていないならともかく、今ここで言葉になったものを、また同じ形で踏み抜くのは、研究者としての敗北ですから」


ミーシャも、胸の前でぎゅっと手を握る。


「怖いのは、変わりません。でも、何も知らないで足を踏み出すのと、知ったうえで手順を増やすのは、違うと思います」


リーナは、背もたれに預けていた身体を前に倒した。


「私たちが下に行かないなら、この話はただの怖い昔話で終わる」


低い声だが、芯は硬い。


「だったらせめて、続きを書き換える側に回る。あんたたちの最後を、『あそこで全部終わった』じゃなくて、『そこでようやく準備が整った』って形に変える。……それくらいの図々しさは、Aランク狙いなら許されるでしょ」


ゲリックは少しだけ目を閉じ、それから肩をすくめた。


「口だけなら、一流のAランクだな」


「そこは、実績で追いつきます」


レンが返す。


短い応酬のあと、部屋に再び静寂が落ちた。だがさっきまでと違い、その静けさには方向がある。


ゲリックは空になったカップを指先で転がし、やがて音を立てないようにそっと止めた。


「……分かった」


彼は、大きく一度息を吐いた。


「お前たちが下に行くのを止める権利は、俺にはない。あの日、俺は自分の一歩を守るために仲間を失った。そこで引き返した男が、これ以上行くななんて口にしたら、もう何もかも筋が通らなくなる」


低い、自嘲混じりの笑いだった。


「代わりに、条件を一つだけ出す」


ゲリックの声に、四人の視線が集中する。


「俺たちと同じ死に方だけはするな」


レンの胸の奥に、その言葉が重く沈む。


「斥候と同じように、七歩目で消えるな」


「魔導士と同じように、最初の火力に全てを賭けて、動きの本質を見誤るな」


「癒し手と同じように、誰かのための祈りを理由に、自分の逃げ道を全部捨てるな」


一つ一つ、名前を出さずに最後だけを並べていく。


「そして俺と同じように、逃げる一歩だけ完璧にして、戦う一歩を誤魔化すな」


最後の一言だけ、わずかに掠れていた。


「やるなら、全部違うやり方をしろ。それなら、あいつらも少しは報われる」


リーナが、静かにうなずく。


「約束はできないけど」


出だしは素っ気ない。


「でも、同じ死に方を反復しないって条件なら、こっちの方針とも噛み合う。あんたたちの足跡を、ちゃんと別ルートに変える」


ミーシャも、おずおずと続く。


「柱には、近づきません」


それは、ごく小さな声だったが、部屋の誰も聞き逃さなかった。


「距離を測るのは、斥候だけの仕事にしない。観測符も、物理的な痕跡も、全部一緒に見ます」


クラウスが、迷いのない口調で言い切る。


「記録のためじゃなく、生きて戻るための記録を作る。癒し手の祈りの続きを、紙に書き落とすのが僕の役目だ」


ゲリックは、ぽつりと呟いた。


「……いいパーティだな」


その言葉には、僅かな羨望すら混じっているように聞こえた。


レンは、そこでようやく椅子から腰を浮かせた。深く頭を下げる。


「話してくれて、ありがとうございました」


「礼を言う相手は、俺じゃないさ」


ゲリックは立ち上がり、椅子の背に手を置いた。


「俺はただ、負け戦の後始末をしてるだけだ。あいつらは文句を言うだろうな。『もっと早く伝えとけ』って」


かすかな苦笑。


「……それでも、行くんだな?」


最後の確認。


レンは顔を上げ、まっすぐにその目を見返した。


「行きます」


今度は迷いがなかった。


「自分たちの戦う資格を、下で測ってきます」


ゲリックはしばらくレンを見つめ、それから諦めたように肩を落とした。


「ならせめて、撤退の基準を最初から決めておけ」


顎で、レンの前の資料を示す。


「撤退経路を三本。柱を避けたルートを二本。真紅のリザードマンを視認した時点での最初の一手を、今ここで決めておけ。下で考えるな。恐怖に触れたあとで決めた選択は、ほとんど全部が後悔だ」


レンの胸に、その言葉が突き刺さる。ワイバーンの谷、十層封鎖線で、何度も見てきた光景だ。


「……分かりました」


レンは席に座り直し、手元の紙を改めて引き寄せる。


「ここから先は、俺たちの仕事です」


リーナ、ミーシャ、クラウスが、ほぼ同時にうなずいた。


ゲリックは背を向け、扉に手をかける。


開く前に、少しだけ振り返った。


「静寂の歯車」


その名を呼ぶ声は、妙に澄んでいた。


「戦う資格があるかどうかは、俺が決めることじゃない。あの階層が、勝手に決める」


一拍置いて、言葉を継ぐ。


「――生きて戻ってきたら、そのときは初めて、お前たちを同じ土俵に上がった連中として見てやるよ」


そう言い残し、扉が静かに閉まった。


部屋に残ったのは、四人と、一枚の机と、分厚い沈黙。


レンはペンを握り、白紙の一角に新しい枠線を引き始める。


撤退の手順。初動の選択肢。柱からの距離。真紅の咆哮への対策。


ゲリックたちの敗北から切り出した条件を、一つ残らず書き込んでいく。


ミーシャは静かに祈りの印を切り、クラウスは数字の欄を埋め、リーナは剣の柄にかすかに指を添えた。


あの天秤は、きっと、容赦なく揺れる。

それでも今度は、その皿の上に、自分たちの「準備」と「逃げ道」も一緒に積み上げてやるつもりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ