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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第2章:昇格への条件
36/42

第13話 ゲリックの記憶

扉が開いた瞬間、温度が変わった。


外の夕風とは違う、酒と香辛料と、古い木の匂いがぶつりと空気を切り替える。


照明は控えめで、天井から吊るされたランタンが、黄味がかった光を丸く落としている。


客の数は多くない。仕事帰りの職人、装備を外した冒険者、それに、どこの所属とも知れない連中が、低い声で会話を転がしていた。


視線が、いくつか、こちらに向く。


「ギルドの階段を上る連中の顔だ」

「新しいパーティか、装備がほとんど汚れていない」


そう言いたげな、値踏みする視線。


レンは、そちらを一切見なかった。


まっすぐに、カウンターを目で探す。


奥まった位置に、分厚い木のカウンターがある。


瓶の並んだ棚を背に、男が一人、黙ってグラスを拭いていた。


大柄だが、無駄な肉はない。


見た目の年は四十代半ばから五十にかかるくらい。

高位ランクになると試練を乗り越えた影響で肉体の老化が遅い。実際にはそれ以上の年齢も考えられた。


肩まで伸びた黒髪はところどころ白いものが混じり、無精髭ではないが、きちんと整えているというほどでもない。


着ているのは、地味な色合いのシャツにエプロン。腕の筋肉が、布越しでも分かる。


何より目を引くのは、その眼だった。


店内の灯りのせいだけではない、落ち着いた暗さ。


炎の明滅を映し込んでいるのに、自分からはほとんど光を放っていないような、沈んだ黒。


ミーシャは、その瞳を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。


(……深い)


魂視の中で、その男の色は、思っていたより静かだった。


真紅に焼かれた傷痕の色ではない。


それよりもっと、低く、冷たいところまで沈んだ色。


「いらっしゃい」


男は、こちらをちらりと見ただけで、いつもの挨拶を口にする。


声も、低い。


荒れてはいないが、どこか、遠くから響いてくるような感触だった。


レンが、一歩前に出る。


「四人。食事と、水と……それから、話を一つ」


「水と話?」

「酒じゃなくて?」


リーナが小声で突っ込むが、レンは無視した。


男は、拭いていたグラスを棚に戻し、無言で頷く。


「空いてる席に」


指先が、カウンターの手前、端の四人掛けの卓を示す。


そこは、入口からも厨房からもよく見える位置だった。


レンたちが腰を下ろすと、すぐに木製のコップが四つ運ばれてくる。


中身は、水。


透明で、底に小さな気泡がいくつもついていた。


リーナが一口飲んで、目を丸くする。


「……これ、水? なんか妙にうまいんだけど」


「井戸の水を、冷やしておいた」


男は淡々と言った。


「うまいと感じるなら、疲れてる証拠だ」


胸の奥を、軽く小突かれたような一言。


クラウスが、苦笑いを浮かべた。


レンは水に口をつけてから、コップを置く。


「ここは、マスターに話を通した方がいい。無駄に耳を増やしたくない」


視線でカウンターを示すと、クラウスが頷いた。


「了解」


四人で立ち上がると、周囲の客の視線が、また少しこちらに集まった。


だが、あからさまに絡んでくる者はいない。


不動の杯亭という店そのものに、そういう空気が染み付いているようだった。


カウンターの前に立つ。


男は、グラスを拭く手を止めずに、近づいてくる四人を見た。


「注文はさっき通した。まだ変える気はないか?」


「追加で、一つ」


レンが答える。


「マスターの時間を、少しだけ」


店内のざわめきが、わずかに薄くなった気がした。


こいつら、やっぱりマスター目当てか。


そんな空気が、言葉にならないまま、酒場のあちこちを流れる。


男は、そのざわめきをまとめて無視したように、肩をすくめる。


「時間は、酒より高い」


「勘定は、ギルド経由で」


レンの返答に、男の目がわずかに細くなった。


「……ギルド」


グラスを布巾ごと置き、エプロンのポケットから、薄い紙片を取り出す。


手帳の切れ端のようなそれを、カウンターの上に放った。


「ならまず、名乗れ」


紙片には、雑に線が引かれた枠と、「名/所属/用件」とだけ書いてある。


クラウスが思わず目を瞬かせる。


「訪問簿……?」


「ここは、ギルドの出張窓口じゃない」


男は静かに言う。


「冒険者でも客でもない顔で来て、ギルドの名を使うなら、せめてそれくらいは書け」


リーナが、少しだけ口の端を上げた。


「筋は通ってるじゃない」


レンは紙片を取り、ペンを借りる。


「静寂の歯車。リーダー、レン・ヴェリタス」


名の欄に書き込み、「所属」に「アストリア王都ギルド」と記す。


そして、少し迷ってから、「用件」の欄に、簡潔に書いた。


『第三十階層・真紅のリザードマンについての聞き取り』


書き終え、紙片をカウンターに戻す。


男の視線が、その一行で止まった。


時間が、少しだけ伸びる。


ランタンの炎が、コップの水面に揺れを作る。


店の奥から誰かの笑い声が聞こえたが、妙に遠い。


やがて、男はそっと息を吐いた。


「……ギルドは、よく飽きないな」


レンの眉がわずかに動く。


「飽きるほど、通った相手なんですね?」


男は答えず、紙片を折り畳むと、エプロンのポケットに戻した。


「全員、こっちだ」


カウンターの端、スタッフ用の扉をくぐり、奥へ歩き出す。


厨房のスタッフと目が合うと、男は目で合図を送る。厨房のスタッフがスムーズにカウンターに移動していた。


厨房の横を抜け、さらにその奥、小さな部屋の前で立ち止まった。


「従業員用の休憩室だ。椅子とテーブルくらいはある」


扉を開けると、確かに、狭いが簡素な部屋があった。


四人掛けのテーブルと椅子が二組、壁際に小さな棚。


窓はない。


代わりに、天井に埋め込まれた魔導灯が、柔らかい光を落としている。


「座れ」


男が言って、自分もテーブルの端に腰を下ろした。


足を組むでもなく、腕を組むでもない。


ただ、そこに重さを預けるように。


レンたちも、向かいに座る。


ドアが閉まると、酒場のざわめきはほとんど聞こえなくなった。


代わりに、自分たちの呼吸音がやけに大きく感じられる。


「……まずは」


クラウスが、軽く咳払いをした。


「お名前を伺っても?」


男は、こちらを一人ずつ眺め、最後にレンで視線を止めた。


「ゲリック・ハーランド」


短く名乗る。


ミーシャの指先が、ぴくりと動いた。


「不動の……?」


「その呼び名はやめろ」


即座に返ってきた声は、先ほどよりも低かった。


ミーシャは小さく肩をすくめる。


「ごめんなさい」


ゲリックは、しばらく黙ってから、続けた。


「昔の話だ。もう、ギルドの記録からも、ほとんど消えてる」


「消されてる、が正確でしょうね」


クラウスが静かに言う。


「図書館の報告書も、ギルドの文書庫も、黒塗りだらけでしたから」


ゲリックの口元が、皮肉とも疲労ともつかない形に歪んだ。


「黒いインクは便利だ。紙の上からは消せる」


その先は、言わなくても分かる、とでも言うように、そこで言葉を切る。


レンが、テーブルの上で指を組んだ。


「僕たちは、三十階層に向かう依頼を受けました」


「……聞いてる」


ゲリックの視線が動く。


「ギルドの連中が、ここ数日また騒がしかったからな。戒厳令の解除で浮かれてるかと思ったら、ここ最近は静寂の歯車の名ばかり出てくる」


「過去に真紅に挑んだAランクパーティの、唯一の生存者が、この店のマスターだ」


レンは、レナから聞いた情報をそのまま口にする。


「だから、こうして来ました」


ゲリックは、テーブルの木目を爪で軽くなぞった。


「お前たちが何をしに行くかは、だいたい分かる」


黒い瞳が、レンを射抜く。


「だが一つ、先に聞いておく」


空気が、きゅっと締まる。


「お前たちは、何を持ち帰るつもりだ。それを、誰に渡すつもりだ」


レンは、一瞬だけ言葉を選んだ。


「観測結果と、報告書」


それは、最低限の答えだ。


「ギルドに。世界に対する貸し借りの帳簿に」


「ふん」


ゲリックが鼻を鳴らす。


「真面目な答えだ」


「それが、第一の目的です」


レンは続けた。


「……第二は、僕たち自身のため」


「自身の?」


「未来に、同じ場所で踏み抜く誰かがいたときに、その足場にできるようなデータを残す」


それはレンにとって、いつものロジックだった。


「他人の敗北は、誰かが払った授業料だと」


ゲリックの指が、ぴたりと止まる。


「払ったのは自分じゃない。その代わり、二度と同じ手を踏まない権利を買える」


レンは、路地で自分に言い聞かせた言葉を、そのまま口にした。


「それを、できるだけ多くの人間が使える形にしたい」


沈黙が落ちた。


ゲリックの眼差しが、ゆっくりと変わる。


警戒から、値踏みへ。


値踏みから、ほんの少しの興味へ。


「……ギルドの犬にしては、まっすぐな理屈だな」


リーナが、さすがにムッとする。


「ちょっと、犬って」


「落ち着け」


クラウスが袖を引く。


ゲリックは、リーナに目を向ける。


「前衛か」


「そうだけど」


「いい腕だ。酒場に入ってきたときの歩き方で分かる」


何の感情も乗らない声だった。


「真紅とやり合えそうか」


リーナは、一瞬言葉に詰まり、それから笑ってみせた。


「……やり合う前提で行くつもりはないわ」


「でも、もしやるなら?」


「殴って、斬って、守って、死なないようにする。それだけ」


ゲリックの口元が、少しだけ上がった。


「それをそれだけで片付けられるのは、前衛の特権か」


ミーシャに視線が移る。


「お前は?」


「後衛、支援……と、ちょっとだけ、人を見るのが得意です」


ミーシャは、視線を合わせながら答える。


「さっきから、マスターの色が、あまり揺れないなと思ってました」


「色?」


「気持ちとか、想いとか。そういうものの、残りかす」


ゲリックは眉を上げ、それからすぐに下ろした。


「……そうか」


彼は、少しだけ上を向いた。


部屋の天井の一点を見つめ、その後、ゆっくりと息を吐く。


「質問に答える代わりに、俺からも一つ、条件を出す」


レンが身を乗り出す。


「条件?」


「俺の話を、全部、そのまま信じるな」


即答だった。


リーナが目を瞬かせる。


「は?」


「人間は、負けた戦いほど、記憶をねじ曲げる」


ゲリックは低く言う。


「特に、生き残ってしまった側はな」


ミーシャの胸が、小さくざわめいた。


「俺が話すのは、俺から見えた真紅だ。それは本物の一部ではあっても、全部じゃない」


ゲリックは続ける。


「それを忘れずに、聞けるか」


レンは、ほんのわずかに笑った。


「それは、観測者としては、理想的な条件です」


「理想?」


「記録は常に偏ります」


レンは淡々と言う。


「誰が見て、どこから書いたか。その偏りを自覚している証言者は、貴重です」


クラウスが苦笑した。


「こいつの職業病みたいなものです。すみません」


ゲリックは、しばらくレンを見つめ、それから肩を落とした。


「……分かった。なら、話してやる」


テーブルの上で、指がトントンと二度、木を叩く。


それが、合図だった。


「第三十階層。真紅のリザードマン」


名前を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに冷える。


ミーシャの視界の端で、赤い残滓がちらりと揺れた。


リーナは、無意識に腰の武器に手をやり位置を確かめた。


クラウスは、持ってきたノートを開き、ペンを構えた。


レンは、目を閉じて、一度深呼吸をする。


「聞かせてください」


ゲリックは、遠いものを見るように目を細めた。


「――あの日、俺たちが階段を降りたのは、まだ明け方だった」


低い声が、ゆっくりと、敗北の底へと、四人を連れていく。


静寂の歯車にとって、それは「他人の敗北」を買う最初の瞬間だった。


――あの日、俺たちが階段を降りたのは、まだ明け方だった。


ゲリックの声が低く落ちる。


語りは、淡々としていた。感情を削いだ石みたいに。


「王都は、ちょうど今みたいに浮かれてたよ。表向き大きな事件もなくて、迷宮の周期も安定しててな」


彼は、指先でテーブルの木目をなぞる。


「『そろそろ三十階層を踏んでもいい頃だ』って話が、ギルドの上から降りてきた」


「編成は?」


クラウスが、ペンを走らせながら問う。


「四人だ」


ゲリックは迷わず答える。


「俺が前衛盾。斥候の女が一人。魔導士が一人、神殿から派遣された癒し手が一人」


そこで、口の端だけがわずかに動いた。


「今思えば、少ない。だが、それが普通だった」


「普通?」


リーナが眉をひそめる。


「当時、三十階層は確認されていない領域って扱いだった。だがそれは、誰も行っていないって意味じゃない」


ゲリックの目が細くなる。


「行って、帰ってこなかった連中は大勢いた。だが、そいつらがどこまで降りたかは、曖昧なままだった」


ミーシャが小さく息を呑む。


「……記録が」


「残っていない。あるいは、残されていない」


ゲリックは肩をすくめた。


「だから、初踏破の栄誉なんて言葉が、簡単に出てきた。ギルドも王家も、誰かに踏ませたかったんだろうよ。伝説の開拓者アーランから続く三十階層という未踏破の領域を」


レンは、黙ってその言葉を聞いていた。


「二十九階層までは、拍子抜けするくらい順調だった」


ゲリックは続ける。


「いつもより、魔物が少ないくらいでな。道も、罠も、全部教科書通りだった」


「少ない、ってのはどれくらいだ?」


クラウスが尋ねる。


「通常の六割程度。出会う敵の方が楽で、補給も十分。斥候の目も、魔導士の観測も、特に異常を拾わなかった」


ゲリックの声には、皮肉はあっても怒りはなかった。


「あまりに整いすぎてた。今の俺から見れば、それ自体が異常なんだが」


リーナが腕を組む。


「餌場に向かう道」


「かもしれんな」


ゲリックが認めるように頷いた。


「だが当時の俺たちは、『今日はついてる』くらいにしか思ってなかった」


ミーシャは膝の上で手を握りしめる。


「怖さ、みたいなものは……?」


「薄かった」


即答だった。


「迷宮は普通、深く行くほど匂いが変わる。魔素のざらつきが濃くなる。だがあの日の二十層台は、やけに澄んでいた」


ゲリックの視線が遠くなる。


「不気味なほど、澄んでいた」


レンは、心の中で何かをメモする。

均一化された魔素分布、異常に低い敵密度、心理的負荷の低下。


(捕食済みの痕跡、あるいは、上から下への誘導)


「三十階層への階段は、二十九階層の中央広間じゃなかった」


ゲリックが続ける。


「端の、誰も気にも留めないような側道の先だ。薄い霧が出ていて、石段が下に続いていた」


クラウスがメモに線を引く。


「公式な記録と違うな……」


「当時の記録を書いたのは、主に俺と、ギルド側の書記官だ。あいつは、もう死んだ」


ゲリックは淡々と言う。


「二十九階層までは、全部、そいつと一緒に確認した。だから、場所の記述に嘘はない」


ミーシャがそっと口を開く。


「霧は、どんな色でしたか」


「色?」


ゲリックは一瞬だけ目を細め、それから答える。


「灯りを鈍くする白だった。血の赤を飲み込む白、って言えば伝わるか」


ミーシャの視界の中で、くすんだ白と、かすかな赤が混ざる。


それは、沈黙の森で見た結晶の霧とは違った。


「階段を降りるとき、誰も何も言わなかった」


ゲリックは続ける。


「斥候の彼女も、珍しく冗談を言わなかった。癒し手は祈りを口にしたが、派遣した時のいつものしぐさだ。魔導士は、魔素の流れにばかり集中していた」


レンが、静かに問う。


「流れは」


「ゆるやかだった。逆流も乱れもない。……それが、あまりにも普通すぎた」


ゲリックは目を閉じる。


「階段を降り切った先で、俺たちは広間に出た」


その言葉に、四人の背筋がわずかに伸びる。


「天井は高く、見えない。壁は岩だが、ところどころ、血潮みたいな色の結晶がにじみ出ていた」


ゲリックの声が、少しだけ低くなる。


「足元には、水たまりがいくつもあった。透明じゃない。濁った、暗い……血の薄まったような色をしてた」


リーナの指が、無意識に拳を握る。


現場の匂いを想像したのだろう。


「床には、武器や防具の残骸もあった」


ゲリックは続ける。


「折れた槍。焦げた盾。名前の削れたタグ。それが全部、古そうに見えた。錆びて、朽ちかけて、どれも『随分前に捨てられた』みたいな顔をしてた」


クラウスがペンを止める。


「……なのに、魔物の死骸は」


「一つもなかった」


ゲリックが言う。


「血の匂いはするのに、肉はどこにも残っていなかった」


静かな悪寒が、部屋を撫でていく。


「俺たちは、そこで初めて、これはおかしいと口にした」


ゲリックの口元に、薄い笑みとも苦笑ともつかないものが浮かぶ。


「だが、それでも前に進んだ。Aランクってのは、そういう生き物だ」


レンは黙って聞いている。


自分たちもまた、似たような決断をする側であると理解した上で。


「広間の中央に、柱みたいなものが立っていた」


ゲリックは指を一本立てる。


「高さは、俺の三倍以上。表面には、鱗のような模様が刻まれていた。だが、それは石じゃなかった」


ミーシャが小さく息を詰める。


「……骨?」


「骨と、結晶の中間だ」


ゲリックは即答する。


「触れていないから断定はしない。だが、見た目はそうだった。生き物の骨が、長い時間をかけて魔素を吸い、外側から赤い結晶を貼りつけられたような」


レンの脳裏に、沈黙の森の結晶化した樹木の姿が閃く。


「魔導士が、観測符を飛ばした」


ゲリックの声が、少しだけ荒くなる。


「返ってきた数値は、『高いが、許容範囲』。それが、あいつの意見だった」


クラウスが唇を噛む。


「観測の閾値設定が……」


「甘かったのか、符の設計者が想定していなかったのか。どちらにせよ、その場では判断できなかった」


ゲリックは首を振る。


「俺たちも、高いが許容範囲を信じた。数字は、裏切らないと思ってたからな」


レンの胸の奥に、小さな棘が残る。


数字は裏切らない。

だが、数字を読み解く人間は、いくらでも間違える。


「最初の声が聞こえたのは、その直後だ」


ゲリックは、指を止めた。


「足元の水たまりが、震えた。音もなく、波紋だけが立つ。その中心に、赤い光が滲んだ」


彼の視線が、今はない水面を見つめる。


「次の瞬間、広間の奥から、何かが歩いてきた」


リーナが、思わず体を固くする。


ミーシャは、膝の上で握った手に力を込めた。


「真紅のリザードマン」


レンが、静かにその名を口にする。


「初めて見たとき、俺はそれを竜と人の混ざり物だと思った」


ゲリックは淡々と述べる。


「背丈は俺より頭ひとつ高く、全身を赤い鱗で覆われている。だが、その赤は血の色じゃない。燃えた鉄の冷えかけた色だ」


ミーシャの魂視の中で、重い赤がゆっくりと形を取る。


リーナは、これまでのどの敵よりも重い一撃を想像して、無意識に肩の位置を測る。


「目は……どうでしたか」


クラウスが問う。


「細かった」


ゲリックは少し考えてから答えた。


「蛇にも、竜にも似ている。だが、俺が一番嫌だったのは、あいつの視線の動きだ」


「動き?」


「俺たち一人一人を、順番に量るように見ていた」


ゲリックの声が低く落ちる。


「敵を見る目じゃない。値段を付けていく目だ。武器と防具と命に、どれくらいの重さがあるか、確認していくような視線」


レンの背筋に、冷たいものが走る。


「初動は、教科書通りだった」


ゲリックは続ける。


「斥候が側面に回り、魔導士が後衛で詠唱を始め、癒し手が結界を展開。俺が前に出た」


リーナは、そこで少しだけ安堵する。


基本の動きは、今の自分たちとそう変わらない。


「距離十数メートル。広間の中央、柱の手前で俺は構えた」


ゲリックの手が、無意識に古い柄を握る形をつくる。


「そのときだ。あいつが、初めて口を開いた」


ミーシャの心臓が跳ねる。


部屋の空気が、わずかに重くなる。


「声は、低かった。耳で聞く分には、大したことはない。獣の唸りと、人の咆哮の中間くらいだ」


ゲリックは言う。


「だが、それは音じゃなかった。あいつが声を出した瞬間、俺たちの頭の中に、同じものが流れ込んできた」


「同じもの?」


レンが問う。


「恐怖だ」


ゲリックは、あっさりと言った。


「純度の高い、加工済みの恐怖。俺たちが生きてきた中で感じた、あらゆる恐怖の記憶をひっくり返し、その中から一番古くて、一番小さくて、一番どうにもならなかった恐怖だけを、きれいに磨いて、喉に押し込んできた」


ミーシャの顔色が、さっと変わる。


「俺は、その瞬間、剣を握っている手の感覚を失いかけた」


ゲリックの声は淡々としている。


「脚が震え、膝が抜けそうになる。視界の端が狭くなる。耳鳴りがして、自分の心臓の音だけが、やけに大きくなった」


クラウスが、喉を鳴らす。


「魔導的な恐怖誘導……精神干渉系の雄叫びか」


「そう呼ぶなら、そうなんだろう」


ゲリックは、自分の膝を軽く叩く。


「だが、当時の俺たちには名前がなかった。ただ、怖くて立っていられないという事実があっただけだ」


リーナが、思わず口を挟む。


「それでも、前に出たんでしょ」


「出たさ」


ゲリックは、かすかに笑う。


「出なきゃそこで終わりだと思ったからな。あの声は、立って戦わないなら、その場で死ねという圧力とセットだった」


ミーシャが震える手で、胸元を押さえる。


「……秤」


「ん?」


ゲリックが彼女を見る。


「さっき、レンが言ってました。天秤の視線って」


ミーシャは、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「あの雄叫びは、きっと怖がらせるためだけの声じゃない。『どこまで耐えられるか』を、量るための……」


ゲリックの目が、わずかに細くなる。


「……そうかもしれんな」


彼は低く呟いた。


「当時、俺はそこまで考えなかった。考える余裕がなかった。立って、盾を構えて、剣を振るうことで精一杯だ」


レンの胸に、アイゼンの言葉が蘇る。


これは昇格試験ではない。

世界の均衡を測る秤に彼らを乗せる試みだ。


ゲリックは、テーブルの上で指を組んだ。


「最初の一合目で、俺たちは理解した」


彼の声に、わずかな熱が戻る。


「真紅のリザードマンは、硬さや速さよりも先に、心を折りに来る敵だということを」


レンの胃のあたりが、静かに冷える。


「そこから先が、本当の敗北だ」


ゲリックは言う。


「何人が踏ん張り、何人が崩れ、誰が先に視線を逸らしたか。……その話をする前に」


彼は、一度言葉を切った。


「お前たちの顔を、もう一度見せろ」


四人は、無言のまま視線を上げる。


ゲリックは、一人一人の目を順に見ていく。


リーナの、燃えるような前を向く瞳。

クラウスの、冷静に距離を測る瞳。

ミーシャの、怯えと決意を同時に抱え込んだ瞳。

そして、レンの、底まで静かな瞳。


「……そうか」


ゲリックは、ようやく息を吐いた。


「まだ、やめろと言って止まる目じゃないな」


リーナが、わずかに顎を上げる。


「止められる気は、最初からないでしょ」


「だったら、せめて負け方だけは選べ」


ゲリックは低く言う。


「この先、何度でも生き延びられる負け方をな」


その言葉を、レンは胸の奥に刻み込むように飲み込んだ。


ゲリックは、椅子の背にもたれ直し、再び目を閉じる。


「――あの広間で、俺たちは最初の一人を失った」


低い声が、再び過去へと沈んでいく。


「それが、どんな形の消え方だったか。そこから話そう」

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