第13話 ゲリックの記憶
扉が開いた瞬間、温度が変わった。
外の夕風とは違う、酒と香辛料と、古い木の匂いがぶつりと空気を切り替える。
照明は控えめで、天井から吊るされたランタンが、黄味がかった光を丸く落としている。
客の数は多くない。仕事帰りの職人、装備を外した冒険者、それに、どこの所属とも知れない連中が、低い声で会話を転がしていた。
視線が、いくつか、こちらに向く。
「ギルドの階段を上る連中の顔だ」
「新しいパーティか、装備がほとんど汚れていない」
そう言いたげな、値踏みする視線。
レンは、そちらを一切見なかった。
まっすぐに、カウンターを目で探す。
奥まった位置に、分厚い木のカウンターがある。
瓶の並んだ棚を背に、男が一人、黙ってグラスを拭いていた。
大柄だが、無駄な肉はない。
見た目の年は四十代半ばから五十にかかるくらい。
高位ランクになると試練を乗り越えた影響で肉体の老化が遅い。実際にはそれ以上の年齢も考えられた。
肩まで伸びた黒髪はところどころ白いものが混じり、無精髭ではないが、きちんと整えているというほどでもない。
着ているのは、地味な色合いのシャツにエプロン。腕の筋肉が、布越しでも分かる。
何より目を引くのは、その眼だった。
店内の灯りのせいだけではない、落ち着いた暗さ。
炎の明滅を映し込んでいるのに、自分からはほとんど光を放っていないような、沈んだ黒。
ミーシャは、その瞳を見た瞬間、胸の奥がひやりとした。
(……深い)
魂視の中で、その男の色は、思っていたより静かだった。
真紅に焼かれた傷痕の色ではない。
それよりもっと、低く、冷たいところまで沈んだ色。
「いらっしゃい」
男は、こちらをちらりと見ただけで、いつもの挨拶を口にする。
声も、低い。
荒れてはいないが、どこか、遠くから響いてくるような感触だった。
レンが、一歩前に出る。
「四人。食事と、水と……それから、話を一つ」
「水と話?」
「酒じゃなくて?」
リーナが小声で突っ込むが、レンは無視した。
男は、拭いていたグラスを棚に戻し、無言で頷く。
「空いてる席に」
指先が、カウンターの手前、端の四人掛けの卓を示す。
そこは、入口からも厨房からもよく見える位置だった。
レンたちが腰を下ろすと、すぐに木製のコップが四つ運ばれてくる。
中身は、水。
透明で、底に小さな気泡がいくつもついていた。
リーナが一口飲んで、目を丸くする。
「……これ、水? なんか妙にうまいんだけど」
「井戸の水を、冷やしておいた」
男は淡々と言った。
「うまいと感じるなら、疲れてる証拠だ」
胸の奥を、軽く小突かれたような一言。
クラウスが、苦笑いを浮かべた。
レンは水に口をつけてから、コップを置く。
「ここは、マスターに話を通した方がいい。無駄に耳を増やしたくない」
視線でカウンターを示すと、クラウスが頷いた。
「了解」
四人で立ち上がると、周囲の客の視線が、また少しこちらに集まった。
だが、あからさまに絡んでくる者はいない。
不動の杯亭という店そのものに、そういう空気が染み付いているようだった。
カウンターの前に立つ。
男は、グラスを拭く手を止めずに、近づいてくる四人を見た。
「注文はさっき通した。まだ変える気はないか?」
「追加で、一つ」
レンが答える。
「マスターの時間を、少しだけ」
店内のざわめきが、わずかに薄くなった気がした。
こいつら、やっぱりマスター目当てか。
そんな空気が、言葉にならないまま、酒場のあちこちを流れる。
男は、そのざわめきをまとめて無視したように、肩をすくめる。
「時間は、酒より高い」
「勘定は、ギルド経由で」
レンの返答に、男の目がわずかに細くなった。
「……ギルド」
グラスを布巾ごと置き、エプロンのポケットから、薄い紙片を取り出す。
手帳の切れ端のようなそれを、カウンターの上に放った。
「ならまず、名乗れ」
紙片には、雑に線が引かれた枠と、「名/所属/用件」とだけ書いてある。
クラウスが思わず目を瞬かせる。
「訪問簿……?」
「ここは、ギルドの出張窓口じゃない」
男は静かに言う。
「冒険者でも客でもない顔で来て、ギルドの名を使うなら、せめてそれくらいは書け」
リーナが、少しだけ口の端を上げた。
「筋は通ってるじゃない」
レンは紙片を取り、ペンを借りる。
「静寂の歯車。リーダー、レン・ヴェリタス」
名の欄に書き込み、「所属」に「アストリア王都ギルド」と記す。
そして、少し迷ってから、「用件」の欄に、簡潔に書いた。
『第三十階層・真紅のリザードマンについての聞き取り』
書き終え、紙片をカウンターに戻す。
男の視線が、その一行で止まった。
時間が、少しだけ伸びる。
ランタンの炎が、コップの水面に揺れを作る。
店の奥から誰かの笑い声が聞こえたが、妙に遠い。
やがて、男はそっと息を吐いた。
「……ギルドは、よく飽きないな」
レンの眉がわずかに動く。
「飽きるほど、通った相手なんですね?」
男は答えず、紙片を折り畳むと、エプロンのポケットに戻した。
「全員、こっちだ」
カウンターの端、スタッフ用の扉をくぐり、奥へ歩き出す。
厨房のスタッフと目が合うと、男は目で合図を送る。厨房のスタッフがスムーズにカウンターに移動していた。
厨房の横を抜け、さらにその奥、小さな部屋の前で立ち止まった。
「従業員用の休憩室だ。椅子とテーブルくらいはある」
扉を開けると、確かに、狭いが簡素な部屋があった。
四人掛けのテーブルと椅子が二組、壁際に小さな棚。
窓はない。
代わりに、天井に埋め込まれた魔導灯が、柔らかい光を落としている。
「座れ」
男が言って、自分もテーブルの端に腰を下ろした。
足を組むでもなく、腕を組むでもない。
ただ、そこに重さを預けるように。
レンたちも、向かいに座る。
ドアが閉まると、酒場のざわめきはほとんど聞こえなくなった。
代わりに、自分たちの呼吸音がやけに大きく感じられる。
「……まずは」
クラウスが、軽く咳払いをした。
「お名前を伺っても?」
男は、こちらを一人ずつ眺め、最後にレンで視線を止めた。
「ゲリック・ハーランド」
短く名乗る。
ミーシャの指先が、ぴくりと動いた。
「不動の……?」
「その呼び名はやめろ」
即座に返ってきた声は、先ほどよりも低かった。
ミーシャは小さく肩をすくめる。
「ごめんなさい」
ゲリックは、しばらく黙ってから、続けた。
「昔の話だ。もう、ギルドの記録からも、ほとんど消えてる」
「消されてる、が正確でしょうね」
クラウスが静かに言う。
「図書館の報告書も、ギルドの文書庫も、黒塗りだらけでしたから」
ゲリックの口元が、皮肉とも疲労ともつかない形に歪んだ。
「黒いインクは便利だ。紙の上からは消せる」
その先は、言わなくても分かる、とでも言うように、そこで言葉を切る。
レンが、テーブルの上で指を組んだ。
「僕たちは、三十階層に向かう依頼を受けました」
「……聞いてる」
ゲリックの視線が動く。
「ギルドの連中が、ここ数日また騒がしかったからな。戒厳令の解除で浮かれてるかと思ったら、ここ最近は静寂の歯車の名ばかり出てくる」
「過去に真紅に挑んだAランクパーティの、唯一の生存者が、この店のマスターだ」
レンは、レナから聞いた情報をそのまま口にする。
「だから、こうして来ました」
ゲリックは、テーブルの木目を爪で軽くなぞった。
「お前たちが何をしに行くかは、だいたい分かる」
黒い瞳が、レンを射抜く。
「だが一つ、先に聞いておく」
空気が、きゅっと締まる。
「お前たちは、何を持ち帰るつもりだ。それを、誰に渡すつもりだ」
レンは、一瞬だけ言葉を選んだ。
「観測結果と、報告書」
それは、最低限の答えだ。
「ギルドに。世界に対する貸し借りの帳簿に」
「ふん」
ゲリックが鼻を鳴らす。
「真面目な答えだ」
「それが、第一の目的です」
レンは続けた。
「……第二は、僕たち自身のため」
「自身の?」
「未来に、同じ場所で踏み抜く誰かがいたときに、その足場にできるようなデータを残す」
それはレンにとって、いつものロジックだった。
「他人の敗北は、誰かが払った授業料だと」
ゲリックの指が、ぴたりと止まる。
「払ったのは自分じゃない。その代わり、二度と同じ手を踏まない権利を買える」
レンは、路地で自分に言い聞かせた言葉を、そのまま口にした。
「それを、できるだけ多くの人間が使える形にしたい」
沈黙が落ちた。
ゲリックの眼差しが、ゆっくりと変わる。
警戒から、値踏みへ。
値踏みから、ほんの少しの興味へ。
「……ギルドの犬にしては、まっすぐな理屈だな」
リーナが、さすがにムッとする。
「ちょっと、犬って」
「落ち着け」
クラウスが袖を引く。
ゲリックは、リーナに目を向ける。
「前衛か」
「そうだけど」
「いい腕だ。酒場に入ってきたときの歩き方で分かる」
何の感情も乗らない声だった。
「真紅とやり合えそうか」
リーナは、一瞬言葉に詰まり、それから笑ってみせた。
「……やり合う前提で行くつもりはないわ」
「でも、もしやるなら?」
「殴って、斬って、守って、死なないようにする。それだけ」
ゲリックの口元が、少しだけ上がった。
「それをそれだけで片付けられるのは、前衛の特権か」
ミーシャに視線が移る。
「お前は?」
「後衛、支援……と、ちょっとだけ、人を見るのが得意です」
ミーシャは、視線を合わせながら答える。
「さっきから、マスターの色が、あまり揺れないなと思ってました」
「色?」
「気持ちとか、想いとか。そういうものの、残りかす」
ゲリックは眉を上げ、それからすぐに下ろした。
「……そうか」
彼は、少しだけ上を向いた。
部屋の天井の一点を見つめ、その後、ゆっくりと息を吐く。
「質問に答える代わりに、俺からも一つ、条件を出す」
レンが身を乗り出す。
「条件?」
「俺の話を、全部、そのまま信じるな」
即答だった。
リーナが目を瞬かせる。
「は?」
「人間は、負けた戦いほど、記憶をねじ曲げる」
ゲリックは低く言う。
「特に、生き残ってしまった側はな」
ミーシャの胸が、小さくざわめいた。
「俺が話すのは、俺から見えた真紅だ。それは本物の一部ではあっても、全部じゃない」
ゲリックは続ける。
「それを忘れずに、聞けるか」
レンは、ほんのわずかに笑った。
「それは、観測者としては、理想的な条件です」
「理想?」
「記録は常に偏ります」
レンは淡々と言う。
「誰が見て、どこから書いたか。その偏りを自覚している証言者は、貴重です」
クラウスが苦笑した。
「こいつの職業病みたいなものです。すみません」
ゲリックは、しばらくレンを見つめ、それから肩を落とした。
「……分かった。なら、話してやる」
テーブルの上で、指がトントンと二度、木を叩く。
それが、合図だった。
「第三十階層。真紅のリザードマン」
名前を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに冷える。
ミーシャの視界の端で、赤い残滓がちらりと揺れた。
リーナは、無意識に腰の武器に手をやり位置を確かめた。
クラウスは、持ってきたノートを開き、ペンを構えた。
レンは、目を閉じて、一度深呼吸をする。
「聞かせてください」
ゲリックは、遠いものを見るように目を細めた。
「――あの日、俺たちが階段を降りたのは、まだ明け方だった」
低い声が、ゆっくりと、敗北の底へと、四人を連れていく。
静寂の歯車にとって、それは「他人の敗北」を買う最初の瞬間だった。
――あの日、俺たちが階段を降りたのは、まだ明け方だった。
ゲリックの声が低く落ちる。
語りは、淡々としていた。感情を削いだ石みたいに。
「王都は、ちょうど今みたいに浮かれてたよ。表向き大きな事件もなくて、迷宮の周期も安定しててな」
彼は、指先でテーブルの木目をなぞる。
「『そろそろ三十階層を踏んでもいい頃だ』って話が、ギルドの上から降りてきた」
「編成は?」
クラウスが、ペンを走らせながら問う。
「四人だ」
ゲリックは迷わず答える。
「俺が前衛盾。斥候の女が一人。魔導士が一人、神殿から派遣された癒し手が一人」
そこで、口の端だけがわずかに動いた。
「今思えば、少ない。だが、それが普通だった」
「普通?」
リーナが眉をひそめる。
「当時、三十階層は確認されていない領域って扱いだった。だがそれは、誰も行っていないって意味じゃない」
ゲリックの目が細くなる。
「行って、帰ってこなかった連中は大勢いた。だが、そいつらがどこまで降りたかは、曖昧なままだった」
ミーシャが小さく息を呑む。
「……記録が」
「残っていない。あるいは、残されていない」
ゲリックは肩をすくめた。
「だから、初踏破の栄誉なんて言葉が、簡単に出てきた。ギルドも王家も、誰かに踏ませたかったんだろうよ。伝説の開拓者アーランから続く三十階層という未踏破の領域を」
レンは、黙ってその言葉を聞いていた。
「二十九階層までは、拍子抜けするくらい順調だった」
ゲリックは続ける。
「いつもより、魔物が少ないくらいでな。道も、罠も、全部教科書通りだった」
「少ない、ってのはどれくらいだ?」
クラウスが尋ねる。
「通常の六割程度。出会う敵の方が楽で、補給も十分。斥候の目も、魔導士の観測も、特に異常を拾わなかった」
ゲリックの声には、皮肉はあっても怒りはなかった。
「あまりに整いすぎてた。今の俺から見れば、それ自体が異常なんだが」
リーナが腕を組む。
「餌場に向かう道」
「かもしれんな」
ゲリックが認めるように頷いた。
「だが当時の俺たちは、『今日はついてる』くらいにしか思ってなかった」
ミーシャは膝の上で手を握りしめる。
「怖さ、みたいなものは……?」
「薄かった」
即答だった。
「迷宮は普通、深く行くほど匂いが変わる。魔素のざらつきが濃くなる。だがあの日の二十層台は、やけに澄んでいた」
ゲリックの視線が遠くなる。
「不気味なほど、澄んでいた」
レンは、心の中で何かをメモする。
均一化された魔素分布、異常に低い敵密度、心理的負荷の低下。
(捕食済みの痕跡、あるいは、上から下への誘導)
「三十階層への階段は、二十九階層の中央広間じゃなかった」
ゲリックが続ける。
「端の、誰も気にも留めないような側道の先だ。薄い霧が出ていて、石段が下に続いていた」
クラウスがメモに線を引く。
「公式な記録と違うな……」
「当時の記録を書いたのは、主に俺と、ギルド側の書記官だ。あいつは、もう死んだ」
ゲリックは淡々と言う。
「二十九階層までは、全部、そいつと一緒に確認した。だから、場所の記述に嘘はない」
ミーシャがそっと口を開く。
「霧は、どんな色でしたか」
「色?」
ゲリックは一瞬だけ目を細め、それから答える。
「灯りを鈍くする白だった。血の赤を飲み込む白、って言えば伝わるか」
ミーシャの視界の中で、くすんだ白と、かすかな赤が混ざる。
それは、沈黙の森で見た結晶の霧とは違った。
「階段を降りるとき、誰も何も言わなかった」
ゲリックは続ける。
「斥候の彼女も、珍しく冗談を言わなかった。癒し手は祈りを口にしたが、派遣した時のいつものしぐさだ。魔導士は、魔素の流れにばかり集中していた」
レンが、静かに問う。
「流れは」
「ゆるやかだった。逆流も乱れもない。……それが、あまりにも普通すぎた」
ゲリックは目を閉じる。
「階段を降り切った先で、俺たちは広間に出た」
その言葉に、四人の背筋がわずかに伸びる。
「天井は高く、見えない。壁は岩だが、ところどころ、血潮みたいな色の結晶がにじみ出ていた」
ゲリックの声が、少しだけ低くなる。
「足元には、水たまりがいくつもあった。透明じゃない。濁った、暗い……血の薄まったような色をしてた」
リーナの指が、無意識に拳を握る。
現場の匂いを想像したのだろう。
「床には、武器や防具の残骸もあった」
ゲリックは続ける。
「折れた槍。焦げた盾。名前の削れたタグ。それが全部、古そうに見えた。錆びて、朽ちかけて、どれも『随分前に捨てられた』みたいな顔をしてた」
クラウスがペンを止める。
「……なのに、魔物の死骸は」
「一つもなかった」
ゲリックが言う。
「血の匂いはするのに、肉はどこにも残っていなかった」
静かな悪寒が、部屋を撫でていく。
「俺たちは、そこで初めて、これはおかしいと口にした」
ゲリックの口元に、薄い笑みとも苦笑ともつかないものが浮かぶ。
「だが、それでも前に進んだ。Aランクってのは、そういう生き物だ」
レンは黙って聞いている。
自分たちもまた、似たような決断をする側であると理解した上で。
「広間の中央に、柱みたいなものが立っていた」
ゲリックは指を一本立てる。
「高さは、俺の三倍以上。表面には、鱗のような模様が刻まれていた。だが、それは石じゃなかった」
ミーシャが小さく息を詰める。
「……骨?」
「骨と、結晶の中間だ」
ゲリックは即答する。
「触れていないから断定はしない。だが、見た目はそうだった。生き物の骨が、長い時間をかけて魔素を吸い、外側から赤い結晶を貼りつけられたような」
レンの脳裏に、沈黙の森の結晶化した樹木の姿が閃く。
「魔導士が、観測符を飛ばした」
ゲリックの声が、少しだけ荒くなる。
「返ってきた数値は、『高いが、許容範囲』。それが、あいつの意見だった」
クラウスが唇を噛む。
「観測の閾値設定が……」
「甘かったのか、符の設計者が想定していなかったのか。どちらにせよ、その場では判断できなかった」
ゲリックは首を振る。
「俺たちも、高いが許容範囲を信じた。数字は、裏切らないと思ってたからな」
レンの胸の奥に、小さな棘が残る。
数字は裏切らない。
だが、数字を読み解く人間は、いくらでも間違える。
「最初の声が聞こえたのは、その直後だ」
ゲリックは、指を止めた。
「足元の水たまりが、震えた。音もなく、波紋だけが立つ。その中心に、赤い光が滲んだ」
彼の視線が、今はない水面を見つめる。
「次の瞬間、広間の奥から、何かが歩いてきた」
リーナが、思わず体を固くする。
ミーシャは、膝の上で握った手に力を込めた。
「真紅のリザードマン」
レンが、静かにその名を口にする。
「初めて見たとき、俺はそれを竜と人の混ざり物だと思った」
ゲリックは淡々と述べる。
「背丈は俺より頭ひとつ高く、全身を赤い鱗で覆われている。だが、その赤は血の色じゃない。燃えた鉄の冷えかけた色だ」
ミーシャの魂視の中で、重い赤がゆっくりと形を取る。
リーナは、これまでのどの敵よりも重い一撃を想像して、無意識に肩の位置を測る。
「目は……どうでしたか」
クラウスが問う。
「細かった」
ゲリックは少し考えてから答えた。
「蛇にも、竜にも似ている。だが、俺が一番嫌だったのは、あいつの視線の動きだ」
「動き?」
「俺たち一人一人を、順番に量るように見ていた」
ゲリックの声が低く落ちる。
「敵を見る目じゃない。値段を付けていく目だ。武器と防具と命に、どれくらいの重さがあるか、確認していくような視線」
レンの背筋に、冷たいものが走る。
「初動は、教科書通りだった」
ゲリックは続ける。
「斥候が側面に回り、魔導士が後衛で詠唱を始め、癒し手が結界を展開。俺が前に出た」
リーナは、そこで少しだけ安堵する。
基本の動きは、今の自分たちとそう変わらない。
「距離十数メートル。広間の中央、柱の手前で俺は構えた」
ゲリックの手が、無意識に古い柄を握る形をつくる。
「そのときだ。あいつが、初めて口を開いた」
ミーシャの心臓が跳ねる。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「声は、低かった。耳で聞く分には、大したことはない。獣の唸りと、人の咆哮の中間くらいだ」
ゲリックは言う。
「だが、それは音じゃなかった。あいつが声を出した瞬間、俺たちの頭の中に、同じものが流れ込んできた」
「同じもの?」
レンが問う。
「恐怖だ」
ゲリックは、あっさりと言った。
「純度の高い、加工済みの恐怖。俺たちが生きてきた中で感じた、あらゆる恐怖の記憶をひっくり返し、その中から一番古くて、一番小さくて、一番どうにもならなかった恐怖だけを、きれいに磨いて、喉に押し込んできた」
ミーシャの顔色が、さっと変わる。
「俺は、その瞬間、剣を握っている手の感覚を失いかけた」
ゲリックの声は淡々としている。
「脚が震え、膝が抜けそうになる。視界の端が狭くなる。耳鳴りがして、自分の心臓の音だけが、やけに大きくなった」
クラウスが、喉を鳴らす。
「魔導的な恐怖誘導……精神干渉系の雄叫びか」
「そう呼ぶなら、そうなんだろう」
ゲリックは、自分の膝を軽く叩く。
「だが、当時の俺たちには名前がなかった。ただ、怖くて立っていられないという事実があっただけだ」
リーナが、思わず口を挟む。
「それでも、前に出たんでしょ」
「出たさ」
ゲリックは、かすかに笑う。
「出なきゃそこで終わりだと思ったからな。あの声は、立って戦わないなら、その場で死ねという圧力とセットだった」
ミーシャが震える手で、胸元を押さえる。
「……秤」
「ん?」
ゲリックが彼女を見る。
「さっき、レンが言ってました。天秤の視線って」
ミーシャは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あの雄叫びは、きっと怖がらせるためだけの声じゃない。『どこまで耐えられるか』を、量るための……」
ゲリックの目が、わずかに細くなる。
「……そうかもしれんな」
彼は低く呟いた。
「当時、俺はそこまで考えなかった。考える余裕がなかった。立って、盾を構えて、剣を振るうことで精一杯だ」
レンの胸に、アイゼンの言葉が蘇る。
これは昇格試験ではない。
世界の均衡を測る秤に彼らを乗せる試みだ。
ゲリックは、テーブルの上で指を組んだ。
「最初の一合目で、俺たちは理解した」
彼の声に、わずかな熱が戻る。
「真紅のリザードマンは、硬さや速さよりも先に、心を折りに来る敵だということを」
レンの胃のあたりが、静かに冷える。
「そこから先が、本当の敗北だ」
ゲリックは言う。
「何人が踏ん張り、何人が崩れ、誰が先に視線を逸らしたか。……その話をする前に」
彼は、一度言葉を切った。
「お前たちの顔を、もう一度見せろ」
四人は、無言のまま視線を上げる。
ゲリックは、一人一人の目を順に見ていく。
リーナの、燃えるような前を向く瞳。
クラウスの、冷静に距離を測る瞳。
ミーシャの、怯えと決意を同時に抱え込んだ瞳。
そして、レンの、底まで静かな瞳。
「……そうか」
ゲリックは、ようやく息を吐いた。
「まだ、やめろと言って止まる目じゃないな」
リーナが、わずかに顎を上げる。
「止められる気は、最初からないでしょ」
「だったら、せめて負け方だけは選べ」
ゲリックは低く言う。
「この先、何度でも生き延びられる負け方をな」
その言葉を、レンは胸の奥に刻み込むように飲み込んだ。
ゲリックは、椅子の背にもたれ直し、再び目を閉じる。
「――あの広間で、俺たちは最初の一人を失った」
低い声が、再び過去へと沈んでいく。
「それが、どんな形の消え方だったか。そこから話そう」




