第12話 負け続けた歴史
三階の重い扉が、静かに閉じた。
天秤の紋章が視界から消えると同時に、石造りの廊下に、遅れて鼓動の音が戻ってくる。
高ランク用フロア特有の静けさ。絨毯が足音を吸い、窓の外には、戒厳令解除の余熱を残した王都の光がにじんでいた。
「……どうする?」
最初に口を開いたのはリーナだった。
さっきまでの張り詰めた表情はそのままに、瞳だけがレンの横顔を探っている。
レンは、しばらく何も答えなかった。
代わりに、手にした封筒の封蝋を指先でなぞる。天秤の紋章が、まだ冷たい。
「決まってる」
視線を前に向けたまま、短く言う。
「まずは、敗北のデータを集める」
クラウスが小さく息を吐いた。
「……だろうな」
「真紅に挑んで壊滅したAランクパーティの記録。王立図書館の公開分と、ギルドの内部資料。それから、救護所側の古いカルテ。使えるものは全部洗う」
レンは、歩きながら指を折る。
「王立図書館、ギルド文書庫、救護隊の記録。順番はその三つだ」
「また紙と数字か……」
リーナが頭をかきむしる仕草をしたが、その声に本気の反対はなかった。
「あんたのそういうとこ嫌いじゃないけどさ。敵の顔見る前から胃が痛くなるんだよ」
ミーシャは、レンの隣で小さく頷く。
胸の奥には、さっき「真紅」という音を聞いたときの赤い残滓が、まだうっすらと張り付いていた。
(知らないはずなのに。見たこともないはずなのに)
あの色は、単なる噂話の重さじゃない。
魂のどこかが、すでに傷ついた痕を覚えているような、そんな嫌な感覚だった。
「……まずは、見えるところからだね」
ミーシャは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「隠れてる怖さは、引っ張り出して形にしないと、もっと怖いから」
レンが、そこでようやく三人を見た。
「真紅に近づく前に、他人がどう踏み抜いて、どこで折れたのか。それだけは、最初から知っておく」
言葉は淡々としているが、その奥にあるものは一つだった。
「他人の敗北は、こちらの血を流さずに済んだ授業料だ。払ったのは自分じゃない。なら、そのぶん徹底的に使う」
クラウスが薄く笑った。
「性格が悪いのか、合理的なのか、判断に困るところだな」
「どっちでもいい。生きて戻れれば」
レンはそう言い切ると、階段を降り始めた。
向かう先は、ギルドではなく、王城地区へと続く道だった。
王立図書館は、いつものように静かだった。
高い尖塔と白い石壁。戒厳令の間も閉館はしなかったが、出入りするのはほとんど役人と学者だけだったと聞いている。
今日、門前にはようやく一般市民の姿も混じり始めていた。
大理石の階段を上り、重い扉を押し開ける。
冷えた空気と、紙とインクの匂いが一気に押し寄せてくる。
外の喧噪が一枚の膜で切り離され、世界の温度が少しだけ下がった気がした。
カウンター奥で帳簿をめくっていた老人が、顔を上げる。
白髪を丁寧に撫で付け、鼻眼鏡の奥の目だけが鋭い。
王立図書館司書長、エリオット。
レンを見ると、老人はわずかに眉を上げた。
「ああ、君か。静寂の歯車の」
「いつもお世話になります、司書長」
クラウスが一歩前に出て、礼をとる。学者筋の礼儀を崩さない所作に、エリオットも小さく頷いた。
「今日は何の亡霊を掘り起こしに来た? まさか、この城下で『もう全部終わった』と信じている連中みたいに、暇つぶしの読書というわけでもあるまい」
「亡霊、ですか……」
ミーシャが思わず肩をすくめる。リーナは「ここの例え話は毎回物騒ね」と小声でぼやいた。
レンは、そんな三人の反応を横目に、単刀直入に切り込んだ。
「第三十階層、真紅のリザードマンに関する、公開記録をすべて。報告書でも個人の回想でも構いません。閲覧可能なものを全部」
エリオットの手が、ぴたりと止まった。
図書館の空気が、ほんのわずかに重くなる。
遠くの閲覧席から、紙をめくる音だけがかすかに届いていた。
「……ああ。とうとう、そこに手を伸ばすわけか」
老人は鼻眼鏡を押し上げ、カウンター下から小さな鍵束を取り出した。
「ついてきたまえ」
案内されたのは、一般閲覧室ではなく、奥の半地下にある記録室だった。
分厚い扉の前に、王家とギルド、それから工匠組合の紋章を刻んだ金属板が埋め込まれている。
「王家とギルドの共同封印……」
クラウスが思わず呟く。
エリオットは、いくつかの鍵を順に差し込み、最後に小さな魔導印に触れた。
低い解錠音とともに、扉が内側へと開く。
中はひんやりと暗く、棚に並んだ箱が番号順に積み上がっている。
エリオットは迷いなく一本の棚に向かい、木箱を一つ引き出した。
「当時の公式報告書と、付随する冒険者の記録だ。……と言っても」
扉近くのデスクに箱を置き、老人は蓋を開ける。
中から取り出された数冊の綴じ本には、ところどころ、真新しい黒い帯が貼られていた。
リーナが思わず顔をしかめる。
「なにこれ。墨塗り?」
「黒塗り、だな」
クラウスがページをめくる。行間ごと抜かれている部分もあれば、段落が丸ごと真っ黒に潰されている箇所もある。
エリオットは、少しだけ肩をすくめた。
「王家とギルドの共同判断さ。記録そのものは残すが、読む権限を限る。……だが、まぁ、こうして君たちがここにいる時点で、完全封印にはしなかったということでもある」
レンは、一冊を手に取り、開いた。
「第三十階層 特異個体との交戦記録」
見出しだけはそのままだが、肝心の交戦描写の大半が黒帯で覆われている。
ところどころ残された文は、数字ばかりだった。
〈交戦開始時点、隊員数八〉
〈第三隊、精神混乱〉
〈撤退命令、遅れ〉
――その先に続いているはずの「何か」が、きれいに削ぎ落とされていた。
ミーシャは、黒帯の部分を見つめたまま、喉を鳴らした。
そこから、うっすらと赤いもやが立ち上るように見えたからだ。
本来なら色を持たないはずの紙面に、魂視だけが拾う残滓。深淵の迷宮にもぐり始めてから開花した能力がここに来て成長し続けていた。
(……記録まで、怖がってるみたい)
「どういう基準で、ここまで消した?」
レンが問うと、エリオットは少しだけ目を細めた。
「それを知っていたら、私ももう少し出世していたろうね」
皮肉まじりの言葉だが、その声色には疲労が混じっていた。
「ひとつだけ、言えることがある」
老人は、黒帯の列を指先で軽く叩いた。
「表に出た敗北は、まだ無害なんだよ」
リーナが眉をひそめる。
「は?」
「誰でも読める形で残された失敗は、まだ話せる昔話にできる。教訓や戒めに変換できる」
エリオットは続ける。
「本当に危ないのは、こうやって行ごと消された部分だ。記録ごと、痕跡ごと、誰かがなかったことにしようとした戦いさ」
クラウスが、息を止めた。
レンは、黒塗りの行をじっと見つめる。
そこに書かれていたはずのものを、頭の中で勝手に埋めないように、意識して注意しながら。
「閲覧できる範囲の写しは、持ち出して構いません。写本室を使いなさい」
エリオットは淡々と告げると、少しだけ声を落とした。
「……忠告をひとつ」
「聞くだけなら」レンが答える。
「君たちのやろうとしているのは、消された戦いの続きを見に行くことだ。それはたいてい、誰かにとって都合の悪い真実と隣り合っている」
老人の視線が、レンの左胸あたりに落ちる。
そこには見えない何かがある、とでも言いたげに。
「観測者は、怖くても見る。それが役割だ。だが、見る前に、何を持ち帰るつもりなのかだけは、今のうちに決めておくといい」
レンは、その言葉をそのまま飲み込んだ。
「……助言、感謝します」
それだけを返し、綴じ本を抱えて頭を下げる。
図書館を出る頃には、陽は大きく傾き始めていた。
石畳を照らす光が赤みを帯び、影を長く伸ばす。
真紅という音が、どうしても頭の片隅から離れない。
「次はギルドだな」
クラウスが本の束を抱え直しながら言う。
「図書館でこれだけ黒いなら、ギルド側の資料には、もう少し具体的な地獄が載っているはずだ」
「地獄って言い方やめなさいよ」
リーナが本気で嫌そうな顔をした。
ミーシャも、抱えている写本の端を握りしめる手に力が入る。
レンは歩を早めた。
ギルドの石造りの塔が、夕焼けを背に黒い輪郭を描いている。
ギルド本部、管理局フロア。
副ギルドマスターの執務室は、大評議会の間に比べればずっと狭いが、その分、空気が濃い。
壁一面に並ぶ符板と書類棚。窓の外には王都の屋根が並び、その向こうに深淵の迷宮の塔が突き刺さるようにそびえていた。
レナ・シルヴァナスは、机の上の書類から顔を上げた。
「図書館から、もう戻ったのね」
「閲覧できる分は、写しを確保しました」
レンが、抱えていた綴じ本の束を机の端に置く。
レナはざっと目を通し、黒塗りの列に視線を滑らせた。
「……王家側の判断ね。こちらが黒くしたところもあるけれど」
「ギルド側の分も、閲覧をお願いしたい」
レンは一歩進み出る。
「公式報告書だけでなく、当時の救護所の記録や、関係者の聞き取りがあれば」
レナは、しばらくレンを見ていた。
天秤の男ほどではないが、その瞳もまた、何かを量っている。
「文書庫の閲覧許可は、すでに下りているわ。大十七棚の三列目。第三十階層関連のラベルの箱を探しなさい。あなたたちのランクなら、制限は緩い」
「感謝します」
レンが頭を下げると、レナはそこで言葉を継いだ。
「――ただ、文書だけでは足りないでしょう」
クラウスが目を細める。
「足りない?」
「黒塗りの行の向こうに何があったか。紙の上に残らなかった部分は、紙からは復元できない」
レナはペンを指の間で転がした。
「だからこそ、ギルドは生存者を大切にする。成功した者だけでなく、敗北から戻った者も」
リーナが息を呑んだ。
「……いるの? 真紅から生きて戻ったやつが」
「噂ぐらいは聞いたことがあるだろうけれど」
レナは、ほんのわずかに視線を落とした。
その表情は、業務的な無表情から、少しだけ人間の感情へと傾く。
「ギルドとして公式に紹介はできないわ。彼は今、現役冒険者ではないし、静かに暮らす権利もある」
ペン先が、書類とは別の一点をなぞる。
「……ただ、ある路地に、古い酒場がある。看板には『不動の杯亭』と書かれているはず」
ミーシャの肩が、びくりと跳ねた。
「そこのマスターは昔、この街で名を馳せたAランク冒険者だったと噂されている。真紅の名が初めて報告書に載ったとき、そこにいたパーティの一員だ、と。これはもともとギルドマスターからの情報よ」
レナは、それ以上は言わなかった。
「ギルドとして案内はしません。あなたたちが個人として、個人の判断で訪れることを、私が止める権限はない」
レンは理解した。
公式な紹介もフォローもない。
そこから先は、完全に「個人の足」で踏み込む領域だ。
「……十分です」
レンは短く答える。
「質問は以上?」
「一つだけ」
クラウスが口を開いた。
「そのマスターは、今もギルドに敵意は抱いていないと、そう見ていいですか」
レナは少しだけ考え、頷いた。
「少なくとも、私が最後に言葉を交わしたときは、敵意ではなく……諦めの方が強かったわ」
それが、余計に厄介だということは、誰も口に出さなかった。
執務室を辞したあと、四人はしばらく無言のまま廊下を歩いた。
やがて、リーナが大きく息を吐く。
「図書館の黒塗り本、ギルドの文書庫、元Aランクのマスター。……情報収集って、なんでこう、胃薬が欲しくなる相手ばっかなの」
「胃薬代も任務経費に入らないかな」
クラウスが投げた軽口に、ミーシャがかすかに笑った。
その笑いも、長くは続かない。
ギルドを出る頃には、空はすっかり暮れかけていた。
通りの露店にはランタンが灯り、パンと肉の匂いが混じった温い風が鼻をくすぐる。
戒厳令解除の余波で、街は少し浮かれていた。
その中で、レンたちが進むのは、大通りではなく横道だった。
王都アステリアの裏通りは、表の華やかさとは別の顔を持つ。
石畳はところどころ欠け、雨水の染みた壁には古い張り紙が剥がれかけている。
酒と煙草と汗の匂いが、路地ごとに少しずつ配合を変えて漂っていた。
ミーシャが足元を見ながら歩く。
魂視の中で、周囲の色は表通りほど明るくはないが、代わりに濃い。
後悔や諦め、忘れたふりをした怒り。
そういう色が、低く溜まっていた。
やがて、路地の突き当たりに、小さな木製の看板が見えてくる。
『不動の杯亭』。
看板の文字は、何度も上塗りされているのか、ところどころ歪んでいた。
扉の横には古いランタンが吊るされ、黄色い光が石畳に丸い輪を落としている。
中からは、抑えられた笑い声と、グラスが卓に触れる低い音が漏れてきた。
リーナが喉を鳴らす。
「……ここか」
クラウスは、扉をひと目見ただけで理解したように姿勢を正した。
「ここ数年で、何度か前を通ったことはある。まさか、そんな場所だったとはな」
ミーシャは、扉の向こうから染み出してくる色を見ていた。
それは、不思議なほど静かな色だった。
激しい怒りや憎しみではなく、深く沈んだ湖の底みたいな重さ。
(……この人が、真紅から、生きて戻った)
レンは、看板から視線を外し、扉の前に立つ。
他人の敗北は、最も安い代償だ。
払ったのは自分じゃない。その代わり、二度と同じ手を踏まない権利を買える。
その権利を、どこまで使えるか。どこまで使っていいのか。
真紅へ続く階段の、次の一段目。
レンは扉に手をかけた。
軋む蝶番の音が、夕暮れと夜の境目を静かに切り裂いた。




