第11話 天秤の視線と真紅の名
十層封鎖線の戦いは、数字だけ見れば「成功」だった。
救護所は守られ、リザードマンの群れは上昇する流れを失い、十層からさらに上へと押し上がってくる気配は途絶える。
救護所の観測符には、分かりやすい変化が記録された。
「十層以降、沈静化」
「第九層救護所周辺への侵攻リスク、当面低下」
ギルド本部に送られた報告書の上では、そういう文言に整理されていく。
「……総括としては、上出来ってやつでしょ」
静寂の歯車はリザードマンに関する追加調査の依頼を受けていた。以前回廊に貼った結界符の状況確認が終わり、救護所に併設された簡易休憩室のベンチに腰を下ろしていた。
リーナが汗を拭いながら言った。
「とりあえず、ここは守り切った。救護所を落とさなかっただけで、他の連中からしたら英雄扱いよ」
「数字だけなら、な」
クラウスは壁にもたれ、濡れた前髪をかき上げる。禁じられた回廊、レンとミーシャとは違い、リーナとクラウスにとっては目に見えない罠は緊張の連続だった。警戒するために練った魔力の残滓が指先にはまだひりついていた。
「上層への流入は止まった。負傷者の新規発生も今のところゼロ。上層の式だけ見れば、綺麗に整っている」
言葉を切り天井を見上げる。
「だが、迷宮全体の式は……まだ崩れている。十六層で俺たちが見た魔素パターンと、沈黙の森のデータ。両方を重ねると、どうにも辻褄が合わない」
「……うん」
ミーシャは、包帯と薬瓶の詰まったカバンに手を置いたまま、小さく頷いた。
「怖さが、消えてない。倒したリザードマンたち、しばらく前に倒れたけど、匂いが……まだ沈んでない感じ」
魂視でしか捉えられない、ざわめき。
地の底から、まだ何かが這い上がろうとしているような、不快な感覚。それはミーシャにしか感じ取れないようなささいな感覚。
レンは椅子に背を預け、静かに瞼を伏せた。
十層で暴れていた結晶個体の核は、確かに叩き落とした。
上層に向かう流れを形作っていた群れは削った。
だが――
(うねりそのものは、まだ下にある)
沈黙の森で見た、あの巨大な結晶洞。
十六層南湿原で観測された、逆流の呼び水。
どれも単発の異常ではない。何かが、もっと深いところで蠢いている。
レンは目を開け、立ち上がる。
「撤収準備だ。ここから先はギルドと救護隊の仕事になる。俺たちは、上に戻って結果を渡す」
「結果、ね」
リーナは立ち上がり、大盾の表面を一度だけ拳で叩いた。
「ま、今はそれでも悪くないか」
ミーシャは小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。
クラウスは、その様子を横目で見てから、静かに息を吐く。
(……ミーシャの魂視が、まだ騒いでいる。十層は終わったんじゃない。ただ、奥の異常が顔を出すのを、少し先送りにしただけだ。おそらくレンも気づいているな)
「観測データと地形図、全部まとめる。上で天秤にかけるのは、上層部の役目だ」
レンの言葉に、三人は無言で頷いた。
一件落着の形をしていながら、どこか「途中経過」の匂いを残したまま。
静寂の歯車の任務は、一度幕を下ろした。
翌日、ギルド大会議室
大評議会の間は、いつもどおり静かだった。
ただしその静けさは、休戦ではなく「次の一手を考えている側の沈黙」だ。
長卓の中央には、ギルドの重要機密の一つ、深淵の迷宮を模した立体地図が展開されていた。黒檀の板に埋め込まれた魔導陣が、十層付近を淡い光で縁取り、そのさらに下、二十層以深には、不規則な赤の点滅がちらついている。
卓の最奥、天秤の紋章を背にして座る男が、一本のペンを指の間で転がした。
ギルドマスター、アイゼン・ジェラルト。
彼の右隣には、副ギルドマスター、レナ・シルヴァナス。氷の曲線をそのまま人型にしたようなエルフの女が、符板の表示を無駄のない動きで切り替えていく。
左側には、銀縁のマントを羽織った青年騎士が姿勢正しく座っていた。Aランクパーティ『グリフォンの誇り』のリーダー、シリウス・アルヴァイン。その視線は地図ではなく、数字の並ぶ報告書に落ちている。
長卓の端には数人のBランクパーティのリーダーが座していた。筋肉と鉄でできたような巨体、不壊のゴラッハ。その隣には、導管調査では不参加だった瘦せすぎの魔術師風の男、元傭兵崩れの女戦士等も顔を連ねていた。
彼らがこの場に呼ばれること自体、事態の重さを物語っている。
ただ一か所だけ、空席があった。
静寂の歯車、専用席。そこだけが、まだ椅子の背を冷やしたままだ。
沈黙を破ったのは、レナだった。
「第十層封鎖線作戦の総括報告を開始します」
彼女の声は、会議室の空気を一瞬で「仕事モード」に切り替える。
「深淵の迷宮第十層、大広間に形成されていた大型結晶は、静寂の歯車および後続部隊による対応の結果、波長は基準値以下に低下。
結晶個体六体は現場にて破壊、最後の一体は結晶核が肥大化後、核の消失を確認済み。十層から九層への流れは、現在弱まで沈静化しています」
符板の上で、青い光がゆるく波打つ。十層のマーカーが、先ほどまでの激流を忘れたように穏やかに明滅していた。
「救護所への直接侵攻は発生せず。負傷者は後続パーティの軽傷のみ。死亡者はゼロ。……結論として、封鎖線の目的であった救護所の維持は達成されました」
そこまで聞いて、端の席で誰かが、安堵ともつかない息を漏らした。
ゴラッハが腕を組み直す。
「つまり、首の皮は繋がったってことか」
シリウスは、紙束から視線を上げずに問う。
「十層から上、王都直下への影響は?」
レナは別の資料を前へ送る。魔素観測図だ。
「十層から一層までの魔素流量は、三日前と比較して約二割減少。上昇流の異常は、一時的に収束傾向にあります。少なくとも現在、王都地表への噴き上がりの危険は低いと判断」
シリウスの表情が、ほんの僅かに和らぐ。しかし、その眉間の皺は消えなかった。
「少なくとも現在は、だな」
言葉を継いだのは、これまで黙っていたアイゼンだ。
彼は指先で地図の十六層付近を軽く叩いた。そこだけ、赤い光がしぶとく瞬いている。
「問題は、ここからだ」
地図の光が切り替わる。十層付近の表示が縮小され、代わりに、十六層から三十層付近までの波形グラフが展開された。
「封鎖線以降も、下層の魔素パターンは通常周期に戻っていない。十六層付近で観測されている逆流は、沈黙の森と同様の性質を持つが、振幅が一定ではない。……まるで、どこかで誰かが蛇口をひねっているような、断続的な波形だ」
レナが淡々と補足する。
「十六層は呼び水の末端に過ぎない可能性が高いというのが、現時点での観測結果です。
どこか、これより下の階層に本丸が存在する」
長卓の上を、重い沈黙が滑っていく。
ゴラッハが鼻を鳴らした。
「下の階層ってのは、どこまでを言ってやがる。二十か?二十五か?」
レナは一拍置いてから、符板に新たな画面を呼び出した。
そこには、古びた紙の写しが映し出される。黄ばんだ報告書に、赤い印がいくつも押されていた。
「――三十階層・主攻略記録。王国暦481年、Aランクパーティによる踏破任務の報告書です」
シリウスの指が、ぴくりと動く。
この時代の冒険者なら、一度は耳にしたことのある名だ。
レナは文面を読み上げることはしない。代わりに、必要な箇所だけを、短く抜き出した。
「対象:深淵の迷宮・第三十階層、闘技場構造。
遭遇対象:真紅のリザードマン。
結果:パーティ壊滅、唯一の生存者一名。以後、三十階層攻略は凍結。
脅威度:暫定Sクラス相当――」
紙面の一部には、黒く塗りつぶされた行が続いていた。
そこだけが、紙でありながら何か別の穴のように見える。
ゴラッハが舌打ちする。
「真紅の……あの噂話か。Aランクがほぼ全滅したっていう、お伽話だと思ってたが」
「お伽話なら、どれほど良かったか」
シリウスが低く答えた。
騎士としての礼儀を崩さない顔、しかし、いつもの表情には似合わない影が差す。
「父の代の騎士たちは、皆この名を知っている。迷宮の底で、恐怖そのものが歩いていた……彼らは生き残った冒険者からそう聞いていた。冒険者たちは皆、かなりの技量を持っていたがなすすべがなかったと…」
アイゼンは、シリウスの言葉に相槌も打たず、ただペンを止める。
「今回のリザードマン異常は、下からの圧だ。沈黙の森で壊れた導管の負荷が迷宮側に回っているかは不明だ。ただし、リザードマンの生息域が今もなお意図不明の形で押し上げられている」
彼は三十階層の位置に指を置く。
「本丸候補として、三十階層の主、真紅のリザードマン以上に妥当な候補は存在しない」
長卓の片側で、Bランクリーダーの一人が堪えきれず声を上げた。
「そこへ行くと?いくらなんでも早すぎる!上層の封鎖線が成功したばかりだぞ。今、三十階層まで本格的な討伐隊を組む余裕なんて――」
「討伐とは言っていない」
アイゼンの声は、落としたペン先よりも軽かった。
それでも、会議室の空気がひとつ縮む。
「求めるのは、現在の状態の観測だ。どの程度結晶化が進行しているのか。雄叫びの影響範囲は、どこまで広がっているのか。魔素の波形は、沈黙の森と同じ系統か、それとも別の何かか」
レナが静かに引き継ぐ。
「本格討伐を行う前に、その情報が必要です。それなくしては、どれだけの戦力を投入すべきか、ギルドとして天秤にかけることすらできない」
ゴラッハがゆっくりと言葉を探す。
「情報が要るってのはわかる。……だが、その調査隊に、誰を送る気だ?」
視線が一斉に、天秤の男に集まる。
アイゼンは、わずかに目を細めた。
「提案が一つある」
ペンが机に置かれる。その音が、会議の線引きになった。
「三十階層・真紅のリザードマンの現状調査を、静寂の歯車への特例依頼とする。任務達成と生還をもって、その時点でのAランク昇格を確約する。これをギルドの裁定として、批准したい」
空気が、明確に変わった。
Bランクたちの間から、低いざわめきが起こる。
「待て、待て待て待て」
ゴラッハが椅子を軋ませて身を乗り出した。
「話がおかしいだろ。Aランクが一度潰された相手だ。その調査を、まだBランクのパーティに押し付けるってのか?昇格の約束を餌にして、死地に送る気かよ」
言葉は粗いが、そこに私怨はない。ただ、現場を知る者としての怒りだ。
アイゼンは、怒りを受け止めるでも、いなすでもなく、事実だけを置いた。
「まず前提の確認だ、ゴラッハ。彼らはすでに、Bランクではない」
レナが符板を操作し、静寂の歯車の依頼記録を投影する。
十数件のBランク依頼、そのほとんどに「負傷者:なし」の文字が並ぶ。
「リザードマンの大群に対する対応能力。異常個体の観測精度。封鎖線の維持時間と、後続パーティの損耗率軽減。――これらを総合して、ギルド本部の評価班は、静寂の歯車を既にAランク相当と査定しています」
レナの声は冷徹で、だからこそ感情の入り込む余地がなかった。
「形式上の昇格が遅れているのは、政治的な事情と、試練の場を選ぶためでした。今回、リザードマン異常の本丸が三十階層に存在する可能性が高くなったことで、その二つが、ようやく同じ場所に重なったのです」
ゴラッハは歯ぎしりをし、椅子を背に押しつける。
ぐうの音も出ない。それが余計に腹立たしい。
シリウスが、そこでようやく顔を上げた。
「実力評価については、異論はない」
灰青の瞳が、魔導地図を貫く。
「十層封鎖線での働き、そして、これまでの記録。彼らがAランクの領域に片足を踏み入れていることは、私自身、戦場で見てきた」
そこまで言ってから、彼は一拍置き、言葉に刃を通した。
「ですが、ギルドマスター。今の提案は、試練という言葉では済まない。ほとんど死地への派遣だ」
会議室の視線が再び揺れる。
シリウスはAランクの中では若い、しかし、若いのに恐れを知らないではなく、恐れを知ったうえで口を開く勇気。Aランクの看板は伊達ではない。
「過去、真紅のリザードマンに挑み、戻ってこなかったAランクパーティの名を、あなたもご存じのはずです。彼らの敗北は、今も王都の子供たちにとって怪物の昔話だ。……そこに、静寂の歯車を重ねるのですか?」
アイゼンは、ようやくシリウスに視線を向けた。
天秤の皿を測る者の、冷静な目だ。
「誤解があるな、シリウス」
彼は指で、長卓に描かれたギルド紋章の天秤をなぞる。
「これは昇格試験ではない」
言葉を区切り、会議室全体を見る。
「ギルドは、世界の均衡を維持するために存在する。今回の件は、その均衡を測るため、天秤に重石を乗せる作業だ」
レナが静かに続ける。
「静寂の歯車を、世界の秤に乗せる。その結果、皿がどう傾くかを観測する――それが今回の裁定です」
アイゼンは、細めた瞳のまま言った。
「条件は一つだけだ。生きて、真実を持ち帰ること」
静かすぎるほど静かな声だった。
「真紅のリザードマンとの交戦は、必須ではない。状況次第では、視認すら不要だ。彼らは、三十階層までの下層域の状態を観測し、可能な範囲で主の現状を測る。そして、必要と判断したなら即時撤退する権限を与える」
レナが決定事項のように言い切る。
「本件依頼において、ギルドは討伐を求めません。報告書に基づく詳細な情報と生還、それ自体をもって、任務達成とみなします。――その代わり、任務達成の瞬間に、静寂の歯車はAランクへ昇格する。これはギルド大評議会名義での確約とします」
ゴラッハが低くうなった。
「……つまり、やれるだけやってみろ。逃げてもいい。その代わり、全部見て来いってやつか」
「逃げてもいい、ではない」
アイゼンが即座に否定する。
「撤退は敗北ではないという前提を、こちらが最初から認めるということだ。過去のAランクパーティは、それができなかった。名誉か、恐怖か、あるいは判断ミスか。理由はどうあれ、引き際を見誤った結果が、あの黒塗りだ」
彼の視線が、一瞬だけ黒塗りの報告書に落ちる。
そこには、ギルドが払ったはずの「代価」が、綺麗に抹消されていた。
シリウスは、その視線の動きを見逃さない。
「……静寂の歯車なら、引き際を間違えないと?」
「可能性は高い」
アイゼンはあっさりと答える。
「彼らの指揮官、レン・ヴェリタスは、勝利よりも撤退の線を先に書く男だ。
十層封鎖線でも、救護所の撤退経路と、封鎖線の崩壊時の第二陣配置まで、事前に示していたと報告を受けている」
レナが頷く。
「彼は勝つために戦うのではなく、負けないために戦う指揮官です。だからこそ、今回のような任務には適性があると判断しました」
シリウスはしばし黙し、やがて息を吐いた。
「……了解しました。ギルドマスターの裁定に異議は唱えません」
彼は視線を地図から外し、アイゼンを真っ直ぐに見る。
「ただし、秤に乗せた側として、こちらにも責任があります。もし静寂の歯車が三十階層へ向かうなら――」
「グリフォンの誇りは?」
アイゼンが問う前に、シリウスは答えた。
「上中層の防衛線を引き受ける。彼らが戻る場所を守ること、それが我々の役目だと考えます」
その言葉に、レナの眉がわずかに動いた。
褒めるでもない、けれど悪くない、という評価の動きだ。
ゴラッハが肩を竦める。
「ったく、貴族様は言うことが綺麗だな。けど、まぁいい。封鎖線の二度目が必要になったら、鋼鉄の壁も出る。金と酒が出るならな」
会議室に、微かな笑いが走る。
緊張を完全に解くには足りないが、それでも、先ほどまでの張り詰めた空気よりは人間らしい。
アイゼンは、一同を見渡し、短く告げた。
「では、議題をまとめる。三十階層・真紅のリザードマン現状調査を、静寂の歯車への特例依頼とする。達成条件は、生還と真実の持ち帰り。任務完遂と同時にAランクへ昇格。上中層の防衛はグリフォンの誇りおよびBランク各隊が担当。異論がある者は?」
沈黙。
ここで声を上げることはできる。
だが、その声に見合うだけの代案と責任を背負える者は、ほとんどいない。
やがて、誰も口を開かないまま、沈黙が一つの形を取った。
アイゼンは天秤の刻印を押した印章を持ち上げ、机上の書類に静かに押し当てた。
「――ギルドの裁定とする」
赤い蝋の上に、天秤の紋章が刻まれる。
その瞬間、ひとつの物語が正式に世界へ登録された。
『三十階層・真紅のリザードマン調査依頼』。
名は、世界に形を与える。
真紅という色を、ただの噂から、具体的な脅威へと変える。
レナが手際よく書類を束ねる。
「静寂の歯車への通達は、私が行います。条件と意図は、包み隠さず伝える」
アイゼンは頷き、最後に一度だけ、空席に視線を落とした。
「静寂の歯車。秤の上に乗せるには、これ以上ない重さだ」
呟きは、誰にも聞こえない程度の小ささだった。
アイゼンの視線は、まだどちらにも傾いていない秤の皿を見ているみたいだった。
ただ、その皿の片方に、真紅の名が置かれたことだけは、確かだった。
今日は、戒厳令解除の日だ。
王都の朝は、ようやく本来の「色」を取り戻しつつあった。
城門前に連なる列は短くなり、検問所の兵士たちの顔つきからも、張り詰めたものが少しずつ抜けていく。
閉じられていた露店の屋台には布が外され、果物の木箱や、焼き立てのパンの香りが通りに帰ってきていた。
広場の中央、石畳の上に簡易の演台が組まれ、その前に人だかりができている。
「静かに!」
「これより、王都警備隊より通達を読み上げる!」
若い兵士が声を張り上げると、ざわめきが一段階だけ収まった。
「アストリア王国、王都防衛評議会は、本日をもって戒厳令を解除する!迷宮からの魔物流出は封じ込められ、沈黙の森――」
その名が出た瞬間、ざわ、と人の波が揺れた。
沈黙の森。
つい先日まで、その地名だけで、子どもの泣き声が止まるほどの恐怖が街を覆っていた場所だ。
「――沈黙の森周辺には、王国軍と冒険者ギルド、工匠組合により警戒網が敷かれた。森の入り口一帯は新たに監視区域として指定され、一般の立ち入りは禁止される。これにより、王都アステリアにおける大規模な魔素被害の危険は、現時点で認められない。以上をもって、安全宣言とする!」
宣言が終わった瞬間、あちこちからほっとしたような息が漏れた。
「戒厳令、解除だってよ」
「これで、まともに商売ができる……」
「沈黙の森も、もう大丈夫なんだろ?」
人々の言葉は、すぐに楽観へと傾いていく。
監視区域という言葉に、現実感は薄かった。森の向こうで何が起きていたかを、本当に知っている者は多くない。
ただ、森の中で聞いた無音を知る一握りの者だけが、その宣言を、素直に飲み込めずにいた。
ギルド本部のバルコニーから、レンたちはその様子を見下ろしていた。
「すごいね。さっきまでしかめっ面してたやつらが、もう笑ってる」
ミーシャが手すりに寄りかかり、広場の群衆を見下ろす。
彼女の瞳には、人の周囲に揺れる感情の色が、薄い煙のように見えている。
いま、広場に広がっているのは、淡い安堵の色。
深い恐怖の黒は、表面上、ほとんど姿を消していた。
「どっちも間違っちゃいないさ」
クラウスが肩をすくめる。
「市民が見るのは、いま、門の外に魔物が溢れていないかだけだ。沈黙の森に監視塔が立とうが、結界が張られようが、彼らにとっては何かちゃんと対策してるらしいって情報で十分だろう」
「レンは?」
リーナが横顔を見る。
レンは広場ではなく、もっと遠くを見ていた。王都の屋根の群れ、そのさらに向こう。沈黙の森と深淵の迷宮が口を開けている方角へ。
「森は、ただ蓋をされた。深淵の迷宮は……蓋に触れもしていない。そんなところだ」
「言い方、全部台無しにする天才だよね、あんた」リーナは苦笑いを隠さず言う。
「事実を言っただけだ」
レンは短く答えた。
戒厳令は解除された。
表向き、王都は「日常」を取り戻しつつある。
だが、迷宮の下層ではいまだ、何かが息を潜めていた。
――その何かを、これから引きずり出すのは、自分たちの役目だ。
そんな予感を、レンはまだ言葉にはしなかった。
代わりに、背後から聞こえてきた足音に視線を向ける。
「静寂の歯車の皆さん。ギルドマスターがお呼びです」
エララが控え目に頭を下げた。
薄茶の髪を一つにまとめた受付嬢の表情は、いつもよりわずかに固い。
「場所は?」
「三階、大評議会の間です。……天秤の刻印の扉の方」
リーナが一瞬だけ眉を跳ねさせた。
「大評議会?あそこ、緊急会議やSランクとか大きな条約結ぶときぐらいしか使わないんじゃなかった?」
「はい。だからこそ、ギルドとして正式な裁定をお伝えする場になります」
エララは、そこで一度言葉を切る。
視線が、ほんの僅かにレンの荷袋に向かった。アイテムボックスが、音もなく重みを主張している。
「……どうか、気を引き締めてお越しください」
その一言で、レンはおおよその察しをつけた。
十層の報告書は、もう上に届いている。
沈黙の森の件と合わせて、次の話が始まるのだ。
「行こう」
レンが歩き出すと、静寂の歯車の三人も、何の迷いもなくその背中についていった。
大評議会の間。天井の高い石造りの空間には、静寂の歯車以外の高ランクパーティーを招集した名残がまだ漂っていた。長卓の上には、深淵の迷宮を模した立体地図と、封蝋済みの書類の束。壁には天秤と剣の紋章。
その前で、ギルドマスター・アイゼンと副ギルマスター・レナが座ってた。
扉の外で、短くノックの音がする。
「静寂の歯車、到着しました」
衛兵の声に、レナがちらりと視線だけを向けた。
「入ってもらって」
重い扉が開く。油の匂いと、外気に混じった鉄と革の匂いが、わずかに流れ込んだ。
先頭を歩くのは、黒髪の青年だった。
レン・ヴェリタス。軽装の上からギルド支給のマントをかぶっているが、その足取りは妙に静かだ。
その右隣には、女戦士リーナ。肩当てに刻まれた傷跡は増えているのに、歩き方だけは昔と変わらない、「前に出る」人間のそれ。
左側には、ローブ姿の青年、クラウス。少し不機嫌そうな表情は通常仕様。
その少し後ろで、ミーシャがついてくる。
四人が長卓の手前で足を止めた。
すでに数人の幹部やAランク冒険者が、壁際に下がる形で立ち会っている。シリウスの姿もあった。彼は腕を組み、静かに成り行きを見守っている。
「静寂の歯車。呼出に応じてくれて感謝します」
レナが開口一番、事務的な挨拶を述べた。声には抑揚が少ないが、その分だけ言葉がよく通る。
「座って、と言いたいところですが……内容の性質上、そのままで」
レンが軽く顎を引く。
「構いません。通達とのことでしたね、副ギルドマスター」
「ええ」
レナは立ち上がり、封蝋された一通の書簡を手に取った。
赤い蝋には、ギルド紋章の天秤が深く刻まれている。
「これより、ギルド大評議会による特例依頼の通達を行います」
その言葉に、室内の空気が、目に見えないところで一段締まる。
リーナの喉が、わずかに上下した。クラウスは無意識に手に力を込める。
レナは書簡を開き、形式ばった口調で読み上げ始めた。
「任務名。『深淵の迷宮・第三十階層、真紅のリザードマン現状調査依頼』」
ミーシャの肩が、ぴくりと震えた。
名前に反応するように、彼女の視界の端で、世界の色が一瞬だけ揺らぐ。
――赤。
黒く沈んだ石の間に、どろりとした赤いものがにじんでいくイメージが、言葉と一緒に流れ込んでくる。
まだ見ていないはずの階層。まだ出会っていないはずの魔物。
それなのに、その名は、魂視の奥に直接「色」として焼きついた。
(……今の、なに)
ミーシャは小さく瞬きをし、視界に浮かんだ残滓を振り払う。
聞き間違いじゃない。真紅という音を聞いただけで、魂の輪郭がきゅっと縮こまるような感覚。
レナの声が、その上から重なる。
「目的はふたつ。ひとつは現在、迷宮中層から上層にかけて観測されているリザードマン暴走の源と目される存在について、その現状を確認すること。次に第三十階層における結晶化の進行度、魔素パターンの変化等、観測可能な情報を取得し、持ち帰ること」
読み上げられる単語の一つひとつが、レンの頭の中で別の形に並び替えられていく。
結晶化の進行度。魔素パターン。
それらはすべて、「数値化可能な情報」に変換できる種類の言葉だ。
レンは、胸の内側で淡々と算盤を弾いた。
(十六層で観測された逆流の振幅。沈黙の森のデータ。導管の構造。そこに、“真紅”っていう新しい変数が一つ追加される)
脳裏の片隅に、薄く黄ばんだ報告書の写しが浮かぶ。
Aランクパーティ壊滅。唯一の生存者。黒塗りの行。
そこに書かれていたのは、「他人の敗北」のデータだ。
レナは淡々と続ける。
「達成条件。第一に、対象である“真紅のリザードマン”との交戦は、任務遂行上の必須条件とはしない。第三十階層までの到達および、その過程における観測結果、可能な範囲での対象の現状の把握をもって任務達成とみなす」
リーナの表情が、そこで硬くなる。
「交戦、必須じゃない……?」
小声で漏らした言葉を、レナが拾うように、視線だけ向ける。
「あなたたちに討伐を命じるつもりはありません。ただし状況によっては、接触が避けられない可能性もある。その場合の戦闘行動は、パーティリーダーの裁量に委ねる」
レンが静かに頷いた。
責任の所在は、最初からこちら側に投げられている。それ自体は嫌いではない。
「第二に、パーティの生還を最優先とする。状況が危険と判断される場合、観測行動を打ち切り即時撤退することを、ギルドは許可し、推奨する。その場合でも、持ち帰られた情報の質と量に応じて、任務遂行として評価する」
クラウスが、そこで初めて口を挟んだ。
「……つまり、死ぬまで粘れとは言わない、という理解でいいですか?」
レナはわずかに口元を引き結んだ。
「そのとおり。静寂の歯車には、過去の失敗をなぞることではなく、引き際を誤らないことを期待しています」
彼女の言葉の裏に、黒塗りの報告書の影が見えた気がして、クラウスは無意識に喉を鳴らした。
「最後に、報酬について」
レナは一枚、別の紙を持ち上げた。そこに記された数字の列が、レンの注意を引く。
「金銭的報酬は、通常のAランク危険度相当。それとは別に――」
レナの視線が、レンたち四人を順々になぞる。
「本任務が、ギルド本部の基準において達成と認められた時点で。静寂の歯車は、即時にAランクへ昇格します」
リーナが息を呑む音が、はっきり聞こえた。
クラウスの瞳孔がわずかに開く。
ミーシャは、さっきから続いている胸のざわめきに、さらに別種の緊張が混ざるのを感じていた。
レンだけが、表情をほとんど動かさないまま、心の中で数字を一つ書き換える。
(BからA。AからSへの距離は、段差じゃない。階段だ。その階段を一段、確実に上がる条件が提示されたわけだ)
彼は、静かに口を開いた。
「確認してもいいですか」
「どうぞ」
レナが促す。
「任務の目的は、真紅の現状を観測し、情報を持ち帰ること。達成条件は生還と、観測に基づく詳細な報告書の提出。これでAランク昇格が確定。追加の試験や、別件の条件は?」
「ありません」
レナは即答した。その目に、曖昧さはない。
「これは、ギルドマスター・アイゼンおよび大評議会による最大限の譲歩でもある。
静寂の歯車に、それだけの価値を認めたという証です」
言い切ったあとで、彼女はほんの少しだけ視線を細めた。
「……同時に、ギルドとしてそれほどまでに真紅の情報を欲している、という意味でもあるけれど」
レンは、その含みを聞き逃さない。
価値があるから譲歩する。
喉から手が出るほど欲しい情報だから、条件を積み上げる。
(つまり、こちらの要求も最大限持ち込めということだ)
レンは、胸の中で静かに結論を出した。
「了解しました」
その声には、ほとんど迷いがなかった。
「静寂の歯車は、本任務を受諾します。第三十階層までの道を整え、真紅の状態を観測し、生きて戻る。それで次のステージに届くなら……」
彼はそこで言葉を区切り、わずかに口元だけで笑う。
「Sへの距離が、一段縮む」
リーナが、横目でレンを見た。
「レン。今の説明で即決できる神経、普通じゃね~からな」
彼女は、苦笑に近い顔で言う。
その目には、しかし怒りではなく、不安が張りついていた。
「過去、Aランクパーティ壊滅って言葉、聞こえてたか?あれが噂話じゃないっての、子どもの頃から散々聞いてきたんだけど」
彼女の脳裏に、昔話がよぎる。
地の底で、恐怖そのものみたいな雄叫びが響いて、勇者様たちが誰も戻ってこなかった話。
レンはリーナに視線を向ける。
「聞いてたよ。その上での判断だ」
「……あんたさ」
リーナは額を押さえ、息を吐いた。
「やるんだろ、どうせ。止めたところで、こっちのほうが期待値が高いとか言うんだろ」
「そうだ」
「なら、あたしの仕事は変わらない」
リーナは顔を上げた。その目に宿った光は、恐怖を飲み込んだあとの、いつもの光だ。
「前に並んで、殴るだけ。真紅だろうが何色だろうが、目の前に来たら叩き落とす。それが前衛だ」
レナが、そのやりとりをじっと見ていた。
否定も、肯定も、口にはしない。ただ、観測者として刻む。
「クラウス」
レンが横を向く。クラウスはすでにノートを開き、ペンを走らせていた。
「リスクの列挙は?」
「すでに始めてるさ」クラウスは続ける。
「最大のリスクは、未知の量だ。真紅並びにリザードマンの戦力、三十階層までの道中の変質。現時点では、変数が多すぎる」
彼はノートの余白に三つの欄を書き出す。
「けど、条件は悪くない。討伐は不要、撤退は許可どころか推奨、生還と報告だけで昇格確定。ここまで揃えてくれるなら、こちらも質問項目を最大限に持ち込む価値がある」
クラウスの目が輝き始める。危険を前にした学者の目だ。
「真紅の行動パターン、出現周期、中層からの魔素逆流の相関。王立図書館とギルド文書庫、救護所の記録。レンが数字の裏を拾うには、その三つで足りる。それから――」
「それから?」
「……過去の唯一の生存者が、まだ生きているなら、その証言も」
クラウスの言葉に、レナのまぶたがわずかに動いた。
ひと呼吸おいてから、彼女は短く告げる。
「そこから先は、情報管理の範疇になるわ。その話は、依頼受諾後に改めて」
クラウスは肩を竦めた。
「期待して待ってる」
レンは最後にミーシャへ視線を向けた。
「ミーシャは?」
問われて、ミーシャは小さく体を揺らした。
さっきから胸の奥で渦巻いている赤いざわめきを、どう言葉にすればいいのか迷う。
「……名前を聞いた瞬間から、ずっと、嫌な色が見えてる」
彼女は正直に口にした。
「真紅って。ただの色なら、こんなに重くない。沈黙の森の結晶とも違う……もっと、感情に近い赤。怖い、怒ってる、泣いてる、全部が混ざった、どろどろした感じ」
声が震えているのに、内容は妙に具体的だ。
「それでも行けるか?」
レンの問いは、優しくも厳しくもない。ただの確認だ。
ミーシャは、数秒だけ目を閉じ、それからゆっくりと開いた。
「……行く。怖いけど、見ないままだと、もっと怖いままだから」
その答えに、レンは小さく頷いた。
前衛は前で殴る。
後衛は後ろで数える。
観測者は怖くても見る。
それぞれが自分の役割を口にしたところで、アイゼンがようやく口を開いた。
「議論と覚悟の確認は済んだようだな」
天秤の男の声が、長卓の向こうから届く。
「静寂の歯車。これは、ギルドにとっての賭けであり、世界にとっての秤だ」
アイゼンの視線が四人を貫く。
「おまえたちを、天秤の片側に乗せる。反対側に乗っているのは、真紅とこれから先の均衡だ」
彼はわずかに口角を動かした。
「ギルドマスターとしての命令は一つだけだ。――生きて戻れ」
レナが、再び通達役として一歩前に出る。
「では、改めて。静寂の歯車」
書類を閉じ、封蝋のついた表紙を四人に向けて持ち上げる。
「あなたたちの任務は一つ」
大会議室の空気が、ぴんと張りつめた。
「真紅の真実を見て、生きて戻ること。それが、Aランクへの扉です」
レンは、その扉をじっと見据えるように視線を前へ向けた。
扉の向こうにあるのは、死地か、あるいは階段か。
(どちらにせよ、他人が一度踏み抜いた場所だ)
レンは心の中で静かに思う。
(なら、敗北の跡を、最初から全部見ておく。二度と同じ踏み方をしないために)
彼は右手を伸ばし、レナの掲げた書類に触れた。天秤の紋章が、その指先にひやりとした感触を残す。
大会議室の扉の向こうには、王都のざわめきがある。
もう終わったと信じたい人々の日常が戻りつつある。
その下で、静寂の歯車は、真紅へ続く階段の一段目に足をかけた。




