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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第1章:Bランクの日常と歪な契約
33/43

第10話 封鎖線の十層 ②

結晶個体のもつ魔素が回廊の拍動を一段と速くする。青白い脈が壁を走り、床石の継ぎ目が微かに浮き上がった。


「……後方、五。冒険者の気配。この強さ、たぶん『グリフォンの誇り』」


ミーシャがレンにささやき、弦を押さえる指を緩めない。


「了解」


レンは短く返すと、即座に隊内へ指示を流した。

「引きながら小広間まで下がる。遮断は温存。囮は俺が取る」


「囮は私で十分だっての」


リーナが舌打ちしながらも、盾を半歩だけ前に出す角度に切り替える。


「角度3度、了解」


クラウスの光が薄膜となって足元に展開し、崩れかけた床石の応力を受け流す。


群れが追いすがる。結晶個体が列の中央で鼓動し、周囲の通常個体が拍を合わせて盾の陣を作る。核の明滅は二拍周期、約4秒、次のハウリングが来るまであと15秒。


「今は撃つな」


レンはそっと左腕で振動刃の出力を落として牽制だけに割り切る。右腕が回復するまでまだ時間がかかる。仲間の背を押し出すように後退速度を一定に保った。


やや広い石の間に転がり込んだ。回廊前の小広間。そこで、風がすっと前髪を撫でた。


「遅いぞ」


青銀の外套を翻し、シリウス・アルヴァインが一歩進む。刃は抜かれ、風がその周囲で極薄の線となって震えている。背後には四人。


塔盾と鎚の男、ガルド・ヘルムートが面で道を塞ぎ、

氷の光彩を指先で撫でるイザベル・フロイラインが床の滑走路を描き、


セシリア・ブランが淡金の祈りで精神の波形を整える。

そして、アッシュ・スウィフトが弓を半身に掲げ、視界の死角を潰す位置にすでに立っていた。


「状況は」シリウスが確認する。


レンは要点だけ渡す。


「主核級が一。物理は有効も再生あり。初級魔法は完全無効化段階。中級以上は不明。精神異常を起こすハウリングを一定時間で発生させる。周期は不明。通常個体は十未満、増援不明」


「後方処理は我々がやる。歯車は大物の喉笛だけ狙え」


ガルドが塔盾を床に叩いて火花を散らす。


「壁は任せろ」


「道は私が軽くするわ。感覚がずれると困ると思うから静寂の歯車は対象外。ごめんなさいね」


イザベルの氷紋が床を走り、味方の足だけ抵抗が消える導紋を作る。


「精神波形を固定します。魔素の反射なら緩和されるかと」セシリアの声が柔らかく降り、耳の奥でざわめいていた幻声が嘘のように静まった。


「右から二、左から一。増援の影は薄い。核の鼓動に合わせて押してくる」


アッシュが矢を半弧に浮かべながら、短く、的確に弱点を指示する。


「関節は肘よりも肩。そこだけまだ結晶化が浅い」


シリウスが顎で合図を寄越す。


「線は通す。お前は止めろ。ここが正念場だ」


「やる」


レンは頷き、静寂の歯車側へ振り返った。


「作戦変更。核への流れを断つ。遮断を起点に一撃で割る。三段同時。リーナ、表層を割る斧投。ミーシャ、核の中心を矢で穿つ。俺が線を通す」


(遮断の存在が他のパーティーにばれるが今回は人命救助が優先だ)


「線を通すのは騎士の仕事だが?」


シリウスが薄く笑う。


「線の内側は先行の俺の役目だ」


二人の視線が一瞬だけ火花を散らし、すぐ重なる方向を向いた。


青白い脈動。核がふたたび瞬く。音のない咆哮が来る拍。


「今」


レンが低く呟く。


「――遮断」


半径数歩、色と音が落ちた。世界が膜で覆われ、無音が降りる。脳に刺さっていた叫びはちぎれ、床へ紙片のように崩れた。


泡の縁でクラウスが短く告げる。


(次のハウリングはさせない)


レン。


(合図で殻に傷をつける。鈍くていい、確実に、だ)


リーナが顎を引き、ミーシャは真っ暗な視界の中で結晶個体の行動パターンを予想し、主核を射程の中心へ据えるため精神を集中させる。


(まだ痺れがあるが、超振動刃は打てるか。どちらにしても右腕はしばらく使いものにならないかもな)


レンの中で次の行動は決まった。


遮断の内側では、呼吸と心拍だけが音になる。


遮断の膜が破れ、光と轟音と足音が一気に戻る。

その手前で風の線が走った。


「退け」


すでに精神波の影響を看破したシリウスの突きが空気を裂き、囮のシミター列を面ごと押し流していた。イザベルが敷いた氷路に沿ってガルドが滑るように塔盾でリザードマンの攻撃を受け止めていた。


「今だ」


アッシュの短い合図。セシリアの調律が反射の波を一拍遅らせる。


「入る」


レンは一歩で間合いを奪い、刃先で核外殻の縫い目を撫で切る。切り落とさない。噛み付けるささくれだけを置いていく、薄い仕事だ。


「行っけえっ!」


リーナの斧がそこに食い付き、表層を一枚だけ剥いだ。砕片が右に舞い、主核の鼓動がむき出しになる。


ミーシャの弦が鳴る。矢が真芯を走り、露出した核へ吸い込まれた。

一拍、二拍。核の光が乱れ、回廊を満たしていた青白が弱まる。


「まだ来る、拍を合わせてくる!」


クラウスの声。


通常個体が陣形を詰め直すが、シリウスの風線が通路に壁を描き、ガルドが角を潰す。イザベルは敵の足裏だけを重くし、アッシュの短矢が肩の関節を縫い止め、セシリアの祈りが次の反射をさらに一拍ずらした。


レンは刃を返し、心臓の鼓動を核の明滅に合わせる。世界の音が細くなる。


「終わりだ」


魔力を込めた超振動が一段高く鳴り、刃が落ちた。ミーシャの矢柄の後端を正確に叩き、矢ごと核の中心を突き刺す。内側から花のように割れた。


星が砕け、青白い光が回廊から引いていった。


遅れて、青白い光が回廊から引いていく。結晶個体の胸郭が崩れ、群れの拍がばらける。残った通常個体の接続が切れ膝をつく、シリウスの魔力を込めた突きが風圧の線でまとめて倒し、ガルドの鎚が最後の一体を床に沈めた。


静寂。滴る水音が戻る。セシリアの祈りが終わり、イザベルが氷紋を解く。小広間の空気がふっと軽くなった。


「……やったね」


ミーシャが小さく息を吐く。


「よくやった」


クラウスが眼鏡を押し上げ、砕けた核片の残留波形を手早く封筒へ入れる。


「反射が初級域から中級域へ上がる直前だった。危うい綱渡りだ」


リーナは回収した斧の刃を親指で撫で、口角を上げた。


「やっぱり表面は割れるんだよ、ちょっとした重みがあればな」


ガルドが鎚を肩に担ぎ、シリウスを見やる。


「前だけ見てりゃいい仕事だったな、隊長」


「そっちも的確だった」


シリウスはあっさり頷き、レンへ視線を戻す。


「線を通す腕は、噂以上だ」


「線は皆で通すものだ」


レンは淡々と答える。


「あなたたちの後方処理がなければ、今の三段は成立しない」


アッシュが口笛を短く一つ。


「へえ、寡黙な噂の割に口が回るじゃないか」


「成果報告は多弁になる」


クラウスが肩をすくめ、シリウスへ一礼。


「後方の掃除、謝意を。反射段階の初級魔法に手を出していたら、損害は免れなかった」


セシリアがレンの顔を覗き込む。


「あなた、ハウリングの残響がまだ少し残ってる。……痛くはない?」


「業務に支障はない」


レンは短く返す。セシリアは目を細め、しかしそれ以上は踏み込まない。


シリウスが周囲に視線を巡らせ、結論を置いた。


「ここは一度、封鎖の目印を。付近の残存勢力の確認後、撤収して報告。増援の拍が途切れている今が潮時だ」


「同意」


レンは頷き、イザベルが氷で撤退導線を薄く描いた。


リーナが斧を背負い直す。


「帰ったら一杯やるぞ。なあ、風の騎士さんよ」


「任務中だ」


シリウスは素っ気なく返し、しかし口元だけわずかに緩んだ。


「終わったら奢れ」


「上から来やがる」


リーナが笑い、塔盾の縁を軽く小突いた。ガルドが受け止め、石の間に短い金属音が転がる。


青白い光はもうない。禁じられた回廊は、ただ湿りと冷気だけを残して静かに息をしていた。


「――退く。記録は道中で整理する」


レンの号令に、二つのパーティが自然に隊列を組む。先頭に風の線、後尾に塔盾、中央に静寂の歯車。


ハウリングの残響は去り、代わりに足音と呼吸だけが、真っ直ぐな“線”となって回廊を戻っていった。


十層の残骸から、薄く煤けた結晶片を採取する。レンは封印筒を取り出し、符を貼ったまま収納した。


クラウスが耳元でささやく。


「共鳴波、十六層のものと同系だ。下から、上がってきている」


「放置すれば救護所まで汚染する。根元を絶つ必要がある」


レンの声は平らだ。


ミーシャは回廊の奥を見つめたまま首を振る。


「さっきのリザードマン、たぶん元凶じゃない。強かったけど成長してたから」


「つまり、元凶は別にいる」


リーナが盾を背に回して言う。


「確定ではない。だが下層を調べる価値は高い」


レンは封印筒の符をなぞり、最後の留めを確認した。


シリウスが歩み寄る。


「お前たちの判断に乗る。ここは一旦封鎖線を詰め直し、救護所の再配置を進言する」


「助かる」


レンは短く礼を言い、視線だけで仲間に退路の確認を促す。四人は回廊を離脱した。




地上。石畳を渡る風は冷たく、鼻腔に貼りついた迷宮の匂いを乱暴に洗い落としていく。篝火の明滅が城壁の陰影を伸ばし、夜番の槍が等間隔に鈍く光る。


吐く息は白く、足音は固く、街はまだ起きているのに、どこか寝返りを打つ前の静けさが支配していた。


ギルド本部の黒檀扉は、夜でも昼と変わらず重い。門衛が敬礼し、封印筒の符刻を確かめ、通行票を刻む。


昼とは異なり広間の喧噪は抑えられ、まばらにいる冒険者たちも道を空けてレンたちを無言で見送った。羨望でも恐怖でもない、ただ「何が起きたのか」を測る街の目。慰霊碑の前では、帽子を脱いだ誰かが短く祈り、また歩き出す。


二階の報告室は、監査室と背中合わせの細長い部屋だ。壁には王都地下の導管図と、各層の簡易波形。窓は緞帳で閉ざされ、卓上には結界灯がひとつ。


レナが既に資料を積み上げて待っていた。髪はいつもより堅くまとめられ、指先は符墨で汚れていた。


「観測報告は二系統に分けます。正式報告では『結晶残渣の再発』。非公開報告では『リザードマンの暴走』として記録します」


言い切った声は、紙の端を揃える音と同じくらい乱れがない。隣の作戦室の扉が開き、重い靴音が近づいて止まる。ギルドマスター、アイゼン・ジェラルト。銀のこめかみに疲労の影はあるが、瞳の硬度は落ちていない。


「宰相派に渡すのは前者だ。後者は我々と王子派で共有する」


たった一文で、情報の流路が決まる。誰が何を知り、どこで止め、どこへ流すか。紙は刃と同じくらい人を救い、同じくらい人を殺す。


レンは封印筒を机に置き、レナが追加の符を重ねるのを見守った。封蝋の輪郭が微かに光り、鍵の歯が一枚ずつ噛み合う。


封は増やせば良いわけではない。増やすほど「誰が」「いつ」開いたのかが曖昧になる。曖昧は、人を死なせる。


「封鎖線を第十層入口に再構築。救護所は一旦撤収、もしくは上層へ移動を進言する」


レンの提案に、レナは即答した。


「通します。ギルド権限で再配置案を承認、資機材はこの場で手配するわ」


クラウスは必要数を淡々と読み上げる。


「結界柱二十四、導魔紙三百。黒銀混合の符墨。医療具補充、担架。油、乾燥食、水……ここに必要な量を記載済みだ」


ミーシャは机の隅に布包みを置き、採取した欠片を見下ろした。結界灯の下、鈍い青が脈打つように見える。瞼の裏には、回廊で見た星の残光が残っていた。あれは脈動というより、呼吸に近い。


「……リザードマンの結晶個体、脈を打ってたけど合図に近いと思う。誰かが鐘を打って、群れの心臓を一つにしたみたいな」


クラウスのペン先が止まる。


「ならば鐘を鳴らす手が、下にいる」


「なら、叩き折れば静かになる」


リーナが拳を握った。斧の柄に残る小傷が、今夜の手順を雄弁に語る。力押しではなく、薄く刻み、最後に一押しで崩す仕事の跡だ。


そのやりとりを横目に、シリウスが袖口を整える。


「現場の人員は私からも融通する。夜のうちに線を詰める」


「助かる」


レンは短く会釈し、最新の導管図へ目を落とした。


記憶に残っている古代の幹線と比較する。最新の幹線はダンジョンの上層から魔素を王都に流していた。古代の幹線のような源泉を中心とした蜘蛛の巣を張る形状、沈黙の森の枝管のような構造ではない。


王都への太い幹は南部と東部に分かれ魔素を供給していた。もし下層で鐘が鳴るなら、その響きは導管を経由して都市に沁みる可能性は捨てきれない。魔素は匂いのように広がり、匂いは締め付けると充満する。


封鎖線は「壁」ではなく「濾過」であるべきだ。偶然にも古代の思想と重なる。


「二重にする。内側は濾す結界、外側は止める結界。交互に交代して循環。濃度は規定値を算出し時間を設定。祈りの固定方法はAランク冒険者のセシリアに頼めると助かる」


セシリアは静かに頷いた。


「精神を妨げない帯域で縫い止めます。兵たちの耳の奥のざわめきだけ落とします」


「生活に支障が出ないよう、耳鳴り以外も取ってやれ」


アイゼンが短く笑った。笑みというより、出撃前に歯を見せる獣の表情だ。


紙束は綴じられ、印が押され、使いが走る。レナは扉口で次々と指示を飛ばし、鍛冶場、倉庫、救護所へ人と物が流れる。


ギルドの内部は、表から見える喧噪と違い、よく研がれた歯車のように静かで速い。油は人だ。疲労と興奮の混じった人が、連結部に注がれて、一夜だけ摩耗を忘れさせる。

――封印筒は、金庫室へ運ばれた。


金庫室では黒い石の腹が吸い口のように開き、筒が呑み込まれる瞬間、空気は薄い膜を一枚かぶったみたいに重たく変質する。石床に這う冷気が指先に絡み、壁面の刻文が鈍い光を拾って息を潜めた。ここでは、冗談交じりの会話すら禁じられた雰囲気を醸し出していた。


レナが最後の符を貼る。銀黒の符墨で描いた四位相刻印が微かに収束音を鳴らし、刻印筆が木皿に静かに横たえられる。


レナの指先がわずかに震えたのを、レンは見なかったふりをする。震える人間は、壊れにくい。事の重さ、その事実を認識しつつ逃がす術を知っている。


封緘ふうかん、完了。……持ち出し禁止です」


レナの声は金庫室の石に吸われ、短く消える。立会人の書記官が記録板に施封時刻を刻み、鉛張りの扉が内圧に逆らうように閉じた。錠の音が鐘のように響く。


表の王都も、動き始める。


日没の金色が紫に傾く頃、城の窓に灯が増える。行政庁の回廊には乾いた靴音が等間隔で流れ、羽根ペンが羊皮紙に刻む線が潮騒みたいに途切れなく続く。宰相派の書記官が夜間窓口を開く。


掲げるのは「市民の安心のための事実確認」。


言葉は丁重で、ひどく合法だ。彼らは小さな針穴から海を見る。

市民の情報は些細なものでも宰相派に届く仕組みができていた。


ギルド公示は簡潔に出された。


〈導管点検継続。危険はなし。門限前倒し〉


黒檀の掲示板に紙片が貼られ、押し留め金が小さく鳴る。読む者は眉を上げ、頷き、帰路の角をひとつ早める。


市場はいつもより少し早く天幕をたたみ、パン窯の火が残り香だけを置いて沈む。子らは不満げに家路を急ぎ、母親は肩にかけた籠の傾きをそっと直す。真実は全部は伝えられない。


だが虚偽でもない。足りない分は、夜の篝火が埋める。火と人の距離が狭まるほど、声は小さく、目はよく見える。


沈黙はいまだ続いている。


ギルドの高み、黒石の欄干から夜を見下ろすアイゼンが、誰にも聞こえない声でつぶやいた。


「沈黙は、いつも下から始まる……」


黒石の欄干に手を置き、アイゼンは夜の底を測った。冷たさは剣の柄ではない。秤の皿に触れる指先の確かさだ。沈黙は上から降るものだと皆は思う。命令、布告、禁止。


だが本物は違う。


下で発酵し、目に見えぬ面となって、やがて城壁の高さを呑み込む。無関心、恐怖、諦め、そして情報が淀む音のない渦。その気配が今夜も街の目に宿っていた。


だから火を置く。大炎ではない、小火を。灯台の替わりに観測符を、市日の集積点に連絡の中間を、噂を運ぶ足に短い合言葉を。どれかが消えても痛手にならず、すべてを一度には踏み潰せない密度で。強火は動かさない。


かわりに面を増やし、静まりの行き場を細かく奪う。祈りでは均衡は戻らない。配置だけが戻す。


彼は欄干を離れ、窓枠の影を跨いだ。天秤の重りはわずかに掛け替えられた。静まりの面積は縮むはずだ。


消えた灯の補充に要る時間も、計算の内。下から始まる沈黙に、上から落とすのは言葉ではない。手に負える数の小さな火。その並びが今夜、街のかたちを少しだけ変えた。




宿。レンは水桶に手を入れ、冷めた水で顔を洗った。水は静かで、痛いほど澄んでいる。右腕の皮膚の下の熱だけが、温度を拒む。


右腕はやや赤くなっておりすでに痺れは取れているものの無理をした反動が顕在化しているのだろう。手を拭くと長袖で腕を隠す。


卓上の記録板を開き、封鎖線の図、救護所の再配置案、必要資材の数量を確認する。視線はすぐ、下層の地図に落ちる。十六層の波形と、今夜の共鳴線が重なる。


レンが重ねてきた波形と共鳴線が示していたのは、十六層の異常そのものが本丸ではないという事実だった。真に濁っているのはさらに下だ。


沈黙の森と同じ質の濁りを撒き散らす“何か”が下層域のどこかに巣食い、その呼び水が一本の溝となって十六層まで滲み出している。


「元凶はリザードマンか……それとも他か」


ペン先が、一定のリズムで紙を叩く。黒いインクが走る感触は、ひんやりと冷たい。

それでも、その冷たさの奥には、まだ消えきらない熱がくすぶっていた。


紙の上に引いた線が、頭の中で組み上げた線とぴたりと重なった瞬間、散らかっていた世界が、ほんの少しだけ形をそろえて見える。


誤差なんて、本来は嫌われるものだ。ズレは失敗の原因でしかない。


……けれど、レンは知っている。

誤差があるからこそ、「今は噛み合っている」と実感できる余地が生まれることを。


レンは罫外に、小さな字で三つの言葉を書き添えた。

「入替」:陣形変更・役割の差し替え

「予備」:予備戦力・予備案・予備ルート

「逃走」:撤退ルート・撤退条件


あらかじめ用意しておくのは、派手な勝ち筋じゃない。いつでも退けるようにしておくための段取りだ。


勝利なんてものは、本当は目的じゃない。


生きて退き続けた回数と、その質を積み重ねた先で、あとからおまけみたいについてくる副産物に過ぎないと。




ギルド本部の一番奥、客を通すこともない地味な別室で、レナは一人、書類の山と向き合っていた。


王子派への非公開報告。表向きの帳簿にも議事録にも、決して載らない種類の紙だ。


情報屋は、今日も正面からは来ない。


使うのは決まって裏口、裏階段、灯りの間引かれた細い回廊。

彼らの存在そのものが、「この報告は黒寄りです」と物語っている。


レナは手元の用紙を一枚すくい上げる。

紙は薄く、よくしなる。けれど、その端に垂らす封蝋は、わざと分厚く重くした。


「中身は軽く見せて、扱いだけ重く」


推論は本報告とは別紙にまとめる。

事実だけを書いた紙と、その解釈を書いた紙を分けて、封筒も分ける。


ひとつは「王子殿下用」。

もうひとつは、いざとなれば切り捨てられる「参考意見」だ。


宰相派に回す報告書は、さらに薄くなる。

こちらの表題は簡潔でいい。


『結晶残渣の再発について』

『市民安全のための追加措置案』


内容も、できるだけ事務的に整える。

専門用語は削る。その代わり、数字と固有名詞を増やす。


件数、日付、区画番号、担当部署名。


「数は人を安心させる。固有名は、責任の所在をぼかす」


小さくつぶやきながら、彼女は淡々とペンを走らせる。

並ぶ文字は冷たく、温度を失っていく。


レナはその様子を眺めて、心の中で言葉を付け足した。

文字は氷。封蝋は血。冷えきった記録に、誰かの血を塗り固めて、政治は回る。


最後の一枚。

ほとんど余白だけの紙の隅に、レナは迷った末、ごく小さく書き込んだ。


「沈黙の森・結晶洞の澄明域と濁り域の共存。宗教的解釈、排除すべし」


これは報告というより、自分自身へのメモだ。


沈黙の森の結晶洞には、澄んだ晶石の区域と濁った魔晶窟の区域が同時に存在していた。

それを「神の奇跡」とか「呪い」みたいな宗教的な話に持っていくと、話がこじれる。


だから宗教的な解釈は切り捨てて、技術・現象として扱うべき。


レナは祈りで意味を盛り上げようとする側、術(技術・符術)で現象として切り分けようとする側、この両方を見たうえで、宗教解釈は政治的に危険と判断していた。


祈りと術は、並べると互いを濁らせる。

どちらも、自分の正しさを譲らないくらいには、強すぎるから。


「だから分けて扱う。……少なくとも、私は」


レナはペン先を拭い、乾いた封蝋を指先で確かめると、静かに息を吐いた。

外の喧騒が届かない別室で、音を立てているのは、彼女の思考だけだった。




王城の高層階。


静まり返った書庫に残っている灯は、王子の机の上だけだった。


王子は若く、賢く、そしてときどき、危なっかしいほど先を急ぐ。紙の上で状況を組み立て、余白にはこれからの未来を書き込んでいく。宰相との綱引きが、その頭脳をいやでも鍛えてきた。だが、研ぎ続けた刃はいずれ薄くなり、折れるかもしれない。


窓の外に瞬く灯を、彼は無意識に数えていた。その灯がすべて消える前に、下層で鳴ろうとしている鐘を止めなければならない。あの鐘の音がいったん響けば、どんな政争も飲み込まれる。迷宮で起きることは、どの派閥の都合よりも重い。


王子は羽根ペンを机に置き、掌で目元を押さえた。深く、ひとつ息を吐く。


その吐いた息の中に、アリアの名はない。けれど彼が視線の先に思い描く未来のどこかには、必ず彼女の立つ場所がある。




レンは計画書の最後に、小さく「誤差」と書き足し、ペン先を離した。


誤差は嫌われる。できることなら、誰だって数字をぴたりと揃えたい。

けれど、生きている限り、人は必ず揺れる。心も、判断も、足もとも。


揺れを見込まずに組まれた計画は、真っ直ぐに進む代わりに、真っ直ぐ壁へ突っ込んでいくだけだ。


「柔軟性のある歯車は、折れにくい」


レンは心の中でそう言い訳のように呟く。


柔らかさは甘さじゃない。戻ってこられる力、元の位置に復元できる力のことだ。

自分にそう言い聞かせながら、紙束の端を指先で揃え、卓上の灯を手で覆って、明かりを半分だけ落とす。


窓の外で、風が一段強くなった。

街路の外灯がひとつ揺れ、そして、何事もなかったように元の位置へ戻る。


紙の上の線は動かない。書き終えた瞬間から、その形を固定される。

けれど、紙の外の線は違う。人の都合も、迷宮の機嫌も、刻ごとに書き換えられていく。


だからこそ、歯車は拍に合わせて回り続けなければならない。

崩れないように。

誰も振り落とさないように。


遠く、深く、地の底から、小さな鐘が一度だけ鳴った気がした。


聞き間違いかもしれない。頭が疲れているだけかもしれない。

それでも、レンは顔を上げない。上げたところで、音の正体が見えるわけではない。


見えないから、準備する。

まだ誰からも「調査に出ろ」とは言われていない。それでもだ。


見えない相手に対して積み上げる準備は、最も静かな戦だ。


迷宮の底で揺れている何かも、導管の向こうで渦を巻く魔素も、王都の高い窓の陰から、こちらを見下ろしながら息を潜めている「何者か」も、レンの中では同じ「誤差」に分類される。


不意に飛んでくる言葉も、命令も、刃も、すべてだ。

来ると分かっていれば、まだ避けようがある。

だから最初から、「来るもの」として計上しておく。


夜は長い。

長い夜は、淡々と刻を等しく刻んでいく。


その等しく流れていく刻の上で、違う場所にいる者たちが、それぞれの立場から同じ「下方」を見ていた。


王都の地下で起きているかもしれない異常。

導管と迷宮、その先につながるかもしれない何か。


真夜中の均しの中で、誰かの靴紐が結び直され、誰かの書類から余白が削られ、路地の影では、誰かが人通りの途切れる刻と重なるように足音の間隔を測り直している。

誰かの祈りは、向けるべき相手と帯域を、ほんの少しだけずらされる。


屋根の上から、城の灯りを数えている者もいる。

今日も遅くまで消えない光を見上げて、その部屋の主の動きと、夜の深さを照らし合わせている。

剣を抜くためではない。ただ、いつでも「異常」を報せられる位置を確かめているだけだ。


そうして均されていった刻が、やがて「合図のない合図」になる。


依頼はまだ来ていない。

明日かもしれないし、来週かもしれないし、結局うやむやに消えるのかもしれない。


それでも、来た瞬間に動けるようにしておくのが、上にいる者たちの仕事だった。

書類を削る者も、祈りの向きを微調整する者も、影の中で視線だけを動かす者も、そのどれもが「上」に属している。


だから今は、この高い場所で整える。

整える手は、まだ止まらない。


――眠日の前、城の鐘楼は鳴らなかった。


鳴らなかったという事実が、鳴り響いた時よりも多くを物語っていた。


王都の心臓は、音を飲み込んでいる。


上から火を灯す者たちと、下で鐘を握る者たちと、その間に挟まれて、ただ呼吸を刻み続ける者たちが、同じ沈黙を、それぞれ違う意味で抱えたまま、夜の等間を渡っていく。


そして、光日の暁。


最初の靴音が、石畳の上に「一歩」を刻んだ。

それは衛兵かもしれないし、ギルドの使いかもしれないし、文官の一人かもしれない。


少し遅れて、離れた路地でもうひとつ靴音が落ちる。

人通りが増え始める刻と重なるように調整された、静かな「一歩」。

そこに剣呑さはない。ただ、見ておくべきものを見逃さないための位置取りがあるだけだ。


それは命令でも号令でもない。

ただ、誰かが「来るかもしれない」に備えて踏み出した、最初の一歩だ。


準備は終わりではない。

歩き始めるための、最低限の条件にすぎない。


最低限だけを黙々と揃え続けた者だけが、

王都の地下で口を閉ざしている“扉”を叩く資格を持つ。


扉は、叩いた者の数ではなく、

叩いてきた回数の「質」で開く。


机に積まれた紙の山も、消えた鐘の音も、路地の影で夜を測っている視線も、そのどれもが、まだ鳴らされていない合図に向けて揃えられた歯車だった。


――いつでも来い。

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