幕間 報告と裁定の間で
2話連続投稿です。
王都アステリア、宰相府。
石造りの広間は、冷たい静寂で満たされていた。机上に積まれた報告書の束、その最上段には、深紅の封蝋が押された一枚が置かれている。
封印の印章は、ヴァロワ伯爵家の鷲。
伯爵は背筋を正し、手袋を外すと、その報告書を恭しく宰相バルトロメウスの机へと差し出した。
「――救護所区画での搬送について、報告を」
宰相は細い指で文をめくり、無言のまま読み進めた。
その瞳の奥には怒りも焦りもなく、ただ秩序を乱されたことへの冷たい不快が漂う。
「……無許可の搬出、教会への直送。ギルド筋の指示なし。報告経路を無視している」
「はい。現場の隊長、イレーヌ・レンブラントによる独断とのこと」
伯爵の声は静かだったが、その静けさはまるで刃のようだった。
「だが宰相閣下。搬送された重傷者は教会にて一命を取り留めております。彼女の判断が結果として功を奏したことも――」
「功など問うてはおらん」
宰相の言葉が静かに断ち切った。
「秩序は偶然の善意の上に立つものではない。規律を破れば、それがどれほど善き結果であっても、王国の柱は腐る」
ヴァロワ伯爵は微かに唇を吊り上げた。
「……全く、閣下のお言葉の通りにございます。救護所隊長、イレーヌ・レンブラントに処罰を。責任の所在を明確にすべきでしょう」
宰相は短く頷いた。
「降格の上、現場指揮権を剥奪。副隊長ケイン・ロウを代行として暫定配置。正式な決裁は明日付けとする」
「承知いたしました」
伯爵は深く一礼し、踵を返す。
その背に、宰相の低い声が落ちた。
「……ヴァロワ。聖女の件、進展はあるか」
伯爵の足が一瞬だけ止まる。
「はい。教会側の対応が早すぎます。救護所搬送と同時に現場へ到着していたことを確認済みです。聖堂の指令が事前に流れていた可能性があります」
宰相の眉が僅かに動いた。
「つまり、ギルドよりも教会の方が先に動いていたと?」
「その通りにございます。聖女アリアは“偶然”を好む神の器ではありません。必ずどこかで手が回っている」
沈黙。
やがて宰相は重く息を吐いた。
「……王国は今、祈りと法の二つの舵で進んでいる。だが同じ船に二人の船長は要らぬ。聖女の手が王政に及ぶ前に、繋ぎ止めておけ」
「はっ」
伯爵は深く頭を垂れ、静かにその場を後にした。
扉が閉じた瞬間、宰相の机上で封蝋がぱきりと割れた音だけが残った。
夕刻、王都防衛隊・第九層救護所詰所。
白布の帳の中、イレーヌ隊長は立っていた。軍靴の音が響く。
入ってきたのは副隊長ケイン。報告書を胸に抱えたまま、顔を上げる。
「……隊長、降格の決定が出ました。責任者はあなたと――」
イレーヌは制帽を外し、静かに机へ置いた。
「言わなくても分かっている。ヴァロワ伯の署名だろう?」
白布の帳の中、イレーヌは報告書に署名した。
「指示は私だ。経路変更も、教会直送も。副隊長は実行しただけ」
ケインが一歩踏み出す。
「違う、判断は俺が――」
「黙りなさい、副隊長」
彼女は穏やかに遮った。
「あなたは次の隊長よ。助けられる命を優先したなら、次はそのための命令を出して守りなさい。責は、ここで終わらせる」
ケインは唇を噛む。
「現場の最終責任は指揮官にある。お前が助けを選んだことを、私は誇りに思う。だが、誇りだけでは秩序は守れない」
彼女は一歩、彼に近づいた。
「ケイン。これからお前が隊を率いる。命令を守るために動くのではなく、“守るために命令を出せる人間”になりなさい」
「……隊をどう導けばいいんです?」
イレーヌは一瞬だけ目を閉じ、微笑んだ。
「自問しなさい。助けられる命を見捨てず、失った命に向き合う。それができるなら――どんな上司でも務まるわ」
彼女は背を向け、階級章を外すと、机の上に静かに置いた。
「私はここまでだ。後は任せた、ケイン・ロウ」
言葉は短く、しかし揺るぎなかった。
符灯が白布を透かし、彼女の背を包む。
ケインは敬礼を返し、その姿が扉の向こうに消えるまで動かなかった。




