第9話 沈黙の統治 ②
レンは霧の奥を見ず、ただ歩きながら思考を整理していた。
(闇魔法の遮蔽、影の投影、偽名。目的は試験。だが本体は離れなかった。観察だけではない。何かを確かめた。索敵範囲なら見切られた可能性がある)
クラウスが隣で口を開く。
「どう見る?」
「闇ギルド、おそらく暗殺者だ。王国の登録にいない時点で確定。だが、殺す気は今はない。……見るか邪魔だけだ。おそらくワイバーン調査の件も関与が濃厚」
リーナが眉を寄せた。
「……あいつが…。それにしても気味が悪いな。影に覗かれてる気分だった」
「慣れろ。迷宮そのものが俺たちを見ているようなものだ」
ミーシャはまだ少し怯えた声で言う。
「……あの人、笑ってたけど、怖かった。誰かを見てるっていうより、全部を見てる感じ」
レンは短く頷いた。
「同感だ。……ただし、次に会うときはこちらも仕掛ける。短期決戦だ」
その言葉を最後に、誰も口を開かなかった。
湿原の水面が静かに波打ち、泡がひとつ弾ける。
その前方で、霧の奥に微かな歪みが生まれた。
湿原のもやは、光を飲み込むミルクの膜のように垂れていた。
一歩ごとに足首まで沈み、泥が泡を吐き、腐葉土の甘い匂いが肺を焼く。
「停止」
レンの声で、四人の足が止まる。霧の奥に、歪み。
水面の揺らぎみたいに形を千切りながら、影が近づいてきた。
リザードマン。
だが、足裏に張られた薄膜が泥に沈まない。音が鳴るたび、その膜が震えて前へ滑る。
まるで湿原の低音を足場にして走っているようだった。
「……音で進んでる」
クラウスが低く呟く。
「泥じゃなく、振動を踏んでる」
「視線を上げるな。観測を乱される」
霧の密度が変わり、空気にリズムのある呼吸のような低音、拍が混じる。
その中心に、ひときわ光る個体がいた。胸郭に透明な板、内部で結晶が心臓のように明滅している。
ミーシャが弓を持ち上げた。
「数は十、拍の中心が一体。全員、あれのリズムで動いてる」
リーナが構えを取る。
「じゃあ、あれを止めりゃ全部止まるってわけか」
「その通りだが――音の流れが逃げ場を潰してる」
レンの目が細くなる。
湿原の底を、低音の波が這っていた。
泥と水の層が共鳴し、地面が生き物のように脈打っている。
音の反響に合わせて泥が泡立ち、沈んでは膨らみ、踏み出す足を絡め取った。
一歩下がるたびに泥の粘りが増し、脚が離れなくなる。
引き抜こうとすれば、泥が吸盤のように音を立てて吸い付き、体重を奪う。
「……退けば、沈む」
クラウスが低く言った。
「泥の中で波が生まれている。音が跳ね返るたび、泥の粒が粘りを増して固くなる」
レンは静かに考察する。
(泥と振動によるダイラタンシーか。前世片栗粉で実験したが…、ダンジョン内で再現されるとやっかいだな)
霧が震え、足元が波打つ。
泥が波のように隆起し、逃げようとする方向にまとわりついてくる。
湿原全体が、リザードマンの鳴動を増幅する巨大な楽器のようだった。
低音の振動が方向を選ばせず、足場を飲み込んでいく。
つまりここは、奴らの“舞台”。
逃げようとする者ほど、音の波に捕まって沈む。
撤退は、不可能。しかも次第に音が大きくなる。大声か合図でのやり取りか。
「戦闘に移る。リーナ、装備換装!」
レンがアイテムボックスを開き、軽盾とウォーハンマーを投げた。
リーナは大盾を泥に突き刺し、受け取る。
「了解!こっちの方が小回りは利くな!」
「氷層を張り動きを鈍らせる。……が、波があるから効果は低減されるな」
クラウスが杖を掲げる。空気が白く凝結し、湿原の表面が凍り始めた。だが――。
「すべるどころか、速くなった!?」
ミーシャの声が上ずる。
リザードマンの足膜が氷を叩く。音が高く跳ね、反響が波のように戻る。
その瞬間、奴らの足元に薄い光の筋が走った。
「音を、踏んでいる……」
クラウスが息を呑む。
「足裏の膜が共鳴して、反射音を推進力に変えてる。氷のほうが音が通る分、速くなるということか!それにしても上半身とのバランス感覚!面白い!」
氷板の上でリザードマンが疾走した。
足跡を残さず、まるで水面の上を走るように。
「なら、その音を止める」
レンが短く言い、呼吸を整える。
群れが前方から迫る。湿原全体が鳴動した。
低音が空気を押し、肺が震える。
リーナが一歩、泥を踏みしめた。盾を斜めに構え、腰を沈める。
最接近してきたリザードマンが咆哮を上げた。
右手のシミターが光を裂き、泥を蹴って飛び込んでくる。
刃が弧を描く。
リーナは一歩も下がらない。盾面をわずかに傾け、刃の角度を殺す。
金属音。弾かれた刃が横へ逸れ、泥が跳ねた。
次の瞬間には、リーナの身体がもう前に入っていた。
「遅い!」
ウォーハンマーが閃く。
下から突き上げるように振り抜かれ、リザードマンの腹部にめり込む。
鈍い衝撃が泥を揺らし、敵が後方に跳ねた。
だが、一部結晶化した鱗が衝撃を受け流し、まだ倒れない。
リザードマンが再び突進、シミターを逆袈裟に振る。
リーナは盾を滑らせるように立て、刃の面を滑走させる。
反動を使い、肩を入れて間合いを潰す。
金属がぶつかる音。泥が衝撃で固定化する。
「足元、甘いな!」
上半身だけで体をひねり、ハンマーを低く構える。
リザードマンの体勢が崩れた瞬間、膝を狙って叩きつけた。
骨が砕ける音。
関節部の結晶に亀裂が走り、リザードマンが膝から崩れ落ちる。
リーナはかるく息を吐いた。
泥の上、彼女の動きには一切の無駄がなかった。
沈みも滑りも、全て計算済み。
重心は常に地面と一線――戦場に慣れた者の足だった。
ミーシャは泥の足場を抜け岩を踏み台に上空に飛び矢を放つ。矢は結晶板の縁を削るだけで、貫通には至らない。
「かたっ!」
「リーナが砕いたように関節だ」
レンが指示する。
投擲した短剣が肘の結合部へ突き刺さる。火花、鈍い悲鳴。
群れの拍が一瞬だけずれた。
クラウスが詠唱を重ねる。
「氷槍!」
冷光の槍が突き上がり、三体の足膜を貫く。氷が砕け、泥が跳ねる。
だが後方の結晶化個体が胸板を鳴らした。
共鳴。氷が逆流するように爆ぜ、冷気が吹き飛ばされる。
「魔法が弾かれた!?」
クラウスは思わず後ずさる。
「音の波長で魔力が歪んでる」
レンの声が冷たい。
「同調させろ、ぶつけるんじゃない」
「簡単に言うな……やってみる!」
クラウスが再度杖を振る。
上空からミーシャが結晶越しに移動する。
「誘うよ、レン!」
矢が飛び、リザードマンの視線が彼女に集まる。拍が乱れる。
泥が軟化しリーナが突っ込む。
「今だ!」
盾で押し込み、ウォーハンマーで胸板を叩き潰す。金属音。硬質な鳴動。
結晶が砕けた。
だが――。
中心の個体が頭を真上に上げた。
胸の結晶が強烈に光を放つ。空気が震える。
「強烈な魔素!ハウリングが来る!」
ミーシャが叫ぶ。
次の瞬間、空気が爆発した。
霧が千切れ、鼓膜が悲鳴を上げる。
音ではない。思考を直接殴る衝撃。
リーナの腕が止まる。ミーシャの矢が手から滑り落ちる。
クラウスの詠唱が途切れ、杖が震えた。
レンの額に冷たい汗が浮かぶ。
――幻。
カエランの断末魔。
ハンナの血。
リーナが落ちていった光景が脳裏を走った。
「違う……これは音の幻覚だ!」
レンは自分の頬を殴り、意識を戻す。
「拍を潰せ!遮断する!呼吸を合わせろ!」
影の監視下、使用を避けたかった遮断を緊急で展開。
リザードマンたちは突然目の前に真っ暗なドーム型の形状が発生し突っ込むのをためらっていた。
わずか三秒の遮断、その間にレン、クラウス、リーナ、三人の胸が一斉に動く。吸って、吐く。
ミーシャは結晶の上でまだ復帰が難しいが距離が離れており安全圏だ。
「クラウス、氷で包囲音を切れ!」
「了解――《氷環の防壁》!」
霧が凍り、白い輪が三人を囲む。音が鈍る。
だが、結晶個体は逆に怒りを増した。胸板の光が乱れ、震動が強まる。
「リーナ、右側を頼む!」
「了解!」
リーナが盾を構え、ウォーハンマーを逆手に。
リザードマンの突進を受け、盾の縁で角度を殺す。
続けざまに振り下ろす。
結晶板に亀裂。火花。青白い血。
「ひとつ割った!」
「…っ、二体目、左から!」
時間差で復帰したミーシャが意識をしっかりしようと頭を振りながら叫ぶ。
レンが投擲。関節を狙った短剣が滑り込み、膝を砕く。
クラウスの氷が絡み、動きを止めた。
残るは三体。
だが中央の結晶化個体の拍、明滅が異常に速くなる。
湿原全体が鳴り、空気がたわむ。
霧の粒が舞い上がり、光の筋が走る。
「拍が異常だ」
レンが息を呑む。
(精神か物理か。…いずれにしても時間がない)
距離を取る暇はない。
泥が逃げ道を塞ぐ。
音が地面を波打たせ、足が沈む。
「……仕方ない。各自、結晶化個体の直線状から離脱!」
レンが静かに集中する。
体内の魔力が一気に収束する。空気が震える。
右腕に青白い線が走り、周囲に青い光が漏れだす。
リザードマンたちはレンの異常な魔力に当てられ、狙いを定めるもすでに遅かった。
「(超振動刃)準備完了!」
低い音が湿原に響いた。
レンの掌から透明な波が広がり、空気そのものが刃になる。
「全員、退避!」
放たれた一閃。
目には見えない斬撃が湿原を走り抜けた。
音と音の間を裂く一条の波。
泥も結晶も、その境界ごと切り裂いた。
結晶化個体、直線状にいた他の個体も巻き込む。胸の結晶が真っ二つに割れ、光が霧散する。
同時に残りのリザードマンも、共鳴が途絶えた瞬間にリンクが途切れたのか膝から地につく。
沈黙。
霧が崩れ、湿原の音が消える。
残ったのは泥の匂いと、薄い金属音だけ。
リーナが膝から崩れたリザードマンの隙をつきハンマーで確実に仕留める。
「よしっ!……しかし、防御無視、ってこういうことか」
クラウスが汗を拭う。
「魔法をはじく結晶ごと切るとは……なんて出力だ」
ミーシャは汗ばむ手をぎゅっと握りしめる。
「レン、大丈夫?」
「活動できる範囲内だ。問題ない」
レンは軽く痺れた右腕をふりながら答える。
湿原の奥に散った結晶が、光を失って沈んでいく。
レンは振動刃の残響を感じながら、息を吐いた。
「調査対象の討伐完了。結晶の欠片を封印筒で回収後、観測終了とする」
リーナが泥の中に落とした泥まみれの大盾を拾い上げた。
「うへぇ。なあレン。泥抜きしないでアイテムボックスに入れるとどうなる?」
「取り出すときに汚れる。洗ってくれ」とレン。
ミーシャが微笑む。
「ふふっ。…でも、まだ奥に“鳴り”が残ってる」
クラウスも頷く。
「源が別にあるということか。まだ情報が足りないな」
レンは霧の奥を見据えた。
「ああ。次は核のみを狙う。今回の対応はあくまでも緊急処置だ」
湿原の遠くで、もう一度、かすかな音が鳴った。
生き物の鼓動みたいな、残響。
静寂の歯車は誰も言葉を交わさず、来た道を戻っていた。
霧の奥では依然としてわずかに脈打っていた。
湿原の出口を抜けたとき、肺の奥がようやく現実の空気を思い出した。
重いもやの層が背後で静かに閉じる。靴底が石を踏む乾いた音が、壁で反響して戻ってくる。それだけで、生きて戻った実感があった。
泥を払いながら、レンは前方を見据える。
「尾行警戒は継続。このまま救護所区画へ」
四人は返事を省き、歩調だけで合意する。足取りは回廊の乾きに合わせて軽くなり、泥の重さが靴から剝がれていく。第九層に入る頃には、湿地の匂いの代わりに鉄と薬草の匂いが鼻腔を刺した。
救護所区画。古代の見張り塔を骨格に、白布のカーテンで仕切られた小部屋が蜂の巣のように並ぶ。符灯の冷たい光が床の石目を白く洗い、短い指示が交差する。
走るのではなく、早歩きで急ぐ。声は張らず、届く距離だけに投げる。そういうリズムで回っている現場だった。
「静寂の歯車、到着。――待っていた」
声と同時に一歩、男が前へ出る。黒髪を短く刈り、目だけが疲れ方を拒むように冴えている。副隊長、ケイン・ロウ。
「要請が届いたのか。隊長筋にはまだ上げていない。内々で進めたい」
レンは頷きすら省いた。
「搬出から入る」
四人は壁際で折りたたみ式荷車を展開する。リーナが枠を支え、クラウスがピンを落とし、ミーシャが符灯をゴム紐で留める。
カチ、カチと金具が噛み、荷台が呼吸を合わせるみたいに立ち上がった。
「無駄がないな」
ケインが口角だけで笑い、すぐに顔を引き締める。
「負傷者は三名。うち一名は重傷、負傷箇所は腹部。死者は出ていない。原因は結晶化の進んだリザードマン個体だ。…時間がない、案内する」
白布の間を抜ける。最初のベッド。若い斥候が額に汗を滲ませ、右肩は固定板。呼吸は乱れていない。
二床目。魔導士。胸に圧痕、肋骨にヒビ。
「内出血は浅い。歩かせるのは避けるが、通常搬送で問題ない」
三床目。重傷。腹部に深い切創。応急の符布が三層、血は止まっているが顔色は土気色だ。
レンは歩みを止め、半呼吸だけ沈黙する。記憶の棚が自動で開いた。
「……Cランクのリクだな」
囁きが落ちる。ケインの眉が揺れた。「知っているのか?」
「前衛。二十四。今年から“黒犬の牙”へ短期登録している」
リーナとクラウスが同時にレンを見る。ミーシャが目を瞬かせる。
「……名簿、ほんとに全部入ってるの?」
「有望枠は把握済みだ」
ケインは短く笑い、すぐ真顔に戻る。
「説明の手間が省ける。搬送対象者だ。時間がない。わかっていると思うが、くれぐれも内密に」
短いやり取りだけで、搬送が始まる。
通路を抜ける足音。湿った石を車輪がなぞるたび、水脈がかすかに鳴る。
ミーシャが先導し、段差を示す。
「前、一枚上り。右寄せで」
リーナが車輪を押し、クラウスが符布を支える。動作に無駄はない。
やがて空気が変わる。地上から来る風が、冷たく乾いて頬を撫でた。
レンが立ち止まり、短く告げる。
「ここから先、衛兵の検問はすでにギルドによる手回し済みだ」
ケインは頷く。
迷宮の出口を抜けると、眩しい光が差し込んだ。
迷宮入口前の石畳に出る。警備の衛兵が軽く敬礼するだけで通す。余計な言葉はない。
検問を抜けると白衣の一団が待っていた。教会の救護班だ。銀の十字の印を胸に、聖女直属に志願した助祭が二人、静かに歩み寄る。
レンが荷車の端を持ち上げ、短く言う。
「ここで引き渡す。処置は任せる」
助祭の一人が頷き、リクの脈を確認する。
「まだ間に合います。聖女様に診ていただきます」
リクは待機していた教会の搬送車へ、そのまま載せ替えられた。
ケインが息を吐いた。
「……助かった」
レンは視線を前に向けたまま答える。
「仕事だ」
リーナが大盾を背負い直し、ミーシャが短く礼をする。クラウスは荷車を折り畳み、符灯を外した。
ケインが最後に声をかける。
「お前たちの名は報告に残さない。だが、この借りはいつか返す」
「覚えておく」
レンはそれだけを返す。
荷車が教会の方へと運ばれていく。
石畳に残る車輪の跡を踏みながら、四人は振り返らなかった。
風が通り抜け、薬草と祈りの匂いを運ぶ。
「結晶の奴とまた会うかな」
リーナがぼそりと吐く。
「複数体いるとどうなるか。共鳴が鍵か」
レンが地図を開く。
「次は源を断つ」
教会の鐘が一度だけ鳴った。
検問での引き継ぎが終わると、荷車は王都大街を滑るように進み出した。道の左右で商人が一瞬だけ視線を上げるが、誰も声を出さない。白の印は、道を譲る合図でもあった。
教会区画。尖塔の影が石畳に長く伸び、扉の内側は涼しい香草と油の匂いが漂う。
白の間と呼ばれる治療室は、壁も床も清浄を優先した薄い灰色で、燭台の火は符灯と同じ温度の光に整えられている。担架が据えられると、助祭が符布の端をほどかずに、まず周囲の乱れた魔素を掃くように手を動かした。
「精神干渉は収まりつつあります。腹部、結晶化の進行は停止傾向」
助祭の報告に、執務用の小扉が開く。
アリアが入ってきた。
白い修道衣、透ける金髪。足音はほとんど響かない。
彼女は担架の脇に立つと、表情を変えないまま患者の顔と胸元、それから符布の綴じ目を一度だけ見た。
「状態を」
助祭が簡潔に伝える。
「第十六層湿原で受傷。腹部切創。結晶化の波形が符布越しに確認できます。出血は抑制済み」
アリアは頷き、患者へ視線を戻した。
「わかりました」
彼女は両手を胸の前で組み、ゆっくりと息を整える。
光は呼吸と同じ速さで、掌の間に集まりはじめた。
祈りの言葉は声にならない。代わりに、床に刻まれた聖環と壁の聖句が、微かな青白い反射を返す。部屋の空気が静かにそろい、燭の炎が同じ高さで揺れた。
「調律を行います。痛みは、すぐ遠のきます」
アリアの指先が符布の上に浮く。触れない。
浮いたまま、掌の光が符布を透って体内へ沈んでいく。
透明な層の中に金の微粒が現れ、砂嵐を逆巻かせるみたいに結晶の芯へ集まっては、音もなく崩れた。
冷たい霧が一度だけ立ちのぼり、部屋の匂いが少しだけ甘くなる。瘴気の残滓が分解されるときに出る短い匂いだった。
助祭が息を呑むのがわかる。
アリアは視線を落としたまま、呼吸と光の位相をずらさない。
「外へ逃げた硬化は肩甲の下と脇腹に寄っています。腹部の核だけでなく、脈に沿った細枝も溶かします」
光の層がもう一段、深くなる。
患者の喉がわずかに鳴り、強張っていた腹筋から力が抜けた。
符布の下で、結晶の線が灰に変わり、灰がさらに砂に砕けて、血に混ざらず消えていく。
床の聖環がほんの少しだけ明るくなり、すぐに元の色へ戻った。
「呼吸、どうですか」
助祭が耳を寄せる。
「深く、一定に。乱れはありません」
アリアは手を離し、掌の光を絞り込んで傷の周囲に薄い膜を置いた。
「肉体は戻りました。魂も平均域へ。しばらく眠れば、揺り返しは出ません」
患者の眉間の皺がほどけ、頬に血色が戻る。
目蓋がわずかに開き、焦点の合わない視線が天井の聖句をなぞる。
言葉にならない息が、空気を撫でただけで消えた。
アリアは静かな声で言う。
「あなたは助かります。ここは安全です。今は眠ってください」
その短い言葉が、落ち着いた水面に落ちる小石みたいに、患者の意識に輪を広げたのがわかった。
呼吸はさらに穏やかになる。掌の光は消え、残ったのは透明な温度だけだ。
助祭が符布を新しいものに交換し、固定を簡易の包帯に切り替える。
赤かった布はもう色を吸わない。粒は残っていない。
アリアは片手で短く祝別の印を切り、記録板に二行だけ書き付けた。
「処置完了。結晶性干渉の消滅を確認。経過観察が必要」
助祭が深く礼をする。
「報せはどう取り計らいましょうか」
「ギルドには“治癒完了、意識回復見込み”だけで伝えてください。詳細経過は後ほど文書で」
「はっ」
アリアは最後に患者の額へ手をかざし、微かな温度差を確認すると、静かに一礼して歩を退いた。
扉が閉じ、足音が遠のく。〈白の間〉には、規則正しい寝息と、燭台の小さな燃える音だけが残る。
本来であれば窓の外で鐘が鳴る時間、しかしまだなることはなかった。アリアは静かに外を見る。
黄昏は終わり、夜の端が薄く差し込む。
結晶はどこにもなく、残っているのは、澄んだ呼吸と、静かな光の余韻だった。
黒曜石の窓の前で、影が人の形を結んだ。
揺らぎは一息で収まり、痩せた輪郭が床に膝をつく。
「……戻りました」
扉は開いていない。燭火は風を拾っていない。いつも突然現れる。
シャダはヴァロワ伯爵にとって最大の駒でありながらも秘匿するための処置だ。
書斎はそういう場所としての認識だった。
ヴァロワ伯爵は書類の角を合わせ、視線だけを影へ落とした。
「結果は?」
「第十六層、監視を看破され妨害を断念。対象“静寂の歯車”は予定外の戻り線を取り、第十層付近で視界から外されました。以後は地上導線にて監視を継続」
「断念した理由は?」
「斥候。ミーシャ」
影の声は削った金属のように平坦だ。
「探索感知が規格外。隠密行動下で潜伏を捕捉。分身側の気配も感知されました」
伯爵の眉がわずかに動く。
「まさか…視られたのか」
「はい。本体の隠蔽まで届いた可能性があります。何らかの能力を所有しているかと」
沈黙が一拍。古い柱時計の音だけが響く。
「リーダーは?」
「ほぼ時間差のない異常な対応でした。指示は最小、合図は視線と呼吸。符は未使用。経験則、戦闘記憶の積算からの反射、ギルドの登録情報とは乖離し過ぎています。また、ゾルディの情報よりも上方修正かと」
伯爵は肘掛けを軽く叩いた。
「想定より早いか。静かに運ぶつもりだったが、玩具たちは最初から噛み合っているらしい」
シャダは言葉を継がない。
沈黙は拒絶ではなく、仕事の形だ。
「ワイバーンの件しかり、失敗の責を問う気はない」
伯爵は言った。
「お前は規格外に遭遇しただけだ。次に生かせ」
「御意」
「レン・ヴェリタスとミーシャ、いや、ミーシャ・アップルブルームか。ギルド登録以前の足跡を洗え。公的帳簿、私的記録、教導筋、雇用、出入り。“名簿に残らぬ名”の線まで追う」
「外郭から内へ。古書院、学舎、工匠筋、また引き続き情報屋ゾルディの経路を当たります」
「ああ。わかっていると思うが、絶対にリューネ・グレイヴの棚には触れるな。あれは禁忌だ」
伯爵の声はそこで少しだけ低くなった。
「嗅ぎつかれれば、こちらの記憶が灰になる」
「承知」
伯爵は書類を閉じ、別の束へ指を滑らせる。
「教会の“奇跡”は確認したか」
「第九層から地上搬送後、教会の〈白の間〉で処置。結晶干渉は消失。聖女は流れだけ戻しています。文字通り奇跡かと」
「なら良い。人心は動く。聖女は直接触るな。監視だけで十分だ」
「承知」
燭台の火が同じ高さで揺れ、影の縁が一瞬だけ薄くなる。
シャダは、膝をついたまま僅かに頭を垂れた。
「補足。ミーシャの感知は環境依存の鈍りが少ない。おそらくですがノイズ上でも一定の精度を維持。レンはその起伏に合わせて行動を前取りする。偶然の組み合わせではなく、長期の相互適応かと」
伯爵は口角だけで笑った。
「ならば、過去に答えがある。二人はどこで噛み合った。誰が歯を研いだ」
机上の鈴を指で弾く。
「期限は市日までひと回り。痕跡は残すな」
「御意」
影は立ち上がり、蝋の炎の外側へ滲む。輪郭は壁の継ぎ目に吸われ、足音は最後まで生まれない。
部屋に残ったのは紙の匂いと、伯爵の指先が机を叩く微かな規則性だけだ。
「……歯車は静かだ。なら、こちらが音を聴く番だ」
伯爵は視線を落とし、封蝋に古い印が押された報告書を一番上に置き替えた。




