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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第1章:Bランクの日常と歪な契約
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第1話『忘れられた回廊』②

苔光の揺らぎは次第に弱まり、通路の奥へ進むほどに冷気が増していく。


岩壁を伝う水滴の音もまばらになり、湿った匂いの中に鉄錆のような刺激臭が混じり始めた。


レンが短く指を倒す。前進の合図。三つの影が音もなく闇に溶け、足音すら抑え込む。


数十歩ほど進んだとき、通路の床がかすかに息をした。


膨らみ、沈む。ミーシャが即座に停止の合図を送る。


「……前方に三つ。床と左右の壁。同じ周期で魔素が吸い込まれてる。奥に……なにかある」


湿った空気がきしむ。レンの眼には、空間の骨格が透けて見える。


ワイヤーフレームのように浮かび上がる三点。


心臓の鼓動より遅い間隔で、黒い染みが規則正しくふくらんではしぼむ。


レンは無言で指先を動かし、クラウスに情報を渡す。


「古代エーテリオンの自律式防衛術式。三点同期型の殲滅罠。再起動する仕様だ。解除が必要だな」


クラウスの声は低い。


「同期を崩せれば破壊できる」


レンはアイテムボックスから小麦粉の入った袋の口を開け、軽く散らした。掌の内側に、もう一つの空間を触れたが、誰にも見せない。


粉が床と壁の継ぎ目へ吸い寄せられ、細い線を描く。


「観測符を貼る」


クラウスが薄紙を石床に置く。符の光が脈の強弱だけを静かに示した。


「動きが揃う瞬間が来る。合図を出す」


「そこで噛み外す」


レンは結界符を三枚。リーナの大盾に一枚、床の目地に一枚、残りをミーシャの矢へ。


「間を三秒。盾、床、矢の順で行く。吸い込みの向きを少しずつズラして境目を二重にし、最後の矢で息の根を断つ」


合図。吸い込みが強くなった刹那、リーナが大盾の縁で床を叩き、結界符を斜めに起こす。


見えない板が流れに楔を打ち、線がたわむ。


ほんの一息遅れて、レンが床の目地へ符を滑り込ませる。


境目が二重になって吸い込みがたわむ。


最後にミーシャの矢が壁で弾け、結界の薄膜が三点を一瞬だけつなぐ。


揃っていた動きがほどけた。短い悲鳴。青白い線がほどけ、吸い込みは止まる。


「停止」


クラウスが観測符をはがす。


「戻る気配はない」


ミーシャは小さく眉を寄せ、しゃがみ込んだ。


「……遺品。まだ錆びていない。それほど経ってない」


彼女は手袋越しに柄を撫で、硬直した革の感触を確かめる。


「ここを通った冒険者が、術式にやられて……影になった可能性がある」


レンは静かに頷く。


(罠や同期基準が近い場合、影化の確率が上がる)


クラウスへ視線を向け、「調査」


クラウスは遺品を細かく読み取った。


「魔力が高いものほど影ができやすいが…」


空気が急に冷え込む。声も足音もないのに、敵意だけが押し寄せてきた。


「来るぞ」レンの言葉と同時に、三人が円陣を組む。


リーナが前に出て、大盾を叩きつけるように掲げた。鉄板が鳴り、重い残響が通路に轟く。


「こっちだ……!化け物ども!」


挑発するような咆哮とともに彼女は敵意を一身に受け止める。


冷気が渦を巻き、影が三方から姿を現した。


人型を歪めた黒いもや。顔もなく、ただ残滓だけを形を持った存在。


鎧や布切れが不自然にまとわりつき、生前の装備の断片を思わせた。


クラウスが光を放つ。稲妻のように走る魔力が空気を裂き、影の一体を弾く。


しかし、もやは即座に形を取り戻し、リーナに殺到する。


大盾と影がぶつかり、軋む音が響いた。


「核を狙え!」


リーナが吠える。大盾で影の進行を止めつつ、全身で圧力を押し返す。


レンの声が落ちた。


「囮はリーナ。光を重ねろ。核を撃ち抜け。三秒後、仕留める」


ミーシャは唇を噛み、影の動きを見極めた。冷たい汗が頬を伝う。


影の胸部がわずかに揺れ、そこに濃縮した黒がうごめいている。核だ。


「……今」


彼女は地を蹴り、影の死角へ滑り込む。


矢筒から引き抜いたのは、光を裂くように加工された閃光矢だった。


リーナが怒声を上げ、影の注意を正面に引きつける。


その一瞬の隙を逃さず、ミーシャは弦を鳴らす。


閃光矢が一直線に飛び、影の胸奥――核に突き刺さった。


黒いもやが震え、断末魔のような悲鳴を上げると同時に、闇の肉体が一気に霧散していく。


静寂。滴る水音だけが残る。


リーナが荒い呼吸を吐き、大盾を下ろす。


「……安らかに…」


クラウスは答えず、眉間に皺を寄せていた。影が遺した断片を解析している。


だが、言葉にはせず思考の奥に沈める。


ミーシャは弓を下ろし、残滓の漂う床に視線を落とした。


かがみ込み、砕けた革の欠片に指先を添える。


ひどく冷たいはずなのに、ミーシャの目にはかすかな温もりが残っていた。


唇が震え、彼女の声は囁きのように漏れる。


「魂の残り火が、まだここに縛られてたんだ。これで成仏できたかな」


鼻をすんと鳴らし、ミーシャは短く息を吐いた。


影の成れの果てが、ただの魔物ではなく、かつてこの道を歩いた冒険者の断片であることを突きつけられたのだった。


レンは残滓を振り払い、感情を閉ざしたまま短く告げる。


「進む」


三つの影は再び無言で闇に溶け、通路の奥へと歩を進めた。


息を殺すたび、湿気を含んだ冷たい空気が肺にまとわりつく。


やがて視界は開け、そこには巨大な球状のドームが広がっていた。


黒曜石の天井が、わずかな光を拾って逆さまの星空のように瞬いていた。


中央には一本の石碑。黒い巨塊に刻まれた古代文字が、青白い光を鼓動のように放っている。

ミーシャが小さく声を漏らした。


「……泣いてる。すごく悲しい声がする」


彼女の目には、光ではなく呻きが映っていた。


押し殺した嗚咽が骨の奥にまで染み込み、呼吸を乱す。額には冷たい汗が浮かび、指先はかすかに震えていた。


リーナはすぐに異常を察した。


(ミーシャがこれほど苦しむなんて……ただの石碑じゃない。間違いなく何かが潜んでる)


彼女は大盾を上げ、視線を逸らさず全神経を集中させる。


一方、クラウスの瞳には探求の光が宿っていた。


「保存状態が異常に良い……石材の劣化も、文字の摩耗もない。まるで時間が止められているかのようだ」


巡礼者のように石碑へ歩み寄り、彼は指先で空中に浮かぶ古代文字を追った。


「これは……確かにエーテリオン語……!一部は崩れているが、解読できる……」


声は震え、瞳の奥には陶酔に揺れていた。


その中でレンは一歩も動かず、ただ静かに観測していた。


脳裏に依頼の概要が浮かぶ。第十二層における異常反応の調査。


制圧は不要。危険を察知すれば撤退もやむなし。契約上、答えは明白だった。


クラウスの声が興奮で震える。


「見ろ、これを! 一節はこうだ……『星気、飽和す。封鎖は塞ぎにあらず、流し直すこと要す』」


「要するに、溜まりすぎた魔素をただ封じるんじゃなくて、どこかへ流し直せって話だ。……こんなの、完全に実験設備だぞ」


リーナは叫びかけたが、喉で言葉が止まった。


ミーシャの顔が苦痛に歪み、胸を押さえているのを見て、ただ直感だけが警鐘を鳴らしていた。


(私が何を言っても、クラウスは止まらない。今の彼には届かない)


クラウスは足元も見ずに碑文だけを追い、指先で文字をなぞりながら次の行を貪る。

周囲も、仲間の顔色も、もう目に入っていない。


「『数の手では足らぬとき、一つの手が鼓動を計り…くそっ読めない…その手はあらゆるものを浄化する』……!信じられるか?古代エーテリオンで何かの実験をしていたのだ!定説が崩れるぞ!」


その瞬間、石碑が心臓のように脈打った。青白い光が一度だけ強く瞬き、次の拍で赤へと反転する。


ドーム全体が血に浸したような色に染まり、地の底で何か巨大なものが寝返りを打つ音がした。


ミーシャは呻き声を漏らし、頭を抱えた。


「やめて……聞こえる……山みたいな何かが、目を覚まそうとしてる……」


涙が滲み、膝が崩れそうになる。


レンは彼女の姿を視界に収めながら、未来を計算した。


赤黒く脈動する石碑。迫りくる追体験の悪夢。


もし誰かが折れれば、またあの地獄を味わうことになる。


すでにミーシャの苦しみがレンにも伝わりかけていた。


わずかな痛みでも脈動が早くなる。


結論は一つ。即時撤退。


「撤退だ」


冷たい声に、クラウスが顔を真っ赤にし、怒声を返す。


「待て!封印はまだ維持されている!もう少し時間をくれれば、この謎を完全に…」


しかしレンの横一文字の合図が、その言葉を断ち切った。


クラウスは息を呑み、拳を握りしめた。頭の奥で、レンの言葉が蘇る。


(全員の安全を保証する。その代わり、君たちは僕の指揮に絶対服従する。唯一のルール)


歯を食いしばり、理性を総動員させ彼は踵を返した。未練と渇望を胸に押し込めながら。


リーナはその背を見て、胸の奥で重い息を吐いた。


(やっぱり……これは私が何を言っても止まらなかったな。結局、クラウスを退かせるのはレンの一言だけ……)


その事実に守られた安心感と、戦士としての誇りを削られる苛立ち。


両方が入り交じり、胸を締め付けた。


ミーシャは涙を拭う余裕もなく、ふらつきながら撤退路へ駆け出した。


魂の耳に響く嗚咽は、まだ消えない。


赤黒く脈動する石碑を背に、四人は無言で引き返した。


回廊に戻ると、通路の湿気がいつもの重さに戻る。


重苦しい空気が肺を圧迫するが、あの圧倒的な絶望は遠ざかっていた。


レンは歩調を乱さず、内側で淡々と確認する。


(負傷者ゼロ。トリガー未作動。システムは機能)


防波堤の向こうで、過去の亡霊はまだ沈まない。だが、それでいい。


歯車を定義し、歯車を守る。自分の魂を守るためであっても、結果は同じだ。


——全員、必ず帰す。今日も、明日も。


彼は前を向き、短く告げた。


「帰還する」


三つの影がまた、彼の背中を追った。

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