第9話 沈黙の統治 ①
沈黙の森の帰還から三日後、王都は異様な静けさに包まれていた。
その夜、王都アステリアは息を潜めていた。
鐘楼は黙し、衛兵の鎧の音すら鈍い。街灯は半分に減らされ、風の通う塔の隙間は封じられている。
――戒厳令。
名目は「導管の定期点検」。だが実際は、沈黙の森の報告を封じるための非常措置だった。
市民は理由を知らない。
ギルドの報告書は再提出を命じられ、発言には守秘前提だけでない誓約印も押された。宰相派の命令によって、事実は沈黙として処理された。
王宮の宰相派会議室。
高天井の石造り。燭台は必要最低限。壁にかかる王国旗さえ沈んで見える。
冷えた空気の中で、宰相バルトロメウスは書簡の束を机に置き、抑揚のない声で言い放った。
「沈黙の森で発生した異常は、導管網の一部に酷似している。だが王都の導管とは繋がっていない。それでも民は導管という響きだけで怯える。王都の心臓が腐ったと騒ぎ立て、誰かを吊るし上げねば安心できぬ生き物だ。ゆえに戒厳令は、真実を隠すためではない。――民の恐怖を鎮めるための防波堤だ。」
重々しい沈黙が室内に落ちる。
宰相は視線を巡らせ、各局の長たちを一人ずつ射抜く。
「ギルドは法の外にある。ゆえに、国家の監督権を及ぼす唯一の手段が戒厳令だ。王国の義務は自由ではない。秩序を守ることだ。民は混乱より安定を望む。我々は沈黙をもって国家を守る」
筆記官が急ぎ羽根ペンを走らせる。
バルトロメウスは続けた。
「結晶化という語は使うな。民はその響きで病を連想する。報告書では局所的な魔素乱流と書け」
軍務局長が顔を上げる。
「沈黙の森の追加測量報告、ギルド側の初稿がまだ――」
「なら封鎖しろ」
宰相は間髪を入れず言った。
「彼らは法の外にあるが、流通する情報は我々が選べる」
ヴァロワ伯爵が冷ややかに笑む。
「通行管理を絞れば、市門の出入りすら制限できます。鎖を掛けるのは容易でしょう」
「良い」
宰相は頷く。
「封じるべきは口ではなく、波紋だ」
火皿の蝋が弾け、音だけが響く。
宰相は視線を伏せずに言葉を継いだ。
「民には地脈の乱れによる一時的変動として公表せよ。恐怖には理屈を与えろ。理屈を与えれば人は信じる。理屈を奪えば、人は神に縋る。信仰は理性の敵だ」
一瞬の間を置き、ヴァロワが小さく笑った。
「真実を隠すより、美しく整える方が人は喜びますからな」
バルトロメウスの唇がわずかに動いた。
「信仰も理想も、秩序を乱すなら病だ。国家の命脈を守る薬は、沈黙ただ一つ」
誰も異を唱えなかった。
机の上に置かれた最後の報告書――リザードマンの結晶化個体、ダンジョン下層から上昇中につき要警戒――に宰相は一瞥をくれると、静かに閉じた。
「それも報告不要とする。民が変異と聞けば希望にすがる。…異常を語るより、平穏を演出する方が国家は長生きする」
その声は炎のような熱もなく、氷のような慈悲もなかった。ただ、正義を冷却した結果としての統治者の声音だった。
王子派私室にて
東棟の書庫にだけ灯りが残っていた。王子ユリウスは地図を広げ、沈黙の森の印を指でなぞる。
「宰相は報告を止めた。森の異常は、導管の逆流と繋がっている。それを認めれば王国の基盤が揺らぐ……だから封じた」
彼の声は掠れていた。
周囲に控える若い貴族たちは沈黙し、誰も動けない。戒厳令下で兵権は凍結、議会は閉ざされている。王子派ができるのは、言葉を交わすことだけだった。
扉の奥から静かな足音が近づく。
金糸の髪が灯火を受けて揺れた。
「……お探しの地図を」
聖女アリアが書簡を差し出した。彼女の表情には疲労と焦りが混じっている。
「ありがとう、アリア」
ユリウスは受け取りながら視線を逸らした。
「……君の力を頼りたいが、今は駄目だ。宰相が教会に監視をつけた」
アリアは目を伏せ、手元の書簡を強く握りしめる。
赤い印で記された一語、保留。通行証の申請は、また却下されていた。
「……深淵の迷宮に行きたいのではありません」
彼女は静かに言った。
「行ったこともありませんし、何が起きているかも分かりません。ただ、苦しんでいる人がいるなら、助けたいだけです」
ユリウスの眉がわずかに動く。
「その言葉を政治家の前で言えば、信仰の越権だと糾弾される理由になる」
「救いを口にするのが罪なら、わたしは喜んで罪人になります」
アリアの声は穏やかだが、芯に熱を宿していた。
老修道女アグネスがそっと進み出る。
「殿下、聖女を止めても意味はありません。彼女は祈りでなく技術としての癒やしを探しています。魂の調律を、誰にでも行える術に」
「術として?」
ユリウスが顔を上げた。
「ええ。宰相が情報を閉ざすなら、我々は証拠で開くのです。癒やしが実在することを証明できれば、民は耳を塞げません。彼らは真実より結果を信じますから」
沈黙が落ちた。ユリウスは地図を巻き取り、ゆっくりと息を吐いた。
「……静寂の歯車が南湿原の観測任務に入る。彼らの報告が届けば、すべての論理が繋がる。アリア、君は教会経由で写しを入手してくれ。ギルドは宰相の命令を受けない」
「……はい」
アリアは頷いた。
「その記録を聖堂の研究報告として公表する。宗教文書なら、検閲はできない。政治の外から真実を出す」
アグネスが微笑を浮かべた。
「殿下、あなたもずいぶん狡猾になられました」
「沈黙に勝つには、声より記録が要る。なにより、苦しんでいる民がいるのに放ってはおけない」
ユリウスは苦く笑う。
アリアは胸に手を当てた。
「ならば、証を見つけます。祈りではなく、結果で」
王宮回廊
会談を終え、アリアはひとり王宮の回廊を歩いていた。
夜気は澄み、月が大理石の床に淡い光を落としている。
長く伸びた影が、ひとつ分かれて二つになる。
黒衣の男、ヴァロワ伯爵。
冷えた笑みを口元に浮かべ、一定の距離を保ったまま並んで歩いた。
「聖女殿。夜更けの散歩とは優雅なご趣味だ」
「息をしているだけです。夜の方が、毒が薄いので」
「なるほど。だが王都の空気は、毒ほどに甘い。清らかな者ほど酔いやすい」
アリアは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「――その毒を調合しているのは、あなたでは?」
伯爵は目を細め、喉の奥で笑った。
「私は薬師ではなく政治家ですよ。毒も薬も、分量次第で役に立つ」
視線がすれ違う。氷のように静かな空気が一瞬張りつめた。
やがてヴァロワは、わずかに首を傾けて言った。
「陛下も宰相も、貴女の祈りを重く見ておられる。言葉は剣より鋭い。貴女の光が、国の均衡を崩さぬよう我々は願うばかりです」
「それが忠告ですか、脅しですか」
「いかようにも」
彼は軽く一礼し、踵を返す。
「では、私はこのまま参ります。沈黙こそ秩序の友ですから」
月の光が彼の背を照らし、長い影が柱の間に消えていった。
アリアはその背を見送り、ひとつだけ深く息を吐く。
「……たとえ毒でも、呼吸を止めるわけにはいきません」
目を上げれば、遠く封鎖された迷宮の門が見えた。
その奥、青白い光が脈を打つ。
夜の王都は、眠ったまま動かない巨大な心臓のように静まり返っていた。
回廊を離れたヴァロワ伯爵は、自分の屋敷に戻った。
扉の影から現れたのは、貌無しの暗殺者シャダ。
「ご命令を」
「聖女殿には、監視を。あれはすでに目覚めている。絶対に直接手は出すな。……聖女の祈りがどれほど人心を動かすか、確かめたい」
シャダは無言で頭を垂れる。
伯爵は杯に愛飲している南方アル=ケム首長国から取り寄せた葡萄酒を注ぎながら続けた。
「それと、導管の件――流れを変えろ。調査に介入する者たちを偶然減らす。静寂の歯車にも一石を投じておけ。ワイバーンの時よりも確実な一手を投じておけ」
「承知しました」
影が消える。
しばらくして、部屋の奥からもう一人の影が現れた。
まだ若い男。整った顔立ちに理知の光を宿し、父に似た笑みを浮かべる。
「父上、随分と愉快そうですね」
「政治とは盤上の遊戯だ。駒がよく動く夜は、実に気分がいい」
「アリア殿との婚約の話、承知しております。ですが、あの方は光です。光を遮れば、民が眩暈を起こす」
「ほう……随分と詩的な言い回しだな」
「影は光に寄り添うことで形を得ます。私がその影となりましょう」
ヴァロワはしばし息子を見つめ、静かに笑った。
「良い。私のように陰に隠れるのではなく、己のやり方で仕えよ。国のために――そして己の野心のために」
青年は一礼し、背を向けた。
その姿は父よりも冷静で、危ういほど静謐だった。
救護所の報告がギルド本部へ届いたのは、前日の昼前だった。
使者は泥と血の匂いを背負い、書簡筒を抱えたまま、受付台に身を投げるように突っ伏した。
受け取った受付が慌てて使者を介抱している中、近くにいたエララは無言で書簡を受け取り、封蝋の刻印と符の配列を確かめる。戒厳印。救護所直送。転写痕なし。
…十分だ。彼女は短く礼を返すと、最上階へ続く石段を上がった。乾きかけの恐怖が、紙のざらつきに染みている気がした。
二階、管理局。鉄扉を叩く。
「入れ」
ギルドマスター、アイゼン・ジェラルト。
机の向こうには副ギルドマスター、レナ・シルヴァナス。二人の視線が封書に落ちる。
「第九層救護所より、戒厳下報告です。緊急観測事案――と付記されています」
レナが眉をわずかに動かす。
「戒厳下なら、外部報告は遮断のはず。経路は?」
「副隊長ケイン・ロウ。救護所の符経由で、旧式の中継符を使っています。……非公式です」
ジェラルトの口端が、疲れた笑いにも似て上がった。
「命令違反だが、良い報告は往々にして違反から来る。封をあけなさい」
封符が解かれた。文は短く、必要なことしか書かれていない。
『十六層南湿原にて結晶化リザードマン初確認。中層域の発見は未記録。鳴動時、共鳴音あり。救護所へ搬入三名。うち一名、結晶症初期徴候。至急救護を求む』
レナの瞳が細くなる。
「十六層で、結晶化……森の系統との関連も調べねばなりませんね」
「しかも共鳴音か」
アイゼンが低く言う。
本来なら窓の外で、鐘が正午を告げる時間帯。しかし、戒厳令下で鐘はならず市場の喧噪も静かであった。
「王国側はこれを掴んでいるか?」
「いいえ。戒厳令で救護所は監視下ですが、この情報はおそらく把握されていません。宰相派が望む沈黙には含めたくない類です」
「なら、先に動く。政治に邪魔される前に」
アイゼンは報告を机に置き、指で軽く叩いた。
「討伐命令は出さない。観測だ。ただし――条件が揃えば討伐許可に切り替える」
レナは即座に文言を組み立て始める。
「目的は結晶化個体の確認。目標は脅威度評価と帰還途上で救護所から負傷者を回収し、地上まで後送」
「討伐の条件を明文化しておけ」
アイゼンが続ける。
「撤退および救護所の退避路に干渉する場合を追加」
レナが頷く。
「観測装備は通常の測定器に加えて、念のため結晶核試料回収用に封印筒を二本」
「貸出記録は定期点検にしておけ」
レナは短い笑みを落とす。
「政治に刺激を与えない名前が現場を通す鍵というわけですね」
「名前が柔らかければ、刃も鞘に見える。定期点検なら宰相派もチェック漏れを起こすだろう」
エララは二人のやり取りを聞きながら、紙の重みを持ち直した。静寂の歯車が沈黙の森から帰還した時と同じ匂いがする。
あの時も任務名は観測だった。だが、あの時は静寂の歯車が帰ってきた後だったが。
「対象パーティは?」
レナが形式上の問いを置く。
「静寂の歯車以外に誰がいる。余計な音を立てず、必要なものだけを異常な精度で拾ってくる」
「あの沈黙の森の調査から帰還してあまり間がありません。休息をとらせるべきでは?」
「承知の上で選ぶ。あの調査力と知識量が今は必須だ。機密案件として報酬も弾ませろ」
短い沈黙。レナは羽根ペンを走らせ、正式文言を整える。
やがて、赤い封蝋が押された。エララは書面を受け取り、一礼して踵を返す。
「静寂の歯車が見かけたらエララに連絡。専任のエララから直接、レン・ヴェリタスへ」
「承りました」
受付から合図があり石段を降りると、いつもの喧噪が広間を満たしていた。若い冒険者の笑い声、酒場のマグの触れ合う音、掲示板の前でもめる怒鳴り合い。
それらすべての中に、ごく狭い空白が生まれる瞬間がある。一流と言われる冒険者が入ってきた時だ。
黒髪の青年を先頭に、盾を背負う小柄な女戦士、長耳の魔導士、小柄の弓使い。
静寂の歯車。その通り名は、人々の心の中で今や一種の符号だった。彼らの名はすでに多くの冒険者に知れ渡り、付近の静寂とは裏腹に心の中をざわつかせていた。
ギルド広間。ギルド職員から連絡を受けたエララはカウンターに出ると、短く礼をとった。
「静寂の歯車の皆さま。機密指定です。小会議室へご案内します」
彼女は余計な言葉を挟まず、封蝋の押された筒を抱えたまま廊下を進む。扉が閉まると、室内の結界が落ち着いた光を走らせた。
「ここからは私が説明しよう」
淡い銀の瞳を持つ女性が卓の端に立っていた。副ギルドマスター、レナ・シルヴァナス。彼女は封筒をレンの前に置き、紐を解く合図だけを送る。
「新規任務。観測指定――第十六層南湿原。リザードマン結晶化個体の調査。条件が整えば限定的討伐を許可します。また、帰還経路で救護所から負傷者を回収してください」
レンが封を切る。灰色の瞳が文字を辿り、ほんの一拍、息を細く吐いた。
「観測。……名前は柔らかいが、中身はだいぶ固い」
リーナが肩をすくめる。
「沼か。もともと下層域にいたリザードマン相手に見るだけは、なかなか難易度が高いな」
レナは頷き、卓上にもう一枚の薄紙を置いた。
「併せて共有しますが下層域にてリザードマン群の挙動に異常が出ている状況です。詳細の調査はギルド直轄の指示下、責任者は私が行います。今回の任務は結晶化リザードマンの観測が主ですが、変異と結び付く可能性は否定できません。報告は私に直送し口外は厳禁です」
「了解した」
レンは記録板を軽く叩く。
「準備に入る。装備は通常観測に追加をかける」
彼は指を折って並べた。
「一、測定器は迷宮仕様で校正済みのもの。二、封印筒は予備を含め二本。三、負傷者は組み立て式の荷車を使用する」
クラウスが頷く。
「測定は結晶面の層流だけ拾う。詠唱は短縮系を用意する」
「実際の泥の深さと歩きにくさは私が盾で確認する」
リーナが大盾の革紐を握り直した。
「沼で足を止めない。動くわよ」
ミーシャは小さく手を上げる。
「矢は念のため割り矢を多めに用意するね」
レンは頷き、さらに淡々と続ける。
「交戦規定を確認。討伐許可の条件は退避路干渉。討伐時は核を撃つ。矢は割り矢を使う。割り矢で表層を剥いで核を露出させ、クラウスの貫通で貫く。魔法が使えない場合は短剣で対応」
「救護所の負傷者回収は?」
リーナが問う。
「帰還時に九層救護所で三名のうち一名が対象。対象は結晶症初期。搬送は接触制限。担架として折りたたみ式荷車を使う。結晶症の接触は精神疲弊を招く。ミーシャ、荷車に不具合がないか事前に確認」
「わかった」
ミーシャが短く答える。
「報告形式は通常通り。書きぶりは指定通り導管の定期検査に合わせる。政治を刺激しない」
クラウスが皮肉げに笑う。
「言葉の化粧は必要悪だ。だが化粧の下に真実を入れるのが最近増えたな」
エララは小声で告げた。
「南門の検問が厳しくなっています。宰相派の巡視が増えました。出発枠は二本。七時と八時。……八時は王都警邏の交代で混みます」
「…なら明日の七時に出る」
レンは即答し、記録板にチェックを入れた。
レンはレナに向き直る。
「今回の調査での監視者はいらない。調査の邪魔になる可能性が高い。それに、仮に逃げ遅れても無視する」
レナは最後に一瞥をくれた。
「…わかったわ。今回は結果を持ち帰ること。それが最優先でかまいません」
「ご無事で」エララは言った。職務上の定型句。だが祈りの分量は、定型を超えていた。
扉が開き、結界の光が静かに消える。四人は無言で立ち上がり、出発に向けて散った。
エララは静かに見えなくなるまで見送っていた。
翌朝、装備庫の前。
湿った石壁に、鉄と革の匂いが濃く漂う。棚には封印筒や符具が整然と並び、工匠の小さな刻印がひとつひとつに刻まれている。
クラウスが測定器を手に持つ。
「良い品だ、導管調査の一件で借りやすくなって助かる。これでレンが古代の調査も許可してくれればもっといいんだが」
リーナは大盾を台に伏せ、縁に泥抜き楔を打ち込んだ箇所のチェックを行っていた。
「沼は引く。引かれたら押すな、捻って抜く。昔、湿地のオークの盾を見て学んだやつさ」
レンは各自の装備を黙って点検する。留め具、角度、重量、予備。アイテムボックスへ送る順序、取り出す手の癖。
視線は必要以上に長く留まらない。だが一度視たものは、彼の中で手順になる。
「最後に遮断の確認をする。俺が合図したら、三秒だけ遮る。遮ったら、必ず戻す。戻せない状況なら、遮る前の時間も加えて合図する」
リーナが頷く。
「三秒だけ。欲張るな、だね」
クラウスが指先で杖を撫でる。
「レンの遮断は甘い毒だ。精神が正常に戻るが視界も見えなくなる。長時間は復帰するのに時間がかかり致命傷にもなるうる。三秒で十分だ」
ミーシャは細く笑った。「三秒の静けさで、心を整える。……それで十分」
レンは懐中時計の針を見た。
「六時半。移動は最短。補給は荷車用のオイルを一本追加。魔法が通じない可能性を想定し短剣は多めに持つ」
「了解」
三つの声が重なった。
確認を行っているとエララが装備庫の戸口に現れる。
「南門の出発枠、七時の旅券になります。出立書には導管定期検査と記載。……王宮の検閲印は、今のところ不要です」
「助かった」
レンが短く告げる。
エララは一歩踏み込み、四人を見渡した。
「救護所の回収指定、追加が出るかもしれません。戒厳令下で搬送路が変わる可能性があります」
「わかった」レン。
短い段取りが積み上がっていく。
その積み重ねこそが、彼らの沈黙だ。声が少なくても、準備は多い。
準備をしているとギルドの大幹部、アイゼンとレナが装備庫へ顔を出した。
「レナからもあったと思うが討伐を欲張るな。討伐は手段であって目的ではない。目的はわかることと帰ることだ」
レンは頷いた。
「目的に帰還も含まれている」
レナが続ける。
「報告書の第一行は観測の限界から始めなさい。限界を記せば、政治はそれ以上踏み込めない。あなたたちの安全が、文章の中にも必要です」
「了解」
クラウスが書記板を掲げる。
「限界の定義は、科学の第一歩だ」
アイゼンはわずかに笑うと、踵を返した。
「静かに行け」
エララは戸口に残り、四人を見送る姿勢のまま、息を整えた。
「……必ず戻ってきてください」
レンは返事をしない。だが記録板の片隅に、小さな点を打った。
祈りの印。彼が唯一、手順の外に置くもの。
時計の針が、七時の少し前を指した。
四人は装備を締め、鞘を直し、紐を確かめ、視線で合図を交わす。歩き出す前の、長い一拍。
扉の向こうに、迷宮へ降る階段が口を開けていた。
第十六層までは最短経路で移動した。道中通常の魔物はいたがイレギュラーに遭遇することもなく、順調だった。経路から逸れた救護所へは行かず、戻りによることは事前に打ち合わせされていた。
第十六層南湿原、迷宮の中層としては、異様なほど湿り気を帯びた地帯だ。
岩肌の間を濁った水が這い、地底湖のような薄もやが腰の高さまで流れている。
苔が発光し、光が空気の粒に散る。昼も夜もない。
ただ静けさだけが濃く沈んでいた。
静寂の歯車は湿原の入口に立ち、装備を各々が確認していた。
レンが記録板を起動し、手の中の懐中時計で時間を確認しつつ、クラウスが測定器で付近を調査する。魔素流速、濁度の数値がぶれる。
「……変動幅、予想より大きいな」
クラウスが持つ測定器の針が細かく震えた。
「この上下は、普通の流れじゃない。圧の波が逆転してる」
リーナが泥を踏みながら問う。
「逆流ってことか?」
「そうだ。魔素が地面に沈んでいくんじゃなく、下から押し返されている。この状況は沈黙の森の反響波に酷似している」
レンは頷いた。
「位置を測る。三分後に再観測」
ミーシャは湿原の奥を見つめ、眉を寄せた。
「……音が、薄い」
「薄い?」
「普通なら、水の流れや羽音がある。でも……何も聞こえづらい。音が吸われてる。まるでここだけ、生きてないみたい」
ミーシャが前を行き、次の瞬間、軽く息を詰めた。
指先がわずかに動き、隊列が止まる。
「……レン。三十歩先。光が揺れてる。覆われてるみたい」
声は小さかったが、湿原全体を震わせるには十分だった。
レンは歩を止め、霧の奥に意識を向ける。
視線は動かさず、空間の密度と音の反射、泥の流動を即座に解析する。
三十歩先――空気の密度が微かに違う。
風もないのに、何かが存在していた。
(30m前、空間に異常か。闇魔法による遮蔽。索敵範囲を探られているなら厄介だ。しかし…)
低い声が湿原を切る。
「そこにいるもの。立入制限区域だ。名と所属を言え」
霧の奥が揺れ、静かに一人の男が現れた。
灰色の外套、泥のついた長靴、旅人用の符袋。
金髪碧眼の熟練した冒険者、外見自体はただの冒険者だった。
「警告とは穏やかじゃないな」
男は穏やかに笑い、肩を竦めた。
「ここ最近ダンジョン内が騒がしいだろ?少し気になってね」
レンは即答した。
「再度聞く。名と所属」
「はは、話のわからない男だな」
男はわざと大げさにため息をつき、口元に笑みを戻す。
「アストリア王国、Cランク《漆黒》のカランだ」
クラウスの眉がぴくりと動く。レンは静かに首を横に振った。
「……王国に現存する《漆黒》というチームはない。それにその腕でCランクはありえない。お粗末だな」
一拍、沈黙。
男の笑みが、霧の中でわずかに薄れる。
「随分詳しいな。王国中の名簿まで頭に入っているのか?」
「当然だ。地上のギルドに属する者なら全員、俺の範囲内だ」
「ははっ、便利だな。君のようなのが一人いれば、王国は安泰だ」
「褒め言葉はいい。――今度は俺が聞く番だ。何者だ」
男は肩を竦め、霧の中で指先を動かした。
その瞬間、レンの足元に影が生まれた。
クラウスが即座に反応する。
「反応、二箇所!一つ前方、もう一つは――」
「後方二十歩だ。」
レンの声がそれを遮る。
「偽装。影の投影だ」
ミーシャの魂の目がわずかに光を宿す。
彼女の視界では、男の灯が二重になっていた。
外側に濁った薄光、内側に淡い脈動。本体はどこか別の場所にいる。
ミーシャはレンに近づき小さくつぶやく。
「レン。……偽物。本体は外」
「…ああ」
(ミーシャの索敵でしか反応が不可。魔法系か)
レンの声が低くなる。
「影分体。闇魔法の分身術式だな」
男は笑いながら頷いた。
「よく見る。一目でここまで気づかれるとはな」
「誇るようなことか?」
「いや。ただ少し、興味を持っただけだ。観測がずいぶん鋭いと、な」
「観測じゃない。防衛だ。それで、そちらの目的は?」
「私は観察かな。いや、あるいは確認ともいうべきか」
「確認?」
「言わずともわかるだろう?ここにいる意味を」
レンの声が低く冷えた。
「……俺たちを試しているのか。」
「試しているのは、この迷宮そのものだ。君たちがどこまで進むのか。それを、誰かが見ている」
リーナが前に出かけたが、レンが手で止めた。
「言葉の遊びはいい。立入をやめろ。この先に踏み込めば、敵として扱う」
「敵か」
男は笑う。
「その言葉の意味を、君はまだ知らない」
「知るつもりもない」
「そうか」
男は静かに一歩後ずさり、影が霧と同化する。
「では、また会おう静寂の歯車」
音もなく、姿が消えた。
クラウスが小声で言う。
「消滅確認……いや、残留魔素あり。本体もまだいるとみていいな」
「追うな」
レンは即座に制した。
「声すら投影していた。通常の闇魔法ではありえない。しかもこの魔素が異常な環境での再現。事前の準備か外法、固有能力の可能性もある。誘導される可能性が高い」
リーナが舌打ちした。
「まるで遊ばれてるみたいだな」
「そうだ。だが、奴がここまで接近して会話を選んだ理由はある」
ミーシャが弓を下ろしながら、震える声で囁くように言った。
「……まだいる。八十歩先、木の根の下。私たちを見てる」
レンは視線を動かさず、意識だけをそちらに集中させた。
空間の歪み、湿気の流れ、魔素の反射。その中に意識の動きを感じ取る。
「確認した。……だが、動く気配はない。ならこっちも、見られてもいい手札だけ見せてやろう」
リーナが納得して相槌を打つ。
「そうだな。…なあ、レン。さっきの話だけど、王国中の名簿を知ってるって嘘だよな?」
「いや、新人や離脱者以外はほぼ把握している」
レンは当然のように言い切る。
「何人いると思ってるんだ。君は異常だ」
クラウスは呟いた…。
静寂の歯車は再び歩き出す。
黒い根の下。そこに本体のシャダが膝をついていた。
分身を通しての会話は終わり、彼は静かに泥を払う。
(……少女、いや小人族の女か。あの索敵は常識を超えている)
胸の奥に重いものが残る。
闇ギルドでも屈指の隠密と言われた自分が、初めて視られた。
この迷宮の環境下では完璧ではない。だが、それでも人間の感覚で見抜ける領域ではないはずだった。
(……異常。索敵者としての脅威、再評価。等級、レンと同列。条件次第では、それ以上か。やっかいだな)
彼は指先で泥を掬い、魔素の流れを確かめた。闇魔法の膜がほんのわずかに波立つ。
この層の魔素は生きている。潜伏の完全性を拒む。
(……迷宮のせいでもあるが。俺の完全は、ここでは壊れる)
微かに笑う。
「面白い。観測者と索敵者。この組み合わせを崩すのは、容易じゃない。ダンジョンでは分が悪いか」
再び影が波紋となり、彼の姿は湿原の底に溶けた。




