幕間 第九層救護所供述記録―王国 救護隊員 副隊長ケイン
2話連続投稿です。
記録官注:本供述は第九層救護所にて、任務帰還直後のケイン副隊長から聴取した一次証言である。搬入された負傷者三名のうち一名に「結晶化進行」が確認された。
――以下、ケイン本人の一人称記述。
第十六層は、いつも通りぬかるんでいた。
湿地が膝まである場所は避けろ、足元を取られる。苔の光は頼るな、距離感が狂う。泥の中で血を流すな、血を吸われるぞ。
俺たちの巡回は、だいたいそんな注意で済む理屈の通る危険だった。
異常に気づいたのは昼過ぎ。湿地の水面が、風もないのに逆さに揺れた。
ふっと音が遠のき、耳の奥が詰まる。隊員のリゼが顔をしかめる。
「……気圧、落ちた?」
冗談だと思った瞬間、通路の奥から駆け足の音が一直線に近づいてきた。
飛び込んできたのは見知らぬ四人組の冒険者。先頭の女戦士が叫ぶ。
「けが人です!追っては来てない、今は!」
彼女の背にしがみついていた男の身体が、青白く光っていた。右脇腹から上腕にかけて、透明な殻が張りついている。呼吸のたび淡い光が脈打ち、殻の縁がきいと鳴いた。
俺たちは救護所へ連絡し、誘導を始めた。走りながら、女が早口で状況を吐き出す。
「十六層の分岐湿原で、リザードマンの大群と接触したの!胸に透明な板を張ってる個体がいて――」
「落ち着け。第九層まで追撃は?」
「リクが切られたときに荷物が散乱して…それに群がっているすきに撤退したから…湿原を出るときには追撃の気配はなかった」
男の皮膚は明らかに硬化していた。結晶の境目が毛細血管のようにひび割れ、そこから微細な粉が浮く。
俺は無意識に息を止めた。
救護所に滑り込むと、符術医が叫ぶ。
「隔離幕!結晶には触るな!」
教本で百回聞いた理屈が、今ほど冷たく刺さったことはない。
処置台の上で男は呻いた。
「……まだ、聞こえる……あいつらの声が……」
符術医が眉をひそめる。
「声?」
「金属を擦るみたいな、共鳴。……あいつらの胸が、光って……呼吸してるみたいに……」
結晶片は確かに拍で脈を打っていた。
記録官が彼らの隊長に詳しく聞く。彼女は息を整え、短く頷いた。
――十六層、分岐湿原。
リザードマン五体を確認。結晶化した個体も最初の一太刀は通った。血は出ず、粉の光。
粉が空に舞い、周囲の個体が同時に咆哮した。音は耳だけじゃなく骨に刺さる。
皮膚の結晶が光を反射し、矢は滑る。炎や雷は吸い込まれた。
切り落とした腕が砕け、破片が寄り戻る。
破片は水の上でも沈まず、光の細糸に引かれるように別の個体へ吸い込まれていく。
彼女はその糸を戻り糸と呼んだ。湿原の泥の下に青い線が走っていたという。
撤退の途中、仲間の一人が脇腹を裂かれた。血はほとんど出ず、透明な殻が生まれ、呼吸と同期して硬化が広がる。
十六層から十五、十四……と階段を駆け上がる間、あの声は付きまとった。
十層の前哨で灯火が明滅し、風が逆に吹いた。
――第九層の境域に入ったとき、声はふっと途切れた。
符術医が低く呟く。
「ここで止まってるだけだ。結晶は戻らない……はずだが、まだ核が沈んでいない。」
俺は言葉を失った。
男の胸の下、結晶の奥で何かが呼吸していた。
脈は、まだある。
だが肉体のそれじゃない。
魔素の波だ。まるで魂が抜けきれずに、殻の中で迷っているような。
符術医は淡く光る溶液を注ぎ込み、短く命じた。
「安定処置。魔素流を凍結させろ。魂を逃がすな」
その声には、助けられないかもしれないという諦めが混じっていた。
刻が進むごとに、男の光が弱まっていく。
結晶の縁が一度鳴り、静かになる。
それでも――完全には止まらなかった。
殻の中心で、細い脈動が続いていた。
符術医が低く言った。
「……この脈が消えなければ、まだ繋がっている。ただし、我々の手ではどうにもできない。」
彼は一瞬だけ空を見上げる。
「上へ報せを。奇跡を信じるしかない」
周囲が静まった。誰もその名を口に出さなかったが、全員が同じ人物を思い浮かべていた。
アリア。聖女。魂を調律する者。
隊長のイレーヌの肩が震える。
「助かるんですか」
「……確率で言えば、零に近い。だが、彼女ならあるいは…」
救護所の外で、わずかに地鳴りがした。
棚の器具が鳴り、吊り灯の鎖が震えた。
十層の方角。風はないのに、空気が往復した。
その日の夕刻、ギルドから通達が届いた。
「第九層は通常通り。ただし十層から下は注意。十六層南湿原は臨時立入制限」
俺は紙を握りつぶしそうになった。通常通り?この状況で?
宰相派が「局所的な魔素の乱れ」として処理したと聞く。
俺たちにできることは少ない。
結晶片が衣に付着していないか、互いに光を照らして確認する。
粉はときどき、呼吸に合わせて浮いた。
外界の護符はここではほとんど効かない。だから、ただ見張るしかない。
夜半、救護所の奥で小さな音がした。
きい。
皆が顔を上げた。結晶の男が、わずかに息を吐いたのだ。
その呼気は白く、淡く光り、すぐ消えた。
符術医が呟く。
「……まだ、戻ってきていない。けど、まだ行ってもいない」
俺は結局その夜、眠れなかった。
まぶたの裏で青い糸が脈を打ち、どこか、はるか下の方で金属の弦が擦れる。
――まるで迷宮そのものが、彼の呼吸を聞いているようだった。
追記:負傷者リク(Cランク)は意識不明のまま安定状態。符術医の判断により生命維持継続を確認。外部救護派遣要請中。




