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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第1章:Bランクの日常と歪な契約
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第6話 盤上の遊戯、影の支配者

王都アステリアの夜は、二つの顔を持っている。


ひとつは貴族街を満たす魔導灯の、秩序だった穏やかな光。

もうひとつは、その光が届かぬ路地裏に蠢く、欲望と陰謀の渦。


ヴァロワ伯爵は、その両方を自分の屋敷の書斎から見下ろすのが好きだった。


黒檀の机に南方アル=ケム首長国から取り寄せた葡萄酒の杯を置き、窓越しに広がる王都を、丁寧に並べた駒がびっしりと詰まった巨大な遊戯盤のように眺める。


微かな笑みが彼の唇に浮かぶ。


「面白い」


彼の視線の先には、数時間前に諜報網から届いた一枚の報告書があった。


そこには、王都の地下に張り巡らされた魔素導管、王都インフラの動脈に関する最新の調査記録が克明に記されている。


『調査区間:外壁区導管第七節。異常振動および魔素濃度の局所的上昇を確認。導管内壁に通常観測されない結晶化反応が発生。周辺民家への微小な精神汚染反応報告あり。原因は不明。調査担当はギルド冒険および技術班。現在、王都直轄の検分待ち』


伯爵はその一文をゆっくりと目でなぞった。字面の冷たさが、彼の興味を確実に刺激する。


「外壁区の導管か……興味深い。しかも調査記録の筆頭に静寂の歯車とは」


彼は静寂の歯車に亀裂を生ませようとする計画を思い描いていた。


もし導管の異常がレンたちの行動や評価に結びつくなら、それは王子派が影で動いている証左にもなる。


利用する手はいくらでもある。


「……だが、まだ早い」


伯爵は自分に言い聞かせるように呟いた。指揮官レン・ヴェリタスは用心深い。下手に手を出せば、盤面そのものを閉じられかねない。


玩具は、まずその性質と遊び方を確かめてから壊すに限る。


過去、能力、そして何より最も脆い部分。

それらを一つずつ剥いでいく作業を思い浮かべ、伯爵の口元に愉悦が滲んだ。


「シャダ」


彼は部屋の暗がりに向かって静かに呼んだ。返事はない。だが、その背後、書斎の深い影がわずかに揺らぎ、人の形をとるようにして一人の男が音もなく現れた。


痩身で特徴のない顔。暗殺者ギルドの貌無しの伝説、王都裏社会が彼の名を聞くだけで凍り付くと言われているシャダである。


「お呼びでしょうか、伯爵様」


その声は切り取られたように感情を欠いていた。


「ああ。新しい仕事を与える」


伯爵は椅子に深く腰掛け、机上の羽根ペンを弄びながら言った。


「王都の導管調査だ。報告は見たか?」


「拝見しました。外壁区にある第七節の異常、技術班が入っていると。承知しております」


「良い。静寂の歯車がこの種の技術的介入を行っているという事実を確認した。我々の遊戯には絶好の餌になる」


伯爵の瞳が暗い光を帯びた。


「情報の流れを操作する。やつらの情報優位を内側から腐らせ、我々がいつ・どこで・何をするかを手に取るようにあやつる。さながらピエロのようにな」


シャダは黙って聞いていた。伯爵は楽しげに続ける。


「ゾルディという連中もいる。彼のような仲介者をうまく操作すれば、出所を隠しつつ、情報の経路を我が方へ逸らせる。イベントの発火点を我々が選べばいい」


それは、レンのシステムを根底から蝕む策だった。ヴァロワ伯爵は立ち上がり、窓の外の夜景を見下ろす。


「王子と聖女が手に入れた玩具がどれほど脆く、扱いにくいか教えてやるのだ。歯車には我々のありがたい情報を喰らわせてやる」


シャダはただ一度だけ深く頷いた。


「御意のままに」


影は音もなく消えた。残されたのは、ほくそ笑む伯爵と、次の手を待つ巨大な遊戯盤だけだった。




その夜、王都アステリアの外壁区は冷たい雨に濡れていた。石畳の隙間を汚水が流れ、狭い路地からは湿った土と煤の匂いが混じり合って漂う。


ここは法の光が届かぬ場所。情報と裏切りと、金だけが人の命の価値を決める街だ。


看板も掲げない小さな事務所の薄明かりの中、情報屋ゾルディは蝋燭の揺らめきを頼りに羊皮紙の染みを眺めていた。そこには同じ導管調査の抜粋が写されている。


「導管の異常……そして、功績欄に静寂の歯車の名か」


彼の情報網はすでに、レンが王子派、通称主戦派に属していることを把握していた。調査そのものはギルドが選定した冒険者、技術班によるもので、王子派が直接関与した痕跡はない。


だが報告書にレンたちの名が刻まれる以上、それは政治的な意味を帯びる。


金に換算すれば、この一連の情報は価値がある。だが、ゾルディの胸には冷ややかな計算を超えた緊張が走った。


利用価値は大きいが、同時に王家や宰相派の監視を呼び込む危険も膨らむ。


「公に売るべきか……それとも一旦様子を見るべきか」


彼は独りごち、羊皮紙を指の腹で撫でる。踏み込みすぎれば、王の目がこちらに向く。だが手控えすぎれば、もっと大きな機会を逃す。


ゾルディは冷ややかな笑みを浮かべた。決断するには早い。だが一つだけ確かなことがあった。


静寂の歯車の名を冠したこの報告は、盤面を大きく揺らす駒となる、ということだった。


彼が新たな調査計画を立てようと、ペンをインク壺に浸したその瞬間。


――カタリ。


部屋の隅、積み上げられた情報用の木箱の上で、一片の木片が理由もなく転がった。


ゾルディの全身の毛が逆立つ。仕掛けた罠はすべて沈黙している。なのに、今確かに「何か」が動いた。


「……誰だ」


得体のしれない存在に自然と声は震えていた。返事はない。代わりに、部屋の最も深い影がゆっくりと人の形に分離していく。


痩せた体躯、特徴のない顔立ち。ただ、その瞳だけが蛇のように冷たく光を放っていた。


「……シャダ……!」


呻くような声。暗殺者ギルド『貌無し』の伝説。その存在が動く時、そこには大貴族の意志と死が伴う。


「情報屋、ゾルディ」


感情の欠片もない声が響く。


「お前が調べているパーティ、静寂の歯車。その件について、新しい取引のルールを教えに来た」


「……取引だと?俺の掟は絶対中立だ。誰であろうと変わらねえ」


本来なら、ここで値踏みする側の笑みを浮かべるのが情報屋という生き物だ。

だが喉は乾き、額を伝う冷や汗を、シャダの瞳は逃さない。


「その掟は、今日から変わる」


彼は懐から一本の品を取り出し、机の上に置いた。


ことり。


それは、ゾルディが愛用する鳥の骨製の特注インクペンだった。今朝まで、最も安全と信じる隠れ家の金庫に仕舞っていたはずのもの。


呼吸が止まる。無言の脅迫、お前の全てを奪うことなど、容易い、と。


「……何が望みだ」


「話が早いな」


氷のような歪みが、男の口端に浮かんだ。


シャダは感情の欠片もない声で告げる。


「……我が主は、お前の腕を評価している。その情報網は、有益な道具になる。これから静寂の歯車に関する全ての情報は、まず我が主のもとに届けろ。些細なことでもだ」


ゾルディの喉がひくりと鳴る。必死に平静を装いながらも、額から冷たい汗が落ちる。

「……それは、俺の商売の掟に反する」


「これからは、それが新しい掟だ」


氷のような声が続く。机上に置かれたインクペンが不気味な現実感を添えていた。


「だが、我が主は安物の暴力に頼るつもりはない。真実はもちろん、虚偽であっても価値はある。報酬は支払われる。お前はこれからも商売を続けられる。ただし、」


声がさらに低く沈む。


「我が主の利益に反する情報だけは、絶対に渡すな。それをすれば、お前は商人ではなく、値札のつかない死体として処分される」


ゾルディは息を呑んだ。矜持を奪われたわけではない。だが、その矜持は敵の手の中で転がされる。


「……分かった」


絞り出すような返答に、シャダは無表情で頷く。


(だが――いつか必ず抜け道を見つけてやる。俺は駒で終わる気はねえ)


その決意は、声に出せば即、死に直結する。だからこそ、胸の奥底にだけ封じた。


「賢明だ。ああ、そうだ。手始めに最初の依頼だ」


指が机の羊皮紙を示す。それはゾルディが静寂の歯車についてまとめていた調査書だった。


「その情報は処分しろ」


次の瞬間、男の姿は影に溶け、音もなく消えた。


残されたゾルディは震え続け、やがて狂ったように立ち上がる。羊皮紙の束には、既にギルド内で起きた事件をほぼ正確に掴んでいた。


階層のイレギュラー、ミノタウロスの撃破、その後の破格の特別功労金。そして、ギルド上層部による異例の情報統制。さらには欺瞞の回廊での調査方法が細かに書かれていた。


ゾルディは苦々しく呟き、紙片を暖炉へ叩き込んだ。


炎に呑まれるその記録こそ、静寂の歯車が異質と恐れられる証拠だった。集めた資料を次々に暖炉へ叩き込み、炎にくべた。


ヴァロワ伯爵の見えざる影。その最初の一手は、情報屋を排除するのではなく、自らの色に染め直し、駒として盤上へ戻すことだった。


静寂の歯車はまだ知らない。自らの命綱であるはずの情報網が、すでに敵の手の中にあることを。




レンが、禁書庫での孤独な探求を終え、宿へ戻ったのは、それからさらに数日が過ぎた後のことだった。


彼の顔には睡眠不足の疲労が刻まれていたが、その瞳の奥には、冷たいが確かな光が宿っていた。解法を導き出した数学者のような眼差し。


それは、アリアが望む「伝説」を創るための設計図が、すでに完成していることを示していた。


宿の共有スペースに三人を集めたレンは、テーブルの中央に一枚の羊皮紙を滑らせる。長期間掲示されていたせいで縁が擦り切れ、インクも滲んだ依頼書だった。


リーナが覗き込み、目を大きく見開く。


「……おい、レン。これは、何の冗談だ?」


クラウスとミーシャも同時に目を落とす。そこに記されていたのは、誰もが避けて通る忌まわしい文字。


『――ワイバーン調査依頼』


「……正気か、レン」


クラウスが先に口を開いた。声は呆れと冷ややかな侮蔑に満ちている。


「ワイバーンの痕跡調査だぞ。討伐ですらないとはいえ、接触すれば死が隣にある。君のシステムは未知の変数を最も嫌うはずだ。それをわざわざ引き受けるなんて、合理性から外れている。一体何を考えている?」


正論だった。だがリーナの反応は違った。衝撃の後、彼女は戦士らしい笑みを浮かべる。


「……へっ、ワイバーン、ねえ。調査だろうが何だろうが、ドラゴンの影を追えるなんて滅多にねえ。危険?上等だ。どうせ小物ばっかりで退屈してたんだ。やろうぜ、レン。あたしの盾で守れねえもんなんざ、ねえんだからよ!」


昂ぶるリーナと冷静すぎるクラウス。その対立を遮ったのは、ミーシャの小さな声だった。


「……二人とも、静かにして」


か細いが澄んだ声に、二人は思わず口を閉ざす。ミーシャはただ一人、レンの顔をじっと見つめていた。


「レン。どうして、この依頼なの?ただの名誉や功績じゃない……もっと別の理由があるんでしょう?」


彼女の瞳は、仲間の誰よりも深く、指揮官の胸の奥を射抜いていた。功名心ではない。もっと切実で、どうしても避けられない理由。そうでなければ、あの冷徹な戦略家が、ワイバーンという危険に自ら踏み込むはずがない。


レンは三人を見回し、感情を交えず答えた。


「これは、俺たちの立場を一段引き上げるための、一番効率のいい一手だ」


テーブルに金貨が数枚、乾いた音を立てる。


「『欺瞞の回廊』で俺たちは、ダンジョンの中ですらギルドの監視下に置かれた。王宮の派閥も注視している。このままBランクの小仕事を続ければ、誰かの盤上で使い捨てにされるのは時間の問題だ」


冷たいが、否定できない現実だった。


「だから切り替える。Bランクの身でA級相当の依頼を無傷で達成する。そこで初めて、駒じゃなく、条件を突き付けられる側に回れる」


レンは続けた。


「技術的にも勝ち筋はある。非接触・観測特化でいく。気流観測で上昇帯と滑空ルートを固定、営巣痕と糞石の検分で活動時間帯を推定、火業痕の地形分布で接触リスクを段階管理。接触はしない。証跡の再現性だけ回収して帰る」


クラウスが鋭い視線を放った。


「……プレイヤー、か。だが誰のための?結局は王子派に都合よく使われるだけじゃないのか」


空気が凍り付く。リーナの笑みが止まり、彼女は二人を戸惑いながら見比べた。


そのとき、ミーシャの睫毛が震えた。湯飲みを持つ指先に、ごく小さな震え。彼女だけが理解していた。


クラウスの疑念は単なる理屈ではなく、レンが背負う真実――アリアへと繋がる危うい線に触れかけていることを。


レンは正面から受け止め、低く告げた。


「……君の言う通りだ、クラウス。我々は、すでに主戦派だ」


三人が息を呑む。隠し立てではなく、冷徹な現実の肯定。


「だが論点はそこじゃない。誰のために戦うかではない。我々が目的を達成するために、今なにを選ぶかだ」


彼は壁の地図を指した。


「リーナ。君は氏族に力を示すためにここにいる」


「……ああ」


「クラウス。君は停滞した森を超え、真理を探るために出た」


「……それがどうした」


「ミーシャ。君はこのパーティの結束力をあげて、次につながる何かを考えている」


「………」


三人は黙り込む。彼の言葉は魂の奥を突き刺していた。


「問う。今のBランクという立場で、それは可能か?」


沈黙。


レンは冷たく断じる。


「不可能だ。我々は弱い。ギルドと王宮の思惑に縛られ、消費されるだけの駒だ」


彼は依頼書を指差す。


「だがこれは唯一の解だ。BランクがA級相当の危険域を調査し、無傷で帰還する。その記録は制度を揺るがし、我々を特異点として改めて認知させる」


クラウスが低く問う。


「……そのために俺たちの命を、この一枚に賭けるのか」


「賭ける」


即答だった。


「リスクは高い。だが回収し得る利得は規格外だ。勝率は計算済みだ。――これ以上に合理的な解を示せるか?」


クラウスは舌打ちをひとつ残し、椅子に沈む。論理の敗北を認めた音だった。


沈黙を破ったのはリーナ。


「いいぜ。狂ってるが嫌いじゃない。盾も命も預ける。必ず勝てよ」


「……私も信じる。レンの計算を」


ミーシャが小さく続いた。


レンは静かに頷いた。


友情ではなく、冷たい契約で結ばれた合意。


「――ブリーフィングを終了する。三日後に作戦開始。各自、指示書を完遂しろ」


配られた羊皮紙には、学術書の目次のような項目が並ぶ。


クラウスの分には渓谷の気象変動、竜種の忌避仮説、飛竜の生態学。


リーナの分には、大盾の迷彩加工、強風下でも離手しない固定法の検証、万が一のブレスに耐え得るか鍛冶師に確認など、万が一の戦闘も想定した改修案。


ミーシャの分には、市場と猟師からの生情報収集。数字にならない兆しを拾う仕事だ。


三人は無言で立ち上がり、それぞれの任務へ散っていった。


背を繋ぐものが、共に酒を酌み交わすような甘い友情ではないことを、四人ともよく分かっている。


だからこそ、盤上の勝利だけは取りこぼさないと、誰も口にしないまま決めていた。

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