第1話『忘れられた回廊』①
苔が青白い光を吐き、通路全体をぼんやりと染めていた。
光は不規則に脈打ちながらも、どこか一定の拍を刻んでいる。
岩壁は汗をかいたように濡れ、滴る水が落ちるたびに鈍い反響が遠くまで続いた。
湿り気を帯びた冷気は喉を刺し、肺の底へと重く沈む。
人間の感覚なら、ただ陰鬱で息苦しいだけの洞窟。
だが、静寂の歯車の指揮官でありリーダーのレン・ヴェリタスが見ているのは風景ではなかった。
苔光の揺らぎ、滴る水音、靴底の反響音。すべては入力であり、数値による評価だった。
「正面に一体。推定ミノタウロス。反響から他の反応なし。環境、戦闘に支障なし」
冷ややかな声は感想ではなく計測結果だった。
「索敵異常なし」
ミーシャが短く答える。
小柄な影は既に気配を消しており、声だけが湿った空気を震わせた。
(……本当は、少し違う。敵影よりも先に、レンの魂の光がまぶしくて、周囲が霞んでしまう。あの輝きのせいで、遠くの揺らぎがかき消されるんだ。索敵役のはずなのに、視界が狭くなる……)
リーナは無言で大盾を握り直し、息を整える。
(……やっぱり普通じゃないわね。ミーシャの索敵と比べても精度が異常だわ)
クラウスは唇の端を歪め、指先に光を灯した。
「準備は済んでいる。命令だけ寄越せ」
その瞬間――地の奥底から響く低い唸りが、空気を震わせた。
地鳴りが迫る。湿気を押し流すような圧力を伴い、苔光が一斉に明滅する。
ゴウ、と熱風にも似た息吹が通路を満たし、空気が獣の臭気に塗りつぶされた。
次の瞬間、咆哮。
迷宮そのものが軋んだかのように通路全体が震え、岩壁が砕けた。
耳をつんざく声に苔光は乱れ、空気は爆風のように押し広げられる。
胸郭が圧迫され、肺が内側から破れそうな衝撃。
牛頭の巨体が姿を現した。
二人分の背丈を超える体躯。
鍛え抜かれた冒険者の鎧を溶かすほどの膂力を繰り出す筋肉の塊。
力強く岩盤を抉る黒鉄の蹄。歪んだ角は片方が折れ、そこに無数の古傷が刻まれていた。
幾度もの戦闘で生き延びてきた証。
冒険者の間で「イレギュラー」と呼ばれる存在。
Cランク以下のパーティならただその存在を視認しただけで撤退も検討する相手。
油断すれば盾役ごと押し潰され、死者を出すことは避けられない。
通路を埋め尽くすように迫る姿は、理屈抜きの圧迫感を持っていた。
「――ッ!」
リーナは無意識に喉奥から声を漏らし、大盾を突き出す。
手甲の内側で掌が汗ばみ、鎖帷子が軋む。
戦場を幾度も経験した勘が叫び、古傷が疼いていた。真正面から受け止めれば命が潰れる、と。
ミーシャは短剣を握り直し、喉を鳴らした。
斥候である自分が剛腕の一撃でも当たれば致命傷だ。彼女の心臓は早鐘のように鳴り、冷たい汗が背を伝う。
それでも声を出さない。声を発する余裕すら奪う威圧があった。
クラウスは瞳を細めた。
因縁もあり、その巨体の前では一瞬怯む。だが怯えを飲み下し、指先に光を凝縮させる。
「ミノタウロス……脳と心臓の魔素循環は異常に発達している。だが、それゆえに」
口元は皮肉げに動いたが、その声にはわずかな震えが混じっていた。
咆哮とともに、巨体が突進した。
大地を砕く蹄の衝撃が波となって押し寄せる。
空気が爆ぜ、天井の鍾乳石が砕け落ちる。
たった数歩で十数メートルの距離を詰める。視界を黒で塗りつぶすような質量。
リーナが吠えるように声を張り上げた。
「来なさいよ、化け物!」
地面に大盾を突き立てる。
直後、角と大盾が激突した。轟音。爆発のような衝撃波が通路全体を叩き割り、床石が砕け散った。
「くっ……!」
攻撃が当たる瞬間に、大盾を斜めに傾け、力を分散してもリーナの腕が痺れ、骨が軋んだ。
大盾が衝撃により湾曲し、足が石畳にめり込む。
それでも全身をバネのように使い踏みとどまった。
彼女の戦士としての経験と不屈の精神が、仲間を守る壁となる。
「膝が甘い」
リーナが受け止めることを当たり前かのようにクラウスが低く呟き、白銀の光矢を放つ。
膨大な魔力が凝縮された一筋の閃光が、巨体の膝を正確に撃ち抜いた。
肉が裂け、焦げた臭気が漂う。巨体がよろめいた瞬間、リーナは全身のバネを使い全力で大盾を押し返す。
「今!」
ミーシャが影のように走る。
小さな体は、地響きに揺れる通路を滑るように抜ける。
恐怖で体が硬直しかけても、彼女は牙を食いしばった。
短剣が腱を断つ。
巨体が呻き声を上げ、膝をついた。
「再攻撃」
レンの低い声。
冷酷な処刑人の判決のような響き。三人の動きが連動する。
大盾が角を弾き、魔法が脆弱部を穿ち、短剣が閃きを刻む。
ミノタウロスの足は腱を切られ立つことがかなわなくなり、膝をついた。
その瞬間、項垂れた首筋目掛け一瞬で距離を詰めたレンの刃が振り下ろされた。
太い頸椎を断ち切るには速度が足りないと思われたその一撃は、まるで骨など存在しないかのようにきれいに切断された。
刃は誰にも気づかれなかったが、頚椎切断後もわずかに振動していた。
鮮血が噴き上がり、苔光を赤く染める。だがすぐに、血は黒い靄へと変じ、空気に溶けていく。巨体は音を立てて崩れ、残るのは砕けた角と薄い鉄臭のみ。
静寂。崩落音だけが響いた。戦闘時間は三十秒。
だが、それは、冒険者にとって死と隣り合わせの永劫に等しい圧迫だった。
リーナは膝をつき、震える腕を押さえた。
「……押し潰されるかと思った」
クラウスは額に汗を滲ませつつも眼鏡を押し上げる。
「効率は完璧だが……正直、命を削られた気分だな。だが、雪辱を果たした」
ミーシャは短剣を強く握りしめ、鼻をすんと鳴らす。
「……怖かった。ほんとに」
彼女の声は震えていた。
だが、その小さな背筋は折れていなかった。
レンは彼らを見ない。冷たい眼差しで闇を見据え、最後の確認を行う。
(負傷者ゼロ。呪いのトリガー未作動。システムは正常に機能した)
安堵はない。
仲間が瀕死に陥るたび、彼は回復魔法(魂の追体験)でその痛みと絶望を丸ごと被る。
あの灼ける地獄は二度と許容しない。
だから心を殺し、感情に蓋をし、揺れない防波堤で自分を囲う。
歯車の精度は保つ。必ず保つ。
防波堤の内側で彼は状況を再確認する。
リーナは大盾の表面を撫で、破損を測る。
クラウスは残りの魔力を点検する。ミーシャは気配を張り、次の闇を探る。
優秀な部品たち。次の命令を待つ精密機構。
そう定義することで、バグを防ぐ。仲間への情は故障の原因だ。
レンは前方へ指を倒す。前進せよ。三つの影が無言で溶ける。




