間幕:残された歯車
レンがアリアからの召喚を受け、夜の闇へと姿を消した後。
灰色の旅人亭は、深夜の静けさに沈んでいた。
客たちの笑い声も、階下の酒場の喧噪もすでに途絶え、廊下を吹き抜ける夜風だけが、時折燭台の火を揺らしている。
遠くで馬のいななきが短く響いたが、それもすぐに闇に飲み込まれた。
そんな静寂の中で、ミーシャだけが目を覚ましていた。
魂の目に映ったのは、闇に溶けていく淡い光の尾、悲壮な決意を帯びた痕跡。レンが窓から抜け出したことを、彼女だけが気づいていた。
(……レン)
胸の奥がきゅっと締め付けられる。彼が背負うものの重さは、光の揺らぎに刻まれていた。
そこにはアリアの名と、クライネルトという遠い故郷の影が滲んでいる。
ベッドの上で目を閉じても、すぐに眠りは訪れなかった。薄い寝具に包まれても、魂に残る光の残滓がまぶたの裏を離れない。
しかし、やがて意識は夢の領域へと引きずり込まれる。
その夜、ミーシャは故郷「翠森郷」の夢を見た。
「世界の背骨」山脈の麓に広がる、豊かな渓谷の谷あい。丘の斜面に埋め込まれた丸い扉の家々、草屋根に咲き乱れる花々。石畳の小道を清流が縫い、子供たちが裸足で水を蹴立ててはしゃぐ声が響く。
父の工房からは木槌の音が響き、母の竈からは焼きたてのパンの匂いが漂う。
羊や山羊がのんびりと草を食み、老いた祖父が縁側で煙管を吸っていた。
翠森郷、彼女の心に刻まれた宝物のような風景。
その穏やかな午後は、永遠に続くはずだった。
だが夢の景色はすぐに影を帯びる。西の空に黒い煙が立ち昇り、谷の入口を通り過ぎる見知らぬ騎影。
帝国兵の偵察隊が近くをうろついているという噂。笑顔だった父の顔は険しくなり、母は強くミーシャを抱き寄せた。
「大丈夫。この谷はきっと守られる」
そう囁く母の声は、微かに震えていた。
翠森郷の平和は、いつ戦火に呑まれてもおかしくない。夢の終わりには、そんな不安が突き刺さっていた。
「……っ!」
息苦しさに目を覚まし、ミーシャは額の汗を拭った。頬を伝う涙は、夢の中の母の声の名残だった。
彼女は音を立てぬよう、そっと部屋を抜け出し、屋根へとよじ登った。苔むした瓦の上に腰を下ろすと、冷たい夜風が頬を撫でた。
月明かりに照らされた王都の街並みが遠くまで広がり、石畳の通りには灯りがぽつぽつと点々としている。
胸の奥で問いが繰り返される。
なぜ自分は、この壊れかけたパーティに留まり続けているのか。
リーダーのキールを失った『暁光の旅団』。キールの死のあの日、彼女は全てを捨てて逃げることもできたはずだった。実際、そうした冒険者を何人も知っている。だが彼女は残った。
絶望の奥底で、彼女の魂の目が二つの強烈な光を見てしまったからだ。
一つはリーナの魂。不屈の輝き。仲間を守るためなら自らを盾にし、命をも惜しまない自己犠牲の光。
もう一つはクラウスの魂。怜悧な叡智。世界の理を解き明かそうとする冷たい炎。
その光はあまりに強く、不安定で、制御を欠いていた。けれどもミーシャは直感していた。この二人は成長の底が測れない、いずれ大陸を揺るがす力へ至ると。
そして、その規格外の力を導ける存在を、彼女は心のどこかで待ち望んでいた。
そして、レンが現れた。
彼の合理と冷徹は、空回りしていた歯車を再び回す頭脳となった。そして何より、彼自身がもつ潜在的な魂の光。
「……みんなに、故郷を賭けるしかなかった。けれど…」
ミーシャは小さく呟き、胸の前で両手を組んだ。
視線は遠く、王城の灯りへと向かう。月光に照らされた高い尖塔の影が夜空に溶け、そこにレンがいるのだと思うと胸が締めつけられた。
(どうか……レン。アリア様の故郷を守ってください。そしていつか……私の翠森郷が炎に包まれる前に)
その祈りは声にはならず、ただ魂だけの響きとなって夜空に溶けていく。
彼女はしばらく屋根の上で月を見上げていた。星々は瞬き、遠くの王都の灯がかすかに揺れている。だが彼女の瞳には、そのどれも映っていなかった。
心にあるのは、故郷と仲間、そしてレンの背負うものへの切実な願いだけだった。
やがて夜風が強まり、彼女の髪を揺らした。
ミーシャは肩をすくめ、小さな体を丸めた。
けれど祈りは消えなかった。
たとえこの身が斃れても。
あの光を、そして故郷を守り抜くために。
その決意だけが、王都の静寂に刻まれていた。




