第4話 聖女への誓い
王都アステリアの朝は、鐘の音ひとつで動き出す。
石畳に並ぶ屋台の布がはためき、焼き窯の口から甘い香りが溢れ、辻の水場には早起きの女たちが列を作る。
小さな道化が即席の台に上がり、通りの子どもに笛を吹いてみせると、笑い声が風に攫われていく。
「聞いたかい、静寂の歯車がまた戻ったってさ。傷ひとつないんだと」
「本当かよ、迷宮帰りで化粧も崩れねえってのは、もう化け物の領分だな」
「でもほら、置いてきたもんもあるんだろ?正気とか、そういうの」
「やめなよ。あの子らの調査で、何人も仕事にありつけてるんだから」
噂はパンと同じで焼きたてが一番よく売れる。朝の市井は、王都の血流そのものだった。
その流れがふっと狭まり、ざわめきが沈む瞬間がある。大通りを横切る四つの影が通り過ぎる時だ。黒髪の青年を先頭に、大盾と杖と弓。
歩幅は一定、呼吸は静か、視線は前だけを見ている。まるで風だけが通り抜けたかのように、背後には小さな沈黙が残る。
静寂の歯車。
名を囁くだけで、いくつもの感情が立ち上る。憧れ、嫉妬、畏怖、そして理解不能なものへの警戒。
冒険者ギルド前の石段に、巨体がひとつ腰を据えていた。板金の肩が陽を弾き、腕を組んだ姿は石像に似て動かない。Bランク、鋼鉄の壁のリーダー、不壊のゴラッハ。
彼は静寂の歯車の四人が石段を上がるのを見届けると、顎を上げて言った。
「……なかなかやるじゃないか」
その一言で、周囲の空気がわずかに軋む。
リーナが片眉を上げ、クラウスは眼鏡越しに表情の変化を観察し、ミーシャはわずかに肩をすくめる。レンは足を止めず、視線だけを振った。
ゴラッハは続ける。低い声だが、言葉は選ばれていた。
「無傷で帰る。口で言うのは簡単だが、できるもんじゃねえ。今回どうしたかはわからんが、やるじゃないか」
そして、口の端にわずかな笑いを掛ける。
「だがな、臆病に形を与えると無傷って札になる。あんたらが臆病だって言ってるんじゃねえ。怖がり方をまだ知らねえってことだ。」
挑発とも賛辞ともつかない言い回しに、石段の上と下でさざ波が起きる。リーナが肩を竦めた。
「回りくどい褒め方だな、ゴラッハ」
「筋肉は直線で動くが、口は曲がるもんだ」と彼は鼻で笑う。
「わかってるさ。俺たちも、あんたらも、まだまだ未熟だ」
未熟、その言葉に畳みかけるように、石段の上から澄んだ声が降ってきた。
「同感だ。未熟だ」
白地に銀の縁取りを施した外套、紋章の胸甲、磨かれた剣帯。
立っているだけで威圧感を感じさせる青年が、石段を静かに降りてくる。Aランク、グリフォンの誇りのリーダー、シリウス。
周囲の視線が自然と割れ、道が開く。ゴラッハは片目だけを細めた。
「貴族の槍がご登場ってわけだ」
シリウスは挑発を受け流し、灰青の目で四人を見た。
「報告は読んだ。二十二階層、欺瞞の回廊。方向を失わず、負傷者ゼロで帰還したこと、評価に値する。だが、まだ未熟だな」
クラウスの眉がわずかに動く。ミーシャは喉を鳴らし、リーナは大盾の革紐を握り直す。レンは何も言わない。
シリウスは当然のように話をつづけた。
「未熟の理由は一つ、王都を甘く見るな。迷宮の法則は剣と盾で測れるが、地上の法則は舌と印象で塗り替わる。特に君たちはね」
ゴラッハが肩を鳴らす。
「珍しく意見が合うな、シリウス。未熟の自覚があるやつから伸びる、ってこった」
風が大通りを抜け、露店の布をめくって香草の匂いが流れた。どこかの子が笛を外し、笑いが弾け、それでもこの場の線引きは動かない。
シリウスは静寂の歯車に半歩だけ近づいた。礼はとらない。礼節の距離だけを守る。
「噂に心を乗っ取られるな。君たちは君たちのやり方で良い。ただ、強くなるほど孤立に近づく。孤立は判断を鈍らせる。これは騎士としてではなく、冒険者としての忠告だ」
レンが短く答える。
「覚えておく」
それは乾いた音だったが、虚礼ではなかった。シリウスはほんの僅かに目を和らげ、顎を引く。
「なら結構だ。今日の王都は風がよく通る。余計な埃も毒も、よく漂う。気を付けることだ」
彼が踵を返すと、グリフォンの誇りの他のメンバーが自然に列を作り、道の先を開いた。ゴラッハは肩を回して石段を降りる。
「飯行くわ」
ざわめきが戻る。さっきまでのやり取りは、石の下に残る水のように、確かにそこにあった。
ギルドのカウンター前は、相変わらず人の波だ。エララが捌く書類の山は、朝から高さを増している。四人が近づくと、彼女は専任という立場もあり、何よりも静寂の歯車の対応に優先した。すっと姿勢を正す。
「静寂の歯車の皆さん。先日の調査報告、正式に受理されました。お疲れさまでした」
レンが書式に目を走らせる。
「受領。今日の依頼は保留にする。装備の点検を優先する」
リーナが小声でぼやき、クラウスは無言で頷き、ミーシャは「はい」と小さく返事をした。エララは微笑み、それ以上は踏み込まなかった。
人の壁を抜けてギルドを出る途中、露天の軒先でミーシャが足を止める。蜂蜜を垂らした焼き菓子の香りに、目が一瞬だけほどけた。店主が気づき、紙包みを差し出す。
「迷宮帰りの顔だね。甘いものは疲れた頭に効くよ」
ミーシャが慌てて首を振る前に、リーナが銀貨を置いて包みを受け取る。
「四つ。うちには大食らいが一人いる」
「誰のことだ」とクラウス。
「レン以外にいるか?」とリーナ。
ほんの少しだけ、笑いが混ざった空気が流れる。
ギルドを後にし、灰色の旅人亭に腰を落ち着けたのは夕刻だった。
卓上には温かいシチューと黒パン。緊張の糸がゆるんだ仲間の表情に、ようやく人心地が戻る。
「宰相様のおかげで小麦が安いんだとさ」
隣の席の商人が声を張り上げていた。
「ただでさえ戦の噂で物騒なのに、パンが銅貨一枚で買えるなら文句はねえ、だとよ」
リーナがスプーンを止め、鼻で笑った。
「腹がふくれりゃ平和ってわけか」
ミーシャは視線を落とし、小さく呟く。
「でも……あの人たち、やっぱり不安なんだと思う。戦とか、そういうのじゃなくて」
窓の外、王城へ向かう街路を黒塗りの馬車が駆け抜ける。
城門を守る衛兵たちが無表情に敬礼を送る姿が、ほんの一瞬だけ見えた。
誰に頭を下げるかで人生が変わる。
そんなぴりついた空気が、王都全体を締めつけている。
食事を終えると、仲間たちはそれぞれの準備に散った。
共有スペースに残ったリーナは、大盾を布で磨きながらふと朝の噂を思い出す。
「英雄なんていらない。パンが焼ければそれでいい」
市場の老婆の言葉。
砥石の音に重ね、リーナは苦笑する。
「結局、誰もが石頭だな。王都も、氏族も、レンも、クラウスも……」
だが視線はレンの部屋に揺れる灯りへと向かう。
「……あたしも同じさ。逃げねえ。仲間を守るために、この盾を使う」
翌日、静寂の歯車は装備の修理を行うためしばしの休養を決めていた。あの階層の異常さ、メンバーの状況を考えれば必然だった。
灰色の旅人亭の食堂。
リーナは大皿の煮込みを頬張りながら、ミーシャと笑い混じりの会話をしていた。
「ねえ、もし一人用のアイテムボックスがあったら、リーナは何を入れる?」
「決まってるだろ。酒樽だ!遠征でも宴は欠かせねえ」
豪快な笑いに、ミーシャは小さな肩を震わせて笑った。
「ふふ、リーナらしいね。私は食料かな。干し肉とかパンとか。お腹空くのはいやだから」
他愛もない日常。迷宮の緊張から解き放たれた、束の間の安らぎ。
そこへ、書物を抱えたクラウスが現れる。冷ややかな視線を二人に向け、淡々と口を開いた。
「私なら本だな」
リーナが呆れたように目を剥く。
「はあ?そんなもん入れてどうする。ダンジョンじゃ役に立たねえだろ」
「……わ、私も、そう思う」
ミーシャも頷く。
クラウスは薄く笑う。
「役に立つ本を持っていく。戦場で使えずとも、ダンジョン内には未知があふれている。無知こそ恥だからな」
二人は顔を見合わせ、同時に肩をすくめた。
「ほんと、ひょろ長エルフは理屈っぽいな。しかも馬鹿だ」
「ふふ。でも……クラウスらしいかも」
食卓の小さな笑い声。人間的な日常が広がっていた。
その夜、灰色の旅人亭の一室。
レンは蝋燭を灯し、羊皮紙に描かれた迷宮の地図を睨んでいた。戦術図、想定配置、敵の出現パターン、全てを網羅できるよう、彼の思考はいつものごとくフル回転していた。
その時、扉が三度、規則的に叩かれる。
控えめだが、決して偶然にはならないリズム。
情報屋ゾルディと取り決めした合図だった。
ゾルディ、王都の裏通りに根を張り、盗賊ギルドから商人組合、冒険者ギルドに至るまで、あらゆる組織と均衡を保ちながら情報を売買する男。
彼の取引基準はただ一つ「金」。
忠誠も敵意も持たず、誰の配下にもならない完全中立の仲介人。
噂も裏帳簿も、彼の手を通せばただの商品へと姿を変える。その彼が使う合図は、レンにとって非常事態の証。
だが扉を開けても、そこに立っていたのはゾルディではなく、薄汚れた服の少年だった。
レンの顔を一瞬だけ確認すると、無言で小さな押し花と蝋燭で封をされた手紙を渡され闇に消えた。
掌の中の押し花。
クライネルトの森でしか咲かない、小さな花。
アリアが幼い頃に髪に挿していた、彼の最も深い記憶の一つ。
裏に記されていたのは、たった一言。
思い出の場所で。
王城西庭園の古い見晴らし台。二人しか知らない秘密の合言葉。
脳裏に警鐘が鳴る。
アリアは今、王子派であり帝国を敵国と想定している主戦派の象徴。
彼女と会うことは、宰相派の密偵に知られるわけにはいかない。そう、特にヴァロワ伯爵だけには知られるわけにはいかない。
ヴァロワ・ド・ヴァレンシュタイン伯爵。
宰相であるバルトロメウスの右腕として有名だが、裏の顔はアストリア王国随一ともいえる危険な貴族。非合法に近い手段も平然と行う。
近年は帝国の密使とも通じ、アストリアの情報を売っているとの噂も道端会議に出ているくらいの野心家。実際にはわざとリークさせているとゾルディから入手している。
王国の執行人、王都の裏ではそう呼ばれるがそれ故に裏とのつながりも深く、貴族同士のパイプも多い。
そして彼は貴族第一主義を明言しており、冒険者の台頭を快く思わない。
とりわけ静寂の歯車の存在は、宰相派にとって王子派を勢いづかせる駒でしかなく、排除の対象になりつつあった。
そんな男の監視下で、アリアと会うことは危険な行為と結論づける。
だが…
掌の花弁が震えていた。記憶の底から浮かび上がる、あの約束。
「アリアとの誓いを果たす」
その一条だけが、全ての理屈を圧し潰した。拒絶は心が否定する。
レンは押し花を胸に収め、ダミーの手紙を読まずに虚に収納。蝋燭を吹き消す。
暗闇の中で立ち上がり、仲間を伴わぬ決断を下した。
王都の屋根を渡る影。レンは宿の窓から飛び降り、音もなく夜に紛れた。
かつて一人で生きていた頃の孤独な観測者としての自分を呼び覚まし、魔力で空間の認識を阻害させ気配を殺して進む。
気配察知と空間把握で視線の隙を突き、数メートル先の影へと転移する。屋根の上には、確かに監視の気配がある。
ギルドの監視者、そして……おそらくヴァロワの「影」。
尖塔の上で揺らぐ魔力。背後の路地に潜む視線。全てを観測し、網の目のように把握する。
レンは偽の足跡を残し、別の路地へ痕跡を散らす。わざと石畳で音を出し、廃屋の窓を揺らして影を誘う。数秒後、追跡者は彼が消えた路地に飛び込むも、そこにいたのは幻影。
本物は既に別の屋根の上から、その様子を冷たく観測していた。
追手には、まるで幽霊を追っているかのような無力感だけが残る。
彼は振り返らない。ただ王城を見据える。月光に浮かぶ古い見晴らし台。
「思い出の場所」
アリアが待つ場所。
渇望と恐怖が心を裂いても、足は止まらなかった。レンは、もう進むしかなかった。
王城の城壁は月光を浴び、青白くそびえていた。
アリアのメッセージには、接触方法までもが暗に示されていた。レンは西壁の、ほとんど使われることのない古い水門へとたどり着く。
錆びた扉には鍵一つ掛けられていない。ユリウス王子の息がかかった者による手引きだと、すぐに理解できた。
彼は鉄格子の隙間を、まるで水が染み込むように、音もなくすり抜けた。
城の内部は外界とは別の世界だった。手入れの行き届いた芝生、夜露に濡れて光を宿す薔薇の花々、月を映す大理石の噴水。
そこに広がっていたのは、血と泥にまみれた迷宮とはかけ離れた、静謐で美しい世界だった。
アリアが守ろうとしているもの、そしてレンが奪われた故郷の代わりに取り戻そうとするもの。その平和の象徴に踏み入った瞬間、彼の胸に痛みが走る。
自分はこの光景に似つかわしくない。影に徹し、遠くから守るべき存在だ。その思いが重くのしかかる。
庭園の奥、小高い丘に建つ古い見晴らし台へと足を向ける。
白亜の柱に支えられた優雅なドーム。そこは幼き日、まだクライネルトの悲劇を知らなかった頃、二人で星を仰いだ思い出の場所に似ていた。
その中心に、一つの人影があった。
聖女の豪華な衣ではなく、かつての故郷で着ていたような、質素でありながら気品ある白のワンピース。アリア・フォン・クライネルトは手すりに寄りかかり、王都の夜景を静かに見下ろしていた。
陽光を編んだような金の髪が、月に照らされ銀色に輝く。その姿は、美しく、同時に儚かった。
レンは数歩手前で立ち止まり、どう声をかけるべきか迷う。彼女は彼の魂を揺さぶる唯一の存在。事実を認めるだけで、心は鎖に絡め取られる。
アリアは振り返らず、静かに言った。澄んだ声は月光のようにレンの鼓膜を震わせる。
「……来てくれたのね、レン」
聖女としての威厳も、王族としての気配もそこにはなかった。ただ、幼い頃から知る少女アリアの声だけが響いていた。
その一言が、彼の魂を守る防波堤に最初の亀裂を刻む。脳内で絶えず稼働していた演算は、一瞬にして停止した。胸を締め付ける奔流を、彼は必死に理性で押し込め、形式通りの所作で頭を垂れる。
「アリア様。お呼びとあらば、いつでも」
「やめて」
その声に、痛みの色が滲んでいた。
「ここでは、あなたは私の騎士ではないわ。あなたは、私の……」
言葉を切り、アリアはゆっくりと振り返る。空色の瞳がレンを射抜き、その奥にある魂までも覗き込んでくるかのようだった。
レンの防波堤が悲鳴を上げる。
アリアの発言は絶対の法則。視線、声、仕草。そのすべてが、築き上げた論理の壁を内側から侵食していく。彼は「指揮官レン」という仮面を顔に貼り付けるしかなかった。
「……ご用件を、お伺いします」
その硬い声音は、自らのものではない。冷たく構築した虚像の声だった。
アリアは、その痛々しいまでの虚勢を悲しげな瞳で見つめていた。
「あなたの魂の光が、以前よりずっと揺らいでいる。何かとても重いものを、また一人で背負っているのでしょう。私にさえ言えないほどのものを」
聖女として開花した魂の調律者としての彼女の力は、レンの完璧な仮面を容易に見破る。レンは自らの魂が彼女の前では裸にされているような、無防備さに襲われるしかなかった。
レンは弱さを隠すように、硬い声を返す。
「ギルドの管轄事項です。関わるべきことではありません」
「そうね」
アリアは、意外なほどあっさりと頷いた。
「あなたは、そういう人だもの。約束を決して破らない。たとえ、その約束が、あなた自身を蝕むものだとしても」
彼女の瞳に、深い哀しみが浮かぶ。
「レン。私は、あなたが見つけた秘密を無理に聞き出そうとは思わないわ。あなたが守ると決めたのなら、きっと理由があるのでしょう」
彼女は一歩近づいた。夜風に金色の髪が舞う。
「私が今夜あなたを呼んだのは、別の話。もっと急を要する、私たちのことよ」
その表情が、国を憂う指導者のものへと変わった。
「宰相が、動いたわ」
その一言で、見晴らし台の空気が凍りつく。
「あなたたちが未踏領域である欺瞞の回廊を突破した報せは貴族内でも周知の事実。その知らせを受けて宰相が嫌な手を打ってきたの。ヴァロワ伯爵嫡男との婚約よ」
アリアは夜景を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「宰相は国を守ろうとしている。……でも彼は、民が私を神託を告げる聖女だと信じていることを、都合よく使おうとしているの。実際には、私は神の声なんて聞いたことはない。ただ、魂の調律で人の心を少し軽くできるだけ」
彼女は夜風に髪を揺らし、瞳に決意を宿した。
「それでも、クライネルトを守るためなら聖女と呼ばれることも受け入れるわ。でも、婚約は違う。あれは故郷を守るどころか、また誰かの犠牲を前提にした取引にすぎないの」
「……それは、どういう意味です?」
レンの問いは静かだった。だがその奥底には、地殻が軋むような怒りの予兆が潜んでいた。指揮官の仮面が、音もなく砕ける。
ヴァロワ伯爵。宰相の右腕。その息子とアリアを結びつける政略結婚。
政治的な意味を分析するより早く、その未来を「拒絶すべきもの」と理解していた。守ると誓った唯一の光が、忌むべき敵の手で穢されようとしている。
カエランから受け継いだアリアを守る精神が、激しく警鐘を鳴らした。
「もちろん、ユリウス兄様は全力で反対してくださっている。でも、今の王宮では宰相派が多数。王が圧力に屈するのも時間の問題かもしれない」
アリアはレンを見据える。その瞳には、哀しみではなく、決意の炎が宿っていた。
「宰相にとって私は邪魔な存在。辺境の子爵家の娘に発言権はないはず。でも私は神託の巫女。民の一部は私を神々の代弁者として見ているわ。その存在を、宰相は貴族社会の駒にして、少しずつ牙を抜こうとしているのよ。母を失って以来、心を閉ざした王の弱みに、静かに入り込むみたいに」
彼女は声を強めた。
「だから、あなたを呼んだの。レン」
その響きは、聖女のような慈悲深い声色ではなく、己の剣に命を下す女王の声だった。
「今のままではクライネルトは守れない。次に帝国が攻めてくればアストリア王国の領土が削られるのは必至。宰相が婚約を既成事実にする前に、彼らが、そして日和見の貴族たちが無視できないほどの力を、私たちは見せつけるしかないの」
「……力?」
「ええ」
アリアは力強く頷いた。
「民衆も中立貴族も、宰相の安定より英雄の未来に賭けたいと思うほどの功績を」
彼女は揺らぐレンの瞳を射抜く。
「レン。私は私の戦場で戦う。あなたはあなたの戦場で戦って。あなたは私の剣だから。そしていつか、必ずあの誓いを果たしましょう」
その言葉は、レンの魂を深く揺さぶった。
彼は近づきたかった。震える肩に手を置き、大丈夫だと告げたかった。炎の中で誓ったように、必ず守ると。
だがその瞬間、悪夢が蘇る。前の世界で、妹を守れなかった時と同じ匂いが、胸の奥に立ちのぼる。血塗れのカエランの顔、絶望に沈むハンナの瞳。
……仲間への情こそが、自らを滅ぼす最大の弱点である。
自らに課した絶対の法則が、身体を鎖で縛る。もし今、彼女に触れれば。救いたいという純粋な想いが呪いを呼び覚まし、彼女も自分も地獄へ引きずり込むのではないか。
渇望と恐怖。その狭間で魂が引き裂かれる。
レンは一歩、後ずさった。
その拒絶に似た動きを、アリアは見逃さなかった。瞳に深い痛みの色が走る。
そして、再び指揮官の仮面をその顔に貼り付けた。
「……承知いたしました」
その声はもはや、ただのレンのものではなかった。
「静寂の歯車の指揮官として、アリア様の剣としての任務を拝命します」
彼はアリアが望んだ伝説という名の「結果」を必ずもたらすとそう誓った。
だが、その誓いの中に彼自身の「心」はもはや存在していなかった。
翌朝、灰色の旅人亭での食卓は、いつもの黒パンと沈黙に包まれていたが、その沈黙の質は確かに変わっていた。
レンの内面で、新たな巨大な歯車が軋むように回り始めていたからだ。仲間には何も告げず、ただ一人で秘密を背負い、運命を引き受けることを選んだ。
彼の足は王立図書館へと向かう。ユリウス王子から授かった特別許可証で開かれる禁書庫の扉の先には、乾いた羊皮紙と古いインクの匂い、そして完全な静寂が広がっていた。
王都アステリアの喧騒や宰相派の陰謀も届かない、彼にとって唯一の聖域である。彼が探し求めるのは魔術の新しい術式でも魔物の弱点でもない。「伝説」の定義そのものだった。
レンは過去のSランク冒険者たちの功績を冷徹に分解していく。
【開拓者アーラン】――未知を既知へと変えた情報的価値。
【大賢者リューネ】――王都を守り切った圧倒的な結果。
【剣聖ライデン】――エンシェントドラゴン討伐という象徴性。
三要素「情報価値」「圧倒的結果」「象徴性」。レンはそれらを羊皮紙に書き出し、自らに課された政治的要請と照らし合わせた。
「我々に必要なのは、このクラスに近い功績。それも、宰相派が介入する前に短期間で達成可能なものだ。」
彼の分析はさらに進み、成功例ではなく失敗例に手を伸ばす。禁書庫の奥には、討伐に失敗したパーティの報告が眠っていた。
過去の敗北こそが最も多くの情報を与えると知っているからだ。そこには、数多の冒険者を葬った存在の記録が並ぶ。
三十階層でAランクを全滅させた「真紅のリザードマン」、東方諸国連合を震撼させた「九頭の大蛇」、各地の国家史に刻まれた惨劇の名が続く。
レンの指が止まったのは一枚の報告書だった。彼はそれを手に取り、冷たく目を細める。
そこに記された絶望こそが、アリアの望む「伝説」を構築するための設計図になりうるからだ。
彼が求めるのは栄光ではない。仲間を犠牲にしないための冷酷な合理性と、アリアに誓った「結果」。だがその誓いには、彼自身の心は計算されていなかった。
王都を巡る政治闘争、ギルドの調停、宰相派の陰謀、その全てを上回るために。




