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黄昏と黎明のアストリア  作者: 空想好き
第1章:Bランクの日常と歪な契約
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第3話 欺瞞(ぎまん)の回廊調査 ②

回廊の奥、苔の光が水面のようにゆるくひしゃげ、もやの幕がふくらんではしぼむ。その奥で、まず輪郭だけが立ち上がった。


狼の肩、巨人の角、蛇の尾。見慣れた恐怖が数珠つなぎに切り替わり、像は一定の形をとらない。もやはこちらをからかうように揺れていた。


「幻影系……鏡像と錯乱を誘発する魔物か」


レンが吐き捨てる。


ミーシャが肩越しに視線を振り、声を細くした。


「影が……私たちに似てきてる」


もやのこちら側で、四つの影が分かれた。粉線の上を滑るように、ロープでつながれた四人の歩幅や癖まで写して、こちらに歩み寄ってくる。


偽レンは右手に懐中時計を持ち、偽リーナは大盾を上げ、偽クラウスは杖を傾け、偽ミーシャは肩を半身に開いて後方を見た。


「攻撃はくる。だが実体は一つ」


レンの声は冷たい。


「見極めを誤れば、仲間を斬ることになる。各自、まずは時計の針を確認。五秒後に真上に来るか確認」


リーナが一歩前へ出て、大盾を前に滑らせ、時計を見る。


「…3、2、1、針の位置は問題ない。…私が前に出る。盾役の務めだ。偽物だろうと仲間の攻撃だろうと、この盾で受ける!」


「無駄だ」


レンは切り捨てる。


「効率を優先する。盾で受けるより、最短で核を潰す」


「効率?仲間の顔をした敵を斬ることが、そんなに容易いってのか」


リーナの声に怒気が混じる。


苔の光が一段暗くなり、もやの縁がこちらに寄った。まだ距離はある。だが空気の張りつめ方が違う。


レンの指が三つ速く鳴る。緊急時の合図だ。隊列は息を呑み、粉線の上で身構えた。


最初に崩れたのは、音だった。前からの滴音が、次の瞬間には背後から響く。右側壁をかすめる風の擦過が、いつの間にか左耳に残る。耳の奥で、誰かが囁いた。


「こっちだ、ミーシャ」

「斬れ、ミーシャ」

「振り返るな」


同じ声色、同じ抑揚、同じ間合い。ミーシャは咄嗟に首の可動域を四十五度で止め、右眼で後方、左眼で粉線を追った。脈は跳ねている。レンの右手が合図を行う。


「戦闘開始」


レンが短く言った。


杖を振り下ろす偽クラウス。弓を引き絞る偽ミーシャ。盾を振りかざす偽リーナ。そして、レンと瓜二つの影が短く叫ぶ。


「リーナ!右側面ガード!」


ほとんど同じ抑揚。だが、その直後、別の声が重なった。


「全員で三歩右に動いて回避!即座に攻撃を受けるぞ!」


クラウスが舌打ちした。


「……声が二重だ。どっちが本物だ!」


「短い方だ!」


レンが鋭く返す。


リーナは反射的に盾を右へずらし、見えない衝撃を受け止めた。金属音はしない。だが実体がそこにあると、腕の痺れが教えてくれる。


「命令がやけに親切なのは偽物よ!」


リーナが息を荒げながら吐き捨てる。


幻影のレンは眉を吊り上げ、また命じた。


「ミーシャ、下がって距離を取れ!君が前に出ると全員が混乱する!」


「……っ!」


ミーシャの足が一瞬止まる。


「下がるな!」


本物のレンが鋭く切る。


「役割を放棄するな」


だがミーシャの耳には、偽の声が幾重にも重なって響いた。


「振り返れ、ミーシャ」

「矢を放て、今だ」

「前を見ろ、下がれ」


ミーシャは奥のレンを視る。濁った光をはっきりと識別できているが、聴覚が錯覚に侵され、命令が体の動きを縛っていく。呼吸が荒くなる。


「……視えてる、偽物なのに……!耳が、惑わされる……!」


リーナが大盾を押し返しながら叫ぶ。


「ミーシャ、下がれ!幻に呑まれるな!」


「下がるな!」


レンと偽レンの声が重なる。


「詠唱中のクラウスは敵だ!」

「ミーシャ効率を考えろ!」

「前に集中しろ!」


もはや、どちらが本物か判断がつかない。


「効率効率って!」


リーナが振り返る。


「仲間が壊れていくのを見過ごすのが効率か!」


「効率は生還率だ!」


レンも譲らない。


クラウスが苛立ちを隠さず杖を掲げる。


「刻線が浮かんでいる!媒介は床石だ、三枚目の継ぎ目!壊せば幻影は消える!」


「なら壊せ!」


レンが即答する。


「記録は後だ!」


「お前は学術的価値を理解しないのか!解析すれば今までにない快挙だぞ!」


「生きて帰らなければ意味はない!」


怒声と命令が交錯する中、幻影の群れはさらに速度を増す。偽クラウスの杖が光を放ち、偽リーナの盾が打ち鳴らされ、偽レンがまた命じた。


「クラウス!今すぐ詠唱をやめろ!お前が動くと全員が巻き込まれる!」


(……長すぎる)


クラウスが息を荒げて笑う。


(あれはレンじゃない)


レンは床に散った小麦粉を凝視した。幻影は粉を踏んでも沈まず、白の上で滑るだけ。本物の足だけが確かに沈み、痕跡を刻んでいる。


「核は左下!三枚目の継ぎ目!」


「待て、それは!」


偽クラウスの制止を聞くより早く、リーナが大盾を叩きつけた。石床が低く唸り、黒煙が噴き上がる。幻影が一斉に悲鳴を上げる。


「もう一撃だ!」


リーナは迷わず二撃目を打ち込む。石が割れ、内部の空洞が崩れ落ちる。白い粉が吸い込まれ、光がはじけて消えた。幻影が次々と砂のように崩れ、最後に偽レンだけが残った。


影は本物と寸分違わぬ声で叫ぶ。


「今すぐ退け!このまま進めば全員死ぬ!俺の言う通りに動けば助かるんだ!」


ミーシャの足が止まる。


「ミーシャ!」


リーナが怒声を上げる。


レンの指が弾けた。


「前だけを見ろ。ミーシャ」


ミーシャは深く息を吸い込み、自分の声で律した。


「すでに視えてる」


矢は正確に偽レンの心臓部にあたった。核を捉えた一撃だった。

幻の囁きは薄れ、偽レンの影も粉塵に呑まれて消えた。


静寂が戻る。いや、錯覚に慣れた耳が静寂をようやく静寂として受け取れるようになっただけだ。


リーナは荒く息を吐き、大盾を肩に担いだ。肩の筋肉がびりびり痺れている。さっき感じなかったはずの重さが、遅れて体に降りてきた。


「……さすがだけど」


リーナは短く言うと、すぐに顔をしかめた。


「仲間を倒せって指示は、簡単に言うな」


「これが最善だ」


レンの瞳は冷たい。無駄な感情を刻む余裕はないという色をしている。


ミーシャは弓を下ろし、肩で息をした。


(……最初から視えてた。昔と違って分かるようになってたのに…それでも、耳が惑わせて、体が止まった……。危うく、声に従いそうになった)


クラウスは膝をつき、割れた床石の残骸をそっと撫でた。継ぎ目の内側には、肉眼では見えないほどの細い線が層になって走っている。


彼は思わず呼吸を止めていたことに気づき、胸を押さえた。


「……この技術は素晴らしい。あれは確かに古代エーテリオンの遺構だった。構造体が幻影の媒介になっていた証左だ。もし慎重に解体できたら、記述史に残せたかもしれないのに…」


「学術は生還の後だ」


レンの返答は切っ先のように鋭い。レンは時計の針を確認し、互いの針の位置が問題ないことを確認する。


ミーシャは肩を大きく上下させ、喉を鳴らした。


「……次も、幻に私たちが出てきたら、どうすればいいの」


「同じだ」


レンは即答する。


「幻は幻。現実を踏めるのは俺たちだけだ。足跡の有無、自分に都合のいい内容は切り捨てろ」


リーナは唇を噛みしめて視線を落とした。後ろを振り向くと粉の線は白く、まっすぐに続いている。


だがその白さが、どこか冷たく感じられる。彼女は小さく息を吐き、顔を上げた。


「効率の前に、人として大事なものがあるだろ」


クラウスは視線を残骸に落としたまま呟く。


「知識の欲求を捨てることが、俺にとっての生還なのか……」


言葉は浅く、しかし重い。各々の胸に、違和感という名の種が落ちる音がした。種はまだ小さい。だが、この階層では小さいものほどよく育つ。


ミーシャがためらいがちに笑おうとした。


「……ねえ、さっきの話。ゴラッハたち、やっぱりさっきの戦闘で撤退したのかも。今の幻影を力押しでどうにかできる相手じゃ…」


クラウスが眉を寄せて答える。


「彼らの戦法は私たちの参考にならない。比較よりも、この先をどう抜けるかだ」


リーナは肩を竦めた。


「命は惜しいさ。でも背中を見せるのは性に合わない」


レンが短く切る。


「感傷は不要だ。役割に戻れ。ミーシャ、後方監視継続。半身、肩越し。クラウス、照度は中、角度は低。リーナ、歩きながら盾の損耗を確認」


「了解」


三人の返答が揃う。苔の光はまだ薄いが、もやの濃さは先ほどよりわずかに退いていた。


レンは虚の小袋を指で押さえ、小麦粉の残量を念入りに確かめた。

レンにも回廊の種はしっかりと根付いていた。


「進む」


歩く。止まる。耳を澄ます。滴音は前から、風は右から、粉は真下へ落ちる。すべてがさっきより正しい。正しい、という感覚そのものが罠かもしれないことを、誰もがもう知っている。


「レン」


リーナがぽつりと言った。


「さっきの仲間を斬れってやつ、まだ根に持ってる。私の盾は、仲間を守るためにある」


「知っている」


レンは前を見据えたまま答えた。


「だから、そうならないように設計する。だが、どこかで誰かが傷を負う計画しか組めないとき、俺は効率を選ぶ。だが、核を狙えと言ったが斬れとは言っていない。俺がいうはずがない」


「…そう。あんたはいつも効率を選ぶ。それ自身は嫌いじゃない」


リーナは苦笑する。


「好きでもないけどね」


クラウスが肩を竦めた。


「私は私で、構造を読まずにはいられない。知的好奇心がなくなればここにいる意味がなくなる。だが、今日は飲み込もう。命題は後回しだ」


ミーシャが小声で続ける。


「私は、みんなの気配を覚えてる。幻の私たちが来ても、気配が違えば、きっとわかる」


「いい」


レンが短く言った。


「各自の癖で現実を固定しろ。次角、右、二歩目で止」


隊は滑るように動いた。曲がり角の先、壁の苔が薄く息をし、床石の継ぎ目がまた別の罠を隠している。粉は途切れることなく続いていた。


欺瞞の回廊は、まだ終わらない。だが四人は、少なくとも今は、同じ方向を向いていた。現実を刻む時計の針と白い線。


その二つだけが、心の中の軋みをごまかしながら、前へ、前へと彼らを押し出していく。


欺瞞の回廊を白線が地を刻む。それでも、空気は常に裏返り、正しいと信じた感覚が次の瞬間には疑わしい。


苔光は息をするように脈打ち、赤と青が交互に洞壁を染めていく。もやは濃く、湿り気を帯びた空気が肺にまとわりつき、視界は揺らぐ。まるで夢と現実の境目が塗り替えられていくようだった。


リーナが低く唸る。


「……嫌な感じだ。盾を構えてても、背中がじわじわ冷える」


クラウスは逆に熱を帯びた声を漏らした。


「環境そのものが術式に包まれている…!まるで古代の結界だ。これほどの規模、残っているとは…」


ミーシャは無言で鼻をひくつかせ、唇を噛みしめる。


「…匂いが…変わる。鉄、血、それに…私たち自身の匂いが混ざってる…」


レンは淡々と進路を確認し続ける。


「滴音は前。粉は下。……矛盾はない。次角、右、二歩目で止」


四人はその指示に従い、滑るように動いた。

だが次の瞬間、視界が大きく開ける。


広間。

中心に、黒曜石の巨石碑が立っていた。高さは三人分。青白い光を心臓の鼓動のように脈打ち、表面には古代文字が浮かび上がっている。


クラウスが息を呑み、瞳が熱に揺れた。


「……石碑……!摩耗がない……保存術式が作用している……!これはエーテリオン語だ!」


彼は夢遊のように近づき、文字をなぞった。


「読める……!『星気、飽和す。封鎖は塞ぎにあらず、流し直すこと要す』……!真理だ……!」


その瞬間、ミーシャが呻き声をあげた。


「やめて……声が……仲間の声が混じってる……!レンの声で……私を呼んでる……!」


彼女の目には、石碑から零れる囁きが映っていた。


リーナの声も、クラウスの呟きも、すべてが偽りの声として混ざり合い、彼女の意識を侵食していく。額に汗が浮かび、膝が震えた。


リーナが慌てて肩を支える。


「クラウス!いい加減にしろ!ミーシャがこれほど苦しんでるんだぞ!」


だがクラウスは振り返らず、むしろ恍惚とした笑みを浮かべる。


「違う!これは幻じゃない!俺の目は正しい……!真理を掴める……!」


リーナは歯を食いしばった。


(守るべきは仲間か、それとも……?私は戦士だ……でも、こんな状況でどうすれば……!)


そのとき、レンの胸にも、異変が走った。


視界がわずかに揺れ、石碑の文字が鮮明に見える。


『星気、飽和す。封鎖は塞ぎにあらず、流し直すこと要す』。それは彼の脳裏に、まるで刻印のように焼き付いた。


危うく信じかけた。


レンの足が止まり、眉間に皺が寄る。


(……おかしい。情報の一致度が高すぎる。苔光の脈動、粉の沈降、滴音の周期……本来なら乱れるはずの三点が、ここだけ整合している。矛盾がない。いや、矛盾がなさすぎる。仲間と情報を共有している?)


冷徹な論理が、錯覚を切り裂いていく。


(欺瞞の回廊は誤情報を与える空間。完全に矛盾のない環境などあり得ない。今、俺が見ているのは整合性の虚像!)


レンの瞳に光が戻る。


「幻だ」


三人の視線が彼に向いた。クラウスは怒声を張り上げる。


「何を言う!俺は読んだんだ!真理を!幻なんかじゃない!」


レンは答えず、広間の壁を見据えた。そこに薄く刻まれた線刻が浮かんでいる。導紋の紋様と逆向きの波を刻む偽の座標。


「刻印だ。空間そのものを誤認させ、石碑を映している。……誤情報を掴まされた」


彼は短剣を抜き、壁へ突き立てた。乾いた音とともに線刻が砕け、光が弾ける。


石碑は一瞬で霧散した。青白い輝きも赤黒い脈動も消え失せ、ただ削れた岩壁が残る。


広間に静寂が戻った。いや、ここは広間ですらなかった。


ミーシャは膝から崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。


「……声が……止んだ……」


リーナは深く息を吐き、大盾を下ろした。


「……まったく、心臓に悪い。レン、お前……」


レンは短く告げる。


「欺瞞の回廊は、現実を歪める。俺たちが見たものは、ただの虚像だ」


クラウスは拳を震わせた。


「……だとしても……文は確かにあった!……幻に刻む必要がどこにある!」


彼の悔しさと渇望が、重く残った。


リーナはレンとクラウスを交互に見つめ、言葉を飲み込んだ。


(結局、クラウスを止められるのはレンだけ…。でも、このままじゃ…)


レンは前を向いた。


「進む。幻に時間を奪われるな」


三人は黙って後を追った。粉線は再び現実を刻み、歩調のリズムが静けさを取り戻す。


だが幻が消えた今も、その一節だけは深く胸に残っていた。


星気、飽和す。封鎖は塞ぎにあらず、流し直すこと要す。


この意味を理解するものはいまだにいなかった。

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