第2話 結晶洞の調査 ③
荒い息を整えながら、四人は第七階層からの退路をひた走った。
背後から響く咆哮と結晶の崩落音はなおも洞窟全体を震わせ続け、通路の奥では結晶群が閉じるようにせり上がり、彼らを試練の侵入者として拒絶しているかのようだった。
ミーシャが振り返り、青ざめた顔で息を吐く。
「……追ってこない、よね……?」
「今のところはな。だが安心するな」
レンが短く答える。
「奴が留まったのは意思か、それとも限界か。どちらにせよ、ここに長く留まるのは愚かだ」
リーナは大盾を握り直し、歯を食いしばった。
「ったく……こんな心臓が縮む思いは久しぶりだぜ。次にやるときは、酒樽を用意しておけよ」
「その酒代はお前が出すんだろうな」クラウスが皮肉げに返す。
「ははっ、命拾いしたんだ。安いもんだろ。もちろんレンのおごりだ」
短いやり取りが、張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげた。
やがて石の階段を駆け上がり、最後の大門を抜けた瞬間――外気の冷たさが肺に突き刺さった。迷宮特有の湿りと重圧に満ちた空気に比べれば、地上の空気は驚くほど清らかで、全員が思わず深く息を吸い込んだ。
門前に立つ衛兵は彼らの姿を認め、いつものように状況を確認してくる。
「戻ったか。全員無事か」
それはいつもの問いかけだった。
衛兵の任務は冒険者の出入りを確認し、死傷者がいれば処理を引き継ぐことにある。依頼の内容や達成度はギルドの管轄であり、衛兵に知る必要はない。
彼にとって重要なのは、目の前の冒険者が生きて帰ってきたか、同伴者を無事連れ帰っているかだけだった。
リーナが大盾を下ろし、肩で息をしながら答える。
「ああ、全員無傷だ。……ただし、中は想定以上にきつかった」
その言葉に衛兵は視線をリーナの大盾に移した。表面が、鈍く大きく歪んでへこんでいる。堅牢な大盾が、ただの打撃でこうはならない。
しかもリーナの技量なら多少の衝撃は受け流すはずだ。いったい何とぶつかったのか。
衛兵は一瞬、口を開きかけたが、すぐに閉じた。
(……詮索するのは俺の役目じゃない。彼らは依頼を受けて潜り、そして生きて戻った。それだけで十分だ)
そう自らに言い聞かせ、ただ職務に徹することにした。
「了解だ。怪我人はいないな?よし、通ってくれ」
いつも通りの手続きの声。
ちょうど門の脇で休んでいた別のパーティーが彼らの姿を見つけ、ざわめいた。
「また無傷で帰ってきたぞ」
「おい見ろよ、盾がやべえ」
複雑な視線が彼らに突き刺さる。だが、周囲の冒険者も衛兵と同じく依頼の詳細までは知らない。
ただ「また無傷で戻ってきた」という事実だけが噂となり、尾ひれをつけて広がっていく。
ミーシャは視線の圧力に小さく肩をすくめたが、レンは表情を変えない。仲間を率いて歩を進めるその姿には、他者の評価を気にする色は一切なかった。
大門前のざわめきを背に、四人は石畳の道を歩き出した。風が汗を冷やし、戦闘の熱を奪っていく。
レンの背は揺るがず、歩調は一定。
ミーシャは弓を背に掛け直し、リーナはへこんだ大盾を担ぎ直す。クラウスは黙々と杖を突き、沈黙を守った。
冒険者たちの視線が背中にまとわりついていたが、四人は振り返らなかった。
迷宮を後にした四人は、寄り道もせずに石畳を踏みしめ、まっすぐギルド本部へと向かった。道中に会話はなく、四人の間には、まだ洞窟の不気味な共鳴音が耳に残っているかのような重苦しい沈黙があった。
ギルドの大扉を押し開けると、ホールのざわめきが一瞬だけ小さくなる。目に入った冒険者たちが、彼らの無傷の帰還に気づいたのだ。
だが、誰も声をかけようとはしない。
羨望と不信と畏怖が入り混じった視線を受けながら、四人は受付へと歩み寄った。
受付嬢エララが彼らを迎える。書類を整理していた手を止め、わずかに驚いた顔で言葉を絞り出した。
「ご無事でなによりです。いつも他の冒険者よりも早いご帰還。驚かされます」
レンは無言で頷き、淡紫色に脈動する結晶の欠片を机上に置いた。
「任務は完了。だが内容は規定を逸脱している。報告書を至急、上層部に回せ」
エララは光を放つ欠片に目を奪われ、一瞬、声を失った。やがて震える声で問いかける。
「これは……いったい……」
クラウスが冷ややかに補足する。
「ただの魔晶石のかたまりではない。古代文明の遺物の一部と考えられる。自然の生成物ではない」
リーナが苦々しく肩を鳴らした。
「でけえ結晶の巨人に追いかけられた。正面からやり合ったら、確実に全滅してたな」
ミーシャは拳を握りしめ、うつむいたまま震える声を漏らした。
「……あんなもの、初めて見た」
エララは息を呑み、視線をレンに戻した。
「わかりました。すぐに上層部へ報告します。ただ……」
彼女は言い淀み、言葉を選ぶように続ける。
「これ以上あなた方が無傷で生還し続ければ、上層部の期待値はうなぎ登りです。これは静寂の歯車にとって良くも悪くもあります」
リーナが眉をひそめる。
「良くも悪くも?」
「はい。無傷での成功は、ギルドにとって前例のない快挙です。Aランク昇格を視野により高位の依頼に手が届くでしょう。ただし、その分、危険で不安定な任務ばかりを割り当てられる可能性も高くなります。無傷で達成率百パーセントは非常に素晴らしい功績で、同時に首輪にもなります」
クラウスは小さく鼻を鳴らした。
「つまり、駒としての価値が上がる、ということか」
レンは淡々と答えた。
「構わない。必要なのは真実の記録だ」
エララはその無感情だがまっすぐな声に小さく頷き、報告書を受け取った。
報告を終えると、四人はホールを抜け、石畳の街へと出た。夜の帳が降り始め、街灯がひとつ、またひとつと灯っている。
リーナは大盾の大きく歪んだ部分を指でなぞりながら、息を吐いた。
「私はまた鍛冶屋に行ってくる。こいつを修理しねえとな。まあ、直すか買い替えるか叩いて決める」
「私は資料をまとめる必要がある」
クラウスは小さく笑みを浮かべる。
「結晶の欠片、解析に値するはずだ。王立図書館に寄ってから宿に戻る」
ミーシャは小さく手を挙げた。
「……少し休みたい。人混みは苦手だから、先に宿に戻ってる」
三人がそれぞれの行動を告げ、自然に散っていく。残されたレンは一人、無言のまま石畳を歩き始めた。
王都の片隅、古びた看板を掲げる小さな古書店。その奥に彼女はいた。
小柄な少女の姿をした古書店主、リューネ。艶を失った銀髪が灯火に淡く揺れ、透明な紫の瞳は、究極の退屈を知る者だけが浮かべられる笑みを帯びている。
扉を開け、レンが足を踏み入れると、リューネは頬杖をつきながら顔を上げ、にやりと笑った。
「おお、遅かったのぅ。……さてはまた面白きものを拾ってきたのじゃろ?」
レンは机に結晶片を置いた。淡紫の光が木目を照らし、静かな空間に不気味な脈動を刻む。
「第七階層に結晶化した魔物と遺物と思しき巨像がいた。討伐は不可能と判断し撤退。さっき報告を済ませた」
リューネは細い指で結晶片を摘み、じっと観察する。その仕草は無邪気な子供のようでありながら、紫の瞳には底知れぬ古の記憶が宿っていた。
「ふむ……やはり兆候は現れたか。想定よりも早いのぅ」
彼女は結晶片を転がし、楽しげに口を開いた。
「これはただの魔晶石ではないぞ。魔素を喰い、亜神の力の滓を宿す器じゃ。……結晶化とはな、本来ならば流転すべきエネルギーが、行き場を失い不完全に固まったものにすぎぬ。魔晶石とも違うのは亜神の力のほんのわずかな絞り滓が魔晶石を浄化している証拠じゃよ」
レンの瞳がわずかに細まる。
「亜神の力……」
「亜神、神と人との境に置かれた造られた神じゃ」
リューネは口の端を吊り上げ、からかうように笑った。
「古き計画じゃよ。神の力を人の世に流し込めば、大地も空も壊れる。ゆえに、力に濾過をかけねばならなんだ。その試みの残滓が、今お主らの前に立ち塞がった巨像、不完全なる存在よ。まあ、デミウルゴス計画の副産物にすぎないものじゃが」
レンは短く息を吐き、問いを重ねた。
「あの強さで、か。ならば、あれは失敗作か」
「そうとも言えるし、そうとも言えぬ。失敗と呼ぶには成功しており、成功と呼ぶには余りに歪んでおる。だからこそ、迷宮は奴らを抱え込む檻となったのじゃ」
リューネの声音は楽しげだったが、瞳の奥には陰が差していた。
「すべてを知ろうとするな、レン。真実は毒にも薬にもなる。そなたはまだ盤上の駒にすぎぬ。だが……いずれ駒とて進めば王にもなりえる。わらわはその行く末を眺めておるだけで退屈が紛れるのじゃ」
レンは無表情を崩さぬまま告げた。
「ギルドは監視を強化する。無傷の生還は異常事例として扱われ、今後は功績と同時に負担になる」
「ふふふ、当然じゃろうな。人の世は常識外れを恐れると同時に利用するものじゃ。英雄と崇められるか、異端と断じられるか、どちらも隣り合わせよ。そなたらは宝石のような存在じゃが、棘付きの宝石でもある。わしのようにならんようにな」
リューネは結晶を机に置き、紫の瞳を細めてレンを見据えた。
「レンよ。そなたはまだ駒として盤上に従うつもりか?それとも己が盤を描くつもりかの?」
返答はなかった。ただ結晶の鼓動だけが部屋に響き、レンの瞳には冷たさと、奥底に揺らぐ決意の炎が同居していた。
その夜遅く、冒険者ギルド本部の会議室は異様な緊張に包まれていた。
副ギルドマスター、レナ・シルヴァナスは封印筒に入った淡紫に脈動する結晶片を手に取り、長い沈黙を保っていた。
灯火に照らされたその横顔は硬く、冷徹な眼差しに圧され、誰一人として軽々しく口を開けなかった。
やがて、彼女の口から絞り出された一言が、場を決定づける。
「……やはり、ダンジョン内で異常が発生していると考えて間違いないでしょう。ただ、それを一つのパーティーのみが発見するのも異常ですね」
静寂を破り、職員たちが次々に声を上げた。
「負傷者ゼロの連続記録に加え、短期間における古代遺物との接触回数……もはや偶然ではありません」
「このままいけばギルド内の秘匿情報を看破してくる可能性があります」
別の職員がためらいがちに言葉を続ける。
「とはいえ、取り込みも現実的ではありません。彼らはすでにユリウス王子派と接触を持っているとの報告もあります。特に、聖女アリアとの関わりは軽視できません。もし彼らを取り込んだ場合、ギルド内の秘匿情報の流出も想定されます」
場がどよめく。アリアの名はいかなる場でも特別な意味を持つ。彼女は民衆の信仰を一身に集め、王子派の象徴的存在である。
そこに静寂の歯車が繋がるとなれば、強引な取り込みは情報流出だけでなく王家への敵対行為と受け取られかねない。
「……程よく利用すべき、ということか」
「はい。彼らはすでに功績を積み重ね、戦果も確かです。まだBランクでの実績は少ないですが、今までの功績だけでも早々にAランクへの昇格は視野に入るでしょう。むしろ、このままBランクに据え置けば不自然に映ります。上層部が評価を渋れば、王家や民衆の目に抑圧と映る危険すらあります」
レナは黙して彼らの意見を聞き流していた。表情は変わらぬまま、結晶片の入った封印筒をその瞳に映し込む。
やがて、会議室を圧する冷たい声が響いた。
「監視を強化する。これまでも職員に偽装させ、行動の一部を記録させてきた。だが今後はより徹底せよ。逐一の報告を義務づけ、彼らがどの勢力と関わり、何を得ているかを常に把握すること」
その視線は一同を鋭く貫いた。
「表向きは、ギルドの期待を担う模範的冒険者として遇せ。昇格も阻むな。だが裏では観測を怠るな。彼らは王子派と聖女に繋がっている。もし一線を越えたとき、誰よりも早く兆候を掴むのは我らでなければならぬ」
沈黙ののち、全員がうなずいた。結論は揺るがない。
こうして静寂の歯車は、正式にギルドの特別監視対象として記録されることとなった。
それは、常識外れだからこそ利用し、同時に恐れる――そんな二律背反を抱え込む、ギルドの本音の表れであった。
その頃、四人は王都の宿に戻っていた。
リーナは大盾のへこみを磨き、クラウスは本を読んでいた。ミーシャは弓の弦を張り替えながら、何度も深呼吸を繰り返している。
レンは一人机に向かい、羊皮紙に淡々と記録を書き連ねていた。戦闘の過程、敵の行動、結晶の反応、仲間の動き、すべてを分析し、無駄なく整理する。
仲間たちは誰も声をかけなかった。
彼らは知っている。レンが守っているのは仲間の命であると同時に、彼自身の魂の防波堤でもあることを。
廊下の影から、ミーシャがそっと扉越しにその背を見つめていた。
紙に走るペンの音だけが響く。彼の瞳は冷たく、だがその奥に、燃えるような決意が隠されているのを、彼女だけは知っていた。




